平成31年、元旦の赤城神社

January 04 [Fri], 2019, 0:00

平成31年、元旦の赤城神社

流山の名前の元になった流れてきた山
元日のことを、元旦(がんたん)、元朝(がんちょう)とも呼び、今でも小学校の書き初めや年賀状などに使われる。「旦」は「日」と地平線(一)からなる指事文字で、一日のはじめ、朝を表す。「元」も「はじめ」の意味があり、熟語の「元旦」とは「一年のはじめ」の意である。

「元日の朝」を意味する、国語辞典には「元日(の朝)」と両方の意味を表すように書いてある物もある、などといった主張をトリビアとしてまことしやかに語る向きもあるが、現代的な時間感覚で言う「朝」のような、元日の何時から何時までを指すといった細かい決まりはもとより存在しない。



太陽暦に基づきながらも、元日が1月1日ではない暦法もあった。例として、フランス革命暦では、葡萄月(ヴァンデミエール)1日が元日とされた。

その日はグレゴリオ暦では9月22日から9月24日の間と、グレゴリオ暦1月1日とは大きなずれが生じていた(実際、フランス革命暦最終日となった1805年12月31日はフランス革命暦14年雪月(ニヴォーズ)10日であり、これは葡萄月を1月、果実月(フリュクティドール)を12月と数えると、4月10日となる)。



日本ではかつて皇室行事である四方拝にちなみ、四方節(しほうせつ)と呼ばれて祝祭日の中の四大節(紀元節、四方節、天長節、明治節)の一つとされてきた。1948年公布・施行の国民の祝日に関する法律(昭和23年7月20日法律第178号)第2条により、四方節に代わって「年のはじめを祝う」ことを趣旨とする国民の祝日となった。

日本各地では、元日の1月1日から1月3日まで(三が日)、または「松の内」までを特に「お正月(おしょうがつ)」と呼んでこれを尊重し、毎年この時期独特の行事や慣習が執り行われる。



正月は、各暦の年初のことである。文化的には旧年が無事に終わった事と新年を祝う行事である。正月飾りをし、正月行事を行ったり正月料理を食べて、盛大に祝う。

日本では、1月1日の元日のみを国民の祝日としているが、実際には少なくとも3日までの三箇日は事実上の祝日と同じ状態となる。



「正月」とは、本来旧暦1月の別名である。改暦後は新暦1月を意味することもある。現在は「三が日」または「松の内」と混同して使用することが多いが、1月31日までが正月である。松の内は元々は1月15日までだったが、現在は一部地域では1月7日までに短縮している。

寛文2年(1662年)1月6日 (旧暦)、江戸幕府により1月7日 (旧暦)を以て飾り納めを指示する最初の通達が江戸の城下に町触として発せられており、それに倣った風習が徐々に関東を中心に広まったと考えられる。



幕末の考証家である喜田川守貞は、この時同時に左義長(いわゆる「どんど焼き」)も禁止されていることから、松の内短縮発令の理由を注連飾りを燃やすこの火祭りによる火災の予防の一環だとしている。

1月20日までを正月とすることもあり、1月20日を二十日正月(骨正月)と呼ぶ。新暦の元日を軸とする「大正月」(おおしょうがつ)と旧暦の15日を軸とする小正月(こしょうがつ)と呼ぶものがある。



大正月はまた大年(おおどし)、男の正月と呼ぶのに対して、小正月を小年(こどし)、女の正月と言うところもある。12月8日(関西では12月13日)を「正月事始め」と称して、正月準備が始まる。

かつては夏の盆と対応して、半年ごとに先祖を祀る行事であった。しかし、仏教の影響が強くなるにつれ、盆は仏教行事の盂蘭盆と習合して先祖供養の行事とし、対する正月は年神を迎えてその年の豊作を祈る「神祭り」として位置付けられるようになった。



数え年では1月1日に歳を1つ加えていたことから、正月は無事に歳を重ねられたことを祝うものでもあった。満年齢を使うようになってからはそのような意味合いはなくなり、単に年が変わったこと(新年)を祝う行事となっている。

喪に服している場合は正月を行わない風習があり、この場合、事前に喪中欠礼の葉書を送った上で、年賀状を送ったり受けたりすることもなくなる。



賽銭箱はさかえ食堂、小島さんからの奉納品


御神酒とは?意外と知らない人が多い!

