協和荘

January 01 [Mon], 2007, 10:56
 北海道時代のシンボリックな存在は3つあります。
 急行八甲田、青函連絡船、そして、わが青春の館”協和荘”
 この3つは、いずれも、思い出の中の存在となってしまいました。
 今回は、そのうちの一つ”協和荘”について、語ります。

 ボクが学生時代に住んでいたのは、協和荘といって、完全な自治寮でした。
 即ち、大家さんから、大きな家を一軒借り、その管理運営は、住人である我々が総て行っていました。
 部屋代は、ポイント制を導入し、面積や他の特典に対して基準を決めて、大家に払う家賃から割りかえして計算するという方法で決めていました。
 それに、水光熱費、賄い費等の諸経費を上乗せした金額を徴収していました。
 家一軒分の家賃は、頭割りで払う訳ですから、住人が多いほど、即ち空き部屋が少ないほど、1人当たりの負担は少なくて済みます。
 ほぼ全部屋が埋まった時には、1人あたり月18000円程度でした。水光熱費総て負担で、夕食付きですから、当時としても結構な低価格を実現する事が出来ました。
 家賃は、大家との交渉次第で決まり、住民が減って運営に苦しくなると、景気よく値下げしてくれました。夕食に関しては、月給6万円で賄いのおばさんを雇ってました。
 安月給でよく働くおばさんでした。世の中には、やっぱりいい人も居るものです。

 我が青春の館(ヤカタ)協和荘の歴史も古く、ボクが入居していた時代よりも、少なくとも30年は、前に建てられたはずです。
 というのは、なんと、畳の裏から、朝鮮戦争の時の新聞紙が発見されたのです。
 床はきしみ、壁ははがれ落ちて、オンボロ屋敷でしたが、その分、改装は自由でしたので、創造的な生活が可能でした。
 完全なる自治寮ですから、共同生活に関するルールは、自分たちで決め文書化し、何か問題が起こっても自分たちで解決しなければなりません。
 毎月1回住民が集まって、会議が開かれます。
 まず、会計係が、前月の決算(収支)を報告して、全員の承認を得ます。(会計係は、毎月持ち回りで担当者が変わります。)
 そして、一般懇談に入り、問題点を抽出して、みんなで話し合います。
 極めて民主的に物事が決められ、そこで決まった事は、協和荘の法律となります。
 その中で、ユニークなものを一つあげましょう。
 それは、“エッカイ”(エッセン解放の略)というものです。
 それは、夜中の1時を過ぎても食堂に夕食が残ってたら、誰でも食ってよいというルールです。
 私たちは、学生でしたから、例えば実験が長引いたりすると、自宅に帰れなくなることがよくあるものです。
 そういう学生が1人でもいると、夕食が余ってしまいます。
 そのままホッタラカシにして、腐らすのはあまりにも勿体無いので、時間を決めて、それを過ぎたら、誰でも食ってよいということにしたのです。
 前述のおばさんの料理は美味しかったですから、夜中の1時過ぎになると、4,5人は食堂に集まってきて、1時の時報とともに、じゃんけんをします。
 彼らにとって、朝飯代が浮くかどうかの瀬戸際ですから、じゃんけんをする右手にも自然に力がはいるというものです。
 見ているだけでも興奮し、それはそれは面白い光景でした。
 ちなみに、私が住んでいた会社の寮は、夜9時を過ぎても、飯が余っていると、容赦なく捨てるのです。
 あー勿体無い。

 協和荘は、ふるーい建物でしたから、至る所に穴があり、まさに廃虚の一歩手前でした。
 猫にとっては、住み良いらしく、野良猫がやたら繁殖しました。
 彼らは、非常にずうずうしく、人間様の食い物を食い散らかすわ、食器を汚すわ、ボクがベッドの上でいい気持ちで寝ているのにその腹の上に乗っかっていい気持ちで寝てしまうわ、布団の上にうんこをするわで、馬鹿野郎と100回言っても言い足りないくらいの連中でした。春になると、雌猫は、どこかでエッチして来て、1度に、3〜6匹くらい小猫を生みます。
 このまま、ほおっておくと、指数関数的に増え続けるでしょう。
 困っていると、獣医学部の仲間より、猫は、貴重な実験動物であることを聞きました。
 そこで、彼らには、北大獣医学部の発展の為に、体を張って貢献してもらう事にしました。
 協和荘の猫は、実験材料として売れる訳ですから、猫が増えると臨時収入が得られる事になり、協和荘の会計も、結果的には、彼らのお陰で潤ったのです。

 このように我々協和荘の住人は、完全な自治を誇りとしていました。
 北大には、恵迪寮(ケイテキリョウ)という有名な寮がありますが、それは大学の寮ですから、けっして、つぶれることはありません。
 それに対して、我々協和荘の住人は、中小企業の経営者みたいなものです。
 いつ潰れるか分かりません。(実際に協和荘は、私の卒業と同時に潰れてしまい、その跡地に、直ぐ現代的なマンションが建ちました。)
 我々は、貧乏ではありましたが、バブル経済からはじき出された粗大ゴミの恩恵は受けていましたので、日常生活は、割と豊かでした。
 粗大ゴミの集収日の朝、近所を1周すると、テレビや冷蔵庫の類がいくらでも拾えたのです。
 多少傷があったり、壊れていても、なんとか修理をして使いこなしていました。
 そんなユニークな我々の生活ぶりを聞きつけて、よくマスコミが取材しに来ました。
 週間新潮が取材に来た時は、なんとグラビアに10ページ(5〜6ページだったかな?)にわたって、掲載されました。
 受験雑誌の蛍雪時代には、北大からは、恵迪寮とともに掲載されましたが、スペースは協和荘の方が何倍も割かれました。
 朝のNHKのニュースで全国に放送され、番組が終わった途端、我々の貧乏生活を哀れんだ全国の視聴者から、電話が殺到し、その応対におおわわらでした。
 彼らは、机要らないか?タンス要らないか?と言って来たのですが、総て丁重にお断りしました。
 全国には、親切な人達がたくさんいるのですねえ。
 この時にニュースでは、洗濯をしている私の後ろ姿が、一番最初に映ったのですが、たった1分程のシーンを撮影するのに、何度も取り直しをさせられました。
 取り直しの途中で洗濯が終わってしまったのですが、もう1回洗濯機のスイッチを入れ直したものでした。
 ああ、思い起こせば懐かしい、心仄かな日々よ。
 NHK教育の“ユー”という青年向け番組にも出演しました。
 スタジオで私は、レポーターの人にインタビューされましたが、変な事(何と言ったか覚えていない)を言ったので、私の発言は、総てカットされてしまいました。
 ああ残念。私の家族や親戚たちがみんな見ていたというのに。でも、世の中こんなものなのかもしれません。

