「第18回流鉄の鉄道の日!!」

November 19 [Tue], 2019, 0:00

第18回流鉄の鉄道の日

2019(令和元)年11月9日(土)10時〜15時
流鉄では,2019(令和元)年11月9日(土)に「第18回 流鉄の鉄道の日!!」を開催します(一部イベントは先着順)イベントでは、流鉄の新キャラクター「りゅうのしん」との記念撮影のほか、鉄道部品展示、流鉄子供博士認定会、乗務員室での記念撮影などが開催されます。

このほか「さくら号」 デビュー記念乗車券セットなどを販売する「流鉄ミニショップ」が出店される予定です。このイベントは撮影会ではありません。お子様向けのイベントですので、その旨をご理解のうえご来場ください。流山駅には駐車場はありません。流鉄流山線をご利用のうえご来場ください。(一日フリー乗車券 好評発売中!)




文を追加しておく

第18回歴史と文化のトーク&トークinながれやまの記事
言葉とは相手に伝わらないと理解されない。上の記事にまだまだ追加出来るので文を残しておこう。イベントから半年寝かせて完璧近くまで文を追加したが、もっと詳しく掘り下げられるということよね、これは喜んで良いのか、俺の表現力が無いのか。テーマは「見えないモノを見る」街整備されてから引っ越してきた人間とは違った目線で見ていこう。

さてこの記事では流山に集まってくる旧道に注目したが、交通量の大きかった旧道とまでは行かないが、田畑を区切る農道も存在している。それらの中には村と言うか集落から唯一の街へ向かう道という場合もある。下の画像の所に開業当初は流山駅の計画もあったそうだ。それが今現在の所に落ち着くまでにどのような変化があったのかも見ていく。



地区をブロック化して順次区画造成し、都市化する。下の画像の旧道は田んぼの中を区切る農道であって、左側は飛地山が広がっていた。平和台という地区は平和不動産によって開発されたが、同時期大規模なベッドタウンとして開発された南流山や江戸川台といった地区と違って、加交差点〜中交差点という限られた区域というのも関係している。

これは流山線開業当初に秋元本家の方々が思い描いていた計画の、まだまだ途中の話で、当初の計画から50年以上経ってから平和台の造成工事が行われた。もちろん時代背景も違う、流山線開業当初は水運としてのピークは過ぎていたが、大正バブルのご時世、流山はまだ周辺農村部から米が集まり東京にモノが運ばれる重要な拠点だった。



もう一つの旧道小金道
結果的に江戸川の浚渫跡が街の伸び代になったこともあったが、流山線開業と同時に内陸方向に区画造成を考えたということか。そして加村台地区と西平井地区との間の、田畑になっている所の開発を考えた。この西平井という地区は三ヶ所ほどに集落が分かれており、その一つが旧道八木道の坂の下の周辺というだけで、他に二ヶ所ほどある。

そこで下の画像が出てくる。ここは馬場の旧道小金道から分岐している所だ。最近のつくばエクスプレス開通後には都心への通勤アクセスも良くなり、続々と一般家屋が増えている。しかし、この道も昔は農道の一つであり、大事な旧道だったということだ。この道を進んでいってみよう、ラブホテルのホテルSHiMAを越えると流山街道に突き当たる。



流山街道を越えると住所が西平井に変わる。ということは旧記事にもあるが結果的には糧秣廠が旧道同士を埋めた。しかし過程の開業計画には赤城駅が設置される予定になっていた。と言うことは鉄道駅の集客効果を利用して都市化が計画されていた事になる。この道に駅を設置するとどんな効果があるか、この道を進んでいくと答えがありそうだ。

流山南高校の場所には陸軍の施設である糧秣廠があった。それ以前の秋元本家の野球場の頃からグラウンドの位置は変わっていない。この後、他の企業や軍の施設になってからも、元々の企業の施設として整備され、結局は流山市が接収する。戦後の中学校もこのグラウンドを活かし、ここに最初の新制中学校、流山南部中が開校する。



その後、中学は現在の場所に移転。糧秣廠があった土地には東邦の社宅などはそのまま流山町の町営住宅として残され、流山小学校内に整備されていた公立の幼稚園がここに移転してくる。ウチの親父が第二期の入園と言うから、ウチの親父のネーチャン(二つ上)の時代は流山小学校の中(金鹿の裏)になる。さて、続いてこの道を進んでいこう。

踏切を渡る、この踏切もこの道が意味のある道だから、流山線の最初の計画から予定されている。そして最初の交差点、この道は流山が戦後江戸川の方向から都市設備を整えていく上で、この道沿い以上に住宅を作ると値崩れを起こすという限度だったんだろう、これから進む方向は田園地帯が広がっていた。都市造成のタイミングもある。



これは地区のブロック化ということにも関連して、農地を管轄している農林水産省から住宅や店舗などに土地運用するとならば、土地の管轄が違ってくるということ。このタイミングとしては今現在では新駅設置のタイミングや大規模区画整理に伴ってプロジェクトが動き出すのも当たり前になっているので、鉄道開通となればこれ以上ない事だろう。

線路を渡って最初の交差点から旧道八木道方向のブロックは昭和50年代から開発が進められた。同級生が多く移り住んで来ていたが、昭和56年に子供が生まれて、ベッドタウンに新築戸建て住宅を購入して移り住む。下の写真は1970年代のものだそうだ、個人的にはこの風景は見ていない、宅地造成されて続々と新築住宅が建築された後だった。



流鉄の線路は変化していないのだから、俺が生まれる少し前は一面の農地だったことが理解できるだろう。そして江戸川沿いの道二本の流山本町の状態から順次区画造成し、ベッドタウン住民を受け入れる下地を増やしていったことが歴史的にもわかるだろう。そして流山本町の方向より同級生が多く住んでいた実際の俺の体験にもつながっている。

そして、逆方向の旧道小金道方向(今では東谷自治体となっている)は南流山駅周辺の大規模造成の時期、ここまでバス路線と駅の利用圏内として土地開発が進行していた。戦後のマイホーム需要、バブルに向かう経済安定成長期という背景もあり、南流山駅前の徒歩圏内は大規模マンション、一軒家の現実的に値段という面から見てもそうなる。



田園地帯から上り坂
この道を進んでいくと茂呂神社の参道に突き当たる。そしてこの斜面林の下あたりにもう一つの西平井の集落があった。同級生が住んでいたので、この集落を(仮)小川家の集落と呼んでみる。ということは旧道八木道の下の集落は今野家の集落となり、最後の一つはボーイスカウトの森の下あたり、ここも同様に渡辺家の集落ということにしておこう。

小川家の集落を過ぎると旧道は上り坂があり、坂の上は思井との境目、ということは思井から流山に来るには絶対にこの道を使うということ。中地区から流山線を使うために旧道八木道を絶対に使用したように、この道で小川家の集落も渡辺家の集落も含めての西平井と呼ばれていた地域全域を鰭ケ崎まで大規模開発というのが元々の計画か。