神社や神宮で飲む理由や秘密をまとめた!
御神酒(お神酒、おみき)とは、神饌には欠かせないもので、日本古来から伝わる祭礼において、お神酒(傾向として日本酒が使われる事が多い)を神前に供え、祭礼の終了後直会でお神酒を戴きます。

神様に供えられ霊が宿った酒を頂き、また他の神饌と同様の神様と同じものを飲食するという意味があります!また、造り酒屋によっては、新酒を神棚に供えるところもあるようです。



つまり、神様にお供えをすることで霊力を宿った神聖なお酒を頂くことで、その神様の霊力を体内に取り込み、建前などの安全を願ったり、お宮参りで健やかな成長を願ったりします。

代表的なものですと、お正月や結婚式のお祝い。初宮詣や七五三などのお祝い。地鎮祭など、人生においてお神酒を頂くケースはとても多いです。『鏡開き』などもそれにあたるようですね!



おみくじ(お神籤・お御籤・お仏籤・御神籤・御御籤・御仏籤・おみ籤またはみくじ・神籤・御籤・仏籤(みくじ))とは神社・仏閣等で吉凶を占うために引く籤である。

「みくじ」は「くじ」に尊敬の接頭辞「み」をくわえたもので、漢字で書くときは「御籤」とするか、神社のものは「神籤」、寺のものは「仏籤」とする。



ただし厳密には問題があるが、区別せず「神籤」とすることもある。現在ではみくじ箋(みくじ紙)と呼ばれる紙片を用いるものが一般的である。引いた後の神籤を、境内の木の枝などに結ぶ習慣がある。

「結ぶ」が恋愛の「縁を結ぶ」に通じることから江戸時代から行われてきた。その後、神様との「縁を結ぶ」として木に結びつけられるようになった。二月堂のように千枚通しのようなものに神籤を刺すところもある。



また、「凶のおみくじを利き腕と反対の手で結べば、困難な行いを達成つまり修行をしたことになり、凶が吉に転じる」という説もある。だが近年、木に結ぶと生育が悪くなるため、参拝者が神籤を結ぶための専用のみくじ掛(2本の柱の間に棒や縄を渡したもの)を設置している寺社もある。

以前はここから女坂が続いていた


以前(20年前)よりもお賽銭の金額も多くなっている、つくばエクスプレス効果で住民増加の恩恵を確実に吸収しているということだろう。今現在の神社信仰は、20年前よりも確実に注目を浴びるものとなっていて、地域の住民にとってだけでなく、団塊ジュニアの世代にとってはマイホームを買う上でも大事な存在になっている。

女坂の所に新たな道路が整備されているので、自動車で神社の前まで行けるようになっている。これはそれまでと違って、農協の職員が自動車でお賽銭を取りに来られるということ。小銭が多すぎて一人でなんか運べないからね。自転車のカゴでなんか運べる量じゃないし。



今年の初詣客、推定二万人

破魔矢などの売上から割り出す計算
今年はいのしし年ということで今年の年男はウチの弟の学年になります。これは俺の二個下となり、伊藤さんの息子、玉ノ井さんの息子、伊藤さんの娘の旦那も同級生。ウチの近所だと恩田、小島牧場。

加えて言うなら佐々木さんの奥さん、根郷なら鈴木床屋、牛島。加岸で言うとなると岡徳酒屋も同級生という事になります。60歳ってどのくらいの年代なんだろう、定年退職してないし、地域の行事からは誰が当てはまるかちょっと把握できていません。



アトリエ黎明で恒例の元日開館

故秋元松子氏が、後進の指導に当たった場所
流山6丁目の一茶双樹記念館・杜のアトリエ黎明では、今年も恒例の元日開館が行われました。厳しい寒さの1日でしたが、近くの赤城神社へ初詣にいらした方々などが大勢立ち寄り、両館合わせて約700人のお客さまをお迎えしました。

この土地とアトリエは、洋画家の故・笹岡了一さん。同じく画家で歌人でもあった故・秋元松子さんのご夫妻が、創作活動とともに、後進の指導に当たった場所。そのご遺族で、画家の秋元由美子さんから、「社会教育に役立てて欲しい」と流山市に寄贈されたものです。



