正月六日のおびしゃ、我孫子市旧日秀(ひびり)村、将門神社

January 06 [Sun], 2019, 0:00

正月六日のおびしゃ、旧日秀(ひびり)村

我孫子市、将門神社
旧日秀(ひびり)村の村社将門神社は字上宮前、手賀沼を眼下に望む丘陵の南端に鎮座している。祭神は平将門。明治四十一年(1908)に字掘込(ほつこめ)にあった無格社水神社(祭神は水波賣命)を合祀して将門社から将門神社となった。この日秀の地は平将門に関する伝承を今に伝える我孫子市内でも特記すべき所である。
 
神社の由来は、天慶三年(940)将門が戦没するや、その霊は遺臣等と対岸手賀沼村明神下より手賀沼を騎馬にて乗り切り、湖畔の岡陵に登り朝日の昇天するを拝したということから、村人がその地に一字を奉祀したのが将門神社の起こりであるという。



日秀(ひびり)の地名についても、将門の霊位が日の出を拝したからとも、またその遺臣である日出弾正なる者がこの地に隠栖(いんせい)したことから、日出(ひいで)村と呼ぶようになったとも伝えられているが、日出村の呼び方は元禄十五年(1702)の水神社の石祠(現在境内鳥居脇に遷されている)にも認められるが、寛文十二年(1672)の庚申塔には「日秀村」と刻まれている。江戸初期には両様に用いられていたことがわかる。

また将門は幼少のころをこの地で過ごしたとの伝承、日秀では桔梗を植えても花が咲かないしまた植えない(愛妾桔梗御前の裏切りによって将門が討たれたとの伝説にちなんだもの)。さらに胡瓜(きゅうり)は輪切りにしない(将門の紋所である九曜紋が胡瓜を輪切りにした状態に似ていることから)、成田不動尊へは参拝しない等、将門とのかかわりを色濃くのこしている地である。
 


最近になって、神社西方の日秀西遺跡が発掘調査され、古代郡衙(ぐんが)跡と考えられるに及び、この将門神社及び東方低地にある将門の井戸とのかかわり等、古代から中世への史実と伝承の谷間も鮮明されることであろう。

祭礼は正月六日のおびしゃと七月十四日の例祭を祇園(ぎおん)祭りと称し、初日の鎮守氏神における幟立から始まり三日間にも及び、また収穫を祝う秋祭りも行われていたが、現在は七月十四日の例祭のみとなっている。この日は「みやなぎ」と称し神社を清掃後、神主、氏子総代等の役員当番により神前にて玉串を上げ、当屋において直会の宴がある。その時当番の家の門口へ「奉納将門大明神」(天保六年正月奉納)の幟を立てるのでそれとわかる静かな祭りとなっている。



将門の井戸
将門の井戸は、将門神社の南東の低地日秀字石井戸にある。成田線の踏切を手賀沼方向へ下がった左側沿いに進むと、灌木の茂みの中、老樹にいだかれるように静かに水を湛えている。まるで、古くから村人の間で語り継がれて来た数々の伝説と祈りを今に伝えるかのようである。

遠い昔、まだ井戸を掘る技術が充分開発されていなかったころ、多分人々は自然の湧水が豊富な場所に寄り集まって生活を営んでいたことであろう。水に対する意識もいまよりはずっと敬虔なものであったことであろう。そうして生まれて来た素朴な説話・伝承が、いつしか将門伝説と織り混じり合うことになる。



この井戸の側には、「将門の井戸・承平二年将門が開き軍用に供したと伝えられている」と記された角柱が立っている。「湖北村誌」に「中相馬七ケ村には七つ井戸と称して必ず一村一個有せり、之を大日井戸と云う」とある七つ井戸の一つが、この将門の井戸である。

この七つ井戸は、各村によって呼び方が異なり、日秀では石井(いわい)井戸と称していた。昔、七か村の村人は正月元日、各村にあるこれらの井戸で若水を汲み、これを自家の井戸水に三杓ずつ加え、祖先に供える正月三か日の膳部を炊くのが恒例行事であったという。