ボーイスカウトの森に行くためにこの旧道を利用していた経験がこんな所で活かせるとは思わなかった。ウチの親父にこの旧道の事を聞くと、(ウチの親父の時代のボーイスカウトの森は場所が違うが、当時は思井も流山小学校の学区内なので、もちろん知っていて)「最近の(西平井の)工事でほとんどの家は下の広い所に移ってるべ」と言っていた。

俺がこの旧道を使っていた平成一桁の当時、この道沿いに建っている真新しい家を見て、(こんな不便な斜面の所にコンクリートを盛って家を建てるって、平らな平和台にもまだまだ空き地はあるのに)と思っていたけど、今思ってみると先祖代々住んでいる所に建て替えただけなんだな。時代的に周りには移り住んだベッドタウン住民ばかりだったもんで。



ボーイスカウトの森に行くためには茂呂神社の参道に合流して参道を進んでいくが、この参道に入らず旧道を進むと犬塚や思井熊野神社に繋がる。中世、八木郷の地名発祥伝説がある神社。呼び方については色々あるんだろうが、もう一つの小金道とも呼びたい。そしてこの先は下り坂、下っていくと思井の福祉会館。道を渡るとすぐ宮園の住宅街。

宮園は武蔵野線南流山駅開業に伴って住宅地として整えられた地区だから、元々は思井と鰭ケ崎から土地を貰っている。今現在は坂川に橋が架かってここから小金に向けて広い道路がつながっているが、思井の犬塚に小金城の忠犬小金丸と高城下野守の伝説が残されている。このあたりは当然の事ながら小金城の勢力圏内と見てもいいだろう。



ということはこの旧道の延長線上は大谷口の方向に繋がっていて、当然のことながら小金城へ向かっていたと考えるのが妥当だろう。そうなると戦後の鰭ケ崎駅前の開発まで見ていたことになる。ということは現在の平和台の場所になって旧道八木道が大事になり、八木村の農家だけでなく、その先の豊四季の柏地区との交流と商売量が増加した。

これと同じ事が当初計画されていた駅にもあるということが言えるんじゃないか。この旧道は松本清記念館の方向に至る。となると小金町との連携、大規模土地開発により周辺農村部の都市化まで考えたと見ても良いのか。交通量が多くなれば道路整備の必要性も見えてくる。しっかりした道路が出来れば道沿いに民家が立ち並び、人口も増加する。



ということは計画当初の赤城駅の計画でプロジェクトが進んでいたら、柏駅から駒木の諏訪神社を経て流山の広小路三叉路に至るバス路線が、昭和2年に営業しているが、周辺農地の都市化が進むと、人口増加で需要も考えられるので、この路線を延長すると、流山河岸や赤城神社周辺、さらには赤城駅、これが北小金駅周辺までも考えられる。

実際問題、今現在の北小金駅のバスターミナルは、流山から見て線路の向こう側だが、これは小金の都市化、戦後時代の都市整備、団地などからの需要でこうなってるので、バス路線が営業できるとなるとその後の都市整備自体はいくらでも変化し、常磐線から江戸川までの地域の区画造成、これには千葉県の予算、県道ということも関連してくる。



小金城高城氏の支城という目線で見てみると下花輪城がある。これは出城とは言え小金城の外廓の内側と言えるだろう。そうなると流山の各地域でも小金城の内側となるので、この周辺の江戸時代以前の各村々と出城、山城が各地にあるという事は当然の事ながら家臣がいて、一般の農民もいるということ。農民がいてこそ生活が成り立っている。

高城氏に仕えた家臣が開発した土地として、七右衛門新田や伝兵衛新田など地名として名前が残っている松戸市北部の場合もあるので、流山市南部の農家の中にも家系として、繋がっている人物もいても不思議ではない。この村々が馬橋村に属する、これは流山線の設立目的が原材料や製品の輸送だけではなく、沿線地域の都市化が理想か。



さらに高城氏の庇護のもとに発展した東漸寺と同じく、長谷山本土寺も関係がないとも言えないと見える。寺院は市内同宗派だけでなく、末寺や総本山との関係もあり、もっと広い目線で物事を判断する必要がある。数多くの末寺を抱えるということは、それだけ多くの農民と接し、今で言う民意を耳に出来る事になる。時代的な流行りも大きく関連する。

流山線開通当初は鉄道敷設、鉄道経営による都市規模を増大させている同時期の京成電鉄の状態を秋元本家の方々も知らないはずがないので、輸送という最大の目的もあることながら、大規模土地開発の妨げになる行政上の飛地の整理をあらかじめ計算に入れておく。そこで小金、馬橋との合併も水面下では進行していて、縮小されたのか。



と言う事は、流山の秋元本家が旗振り役になっているが、江戸川の物流で賑わった流山から鉄道路線を開通する上で、その後に新田開発と牧の存在によって潤い、人口増加したが、『今一度、高城氏の家臣達と、江戸期以前の小金城の勢力圏内でまとまろう』というもう一つの一面を持っているのか。そうなると戸定邸のある岩瀬から柏の戸張まで。

これは後の東葛市の構想まで見ていたことになる。いつの時代も「理想と現実」、そして「歴史は繰り返す」ということ。実際にはこの大きな目標まで届かず、事業縮小を求められ、現在の営業規模になって今現在まで営業が続けられている。しかし、日本各地を見て、成功例から学ぶとなるとこのような大規模な計画だったとしても不思議ではないのか。



松戸市の合併状況を見ていくと最後期に馬橋村と高木村、小金町が入っている。これは流山線の経営がどうなるか時間を置いて冷静に判断する時間があったということ。元々の大株主である醸造工場の原材料と製品輸送、それは一番に考えなくてはいけないが、江戸時代からの新住民である秋元本家の方々が元々の歴史に学ぶという夢を見たのか。

中山で京成線や湾岸エリアと接続し、河岸で栄えた江戸川沿いを北上、栃木県のロータリー駅である小山駅と接続。東葛エリアと湾岸エリアの日常的な物流、そして北関東との連結、そういった意味では確かに流山線に夢はあった。鉄道法における投資の回収と言う事まで含めると、秋元本家の方々が思い描いた流山線はここまでが成功例か。



今の経営規模で見るのなら小金城の存在が大きく見えてくる。しかし、これは一時的な状態であり、計画当初や延伸計画ではもっと大きな規模であったと考えられる。牧士の綿貫家が千葉氏一族で、相馬氏ともつながり、小金城主高城氏の姻戚であった事からも、相馬小次郎とも称された平将門の勢力圏内、この大規模な市町村合併と開発計画。

今現在は合併したので野田市になっているが、関宿町にも平将門の伝説は各地に残っている。平将門の伝説という目線で見てみると市川市内、当然の事ながら当時の本拠地の下総国、常陸国に広がった地域。利根川東遷のために我孫子市にも茨城県にも、と言う事は県を跨いでの連携ということになる。実際に水運の時代は共同体とも言えるもの。