主な展示の内容は、秋元松子さんの和歌や絵画、そして、日本美術院の岡倉天心や菱田春草との交流、竹柏会の佐佐木信綱との交流、そして、春草会の竹久夢二や芥川龍之介らとの交流を秋元家に残る貴重な手紙などから検証します。

歌人であり、国文学者として有名な佐佐木信綱。落合直文、与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、歌誌「心の花」を発行する短歌結社竹柏会を主宰した佐佐木信綱とも歌人としても秋元松子さんは交流があったんですね。

この地には、かつて岡倉天心や菱田春草が訪れ、醸造家・秋元洒汀(しゃてい)が彼らを物心ともに支えた日本美術史上重要な場所です。天心や春草から秋元家に送られたお礼状などの手紙類が現在も多数保管されています。明治初期、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、寺が焼かれ、仏像が破壊される中、若き天心はフェノロサと共に伝統ある日本美術の保護に奔走していました。



流山美術運動のパイオニア
秋元洒汀と娘・松子が交遊した有名人、芥川龍之介や竹久夢二、尾崎紅葉、さらには岡倉天心、横山大観、菱田春草、藤田嗣治、北村西望らの手紙や、懐かしの流山風景の写真などを紹介。

「新秋」を描いた頃。松子のこの油彩は、流山風景を描いた作品ですが、むしろ松子の自宅の庭を描いたものです。隅に井戸屋形があったり、御蔵を壊した跡の土台石がゴロゴロしたりして、まだ戦後まもなく、さあ、これから庭造りをしていこう、という未完成の段階の頃の風景です。

この庭は戦前まで醤油醸造業をしていた時分、醸造蔵が22棟あって、秋元三左衛門家と共に華やかなりし時代の名残もありましたが、蔵は今は全て無く、僅かに煙突に使っていたレンガや、松子の父洒汀が建立した校倉造り、通称「あぜくら」が名残としてあるだけです。



ただ、取り壊した古い材木を利用して、後に笹岡のアトリエ「清暑亭」に組み込まれたもの、階段箪笥等から多少なりとも当時の隆盛を推し量ることが出来ます。日本に帰還を果たした夫笹岡と共に、この流山に再び帰り、戦争の苦しさから解放され、これから二人で新しい道を模索していこうとするその明るい希望が、そこはかとなく感じられる作品だと思います。

松子にしては珍しく風景を描いたと思われるかもしれませんが、戦前はどちらかというと、静物より風景画の方をより多く描いていたのです。実直丁寧な風景で、後の静物からその片鱗は余りうかがいしれませんが、静物等はもう既に画面処理の仕方等彷彿させます。



さて、この「新秋」を描いた昭和22年流山において流山美術懇談会が発足しました。それは流山美術運動の先駆けとなったもので戦後、松子の家に居を構えた笹岡と共に、画論や芸術論を戦わせ刺激し合う仲間の交流の場となっていきます。

流山は二人にとり、バルビゾン的なものだったかも知れません。バルビゾン派というのは、1830年以来、ミレー、コロー、テオドールルソー等、一群の画家がパリのブローニュの森の外れバルビゾンという、叙情的農村風景に包まれた所に移り住んだ風景画家達の拠点となった事からこう呼ばれました。

東京で活躍していた時代から流山という首都圏より少々離れた、交通の便も確かに良くないこの地に拠点を置いた事から、そんな心境になったのでしょう。その当時の気持ちとして「まるで陸の孤島に来たような気分だ」と語っています。ここから二人は中央へと発進していったのです。



流山美術懇談会の当時のメンバーは、同人に笹岡、松子の他、千澤骼。(美術史家、後に山梨県美術館長)、小谷栄五郎(水彩画家、ゴッホ研究者)、秋元桓(洋画家、春陽会会員)。鈴木政義、海老原実、眉山俊光、寺田英一等多数で、終戦直後の荒廃の中で近隣市町村に先駆けた、それは文化の灯でした。

笹岡が流山美術運動の父と言われる所以です。昭和23年、流山というけっして大きくない町で、その時代にもう第一回の洋画展を開催しています。三回程続きますが、同26年に発展的に解消します。しかしこの会の存在は、色んな意味で流山の地に影響を与えました。