今では、若水汲みの行事も上新木の香取の井戸で正月の神様に供える水を汲みにいったという古老の記憶と、中峠の元日の井戸(現在この井戸は公団の道路下となっている)という名称にのみその痕跡をとどめているに過ぎない。この将門の井戸も明治の末ごろまでは、こんこんと湧き出る清水を湛え手賀沼の低地へ落としていたという。

そのころはきっと、種モミを浸す用水として村の生産活動の中枢を占めていたことであろう。今では湧水もわずかで、出る雨水を湛えるのみであるが、七月十四日の将門神社のみやなぎの日に、消防団の人々の手によって恒例の井戸さらいが行われている。



我孫子の将門神社

千葉県我孫子市日秀131
東葛観光歴史辞典に文が残っているので電化する。下総は平安時代に平将門が活躍した舞台だけに将門伝説が多く分布していて、我孫子は日秀地区に集中している。日秀というのは珍しい地名でJR成田線の湖北と新木の中間の台地にある。

古くは日出村と呼ばれていたが、江戸時代の初め頃から日秀村とも呼ばれるようになっている。日秀とは将門が戦死したとき、その霊は手賀沼から馬に乗ったまま沼を渡ってきて日の出を拝んだところから来ている。



将門神社は明治41年に将門社から将門神社になったもので、手賀沼を見下ろす台地の手賀沼よりにある。石の階段があって石積みの台の上に小さな祠が載っていて、それが本殿である。7月14日がお祭りで、このお祭りで変わっているのは当番の家の門口に「奉納将門大明神」の幟を建てるところである。

将門はこの地で幼少時代を過ごしたと伝えられているから、将門伝説は根強いものがある。将門の紋は九曜紋でキュウリを輪切りにした形なので、日秀ではキュウリを輪切りにしない。また、キキョウの花は植えない。植えても花は咲かないと言われているのは、愛妾桔梗御前の裏切りによって将門が討たれた伝説による。



それで、「湖北日秀にゃキキョウは咲かぬ、キキョウあだ花、うその花」という歌も残っている。将門神社の台地から手賀沼のある低地に降りると、将門の井戸がある。日秀字岩井戸である。台地の根方の井戸で、台地に降った雨水が集まったものだろう。

井戸のそばの解説版に「将門の井戸、承平二年将門が開き軍用に共したと伝えられる」と将門との関わりが書いてある。明治の末頃までは、この井戸から清水がこんこんと湧き出して、沼へ流れ込んでいたという。



この井戸は『湖北村誌』に出てくる湖北七つ井戸の一つで、一つの村に一つの井戸があった。日秀の井戸は地名をそのままに岩井戸と呼ばれてきた。昔は、お正月にこの井戸から若水を汲み、それを自分の家の井戸水に入れて使ったと言われている。

また、台地上へ上がって北へ進み、成田線の踏切を越えると国道356号線(成田街道)にぶつかったところに観音寺がある。本堂のそばに九曜紋をつけた観音堂(日秀観音)がある。この観音堂内に将門の守り本尊と伝えられる聖観世音菩薩が安置されている。行基の作で、将門が信仰していたと伝えられる。



観音堂の前に地蔵尊が立っていて、成田街道を見ている。これが日秀の首曲がり地蔵と呼ばれるもので、成田詣での人たちに道を聞かれても「さぁ、知りませんね」と首を傾げたと伝えられている。日秀の人たちは、成田山に戦勝祈願して将門を討ち取った田原藤太秀郷を恨んで、成田山へお参りしないと言われている。

だから道を聞かれても教えないのだという。成田ばかりか中峠(なかびょう)の不動様も嫌われ、糞尿をかけられたという話も伝わっており、この土地ではお不動様は徹底的に嫌われている。



※文を追加しておく
先祖代々の仇だけでなく、自分の生まれ育った土地の氏神の仇、とでも言っていいのかもしれない。日本の神社は明治以前は寺院と同じ。ということは神社が本来祀っている祭神だけでなく、神社のある地域の亡くなった先祖代々を神として祀っているわけか。