秋元本家の方々が実際に生きてきた時代に利根運河は完成している。そうなると民間企業での実績を知っているのか。そこで同様に株式会社が設立され、流山線が営業を開始。江戸川水運の物流の拠点であった流山は、鉄道運輸の時代に変化する過程でも、国や県への影響力は持っていたのでしっかりと先を見据え鉄道経営に動いている。

流山線の開発当初とは時代も変化し、交通という言葉も人にとっては色々な意味を持っている。自家用車の高性能低価格化、これにより戦後の日本経済は大きく発展し、同時に日本各地にコンクリートの道路を行き渡らせ、区画整理による都市開発、同じ場所でも時代が変わると故郷は姿を変えている、今の社会しか知らない人には理解出来ない。



東谷のバス停で気付く
大正バブルの時代に乗って、水運としてのピークは過ぎていた、という現状を踏まえて流山線を開通。ここまで考えていても不思議じゃないと言っていいのか。地区をブロック化という事に気付いたのは南流山にラーメン食いに行って帰り、東谷のバス停で「そういや、あそこに流山線の駅が出来たなら、東谷自治体の場所は旧道に挟まれる地区になる」

と、ふと思ったのがキッカケ。地区のブロック化としては見事に旧道小金道との間に位置している。実際にこの地区は流山橋が整備され、県道開通により県の予算によって区画造成された地域。その後に南流山駅開業、JR通勤圏内として住宅造成されている。ということは一部このタイミングに計画流用されたが以前からあったんじゃないかと考えた。



それだけでなく今現在のつくばエクスプレスが開通してから整備されつつある西平井などの区画整理事業まですでに計画されていたと考えても良いのかもしれない。もちろんこれは大正時代の話なので、明治末期には日本の主要鉄道路線が完成していたこともあり、そのノウハウを利用し、ある程度どうすれば成功するか判明していたことのように思う。

線路路線の障害物を撤去し、国鉄の駅から駅までをつなぎ、街規模を増大させながら交通インフラを整える。周辺農村部を都市化し、人口と税収が増加するよう促し、これによって鉄道の利用客を増やす。北総台地から東福寺奥の院を切り離し線路を通す、通称切り通しの工事により、資金がショートする。これにより事業計画も縮小することを求められた。



もう一つの諏訪道から大坂までの区間が廃止され、車両置場と流山駅が一体となった形(現在の状態)で開業することになる。諏訪道という大動脈の麓に位置した流山駅、「日本政府は牧の開墾を進めている」ということを秋元本家の方々も知らないはずがないので、柏の豊四季地区に人口が増加する、これにより商売量も増えるように想像出来る。

政府は貿易商頭取の三井八郎右衛門などに相談し、その出資を元に開墾会社を設立した。国の方針により開墾事業が進められたが、時代的に流山は東葛飾郡最大の都市で生活必需品を仕入れるために流山の街にやって来る。鉄道開通により、水運に陰りを見せていた流山は商圏周辺の農村部の大規模造成人口増加という方向に進んだのか。



想像と事実
そこでどのあたりまで都市造成を計画していたのか、という所は完全な想像の話になる。しかし今のつくばエクスプレス開通に伴った大規模な造成工事に当てはめてみると八木村中地区、西平井の地区、平和台から宮園地区への道路の整備、これによって小金町の集落の方向からマミーマートやイトーヨーカドーに客が流れてくるようになった事実。

今現在のこのような現象を当時の時点で予測していたのではなかろうか。もちろん流通の車化や商店の高齢化、少子化による商店の跡取り問題もあって閉店する店舗の問題などは考えようもないが、商都であった流山の百年後が見えていたのではなかろうか。河岸があった流山によって小金宿が成り立っていたことを考えると想像に難しくない。



八木村総鎮守の熊野神社の参道、旧道熊野道を開発の指針にしているわけだから、思井だけでなく芝崎、中、古間木、前平井、後平井、西平井、加の元八木八ヶ村は歴史的にもセットで、この時の大規模開発に参加した、または了解したと考えて良いのか。ここに芝崎村の名前も入っていることから、吉野家には連絡し、了解済みだったのだろう。

ということは今の行政区分的には松戸市になっているが、豊四季、八木、小金、流山と大規模な都市化が理想形だったのか。江戸川沿いの道二本から大規模都市開発、これにより小金宿に居住していた小金城の家臣達との関係と影響も見えてくる。流山側には小金城高城氏の家臣、芝崎村の名主吉野氏がいるのだから知らないわけもないだろう。



そういえば、上記の元八木八ヶ村を見ていると他の八木村の村々と違う点を気付いた。どちらかといえば八木村の中でも西寄り、南方向。松戸市との境目あたりに位置して、八木村も決して一体ではないということ。馬に関連しない純農村と言って良いのかもしれない。そういった意味では他の村は豊四季など牧に帰属するような村々と言って良いのか。

今思ったけど、冷静に考えると毎年小金道ウォーキングの記事を作っているけど、これは馬橋の大川家から流山の秋元家の道順をウォーキング企画のイベントにしただけなので、本来の旧道はこれ以外にもあったことだろう。思ったのは江戸時代に、流山から小金に行くために(なんで東福寺の前を通って北総台地を回り込む必要があるのか)ということ。



小金との関係
実際に水運の賑わった流山への旧道というと三輪野山茂呂神社夏祭りの記事に一茶が通った旧道が出ている。この道のように各集落を結ぶ旧道は間違いなく必要であり、これがその後の大規模都市開発が進み、かつての姿を消しても歴史として残していかなければならないこと。郷土歴史家の人間ではない俺でも出来ることはあるんじゃないか。

この道は小金城の家臣も、ゴッソリと場所が変わって生きていったわけじゃないから、小金の宿場町の物流を支えたと言ってもいいんじゃないか、そうこうしてると旅籠の御主人と番頭さんの声も聞こえてきそうだ。「番頭さん、そろそろ今日の仕入れ分が入っている時間だから行ってきてくんねえか」「へいよ御主人、流山までちょっくら行ってきますわ」



苗字帯刀を許された武士階級と言うと、醸造家の秋元本家の他に、この地域では牧士の綿貫氏も関わってくる。綿貫氏の影響力のある地区というと、今現在の都市の合併状況と市の境目を度外視して想像してみると、かつての小金牧だった地区で開墾が進められていた、南柏周辺の豊四季や五香六実も合わせての都市の経済ブロックが形成する。

そうなると明治初期の初富のトラウマが残っている千葉県としても、開墾と都市整備を押し付ける事が出来るため、予算の面でも旨味が出てくる。ということは牧の影響により入り組んだ市境、飛地の整理にも発展し、大規模開発による都市整備、この後に問題となった八木村と小金の問題の解消、幻となった流山と小金との合併も真実味が出てくる。