後に昭和30年「文化団体協議会」の発足へとスライドしていき、さらに昭和45年「文化協会」の設立となり、今日まで秋の芸術祭として流山に根付いています。その発祥の地となった舞台、それがこの「新秋」。当時の庭の風景です。



一茶双樹記念館では吉書と初凧で迎える新春

市指定史跡「小林一茶寄寓の地」
一茶双樹記念館(流山市流山6‐670‐1)。大人100円・小中学生50円※元日は無料。流山在住の書家・茂野柰園さんによる一茶の句などの作品と、西深井に工房を持つ凧愛好家・石栗照平さん手作りの、今も日本各地で揚げられている伝統凧や縁起物の凧などを展示。



一茶双樹記念館

俳人小林一茶も愛した流山
房総の美術館・博物館に文が残っているので電化する。車の往来の激しい流山街道から一本奥まった一茶双樹記念館に続く道は、とても静かである。近くを流れる江戸川からの川風に吹かれながら、五分も歩くと記念館がある。

門を入ると「秋元本家」で一階と二階が展示場になっていて、小林一茶、秋元双樹の直筆、複製の掛け軸、一茶の年表、関係図書などが展示されている。展示室を通り抜けると、双樹亭や一茶庵、庭園へと続く。厳選された木材が使われている建物はさすが風格がある。



双樹亭から眺める枯山水の庭園もたいへん美しい。その昔、一茶は持参した松を双樹家の庭に植えたことがあった。そして後に、「我が植えし松も老いけり秋の暮」と詠んでいる。この庭園の赤松のことである。また庭に建立の句碑には、一茶の句、「夕月や流残りのきりぎりす」が刻まれている。

一茶双樹記念館は「みりん」の醸造に成功した秋元家の五代目、秋元三左衛門(俳号双樹)と小林一茶との親交を将来に伝えるために、秋元家の子孫が住んでいた屋敷を流山市が買い求めて、平成4年(1992)から平成7年(1995)まで3年間の歳月をかけて、文化保存記念館として造られたもので、館内は観覧の他に茶会など各集会に利用することができる。



秋元双樹と小林一茶との出会いは、双樹47歳、一茶41歳とある。双樹は商才と共に雅才にも秀でた葛飾派の俳人で、詠む句も自由で酒脱、穏やかな人柄は多くの文化人との交流も広く、馬橋の俳人、大川立砂とも親しかった。立砂が流山の双樹を訪れる折に一茶を連れて行き、二人を引き合わせている。

これを機に一茶はしばしば流山を訪れるようになった。流山にはいつも優しく迎えてくれる双樹がいる。一茶にとって心から寛(くつろ)げる地であった。訪れた回数は54回、236泊と多いことからも想像できる。



秋元双樹が文化9年(1812)10月7日、55歳でこの世を去ると、一茶の悲しみは大きく、逃れるように、翌月生まれ故郷の信州柏原に帰っていった。小林一茶は宝暦3年(1753)に長男として生まれたが3歳で実母に死なれ、継母の酷い苛めに苦しめられ、15歳で江戸に奉公に出されているから37年ぶりの帰郷である。

晩年の一茶は俳諧にも励むが、妻子の死、自身も中風に倒れ、再婚の妻との離別、その上で火災で家を失って焼け残った土蔵の中で波瀾万丈の生涯を閉じている。文政10年(1827)11月19日、65歳であった。(※管理は株式会社グリーンダイナミクスが運営していて、職員の一人は同級生の母親で、たまに懐かしい話をすることもある)

流山を詠んだ句
うかうかと出水に逢いし木槿(むくげ)かな

つくばねの霰(あられ)のかかる焚火哉

炭くだく手の淋しさよかぼそさよ

越後節蔵に聞こえて秋の雨

鳴く烏(からす)こんな時雨のあらん迚(とて)



一茶双樹記念館と杜のアトリエ黎明

NPO法人流山史跡ガイドの会
流山本町まちなかミュージアムから400メートルほど南へ歩くと、左手に一茶双樹記念館が見えてくる。黒板塀の記念館の正面玄関を入ると、みりん醸造で栄えた商家、秋元本家の明治頃をイメージした店先が再現されている。

その展示を通り抜けた奥は、枯山水の庭園と安政年間(19世紀中頃)建築の数寄屋造りの建物が江戸情緒を醸し出している。床の間には、明治の皇族小松宮彰仁親王が御来訪の折に揮毫され、のちににみりんのラベルとなった「天晴」の掛軸が掛けられている。