そうなると、ウチのバーサンも、秋元本家の方々も、堀切紋次郎も、カドキヤの親父も、同列な神輿の中の御霊となる。そりゃ日本人の中で祭が大切になるわけだわ。これは今現在の日本では、感覚的なものになっているため、気付かない人は一生考えたりしないことなんだろう。



将門神社

将門信仰の中心的神社
東葛寺社事典に文が残っているので電化する。手賀沼を眼下に望む日秀の丘の南端に将門神社は鎮座する。明治41年(1908)に字堀込の水神社を合祀して将門社から将門神社となった。祭神は平将門。

天慶3年(940)将門戦死後、その霊が遺臣らと手賀沼を騎馬で渡り切り、湖畔の丘に登り、昇る朝日を拝したといい、村人がここに一宇を祀ったのが神社の起こりという。



全国に将門を祀る神社は多い。国家へ反乱を起こした張本人を神として祀るのはなぜか。類まれな武勇とあっけない戦死に対する讚嘆と惜別の情もあろう。また祟を恐れたからともいわれる。この神社については将門が幼少の頃をこの地で過ごしたとの伝承から親愛の情によるとも言えるのではないか。

神社の年中行事として祭礼は7月14日の例祭がある。この日を「みやなぎ」と称し、神社清掃後、神主、氏子らの玉串奉奠のあと、直会の宴がある。当番の門前には「奉納将門大明神」(天保6年正月奉納)の幟を立てる。元旦には最近、歳旦祭が行われる。



一月六日のおびしゃに、この神社では成田に向かって射る。社殿は大戦後に故あって解体し、小さな本殿が石組みの上に建っているが、御神体は当番がお守りして来た。

近く社殿の改築、新たに玉垣の築造、さらに地域の歴史や文化を学ぶなど、新しい息吹も見られる。将門神社と日秀観音は当地の将門信仰の中心的存在である。神主は中峠の染谷一夫氏が勤めている。



文を追加しておく
日秀観音は、平將門の守り本尊と伝えられ観音菩薩です。観音寺境内にある首曲地蔵は平將門が調伏を祈願した成田不動尊を嫌い、成田に顔を背けた姿といわれています。四国相馬霊場29番礼所や日秀の集落には、將門伝承が数多く残っております。現在の観音堂は安政年間の創建といわれています。寺は慈泯山観音寺と呼ばれます。周辺には、將門神社、地蔵院、中里市民の森などがあります。JR成田線湖北駅からバス布佐駅行き「日秀観音」下車徒歩1分。

將門神社は、天慶3年(940年)の創立です。祭神は、平親王將門を祀っています。敷地は150坪あります。将門の戦役の後、その遺臣たちが手賀沼を越えて一宇を建て公の神霊を迎えたと伝えられています。明治42年(1909年)に、将門社を将門神社と改称しました。將門が手賀沼を馬で乗り切り朝日の昇天を拝した地との伝承がありますが、今は社殿はなく参道の奥に石殿が祀られています。例祭日は6月6日です。



当時は、下総の国一帯は霞ヶ浦から手賀沼まで東京湾に匹敵する広大な湖沼地帯(香取海)でした。我孫子(相馬郡)は東国に至る交通の要衝でした。将門の乱はわずか4ヶ月で鎮圧されるのですが、日本の歴史で唯一天皇にとって替わろうとした人物であり、武家社会の先駆けであったとも言われています。

しかし、地元での人気はそれだけでは説明できません。将門附追討祈願の成田山にお参りしないなど語り伝えられています。また明治政府が朝敵と言う理由で神田明神から将門をはずそうとして地元の猛反対にあったというのですから、人気は関東一円にあるようです。

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TX沿線の新市街地に住む方たちも歴史情緒ある流山本町、今では一割もいないだろうと思われる流山先住民、昔からの生活をする住民として発信出来たらいいな、と思っています。
なお、神輿会に入りたい人については上に紹介はしますが審議にかけられます、個人として権力ないもので
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