そうなると北小金駅開設時の小金町の衰退を見ているわけか。北小金駅の開設は明治44年5月1日、小金宿は中世から江戸時代にかけ栄えたが、明治になると宿と宿場は衰微した。商店は寂れ生計は立たなくなり、往来する人が無いため旅籠は商売を辞めた。この時に駅開設を求めた町長が綿貫政吉氏、小金牧と共に佐倉牧の牧士であった。

綿貫政吉氏は北小金駅と駅前広場の、屋敷続きの土地3町歩(約1万平方メートル)の土地提供をした。それによって駅は開駅している。この駅を利用区域と想定された土村・八木村・豊四季村の一部と提携して行われた。鉄道開設後には宿場町の存在意義は無くなる、借金漬けになっている新設村の農民と共に、小金町の救済の効果もあるわけか。



物事も歴史も理解出来ない人にとっては何も価値の無いもの。しかし田んぼの中を走る旧道一本の存在だけでも、周りの歴史的なパズルを組み立てていくと、とんでもなく大事な存在だと判明してゆく。郷土史はこれの繰り返し、来年には郷土を知るための勉強も今より進むので、来年のこの記事にどれだけの文字がプラス出来ているかも楽しみだ。

江戸川は古くは太日川・太日河とよばれる渡良瀬川の下流部であり、現五霞町元栗橋の西側を南下し、権現堂川の河道を通り、古くの下総国葛飾郡の中央を南流し江戸湾(東京湾)へ注いでいた。江戸幕府誕生から13年後の元和2年(1616)に幕府の御用河岸として制定、これは赤城神社の再建前、ならば出資した醸造業者と街構成は存在する。



そうなると文禄2年(1593年)に廃城になる小金城も関わってくる。小金城の発掘では瀬戸・常滑焼や中国産と見られる陶磁器も出土しており、こうした出土品からも小金が幅広い地域と水運を通じて結びついていた事実を示している。太日川(現在の江戸川)の要でもあったため、水運により城下は市が立ち並んで金宿(後の小金宿)が形成される。

地図上で見ると分かり易いが、この道は小金城から流山河岸まで北西方向に一直線、大きく北総台地を回り込むより、茂呂神社の参道という上下のある尾根道を一つ乗り越えるだけとなる。ということは、小金城は北総台地の際に位置し、大水の時には舟で交流する、周辺の本土寺や東漸寺と共に経済的にも栄えた攻防の要塞であったと見ていい。



原氏の小金支配を巡っては、小金城の築城者を高城胤吉以前の原氏に求める意見もある。原氏が戦国時代初期に小弓公方に追われて一時小金に拠点を置いていた事が知られており、高城氏以前の小金城(「前期小金城」)や根木内城などの小金付近のいずれかの城に原氏の拠点としての「小金城」があったと見られている。(※この話は別にしよう)

文禄3年(1594)から利根川の改修工事が始まり、元和7年(1621)利根川を太日川の川上で合流、しかし太日川が洪水を起こして相変わらず水浸しとなりました。さらに工事は進み、承応3年(1654)太日川の川上から赤堀川を掘って常陸川と結ぶ。これで利根川は東京湾から銚子に流れるようになり、やっと江戸の町は洪水の心配がなくなりました。



元和2年(1616)徳川幕府は江戸防衛を兼ねて利根川、江戸川筋に16の定船場を定める。重要な街道の渡船場を定船場に定めて、ここ以外の所では川を渡ることを禁止し、番所を置いて取り締まりました。ということは、この年代には既に町場が形成されていて、醸造業で街は賑わい、周辺農村から農産物や原材料の米などの集積地になっていた。

となると赤城神社の元和6年(1620)再建、というのは「幕府のお墨付きの河岸として認められた」という街の記念事業であった計画も見えてくる。徳川家康も本来の土地に根付いた文化・風習・重要度・影響力を無理に変えるのではなく、それを考えて河岸を制定しているのだから、流山だけでなく、元々のこの地方の流通経路と見てもいいだろう。



建設当初の流山駅の計画場所
この場所も意味を持っている。この道は飛地山の脇を抜け、平和台保育所の前を進み、若菜寿司屋の前に至る。戦後の平和台区画造成によって、この周辺は平和台という住所に変わっているが、加村台と西平井の集落との境目にあたり(※正確にはシンザワ電化の前の道)、今でも神社の氏子関係、消防分団の管轄などに小さな影響が残っている。

この道も開発の指針にしているということは、集落の境周辺の農地を大規模開発、そして各地区から乗客を計算するものだろう。鉄道開通と同時に農地の都市化というのも明治時代に成立していた鉄道のノウハウだから、この時に利用していたと見てもいいのか。そして戦後の平和台造成期に中川で修行していた若菜さんが店を開店して現在に至る。



もう一つの諏訪道〜若菜道(※上の文の道)〜もう一つの小金道、という本来の計画が、今現在の諏訪道(県道278号)〜旧道八木道、というように計画が縮小したということになったのだが、見事に旧道の一本分ズレたのが非常によく理解できる。これも結果論から言える話なんだから、その後の計画だっていくらでも変化していくんだろうと思われる。

しかし、この変化とは後の商店出店、人の動きなどに関連してくる話なので、他人事ではなく、旧道八木道の集客効果を利用して経営するウチの店も大きく影響を受ける変化と言ってもいいだろう。もっとも、店としては戦後からなので、埼玉方向から、もしくは八木の農家からの集客という歴史的前提があっての店だからあまり考える事もないんだろう。



俺の仮説

またも想像の域を出ない話
秋元本家の祖を秋山氏だという説もある。そうなると武田信玄から徳川家康、本土寺から水戸光圀までしっかりと関係性が一本に繋がる。赤城神社の元和6年(1620)の再建に飯島重左衛門の名前が残っている。この時代にこの醸造工場が宿に存在している事は確定しているので、何らかの理由で経営が存続不可能になり、血筋も絶えている。

流山が米の集積地であったこと、河川交通の重要拠点であったこと、などを加味して想像するには、秋元本家の存在そのものが幕府主導の国家政策という見方も出来る。徳川幕府は遠縁である秋元本家を使って、(結果として)殖産興業をした可能性が見える。幕府直轄領の収入は幕府の財政基盤となる、強い産業は幕政を支え、盤石なものになる。



これは利根川東遷事業の産物とも言える話で、流山が立地的にも東日本からの、江戸の水運を一手に担う場所となるにあたり、江戸川の開削により秋元本家は同じ葛飾の流山という土地に移り住み、醸造業を行う。祖先が秋山氏だとすれば、もちろん背後には徳川幕府や水戸徳川家の存在もあり、この地域では大きな本土寺の存在も関連する。

秋元家は明暦から寛文の頃(1657〜1670)、流山村に移住して農業を営み始めたと言う。その後、秋元春雄(4代目三左衛門)の代になると豆腐加工業を営む、醸造については、秋元春雄が晩年の頃、流山の酒造人三右衛門から酒造株を入手し、酒醸業を始めたと伝えられている。明暦3年(1657年)、徳川幕府は初めて酒株を発行している。