小林一茶は14歳で北国街道柏原宿(長野県信濃町)から江戸に出てきて以来、苦労を重ねていたが、馬橋の油商大川立砂の応援もあり、葛飾派の二六庵竹阿のもとに入門、次第に下総周辺に頻繁に通うようになった。

そんな中、一茶を弟のようにかわいがり、物心両面で支えたのは五代目秋元三左衛門である。俳号を双樹と号した一流の文化人で、白みりん醸造に成功し、流山のみりんの名を世に広めた実業家であった。一茶は、流山を「第二のふるさと」としてたびたび訪れ、たくさんの句を作っている。



そんな小林一茶と秋元双樹の交友を記念して、平成2年に「小林一茶奇遇の地」として市指定記念物に指定。新座敷と呼ばれていた建物を解体・復元、一茶庵など付属の施設を整備し、「一茶双樹記念館」と命名して平成7年4月に開館した。

主庭は、アカマツを中心に枯山水が配置され、庭の入口には、一茶の「夕月や流残りのきりぎりす」の句碑が立っている。現在では、文化施設として親しまれ、建物や庭園を観覧できるほか、お抹茶を楽しむ会や句会などの催しも毎月開催されている。



また、一茶双樹記念館の斜め前には杜のアトリエ黎明がある。ここは洋画家の笹岡了一と画家で歌人でもあった秋元松子夫妻が建てたアトリエで、後進の指導にあたった絵画研究所を遺族が市に寄贈した。

絵画や工芸などの作品展が開催されるほか、ガーデニング講座や水彩画教室なども開かれている。テラスで四季移ろう庭を眺めながら、お茶を楽しむこともできる。紅葉の時期の庭園は一段と美しい。



笹岡了一

日展で総理大臣賞
東葛人物事典に文が残っているので電化する。流山の俳人秋元洒汀の養女秋元松子さんの夫で洋画家である。生まれは新潟県新津だが、東京に出て絵を学び、昭和6年帝展に入選。その4年後、同じ画壇で活躍していた松子さんと結婚した。

しかし、昭和12年、中国の北支へ送り込まれた。妻との間には子供が無いため、お互いに毎月手紙を書いて慰め合いそれはコウリ一杯分にもなった。報道班員笹岡の手紙は、その後「山西通信」として一冊の本にまとめられた。



戦後は、洋画壇で華々しく活躍し、第10回日展ではついに内閣総理大臣賞を受賞。作家松本清張と組んだ「清張通史」の挿絵はたいへん好評だった。昭和51年1月から2年半、六大地方新聞に連載され、のちに「笹岡了一画譜」としてまとめられたが、夢幻的な想像力の豊かさ、おおらかさを感じさせる立派な画集であった。

昭和56年11月21日、私が流山市立博物館で「情熱の人秋元洒汀の生涯」という講演をしたおり、秋元御夫妻は二時間ずっと耳を傾けておられた。最後に私はこう結んだ。(※山本鉱太郎さんの文)



「洒汀は文人としては大成しませんでしたが、しかし洒汀が日本の美術界にかくれた貢献をしたことはまごうことなき事実であり、洒汀の絵画への理解がどれほど明治、大正時代の貧乏画家たちにとって励みとなったか」

笹岡さんは千葉県美術家協会の会長として多くの洋画家を育て、そして惜しまれつつ世を去った。生まれ故郷の新津に美術館がつくられ、そちらへ笹岡の絵のほとんどが行ってしまったのは、かえすがえすも残念である。



流山の歌人

秋元松子の生涯
東葛文学なんでも事典に文が残っているので電化する。秋元松子は明治32年(1899)6月4日流山で生まれた。秋元平八家は清酒や醤油の醸造や販売をする流山の豪商だった。明治2年生まれの平八(五世)は洒汀と号する文人でもあった。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業し、流山で家業を継いでも文学への関心は持ち続けた。

豊田てると結婚したが子供が出来ず、てるの弟と、洒汀の妹が結婚して同居したので、二人の長女松子を養女にした。こうして松子は江戸川畔の広い屋敷内で祖母、養父母、生みの親や使用人に囲まれて育った。そのころ洒汀は、処女句集『胡沙笛』を出版。多くの文人達と交流した。



