姫始めは平潟遊郭で

January 01 [Tue], 2019, 0:00

姫始めは平潟遊郭で

姫始め
暦の正月2日のところに記された日柄(ひがら)の名。種々の事柄をその年に初めて行う日とされる。姫飯(ひめいい)を食べはじめる日、「飛馬(ひめ)始め」の意で馬に乗りはじめる日、女が洗濯・縫い物などを初めてする日など。また近世以降、新年に男女が初めて交わることにもいう。



遊廓(ゆうかく)は、公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のこと。成立は安土桃山時代にさかのぼる。別称として、廓(くるわ)傾城町(けいせいまち)ともいう。広義には、芸妓を含んだ花街(はなまち、かがい)や、色里(いろさと)、遊里(ゆうり)、色町(いろまち)など私娼街も含めた通称である。

「廓」は「城郭」と同じで、囲われた区画を意味する語。一区画にまとめられたのは、治安を守り風紀を統制することが目的だった。近代の遊郭は必ずしも大きな物理的障壁で囲まれていたわけではなく、目印程度の境界であることもあった。

その他、江戸時代に公許の遊廓以外で遊女の集まる場所に宿場町の飯盛旅籠(めしもり はたご)や門前町などの岡場所(おかばしょ)があった。明治期においては、1900年に娼妓の居住地と貸座敷(遊女屋)の営業地が同一地区に指定され、この指定された公娼街を俗に遊郭と呼んだ。

明治5年(1872年)頃の東京の吉原遊郭


古代から女性による接客は存在した。神社の巫女による官人の接待がその起源という説がある。平安時代には江口、神崎のように港や宿場で遊女が多く集まる地域があった。室町時代には足利将軍家が京都の傾城屋から税金を徴収していた。

権力の統制と保護を受け、遊廓として1箇所に集められるのは、近世以降のことである。豊臣秀吉の治世に、遊廓を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得ている。今の大阪の道頓堀川北岸にも遊廓がつくられた。その5年後の天正17年(1589年)には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。

1589年(天正17)に秀吉によって開かれた京都の柳原遊郭をもって遊郭の始まりとする説もある。大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町(新町遊廓)と朱雀野(島原遊廓)に移転した。

客待ちをする吉原遊郭の遊女


江戸に遊廓が誕生したのは慶長17年(1612年)である。駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭から遊女屋を移して日本橋人形町付近に遊廓がつくられ、これを吉原遊廓と呼んだ。吉原遊廓は明暦の大火で焼失。その後浅草山谷付近に仮移転の後、すぐに浅草日本堤付近に移転した。人形町付近にあった当時のものを「元吉原」、日本堤付近に新設されたものを「新吉原」とも言う。

江戸時代の遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。上級の遊女(芸娼)は太夫や花魁などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされた。江戸中期以降は度々の取締りを受けながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになった。また、遊廓自体もの大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていった。

東京新吉原仲之街花盛図


明治5年(1872年)、明治政府によって芸娼妓解放令が発令されたが、実態はほとんど変わらなかった。遊女屋は貸座敷と名称を変え、貸座敷のある区域は「遊郭」として存続した。ただし都市化の進展と共に、遊廓の存在が問題になり、郊外などへ移転させられる事例もあった。東大の近くにあった根津遊廓が深川の洲崎に移転した(明治19年)のはその例である。

遊郭に反対する廃娼運動が起きる中、明治33年、内務省令娼妓取締規則が制定され、警視庁・各府県は貸座敷に関する取締規則を制定した。しかし内容は従来の取締り方針の追認で、貸座敷営業の許される地域を指定し、娼妓の居住地は貸座敷の許される地域に限るというものであった。

帰る客が後ろ髪を引かれながら振り返った、見返り柳


第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)にはGHQの指令により公娼制度が廃止されるが、カフェーや料亭などと看板を変えて、遊廓はほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域として存続した。昭和32年(1957年)、売春防止法が成立し、昭和33年4月1日の同法の施行と共に公娼地域としての遊廓の歴史は完全に幕を閉じることになった。

現在公認の娼婦街はないが、表向き料理旅館に転向しつつも客と仲居との個室内での交渉を「自由恋愛」の名目にかつてと変わらない営業を継続している地域もいくつかある。大阪の飛田遊廓(飛田新地)などがそれである。また東京の吉原のように、かつての公娼街がその後もソープランドや風俗営業の多く集まる地域となり、公娼地域同然の状態が継続している地域も少なくない。

