昭和51年1月12日、古城茂幸誕生日

January 12 [Sat], 2019, 0:00

昭和51年1月12日、古城茂幸誕生日

柏市立高田小学校卒業
千葉県出身の元プロ野球選手(内野手)。千葉県柏市出身。中央学院高等学校時代は野球部に所属。3年生のとき、夏の県大会に出場したが、準決勝で成田高校に2−3で惜敗。

国士舘大学時代は東都大学野球連盟2部リーグにおいて、3度の打率3割をマーク。50m5秒91の俊足を生かし通算35盗塁を記録した。1997年、ドラフト会議で、日本ハムファイターズから5位指名を受けて入団。



プロ入り後は約1年間二軍生活だったが猿渡寛茂2軍コーチ(当時)とひたむきな練習に取り組み、1999年4月7日の西武ライオンズ2回戦(東京ドーム)で一軍公式戦初出場を果たす。同年4月29日の福岡ダイエーホークス戦(東京ドーム)で初安打を記録した。

打撃の成績は高い方ではないが守備は安定しており(『掃除機』の異名をとった)、以降はしばしば守備固めで起用される。2003年には遊撃手としてゲーム補殺11というパシフィック・リーグタイ記録を作っている。また、2004年のアテネオリンピック期間中には、日本代表選手として派遣された金子誠の穴を埋める活躍を見せた。

しかし打撃で伸び悩み、2005年シーズン以降、古城と同様に守備を売りとするタイプの同期入団の飯山裕志の活躍で出場機会が激減し、シーズンの大半を二軍で過ごした。2006年のシーズン開幕直前、岡島秀樹との交換トレードで實松一成と共に読売ジャイアンツに移籍。



6月15日の対オリックス・バファローズ戦では、移籍後初スタメンでタイムリーヒットを放つなど、チームの連敗阻止に貢献し、その後も三遊間のキーマンとして活躍した。2006年シーズンの代打成功率・得点圏打率は4割を超え、日本ハム時代には見られなかった打撃面の成長が窺える。

2007年のオープン戦では三塁手・遊撃手としての守備固めや代走の他に、一塁手としてスタメン出場までした。守備に不安のある選手が多いジャイアンツの中で期待される存在となっており、日本ハム時代より出場機会が遥かに増え、内野4ポジションを全て守り、年間無失策の好成績を残した。



打率は振るわなかったが、得点圏打率は3割を超えており勝負強さは健在だった。2008年は前年同様内野4ポジション全てを守った。内野のユーティリティプレイヤーとして1軍に定着し、出場機会はプロ入り後最多。

得点圏打率は2割前半となり、数字の上では前年までの勝負強いバッティングは影を潜める結果となった。ただし、下記エピソードにある通り要所では効果的なバッティングを見せている。



2009年は前半戦は主に前年のレギュラーの木村拓也や寺内崇幸、脇谷亮太が起用されていたため出番が少なかったが、中盤に木村と寺内が不振に陥り、脇谷が怪我で離脱すると8番セカンドに定着、一時は得点圏打率が4割を超えるなど勝負強い打撃でチームに貢献。

結果的に前年より出場機会は減ったものの打席数は大幅に増え、打率.251 2本塁打 18打点の成績を残し、クライマックスシリーズ、日本シリーズでも好成績を残した。2010年は、脇谷の台頭もあった為か、前年より少ない67試合の出場に留まる。



2011年は寺内に内野の守備要員のポジションを奪われ、開幕一軍を逃す。8月3日の阪神戦で、同点で迎えた最終回、藤川球児から自身初(対藤川に限れば巨人選手では初)となるサヨナラホームランを放った。この際、お立ち台で「茂ちゃんフィーバー」と騒いだ。その後も内野のスタメンや守備固め、左の代打として起用を重ねた。

この年の得点圏打率は.375と高い数字を残し、2009年に見せた勝負強い打撃が健在であることを示した。2012年、二塁、三塁のスタメンや、守備固めなどで出場機会を作るも、寺内や藤村大介などの若手の活躍に押される形が増えていた。