特に親しく交わり援助したのは、日本美術院の横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山などで、その画業を応援した。松子は菱田春草に日本画の手ほどきを受けたこともあった。松子は小学校を卒業すると上京し、跡見女学校に入学し、校長跡見花渓に日本画を、佐佐木信綱の竹柏会に入って和歌を学んだ。

大正6年、跡見女学校を卒業した松子は、翌年、春草会にも入会し、竹久夢二、芥川龍之介、茅野蕭々夫妻、里見クなどと交流した。大正11年処女歌集『黄水仙』が竹柏会叢書として序文は佐佐木信綱と笹川臨風、装幀は富田温一郎で出版された。その画家富田温一郎の勧めで、松子は油彩に手を染めることになる。



彼女はこうして生涯関わることになる洋画の道に入ったのである。大正15年、岡田三郎助に師事して、洋画家として白日会、朱葉会に所属し、昭和6年には帝展に初入選した。昭和10年、洋画家笹岡良一と結婚。その頃、実家は没落していて貧しい時代が続き、松子は絵の出張教授をしながら夫を支えた。

戦時中夫は三度の応召で大陸に渡っていたが、戦地で終戦、昭和21年、流山の松子の家に帰還する。戦後は流山で、洋画家として光風会展、日展、女流画家協会展などで活躍した。昭和22年千澤禎治(美術史家、後の山梨県美術館長)、小谷栄五郎(水彩画家、ゴッホ研究者)、秋元恒(洋画家、春陽会員)。



鈴木政義などと共に笹岡夫妻は「流山美術懇談会」を発足させた。この会は3年後に発展的に解消されるが、昭和32年、二人は自宅の庭にアトリエを建て、柳亮の黎明会運動の千葉支部とも言うべき「L・T・S笹岡絵画研究所」を開設後輩を指導した。この研究所から多くの人材が輩出された。

松子は歌人としても、昭和59年に第二歌集『紅薔薇』を平成5年には第三歌集『月光』を出版。『凍てしみし冬の紅ばら一つあり 空気明りの青空の色(紅薔薇)』『曼珠沙華移し植えにし夫は亡く 今年も朱く咲き出でにけり(月光)』『老いて尚力いっぱいに生きる身の 昨日も今日もただに烈しく(月光)』



松子は『月光』の「はしがき」で「私からは、どうしても和歌を遠ざけることは出来ません。画筆を持つという専念の仕事の他に、一つの楽しみ、喜びを持ちたいのです」と書いている。

養女の秋元由美子さんは「詩情を持ち続け、自然体で精一杯生きの限りを尽くした人」と述べている。平成7年1月30日、松子は帰らぬ人となった。95歳であった。



※文を追加しておく

秋元松子、没年月日:1995/01/30
光風会名誉会員の洋画家秋元松子は、1月30日午前0時5分、急性腎不全のため千葉県流山市の流山病院で死去した。享年95。明治32(1999)年6月4日、当時の千葉県東葛飾郡流山町に生まれ、跡見女学校を卒業、大正10(1921)年頃より富田温一郎に師事し、ついで岡田三郎助に師事した。

昭和6(1931)年の第12回帝展に「盛夏読書」が初入選、同9年の第15回帝展に「閑庭」、同17年の第5回新文展に「早春池畔」がそれぞれ入選した。戦後は、同21年の第2回日展から出品をつづけ、同32年の第13回日展に出品した「静物」が特選となった。

この作品は、形態の解釈や筆致など主観性のつよい表現ながら、色彩は中間色を基調に、美しくひびきあったものであった。また、白日会、朱葉会などにも会員として出品していたほか、同21年に光風会会員となり、同展にも出品をつづけ、平成7年の第81回展には、奔放な表現による「枯葉と土器と」が、遺作として出品された。

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    ・神輿-田舎町にはこれが一番
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開発に取り残された街、なんて言いますけどね、コミュニティの強さ、田舎町の安心感、歴史財産まで、今の時代に一周遅れでトップになった感じです
TX沿線の新市街地に住む方たちも歴史情緒ある流山本町、今では一割もいないだろうと思われる流山先住民、昔からの生活をする住民として発信出来たらいいな、と思っています。
なお、神輿会に入りたい人については上に紹介はしますが審議にかけられます、個人として権力ないもので
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