秋元家のみりん醸造は、秋元感義(5代目秋元三左衛門、俳号双樹)が長じてからのことで、父の秋元春雄と共に始めた。白みりんの成功は天明2年(1782)春のことで、秋元感義が26歳の時である。成功と同時に、白みりん酒「天晴」の販売が始められたのは言うまでもない。これは流山周辺で上質な米、うるち米などが収穫出来ていた事も関連する。

秋元家では、秋元感義を「白みりん醸造の元祖」とし、秋元房尚(8代目三左衛門。助三郎を改名)を「中興の祖」としているが、これは、秋元房尚がみりんの品質を改良し、販路を拡大したことに由来している。これが幕府主導だとすれば全てが繋がっている事になる。しかし証拠や古文書という面で言うと、何も無いのでどうしても俺の想像の域を出ない。



秋元房尚(8代目三左衛門)は、天保8年(1837)6月17日、流山で生まれた。安政4年(1857)、秋元房尚が20歳の時、江戸浅草茅町にあった商家の養女ゆき(水戸徳川家の子女で、形式上商家の養女として、秋元家に嫁いだとの伝承がある。)との婚約がなされた。本土寺の秋山夫人の甥が徳川光圀ということで、ここでも秋山氏と関連している。

父である秋元彦助(7代目三左衛門)は、祝言に備えて母屋を新築し、さらに、新座敷(現一茶双樹記念館双樹亭)の建築準備をしていたが、安政4年1月24日に病没した。父が死に、当主となった秋元房尚は、2歳下の弟(秋元六三郎)を「見世の家」と呼ばれた秋元平八家へ養子に出し、4世秋元平八とした。秋元家としてグループ企業を形成する。



さらに、13歳下の弟(秋元藤之助)を流山の根郷に分家させ、初代秋元藤之助とした。(この家は味噌醸造を営み、「不二光」の名柄で売り出し、屋号は「秋藤」を名乗った。現在の株式会社秋元である。)秋元本家が江戸幕府主導による殖産興業だとすれば、江戸期の人口増加と食糧増産、関東への人口の集団移転という所まで関連してくる話だ。

戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、食糧が増産されたことなどで人口は増加したが、かえって食糧が不足し、主食とする米が必要とされた。そのため江戸時代初期の17世紀以降、江戸幕府や各藩の奨励のもと、役人や農民たちの主導で湖や潟、浅瀬などで埋め立てや干拓が行われ、陸地が増やされ耕地となった。手賀沼や印旛沼など。



関東地方の開発ということになる
そうなると、それまでの日本の中心は京都を中心とした関西地方。戦乱に明け暮れた時代が終わり、江戸幕府による平和な時代が訪れると元々の農耕民族の特性とでも言うべきか、田畑の農産物と共に生き、神事に祈りを捧げる生活に戻ってゆく。徳川家康は牧の新田開発と、今まで手つかずだった関東(特に利根川流域)への入植を計画したのか。

俺流に分かり易く言うと「コロニー」を増やしたということ。「機動戦士ガンダム」の世界では『人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、既に半世紀が過ぎていた。地球の周りの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった。』と、ナレーションが入るがだいたいは同様なことが言える。



利根川東遷事業で田畑に使用できる土地が増え、これにより実際に今現在の千葉県内には新田が増え、江戸幕府は潤い、人々が代々生きてゆける下地が整備されていった。江戸幕府は五街道の整備、これに伴い宿場町が形成され、安定した生活を送っていく。となると商業も盛んになり、年貢の運搬には利根川水系の水運が大きな役割を果たした。

佐原や流山のような川沿いの米の集積地には醸造業の工場が増えていく、これは職場が増えるのと同じこと。となれば戦後田舎から職場を求めて首都圏に向かった流れと同様に、工場のある土地に移り住み、流山の街場の形成へとつながっていく。関東への入植と新田開発が醸造業と合わさることで経済の好循環へと進んだ事が想像できる。



この動きは千葉県全域にも発展する
地場産業の形成という意味では、野田や銚子の醤油業者も同様な存在。周辺農家だけに限らず、川舟で取引していた各地の農産物を仕入れ、原材料を加工し、大量消費地の江戸へ運ばれた。また、江戸を中心とした産業の形成なら市川の塩田も地域を代表するもの。同時に海苔の養殖もある。採取期には厳冬期に「べか舟」に乗って行っていた。

浦安なら江戸前のアサリやハマグリを始めとした多彩な貝類が豊富。「貝むきが出来ないと嫁にいけぬ」とまで言われていた。日本橋まで、陸路なら4日かかるところ、順風で10時間、櫓漕ぎでも一昼夜で着くという安房あたりでは漁業も盛んに行われた。ということは舟大工だけでなく、漁師の使う漁具を作成する職人の需要も考えられ、人が増えていく。



徳川幕府になって軍馬を養成していた小金牧は佐倉牧と共に嶺岡も幕府直轄の牧となって経営がなされた。8代将軍吉宗によってインド産と言われる牛を輸入し、幕府初の酪農牧場もある。明治乳業(前身は房総練乳)も森永乳業(前身は日本練乳)も千葉県から生まれた会社で、乳製品は研究され発展し、現在日本で第3位の酪農県を誇っている。

また、銚子は醤油だけでなく、地引網に代表されるイワシ漁も盛んで、浜で干して干鰯や〆粕に加工されて諸国の特産物や農産物の貴重な肥料となった。産業があるということは確実に後継者育成が必要であり、江戸が急激に人口増加していくのなら、それを支える周辺の各都市も物資の供給量を増やす必要がある。これにより様々な職人も必要。



水戸街道の宿場町の小金、関所のあった松戸、水運における物流の要所の流山、を別の街にしたことも江戸幕府において意味を持っていた。同じ街にすると街としての権力が強すぎるのだ。一つの都市にすると江戸への東からの流通経路が一本に定まる。ここを押さえりゃ大打撃。江戸幕府が恐れるのは倒幕、安全面でも別にする必要があった。

この江戸の防衛という視点なら、国家事業とも言える利根川東遷から江戸川という川の開削、それにより区画整理に引っかかった、遠縁にあたる秋元本家は流山へ村民を引き連れて移住。利根川東遷事業の過程で、5代目秋元三左衛門が流山で味醂醸造業を始める。これには水運の警備、江戸の北東方向の防衛は水戸藩という意味も見えてくる。



大規模都市化という視点
今現在都市計画道路として流鉄流山線を道路が横断する橋脚の工事が行われているが、これも流山本町の周辺農村部の大規模都市化、宅地造成にも関連し、流山都市計画道路3・3・2号新川南流山線の工事になっている。ということは今現在でも「都市化の過程」ということになり、つくばエクスプレス開通後に新住民の増加が考えられる。