2013年は怪我に苦しみ、9月末時点での一軍出場は3試合にとどまっていた。10月2日、今季限りでの引退を表明。翌3日、東京ドームでのヤクルト戦の試合前に引退セレモニーが行われ、試合後に巨人ナインから背番号51にちなみ5回プラス大きく1回の計6回胴上げされた。10月10日、任意引退公示された。



引退後はジャイアンツアカデミーでコーチになることが発表された。2014年7月、国士舘大学野球部で同級生だった野球ライターの本木昭宏との共著『プロ野球生活16年間で一度もレギュラーになれなかった男がジャイアンツで胴上げしてもらえた話』を出版した。

2015年から日テレジータスのプロ野球解説を担当(原則として『ジャイアンツ プレ&ポストゲームショー』、および、民放において日テレジータス独占となるカードに限定)。捕ってから投げるまでが早く、高い守備力を誇る内野手。内野ならどこでも守ることができる。バッティングも巧く、意外性がある。



走塁でのミスが目立つものの、打撃でそのミスを挽回することが多い。日本ハムで7年間、そして巨人でもチームメイトの小笠原道大(ガッツ)のあだ名をとって原辰徳監督からは小ガッツとも言われている。北海道日本ハムファイターズは2009年から背番号に0および00を使用しておらず、2015年現在、球団史上0を付けた最後の選手となっている。

大の巨人ファンだった父親は長男に長嶋茂雄から「茂」の字を貰い茂幸と名づけた。子供の頃からキャッチボールやバッティングを教えたが、本格的に野球をするのは高校に入ってからと言いつけていた。茂幸は小学校で体操や陸上に熱中し運動神経のよさを発揮していたが、一時こっそり少年野球チームの練習に加わったりしていた。



中学では体操部に入ろうとしたが、進学した年に体操部が廃部し、代わりに野球部に入部した。また、巨人へのトレード移籍が決まった際に父親は大興奮で喜んだという。「飛ばせ古城・・・」の歌詞で始まる日本ハム時代の応援歌の原曲は、任天堂スーパーファミコンのソフト『MOTHER2』に使われた「Smiles and Tears」であった。

ジャイアンツ移籍2年目の2007年度は「シャープに振り抜け古城・・・」の歌詞で始まる新しい応援歌が用いられている。2007年10月20日のCS2ndステージ、中日ドラゴンズとの第3戦の9回裏、無死の場面でヒットを打った大道典嘉の代走として出場した。

次の打者デーモン・ホリンズの打球は元・チームメイトであるレフト上田佳範への浅いフライとなったが、その際に一塁を大きく飛び出してしまいダブルプレーとなり、反撃のチャンスをつぶしてしまった。その後、そのままゲームセットとなり、巨人は中日に敗れ、CS敗退となってしまった。



柏市立高田小学校

千葉県柏市高田376-3
千葉県柏市高田にある市立小学校。愛称、略称は「高田小」(たかたしょう)。地元では「高田小」(たかだしょう)または「高小」(たかしょう)と呼ばれることも多い。校門のすぐ近くにシイの巨木がある。学校内にポストがある。JR常磐線・東武野田線柏駅西口から、東武バスイースト柏02系市内循環「高田小学校入り口」バス停下車(徒歩3分)。

学校の南側には手賀沼に注ぐ大堀川が流れている。開校当初、グラウンドは校舎正面にあるもの(後の第一グラウンド)のみだったが、西側にあった畑を市が購入して第二グラウンドを増設。大堀川の改修工事に伴い、第一・第二グラウンドとも南側約20メートルほど削減。削減した場所には現在、遊歩道「大堀川リバーサイドパーク」が通っている。



高田の地名の由来

郵便番号〒277−0861
東葛地名事典に文が残っているので電化する。高田という地名は各地にあり、地名辞典で調べると200を超える。そのうちで代表的なのは新潟県高田市であるが、高田市と柏市高田に地形的な際立った共通点はない。『地名語源辞典』には高い所の田から出たとしている。