吉原遊郭の鎮守、吉原神社


江戸中期、水戸街道に平潟遊郭誕生

江戸川べり、東葛地域の遊郭の事始め
東葛事始め辞典に文が残っているので電化する。参勤交代の制が敷かれ、五街道や主な脇往還が整備されると旅人もようやく多くなってきた。各宿場には本陣や旅籠が置かれ、水戸街道も賑わってきた。旅人が泊まるとならば、当然女たちの接待も生じ、それはいつしか飯盛女として存在することになる。東葛は松戸・小金・我孫子と三宿あったが、そのうち最も歓楽の匂いの強かったのは松戸で、おそらく十七世紀頃からその種の女がいたと思われる。

享保三年(1718)幕府は飯盛兼旅籠屋というのを正式に認め、一軒に二人まで許した。世も平和になり寺社参拝や商人の旅行、船遊び、文人墨客の優雅な旅も多くなり、この程度のことは許さなくては、というお上の配慮によるものだろう。江戸川のほとりの平潟にできた遊郭もおそらくそうした飯盛女を置いたあいまい宿であり、それが平潟遊郭のはしりともなった。

田圃と川で仕切られた平潟遊郭


ある年、松戸の街中に宿が13軒前後しかないのに、江戸川べりの平潟には33軒の飯盛旅籠があったというのだから、その繁盛ぶりがうかがえる。水戸街道を行く旅人だけでなく、江戸川を往来する川舟の船頭達もそこで快楽の一夜を送り、翌朝また棹(さお)をさして川を下っていった。

特に享保以降江戸川の流路も変わり、平潟のあたりが廃川になって絶好の船溜まりとなったため、平潟の遊客は一層増えた。近隣の農家の人達の常連も多く、中には結婚する者もいた。江戸川べりでは関宿にも野田や流山にも遊郭はなく、それぞれの町の料理屋に飯盛女のような存在の女がおり、それは太平洋戦争前まで続いた。



流山では利根運河のほとりに新川屋、中村屋という料理屋があり、戦前は何人か夜のおとぎをする女中さんもいて繁盛したそうだ。正式に遊郭と認められているのは松戸の平潟遊郭だけであった。ここには昔から東北の出身者が多い。いずれも借金で首の回らない貧農のかわいそうな娘たちで泣く泣く売られてくる。

昭和20年8月15日、ついに日本は敗戦を迎えた。公娼はなくなったがGHQの音頭取りで松戸に歓楽協会が結成され、堅気の日本女性に迷惑をかけてはならない、ということで急遽女たちが集められ私娼窟のようなものが作られた。



戦後すぐ平潟で赤線をやっていたのは叶家に鈴金楼、喜楽家、洋館の渡洋館、それに福田家と浜名家の共同出資による福本などで24年か25年には吉原から来た黒川がきねやを開業、三井家も加わった。

しかしやがて赤線が消える時が来た。昭和33年4月1日、ついに売春防止法が実施され、江戸時代から続き、江戸川を上り下りする船頭達に親しまれてきた旧平潟遊郭も全面閉鎖され女たちは何処となく消えていった。

アサヒグラフ 平潟柳巷


松戸平潟遊郭跡地

松戸駅西口から江戸川堤防に向かった住宅街
東葛観光歴史辞典に文が残っているので電化する。松戸は江戸川の水運で栄えた町で、江戸時代は水戸街道の宿場町であった。ここには古くから四つの河岸があった。一名(※通称ということ)は良庵河岸と呼ばれた納屋河岸と、そのやや上流に平潟河岸、さらに上流に松ノ木河岸、それともう一つは今の東葛橋の下あたりに渡船場河岸というのがあった。

平潟河岸は遊郭で賑わったが、いま平潟神社の近くに行くと昔の面影はほとんど無く、何やらしもたやではない妙な雰囲気の木造二階建ての家が何軒もあって、地元の人達の説明を受けると、なるほどと思う程度である。かつては、吉原と同じように入口と出口に大門があったが、その頃の石柱も戦後交通の邪魔になるからといって取り払われてしまった。



江戸時代、幕府の度重なるお触れの目をくぐって、松戸宿でも女たちは旅人たちの夜の御伽の相手をしていた。東海道の品川や三島などには早くからこの種の女がおり、中山道にも元禄年間(1688〜1704)からすでにいたというから、松戸宿にもおそらく十七世紀の頃からこの種の女がいたと思われる。