水運の衰退という時代に伴って、流山街道の整備、現在の流山橋の架橋、南流山駅など理由とタイミングは何度もあるが、県や国の予算で区画造成が行われた。ということは今でも過程であり、これからも変わり続けていくということ。流山本町周辺でも平和台の造成、流山インター設置、そして三郷流山橋有料道路を整備、学校の増設につながる。



中にはつくばエクスプレスの駅前にしか価値を見出せない人もいるだろう。でもそれだけが全てではなく、色々な興味も考えもある。流山本町の事も気になる人もいるだろうし、歴史や組織、地域的な文化というなら、確実に俺が将来跡を継ぐ立場になる。西平井・鰭ケ崎地区区画整理事業も進み、宅地造成され、住宅販売、確実に人口は増えてゆく。

同年代のベッドタウン住民はあくまでも一時的な住民であって、将来的に流山に死ぬまで住むかと聞かれれば何とも言えない人も多いんだと思う。そうなると困るのは木村の土地成金よね、人間は悲しいことに自分の目線でしか物事を判断できない。流山市全体を見る事なんて出来るはずがなく、流山本町では俺がこれからも一段と評価されていく。



俺が生まれてきた時にはすでに中交差点から加交差点の区画造成は進められていたので、後から引っ越して来たベッドタウン住民の子供なんかはこのような視点も珍しいんだろうとも思うが、ウチの親父や四ツ葉会の人達と話をしていくとどうしても「昔話が出てくる」、そうなると自然と歴史にも興味が出てくる。大規模都市開発が今現在続いている。

ということで、これは何も今現在に工事が行われているが、旧制中学に通うような戦前のインテリ層が想像していても不思議ではないということ。ということは江戸川から中交差点までの都市化が戦後一世代目で行われて、戦後二世代目の俺が中交差点以東の都市化を見ていくという事。中交差点にあった加藤屋大店に行っていて本当に良かった。



今現在はつくばエクスプレス開通に伴った工事
鉄道開通に伴った区画造成と町規模の拡張いう目線ならば、大正時代の京成線も同じだし、秩父の山中にスタジアムを移転した西武ライオンズ、親会社は西武グループ。街整備からの人口増加すれば西武鉄道を使って都心と球場を結び、安定的な固定客になる。それに加えて(※今では別のグループらしいが)西武百貨店も運営という事もある。

親がベッドタウンに家を買い、引っ越して来るのだが、その場所で生まれ育った人間は何の疑問も抱かずに、当たり前な事として芯から染まっていく、環境とはそういう事だろう。親の休みの時にはとしまえんに遊びに行き、通学にはバスを使い、デパートでは色々な買い物をし、スキー場で恋愛をし、成長の過程で家庭を築き、ホテルで式を挙げる。



建設会社を使って家を建てるようになれば、会社の接待はゴルフ場、ハネムーンの旅行代理店もあれば、子供と一緒に水族館にも行けるし、もちろん地元の埼玉西武ライオンズの大ファンだ、って人も出てくる。鉄道敷設が多角経営と合わさることで雇用も含めての安定的な経済成長につながった。これは圧倒的な戦後の人口増加の影響もある。

ただでさえ戦後の団塊世代が都心に向かい、通勤圏内でのベッドタウン住民になるのが当たり前、代々親元から独立して生きていく人、が多くなれば、代々一つの所に住んで営みを続けて行く人間の価値が上がるというもの。だからこそ自分にしか見えない景色、自分にしか書けない文がある。誰かと一緒なら俺がブログ続ける意味もない、って事。



「見えないものを見る」
同級生は宅地造成されてから流山の土地を知る。俺だけにしか見えない目線の世界もあるということ。地域的な婿の存在も予備知識がないと理解できない。なので同時期に流山に存在しても、俺だけに体験できる事もある。将来が約束されているからこそ、今は下積みの時期、これを俺自身が理解しているから雑に扱える、というのが長所になる。

色々な知識は後から追加できるけど、想像力や対人能力は鍛えられる時期は限られている。「下の画像の所に最初の赤城駅の計画があった」と聞いたので、家にある資料から色々な文を組み合わせてここまで膨らませてきました。本当はこの記事も「牧の大規模開発と飛び地の整理」という所まで踏み込みたかったがこれは来年に持ち越しだな。



ここでドズル中将の言葉につながる。「ビグ・ザムが量産の暁には連邦なぞあっという間に叩いてみせるわ」と嘯くが、既に資源、運用人材両面でジオンにはビグ・ザムを量産する余力など残っていないと考えられた。そうです、流山線にもこれが言える。「流山線が延伸の暁には・・・」何度もあった延伸のタイミング、免許取得と事業規模の変更など。

これらのことから秋元本家の方々が思い描いた流山線プロジェクトはまだまだ完成していない事になる。かと言って今からそれを取り戻すなんてことは出来るはずもなく、時代も変わりつくばエクスプレスが開通した。実際には東葛地域に参入したい京成電鉄の思惑と系列子会社の新京成電鉄、変わっていく時代の中で今日も流山線は走り続けていく。



この他、予算の問題で、事業計画は現在の流山橋の開通時に繰り越されたと思われる馬場以南の地区、木村との間もありそうだ。街規模を旧本町地域から大きくして街の商店は経済的恩恵を伸ばす。実際に牧場をやっていて、時代が進み住宅が増えてくると、家畜の臭いが迷惑だ、と苦情言われて廃業した例もある。その息子が自動車工場を経営。

今では南流山の住所になっている地域だから旧記事にある「街の伸び代」を各方面に増やし続けて現在に至る。今の四ツ葉会にいる人達の中にも平和台造成、南流山の造成時に結婚が重なると無理に流山本町の中に住むのではなく、建売住宅を買って住んでいるメンバーがいる。これは実家から独立するのが当たり前だったという時代背景がある。



ウチで買い物をしているバーサンが「何であんなに立派な家があるのにアパートとかに引っ越して住むんだろ」とも言っていたが、実際問題現実的には難しい事も多い。代々住んでいる住民の中でもジーサンバーサンと同居という特別な家庭(日本では当たり前な形だが、戦後の世代としては珍しい状態となっている)周りも独立した人達ばっかりだった。

だから歴史という目線で、今までの人生経験を活かし、故郷を見る事が出来る。俺の大事な個性と言っても良いんじゃないかと思う。今回の記事は(この道どこに繋がってるんだろ)という単純な好奇心があって、自転車とかで無茶したのが今現在に活きている。そういやボーイスカウトやってなかったら茂呂神社の参道というのも気付かなかったんだろう。



南流山という地区を考える
南流山の駅というのは鰭ケ崎、木村、宿という地区の周辺農地に駅が開設された。この時代にはすでに流山も一町ニ村の合併が行われ、流山市になった後なので、市の中枢組織は市役所ということになる。そして商工会の支部は第一支部の中、消防分団の区分は第一方面隊。ということは南流山は見事に市の組織に組み込まれているということ。