聖徳寺の境内からは文安3年(1446)の板碑は出ているし、熊野神社は、社伝によれば天正6年(1578)の創建。本土寺過去帳には応仁3年(1469)の記録によると高城氏の家臣匝瑳氏に高田の注記がみえ、匝瑳氏とのつながりがうかがえる。



領主は享保から田中藩。元禄期の村高は165石、天保期には238石だった。宝永5年(1708)の郷差出帳によると家数42戸、馬40匹というから馬の数が多い。これは布施、加村の物資の運搬に使われていた馬だろう。

高田にはウナギの水切場があった。布施河岸で陸揚げされたウナギは、ここで清水に浸して生気を取り戻した。それで水切場と呼ばれ、料金を取った家を水替屋(みずかえや)と呼ばれた。野々下にも水切場があり、加村河岸へと駄走された。



高田村の北は台地で小金牧の高田台牧があった。明治初年に開墾されて十余二村になり、高田原(たかだっぱら)と呼ばれた地区である。だから、村と高田台牧との間に野馬除土手が多く、1500間(2・7キロ)もあったという。高田は江戸期から明治22年の村名で、その後は千代田村、柏町、東葛市、柏市の大字高田になっている。



『ハマの大魔神』もアマ時代に受診

柏市「原瀬整形外科クリニック」原瀬瑞夫
房総ふる里発見伝「千葉を彩る107人」(崙書房出版)に文が残っているので電化する。少年野球の小学生から、熟年ゴルファー、はてはプロスポーツの選手まで。柏市若柴の「原瀬整形外科クリニック」にはケガや筋肉の酷使による障害に悩むスポーツマンが、引きも切らず訪れる。院長の原瀬瑞夫(昭8生)はプロ・アマの各種競技の世界で広くその名を知られる、スポーツ医療の第一人者だ。

原瀬が、患者の中にスポーツでケガをした人が目立つようになったことに気付いたのは、母校の大学病院に在籍していた1960年代初頭のこと。ちまたは東京五輪に沸き、「将来の金メダリストの養成を」といった謳い文句のスポーツ振興策が持て囃された時代だった。



診察した患者の中に、後に東京五輪重量挙げフェザー級で金メダルを獲得することになる三宅義信もいた。腰痛を訴えて訪れた三宅の、背骨のレントゲン写真を見ると、「看護婦が別人のものと取り違えたと思った」と言うほどに変形していた。

200キロもあるバーベルを毎日、何十回と持ち上げた結果、「七十歳から八十歳の老人のものに見えた」ほどに曲がってしまったのだ。スポーツによるケガの中には、練習でのオーバーワークなど慢性的な生活習慣に起因するものが少なくないことに、改めて気付かずにはいられなかった。



77年に自身のクリニックを開業してからは、日本におけるスポーツの在り方にについて、以前にも増して考えさせられる機会が多くなった。開業間もないある日、沼南町に住む13歳の野球少年が右ヒジに痛みを訴えて原瀬のもとを訪れた。エースで四番という少年の腕は真っ直ぐには伸びず、曲げても指先が肩に届かない状態だった。

レントゲン検査をして下した診断は「変形性関節病」。肘の軟骨が剥離し、関節内を動き回ることで痛みを痛みを起こす「関節ネズミ」とも呼ばれる症例だった。聞けば、痛みは一年前から続いていたという。周囲の期待に答えなければという重圧と、今のポジションを手放したくない一心から言い出すことができず、毎日のハードなトレーニングに耐えてきた。



それが取り返しのつかなくなるまでに症状を悪化させていた。治すには手術が不可欠で、しかも後遺症が心配された。原瀬は断腸の思いで「野球は断念したほうがいい」と告げたが、青春の全てを野球にかけてきた少年にとっては、余りに酷な宣言だった。