ところが享保三年(1718)、幕府は飯盛旅籠屋というのを正式に認め、一軒につき二人まで許可した。世も平和となり、寺社参拝や商人の旅行、船遊び、文人墨客の優雅な旅なども多くなり、この程度のことは許さなくては、というお上の配慮によるのだろう。江戸川のほとりの平潟に出来た旅籠屋もおそらくそうした飯盛女を置いたあいまい宿であり、それが平潟遊郭のはしりと思われる。



ある年は松戸の町中に宿が十三軒しかないのに江戸川べりの平潟には三十三軒もの飯盛旅籠屋があったというから、その繁盛ぶりがうかがえる。水戸街道を行く旅人だけでなく、江戸川を往来する船頭たちもここで快楽の一夜を送り、翌日はまた竿をさして川を下っていった。とくに享保以後江戸川の流れが変わり、平潟あたりが廃川になって格好の船だまりとなったため、平潟の遊郭が一層増え近隣の農家の人達の常連も多かった。

昭和五年ごろ、ここには若松楼、浜名家、喜楽家、蓬菜屋、鶴蓬菜、福田家、百年楼、鈴金楼、宝家、一元楼など十三軒の妓楼が並び、夜ごと酔客たちに声をかけていた。若松楼は平潟最大の妓楼で、この地では隠然たる力を持っていた。四囲を長い塀で巡らし、内庭も広く『天保水滸伝』でお馴染みの剣豪平手造酒(ひらてみき)の刀傷の跡のある部屋もあったというから、平手造酒も一夜泊まったのであろうか。



廊に入ると、たいていは二階に通される。遊女たちは一人六畳ずつ与えられ、そこには火鉢や茶だんすがあり、二人で小さいながら世帯を持ったという安堵感があった。働きの良い妓もいれば、病気をしてどんどん借金がかさんでいく可哀想な妓もいた。氏素性のわからない妓もあり、そういうのは死んでも引き取り手が無かった。

戦後、この遊郭は進駐軍向けに改装され、ダンスホールもでき、黒人のGIたちに人気があった。昭和30年に出版された本にこう記されている。「松戸の町外れに古い遊郭がたった三軒、江戸川堤の夕色に浮き出されている」三軒とはずいぶん少なくなったもの。そして昭和三十三年四月一日、売春防止法と共にこの赤線は消えていった。



平潟の地名の由来

現在は松戸市松戸という住所
江戸時代、松戸には四つの河岸があった。上流に松ノ木河岸があって、これが一名(※通称ということ)本多河岸と言われ、駿州本多藩の飛地の所領米なんかをここから積み出していた。その近くに平潟河岸があってこれが本河岸。

ここには遊廓があって大いに賑わった。あとは一名(※通称ということ)良庵河岸と言われる納屋河岸と今の葛飾橋の下に渡船場河岸があって、一名(※通称ということ)下河岸と呼んでいた。



しかし、享保年間(1716〜36)松戸あたりで大きくカーブしていた江戸川の流れを直線状に変えたため、平潟河岸も松ノ木河岸(本多河岸)も陸地に封じ込まれてしまい、今は跡形もない。

ところで、なぜ平潟と言われたのか。このあたりで江戸川が大きく湾曲するので、上流の土砂がたまって平潟ができ、かえって船着場として好都合で、いつしか平潟という地名が生まれたという。



享保3年(1718)幕府は飯盛旅籠屋というのを正式に認め、一軒につき二人までを許可した。そのあとこの地に遊郭ができて、水戸街道を行く旅人や江戸川を往来する船頭たちもここで歓楽の一夜を送った。

日本各地に「潟」とつく地名は多い。信濃川河口の新潟、秋田県の大潟、芭蕉ゆかりの象潟、千葉県九十九里の干潟などがあり、茨城県の北茨城市には平潟という漁港もある。近世には米の輸送港として伊達藩はここに陣屋を置いて、東廻航路を管理した。要するに「潟」とは遠浅や入江の事を言う。

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    ・神輿-田舎町にはこれが一番
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開発に取り残された街、なんて言いますけどね、コミュニティの強さ、田舎町の安心感、歴史財産まで、今の時代に一周遅れでトップになった感じです
TX沿線の新市街地に住む方たちも歴史情緒ある流山本町、今では一割もいないだろうと思われる流山先住民、昔からの生活をする住民として発信出来たらいいな、と思っています。
なお、神輿会に入りたい人については上に紹介はしますが審議にかけられます、個人として権力ないもので
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