 私は、北海道の学生の陸上競技会を運営する北海道学生陸上競技連盟(通称:学連)という組織に属していた。
 そこで、私は自分の部屋を学連の事務所として提供していました。
 ですから、そこには、必然的に多くの人々が訪れる事となりました。
 女子部員も仕事を手伝いに良く来てくれました。
 私は、日頃から献身的に仕事を手伝ってくれている彼女たちに、よくアイスクリームやお菓子を作ってごちそうしました。
 今考えると、それなりに不味かったと思うのですが、当時の女の子たちは、美味しいと言ってくれた。
 女の子の中には、「私のお友達に、先輩の作ったお菓子がとっても美味しいという話をしたら、是非食べてみたいというんです。
 ×月○日にお伺いしますから、作っていただけますか?」と言ってくる人も何人かいました。
 普通そんなふうに言われたら、どんなに忙しくても、無理矢理都合をつけて頑張るでしょう。
 女の子が部屋に来る日は、大変です。
 朝から精魂をこめて、部屋の掃除と便所掃除と煙突掃除をして待っているのです。(食堂のストーブは、今は懐かしき石炭ストーブだったので、煙突にススが溜まりやすかった)いつか遊びに来た女の子は、石炭ストーブを見る前に、「ああ、石炭の香りがする」と言って感激してました。
 彼女は、かつて北海道の産業を支えた炭坑町の出身だった。
 石炭ってホントにいい匂いがするんですよ。
 その一言で、ボクは、ほんのちょっと苦労が報われた気分になりました。

協和荘前にて

私の顔が映ってない

夜は、幽霊屋敷のよう

一階の廊下

二階の廊下



自室にて


友人と

集合写真


ひろ〜い中国で、共通の友人がご対面!

 左が、協和荘住民の田代くん。
 右が気仙沼高校の同級生の菅原理くん。
 まん中の人も日本人でしょうけど、私の知らない人です。
 外国で、日本人同士が出くわすと、互いに情報交換するわけですが、たまたま、私という共通の友人がいたわけです。
 ビックリしたことでしょう。
 世界は、狭いと思ったかも。
  • URL:https://yaplog.jp/yoteikai/archive/539
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某同輩
 おお、時を隔てて同じ場所に住んだこのような大先輩がいらっしゃったのですね。たいへんに感慨深いものがあります。

 協和荘も青函連絡船も昭和とともに消え去り、既に四半世紀が過ぎました。当時若かった我々も中年、というか初老の域に達しつつあります。
 まさに、うるはしきまことの道は はろかなり我等がゆくて 進まざらめや・・・ですねえ。


 

May 29 [Wed], 2013, 11:20
>栗本一隆(久利一)さん
 どうも、はじめまして。
 大先輩から、大変貴重なコメントを頂戴しまして、大変、恐縮しております。
 時代の波に押し流されて、無くなった協和荘の思い出は、津波に押し流されて無くなった我が街の記憶とともに、私の心の中で、生き続けています。
 協和荘の思い出は、美しく、懐かし過ぎますが、我が町の思い出は、懐かしんでばかりもいられず、「時潮の波の」で語られている決意のように、前に進んで行かなくてはいけません。
May 12 [Sun], 2013, 20:24
栗本一隆(久利一)
実は、きょう協和荘時代の先輩と久しぶりに中野で飲みました。昭和45〜47年卒業です。写真を見てビックリ、当時のまま可成り後まで続いていたのですね。素晴らしい大家さんでした。値上げ反対交渉の後で、寮生全員を家に招き、食事をご馳走して下さった。坂本龍馬の話を聞かされましたが、もしかして血縁だったのでしょうか?僕達の頃は、隣のオバアチャンが食事を作ってくれてました。時々孫を連れて来て、とても楽しかった思い出が、、、蘇ります。創成川を道路化する工事ですべてが消え去ったと聞きましたが、正に、光陰矢如しですね。(2013・5・11)
May 11 [Sat], 2013, 19:43
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  • アイコン画像 ニックネーム:菅原保孝
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  • アイコン画像 趣味:
    ・陸上競技-北大陸上部出身です。現役の頃はハンマー投げ をしてました。
    ・泳げません-気仙沼弁で泳げない人のことを金ヅチ、又はハンマーといいます。だからハンマー投げに親しみを感じました。
    ・時潮の波の-北大の昭和21年度寮歌です。終戦直後に作歌されたこの歌は、荒廃した故郷で復興を目指す我々の心に、やたらと響くのです。
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“Boys, be ambitious!” It has become proverbial in the school. “Boys, be ambitious!” Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, nor for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for knowledge,for righteousnness, and for the uplift of your people. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be. This was the message of William Smith Clark.
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