正月七日の御備社(おびしゃ)、我孫子市中里諏訪神社

January 07 [Mon], 2019, 0:00

正月七日の御備社(おびしゃ)

我孫子市中里諏訪神社
諏訪神社の創建は古く、戦国の世が漸(ようや)く終ろうとする、天正四年(1576)年三月のこととされる。祭神は「武御名方尊(たけみなかたのみこと)」である。武御名方尊は、祖父を須佐之男命(すさのおのみこと)、父を大国主命(おおくにぬしのみこと)とし、本社諏訪大社のある信濃国(長野県)の開発に尽力した神として知られている。

創建から江戸時代にかけては、当神社に関する古文書の類は残念ながら全く見あたらず、この間の詳細は不明とせざるを得ない。しかし、当神社が中里村の産土(うぶすな)として、村民の寄合や祭の場といった役割をはたしたことは間違いないであろう。なお、境内にある最古の石造物は勢至菩薩(せいしぼさつ)で、「延宝九(1861)年辛酉(しんしゅう)九年二十三日」の年紀が刻まれている。 
 
「湖北村誌」によれば、当神社の規模は、大正九(1920)年の時点で境内坪数が五百三十五坪、氏子戸数が五十戸、采田が六畝四歩とのことである。また、明治四十一年十二月二十六日には、北島原の熊野神社(天正五年一月創建)・外川神社(天保二年三月創建)・山王神社、六番作の水神社、南原の稲荷神社、弁天作の弁天神社が当諏訪神社に合祀されている。



現在の社殿は、大正十五年建立の社殿が老朽化したのに伴い、氏子総代・中里区民その他有志の方々の寄附により、平成十六年十二月に再建されている。社殿は本殿(二・五坪)、祝詞殿(三坪)、拝殿(八・七五坪)からなり、いずれも銅版葺きで、本殿屋根上に千木(ちぎ)一対、鰹木(かつおぎ)六本を備えた堂々たるものである。
 
当神社に関わる伝統行事には、元旦の元朝詣り(がんちょうまいり)、正月七日の御備社(おびしゃ)、二月の初午(はつうま)(稲荷さま)、十月の例大祭、十一月の七五三などがある。とくに例大祭には、子供神輿が中里区内を練り歩き、境内では厳粛なる神事のほか素人演芸会がも催されるなど、中里区民のみならず湖北住民の交流の場として毎年盛大に挙行されている。また元朝詣りでは、初詣客に甘酒が振る舞われ、その行列は境内からあふれるほどの賑わいをみせている。



中里諏訪神社の由緒
中里諏訪神社は天正4年(1576)に創建、中里村の鎮守だったといいます。明治41年には、熊野神社(北島原旧在)、外川神社(南原旧在)、水神社(六番作旧在)、稲荷神社(南島原旧在)、山王神社(北島原旧在)、弁天神社(弁天作旧在)を合祀したといいます。



「我孫子市史」による中里諏訪神社の由緒

諏訪神社(中里六六七)
天正四年(一五七六)三月の創建で、以来旧中里村の産土として奉祀されてきた。明治の、「神社明細帳」には「社殿間数 間口三間 奥行四間」、「境内社八幡大神(誉田別命)、建物 間口三尺五寸 奥行五尺」と記されている。明治四十一年には、熊野神社(天正五年一月創建、北島原旧在)、外川神社(天保二年三月創建、南原旧在)、水神社(六番作旧在)、稲荷神社(南島原旧在)、山王神社(北島原旧在)、弁天神社(弁天作旧在)の諸社が当社に合祀された。

鳥居は明治三十五年造立の石造神明鳥居である。社殿は、大正十五年に拝殿の修繕と本殿の改築が行われ、昭和三十年にも修理されて今に至っている。拝殿と本殿を相の間でつなぐ形式で、拝殿は切妻造、鉄板葺、向拝付、本殿は切妻造、鉄板葺である。(「我孫子市史」より)JR成田線湖北駅南口より徒歩15分程、住宅と中里市民の森の間に鎮座している。諏訪神社は天正四年(1756)の創建といわれ旧中里村の鎮守であった。