日本は駅前至上主義の住宅事情、通勤に便利な所が地価が高く、家賃が高い。しかしこれは一つの指針でしかなく、不動産屋が仕事のために決めたモノサシで人間の将来なんて測れることもない。経済的に裕福な家庭に育つと、子供が求めるのは「カネで買えないもの」と決まっている。流山市の一番南の端っこで地味に生きてきゃ良いいんでない。



俺からしてみると知ったこっちゃないが、今現在の当たり前な姿としては学校を卒業するとサラリーマンの形になって通勤のために鉄道駅中心な生活になっていく。駅の周りには繁華街が形成されていて、もちろんその地域での人間関係も大事になる。このようなことから察するに、今の俺というのは現代人の世間の常識とは関係ない人物ということか。

歴史的な目線というのは次男、三男とは違って長男だから大事になる、と言えるかもしれない。自分の先祖が郷土でどんな役割をしてどのように生きてきたか。それを知ってこれから自分はどのように生きていくべきか。まぁとりあえず、歴史を調べて、祭りでの写真を撮ってブログに貼れば周りの人が喜んでくれる。今はこのような事を積み重ねていくだけ。



「目線の違いも見えないモノを見る」ということ
「勝ち組・負け組」なんて言葉が流行った時代もあったが、これは同じ方向性で生きている人間同士で比べた言葉。イマドキは戦後の世代がベッドタウンに家を買って移り住んだ。その上で子供が家を出るといっても、駅前マンションという実家の近くに住んで、老後の親の世話、親父が亡くなったら家に入るという事まで見越して生活する、のも流行だ。

本町と言われる旧市街地で、歴史というものをしっかりと見つめ、地域コミニティと共に生きていくというのも、一つの方向性。俺からの目線で言うなら、(流山に生まれ育っているのに、毎年の祭にも出てこれないなんて「負け組」。さらに30歳を越えているのに各地でツラと名前が売れてない、とか生きている意味あるの?)このように目線で全然変化する。



つくばエクスプレス開通以降、木交差点以南の地域が区画造成され、新たな流山市の「街の伸び代」となっている現状も一つの時代と言える。これは需要と供給の問題で、これ以上に家屋を増やすと駅からも離れすぎてしまうので、通勤にも不便だし、それなりに商店からも距離が出来てしまうので、一軒家が売れない。といった本末転倒の状況になる。

これ以上増加なら行政としてもバス路線を構想する必要があるので、木地区に大きな道路を計画し、商店も増やした上で住宅販売してゆく。住民増加と売上を加味した上で、仕入れ量を増やしてゆく。みんな生活かかっているサラリーマンなのだから自分の仕事は理解している。バブル崩壊以降、社員だけでなくパートのオバちゃんが重要な立場なのだ。



ヤオコー南流山が開店した時に、木村の「地元農家の農作物を扱っています」と、顔出しでチラシに出ていたが、旦那さんと女将さんの両方ともがウチの親父の同級生という話を聞いた。農家だから当たり前だが、学校を卒業してもずっと流山に住んでいる。もちろんここにはウチの親父の時代の話だから、木村からバスで流山小学校に通っていた時代。

これと同じことが商店にも言える。時代は進み、郷土は変わって、学校は増えても、人間は変わらないということ。これからもずっと続いていく歴史の中で、次第に俺の存在も大きくなっていくのだろう。ウチに生まれた長男なんだから、常識的に考えて順番は確実に回ってくる。それが決まっているのだからしっかりと準備はしておかないといけないだろう。

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平成30年11月10日から25日

November 18 [Mon], 2019, 0:00

平成30年11月10日から25日

ムルデルと井崎市長の対談をイメージした作品も
平成30年11月10日(土曜日)から25日(日曜日)まで、ギャラリーよしで「利根運河 吉岡忠介陶想展」が開催されています。この催しは、同ギャラリーのオーナー小坂義弘さんと野田市在住の陶芸作家・吉岡忠介さんのコンビによる企画展の第3弾で、平成27年の「流山街道を歩く 吉岡忠介陶想展」、平成28年の「流山の森からのたより2016 森のコンサート」に続いて企画されました。

今回のテーマである利根運河は、流山市・柏市・野田市の3市に接し、利根川と江戸川を結ぶ全長約8.5キロメートルの運河です。利根運河を明治時代に往来していた蒸気船通運丸や利根運河の掘削工事現場で図面を運ぶオランダ人土木技師・ムルデル、運河を渡る鉄道、休日のムルデルが利根運河で釣を楽しむ作品など、時空を超えたユーモラスな利根運河関連作品5点をはじめ、吉岡さんの日常使いの陶芸作品なども展示されています。



ギャラリー内には、現在の利根運河の観光地図や写真なども展示されており、小坂さんは「作品展を見た方々が利根運河に行きたいと思ってもらえたら」と話しています。ギャラリーよしとして初めて流山市観光協会の後援を得て、利根運河ガイドマップ「オランダ遺産利根運河ゆるっとさんぽ」も置くなどして、来場の方々にに利根運河をPRされています。
 
展示は11月10日(土曜日)から11月25日(日曜日)まで、11時から19時まで。入場無料。問い合わせはギャラリーよし(電話04-7157-8144)まで。



なお、同企画展はギャラリーよしでの展示後、11月28日(水曜日)から12月23日(祝日)まで森の図書館ギャラリーガラス展示へ、平成31年1月17日(木曜日)から29日(火曜日)まで生涯学習センター(流山エルズ)へ巡回します。

「たくさんの方々に見ていただき、ユニークな視点から流山の良さを味わってもらいたい」と小坂さんは語ります。ぜひ、温かみのある陶器の作品をご覧ください。



平成27年11月8日まで、陶器で再現

昭和の流山、小さな行灯や、建物の内部が灯る仕掛けも
平成27年10月24日(土曜)から11月8日(日曜)まで、市内のギャラリーよし(加4)で、昭和30年代の流山本町の街並みを陶器で表現した「流山街道を歩く」展が開催されています。

陶器でつくられた流山の歴史ある建物9軒が、昭和30年代のモノクロ写真3枚とともに飾られ、当時の様子が偲ばれる展示となっています。



作者は野田市在住の陶芸家・吉岡忠介さん(62)。吉岡さんは以前に地元・野田市の古い街並みを表現した陶器の作品を手がけており、吉岡さんと十年来の知人だったギャラリーよしのオーナー・小坂義弘さん(73)が「地域活性化のためにも流山本町もお願いできないか」と持ちかけ、今回の企画が実現されることになりました。



昨年11月に吉岡さんは、小坂さんの案内で流山本町の街並みを実際に見て回り、国の登録有形文化財4軒と市の有形文化財1軒を含む、今なお店舗として営業する建造物11軒を選定。自身が撮影した写真と、昭和30年代の写真などを参考に製作を開始しました。

大きさはいずれも幅約30センチほどで、細部まで丁寧に作り込まれているため製作に時間がかかり、展示に間に合った9軒が出品されました。



陶器の建物の前には、それぞれの店舗名の入った小さな行灯が設置されており、それらは流山本町で切り絵行灯を飯田信義さんとともに製作している長谷部年春さんに作っていただきました。スイッチを入れると明かりが灯る仕掛けも施されています。