この一言に少年は「何とか野球を続ける道は無いのか」と泣きながら訴えたという。結局この少年は二度と姿を見せることはなかった。「おそらく、別の医者を探して野球を続ける道を探したのでしょう」と振り返る原瀬には、発育途上の子供たちに過度のトレーニングを課すことに対するやりきれなさが残った。



練習を休むように促すと「せっかく取れたレギュラーを外される」と言って断る子供にも、何度となく出会った。「痛いといって練習を怠けているだけ」と言って取り合わない指導者もいた。86年から子どもを取り巻くスポーツ環境の改善を訴えて「スポーツ障害セミナー東葛」を主催するようになったのは、そんな風潮を憂いだからだ。

「最新式の医療器具があるわけでもなく、患者さんとコミュ二ケーションを取ることを大切にしているだけ」と語る原瀬のもとには、プロ野球やJリーグの選手もしばしばやってくる。横浜ベイスターズの『大魔神』佐々木主浩も、アマチュア時代に診療を受けた一人。

「でも、どんな有名人が来るよりも、小学校時代に診察した患者さんが、大人になっても自分を頼って来てくれることが一番嬉しいんですよ」そう言って柔和な笑顔を見せた。そのほか、手賀沼浄化運動にも参加している。著書に「いまスポーツで子供が危ない、整形外科医の診察室から」(五月書房)がある。



うなぎ道と高田の水切り場

※文を追加しておく
江戸時代から、利根川の布施河岸から松ヶ崎、高田を通り、現在の流山市の江戸川沿いの加村河岸まで、うなぎを陸送した道である。近くには屋号が「水切り場」という家が今もある。これは、印西の平塚河岸から白井を通り、松戸にいたる鮮魚(なま)街道とともに、江戸時代からの重要な物資(主に鮮魚)の輸送路で大江戸の台所を潤した。

鬼怒川や小貝川上流から運ばれてきた穀物、さらに利根川の沼地でとれたうなぎや鮭などは、布施河岸で荷馬に乗せて15Kmの陸路を約4時間で流山の加村河岸に運んだ。加村河岸からは江戸川の舟運で江戸へ送った。このうなぎ道は布施からは、須賀神社の近くを通り、松ヶ崎の一本杉を抜けて、高田にいたる。



高田から豊四季の諏訪神社の辺りを抜けて、流山の加村まで行く訳である。その加村までの途中にあった休憩場が、高田の水切り場で、うなぎを生簀にはなして生き返らせるとともに、荷馬を休めた。

手賀沼の特産物はうなぎのような魚介類や水鳥などで、特に手賀沼で捕れるうなぎは、色が黒く、肉質が繊細で焼いても身が縮まず脂ものっているため、昔から「あお」とか「黒鰻」としてと呼ばれて珍重された。



そのうなぎを江戸まで生きたまま運ぶためには、陸送している間も何度かうなぎを水につける必要があり、それで水切り場のような工夫がされた。なお、この街道は諏訪神社への参詣者が往来する道でもあったため、諏訪道とも呼ばれる。

(※諏訪道についてなんだが、流山本町に生まれ育った俺の目線から言うと、流山街道からの大坂がスタート地点かと思ってた。当然のことながら諏訪神社の先にも道はつながっていて、そちらにも重要な歴史である。中でも三郷戸ヶ崎からの流山道も、諏訪神社信仰の道として、諏訪道と呼ばれたそうだ。改めて思い出した。)

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    ・神輿-田舎町にはこれが一番
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開発に取り残された街、なんて言いますけどね、コミュニティの強さ、田舎町の安心感、歴史財産まで、今の時代に一周遅れでトップになった感じです
TX沿線の新市街地に住む方たちも歴史情緒ある流山本町、今では一割もいないだろうと思われる流山先住民、昔からの生活をする住民として発信出来たらいいな、と思っています。
なお、神輿会に入りたい人については上に紹介はしますが審議にかけられます、個人として権力ないもので
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