日秀観音

将門の守り本尊
東葛寺社事典に文が残っているので電化する。曹洞宗観音寺(通称日秀観音)は成田街道沿いにある。創立は定かではないが、寛文2年(1662)正泉寺9世の名翁全誉大和和尚の開山である。観音堂内に平将門の守り本尊と伝える聖観世音菩薩像を安置する。

この像は行基の作と言われ、将門が岩井戸を築き、近くに堂を建て観音像を安置し武運を祈ったという。のち日出弾正佐友治この境内に一宇を建立したと伝える。今の観音堂は安政期(1854〜60)の創建で。昭和に修復が行われた。



「首曲がり地蔵」が成田街道に面して立っている。将門調伏を祈った成田山を嫌う村人たちが首を曲げて作ったと言われる。土地の人らは今も成田山に詣でない。

また桔梗(キキョウ)は植えず、植えても咲かず(愛娼桔梗が将門を裏切ったから)、胡瓜は輪切りにしない(将門の九曜紋に似て恐れ多いから)。千年を経た今も、成田山との和解は出来ないようである。



当時の本尊は釈迦如来であるが、安永4年(1775)の相馬霊場設立のとき、四国29番国分寺移しとなり、霊場本尊は聖観世音とされたものである。(※我孫子市中里ってモロに湖北の駅前なんだな)

日秀の読みは困難で諸説あるが、将門が日の出を拝したことから日出が生まれ、日秀と字が変わり、発音がヒデリ、ヒベリ、ヒビリと変わったと言えそうである。住職は安本正道師。



中里の地名の由来

郵便番号〒270-1122
東葛地名事典に文が残っているので電化する。我孫子市中里は、昭和30年の町村合併まで湖北村の一部で、近世には中里村という一村になっていた。現在は旧中里村の西半分は湖北台一丁目から七丁目となっていて東半分が中里となっている。

かつては西山畑、中山畑、南原、別当地、北中道、羽郷台など20の小字があった。JR成田線と国道356号線との間にある中里通りを挟んで旧家が建ち並び、北向薬師堂(※北向き薬師堂から訂正)や重厚な長屋門を持つ星野本家、植物学者で東京大学教授であった故中野治房邸もこの通りにある。



湖北周辺はかつて地場産業として瓦造りが盛んであった。その技を用い、明治、大正期、小堀でレンガが造られていた。そのレンガを使って明治14年築かれたレンガ塀は今も残り、広い中野邸を囲っている。北向薬師堂は昭和40年に廃寺となった宝蔵院境内にあるが独立の仏堂であった。

薬師三尊、十二神将が揃った薬師堂は我孫子市の指定文化財となっている。隣接の中里公会堂は宝蔵院本堂跡地にあり、松戸市長で「すぐやる課」で有名になった松本清氏の寄付によって建てられた由。松本氏は湖北村の出身。



中里の地名は、中世の鎌倉街道にあった都部と新木の中間にあった所から中里と呼ばれるようになったという。その鎌倉街道沿いに天正4年(1576)信州諏訪大社から勧請された神明造りの諏訪神社があり、旧村内にあった山王社、水神社、弁天社が合祀されている。

手賀沼近くの字南原には、昭和19年、我孫子町内の小学校教員19名が研修のため手賀に向かう船で転覆死した鎮魂碑が建っている。

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    ・神輿-田舎町にはこれが一番
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開発に取り残された街、なんて言いますけどね、コミュニティの強さ、田舎町の安心感、歴史財産まで、今の時代に一周遅れでトップになった感じです
TX沿線の新市街地に住む方たちも歴史情緒ある流山本町、今では一割もいないだろうと思われる流山先住民、昔からの生活をする住民として発信出来たらいいな、と思っています。
なお、神輿会に入りたい人については上に紹介はしますが審議にかけられます、個人として権力ないもので
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