一部の陶器の建物にも内部が灯るようになっており、「暗くなったときに見に来ていただけると、ほんのりと明かりが灯り、また違った雰囲気が楽しめますよ」と小坂さんは説明してくれました。



ギャラリーよしでの展示は11月8日まで。その後は、流山市立博物館で12月12日から平成28年1月14日まで、森の図書館で1月中旬から巡回展示されることが決まっています。

小坂さんは「流山本町を訪れる方はどんどん増えています。陶器で再現された流山本町も見ていただくことで、街の魅力をもっと知っていただければ」と話しています。問い合わせはギャラリーよし(電話04−7157−8144)へ。



流山の町家を陶芸で再現

市内のギャラリーで展示
江戸川沿いにあり、かつて舟運で栄えた流山市流山本町に残る趣のある古い町家を陶芸で再現した「陶想展 流山街道を歩く」が二十四日、同市加の「ギャラリーよし」で始まった。

ギャラリー経営者の小坂義弘さん(73)が古い街並みを生かして本町周辺を元気にしたいという思いに、野田市山崎の陶芸作家の吉岡忠介さん(61)が応え、国登録有形文化財の四棟を含む九棟を作り上げた。


 
流山本町は市中心街に位置し、再現したのは「本町通り」と地元で呼ぶ旧流山街道沿いにある町家や蔵が中心。一八七〇(明治三)年に建てられ、市有形文化財の「呉服ましや」の土蔵が最も古く、国登録有形文化財「寺田園茶舗 見世蔵(みせぐら)」(八九年築)や同「呉服新川屋」(九〇年築)などほかの建物も、明治から昭和初期に建てられたものが多い。

現在も商いを続けている老舗もあれば、飲食店やギャラリーに改装され生まれ変わった建物もある。昨年十月、変貌する街並みに寂しさを感じていた小坂さんが、人形などを陶器で造形している旧知の吉岡さんに相談して、陶器で街並みを残すことに。

二人で翌十一月に街歩きして撮影した写真や、昭和二十、三十年代などの古い写真を参考に、吉岡さんが年明けから創作を始め、十カ月かけ九棟を完成させた。



四種類の土を混ぜて使い、建物本体はうわぐすりをかけ、屋根は質感を出すためそのまま焼いて仕上げた。屋根の瓦など細部まで作り込んであり、内部に明かりがともり、町家の風情を演出している。大きさはいずれも幅三十センチ、奥行きと高さは二十五センチ。
 
吉岡さんは「新しく流山に来た方には昔の雰囲気を、長く住んでいる方には懐かしく感じてもらえれば、ありがたい」と話す。市立博物館での展示も決まり、市民団体「流山本町活性化協議会」のメンバーでもある小坂さんは「素晴らしい出来上がり。

多くの人に見てもらい、にぎわいづくりに生かしていきたい」と意気込んでいる。ギャラリー展示は十一月八日まで。市立博物館での展示は十二月十二日〜来年一月十四日。いずれも無料。



流山街道を歩く

吉岡忠介陶想展
古い商家や土蔵を活かしてお洒落なレストランやカフェができたり、ジャズライブやイベントも行われ、市指定や国登録の文化財が増えたりして、観光客も増えていると聞いて、ワタクシ早速、カメラ片手に行ってきました。お邪魔したのは、「流山本町活性化協議会」の小坂義弘さんが営む「ギャラリーよし」さん。

自称「流山の文化・観光大使」と仰るだけあって、店内に貼られた写真にはよしさんがジャズドラマーの猪俣猛さんや歌手のクミコさん、ご当地アイドルの「コズミック☆倶楽部」などなど多くの方々と並んでニッコリ笑っている写真がいっぱいで、その交流の広さを垣間見たような気がします。



そのよしさんが、「引っ越して来て15年の間に古い建物が消えて、寂しくなった」と、得意のスケッチ画で街並みを残そうと、絵筆を握って本町界隈を描き始めたそうですが、今回は、「陶芸作品で流山の老舗などの建物を残そうと企画展を計画」、白羽の矢が立った作家は、お隣、野田にお住いの陶芸作家・吉岡忠介さん。

サラリーマンの傍ら、趣味で油絵を描き、モチーフの一つである陶器、灰袖白かけ深鉢を描き、土と炎に魅せられ、陶芸を始められたのが35歳頃。女流陶芸家・森谷文先生に師事。作陶生活に入り、茶陶器、懐石料理等の作陶を始め、37歳頃には、ご自宅の敷地内にアトリエ「陶夢想家」(トムソーヤ)を建ててしまうという行動派。



倉本聰の「ニングル」人形写真集で布を使った人形作家の与勇輝に出会い、陶器による人形づくりを始め、暗中模索の中、試行錯誤を重ねて、独自の作風を確立。サラリーマンを続けていたとしても「定年退職」の齢だなと考え昨年、教室を閉じて、個人の創作活動へ。

「教室を運営していたときを現役サラリーマンだとすれば、いまは、嘱託ってところでしょうか。自分の作品に向き合いたい」と控え目に語ります。「退職の記念に肖像陶芸をこっそり贈りたい」という相談も多く、定年退職者の写真を見ながら「ゴルフが好きな上司なので」と注文があればゴルフクラブを肖像陶芸作品に持たせることもあるという。



あたたかなユーモアあふれる“おじさん”の「愛おしさ」を感じる肖像陶芸作品が喜ばれているようです。アトリエには陶芸家の故・池田満寿夫氏や画家の故・桜田精一氏などこれまで交流のあったアーティストの大きな写真が貼られていました。

作陶の一方、野田で毎週土曜日に新聞に折り込まれる地域紙「のだジャーナル」の人気コーナー「紙上ギャラリー」の連載は120回を超えています。吉岡先生は、ここでお茶会なども開かれ、「お茶のルールを知ると、茶器の作り方も変わってきますから…」と静かに仰います。



さて、今回の陶芸作品展ですが…。企画展の名称は、「流山街道を歩く 吉岡忠介陶想展」素敵な響きですね。ミニコンサートなども行われて人気のお店です。土蔵造りの2階建てで、1階は厨房にカウンターとテーブルの客席があります。

2階に上がると真ん中に大きなテーブル席があり周りの壁には、絵画などが展示できるギャラリーとなっています。見上げると、太い梁がむき出しのままで、しっかりとした屋根組が昔の建築の匠を今に伝えています。

流山の古い建物を作品にした陶芸は9点


この国登録有形文化財にも登録されている土蔵のオーナー様は、蔵の近くの笹屋寝具店さん。江戸日本橋『越後屋』(後の三越)の仕立屋「笹屋」の暖簾分けで、万延元年(1860)の創業。当時、流山で隆盛を誇った大棚の呉服店「三河屋」の仕立てを請けたのがスタートなのだそうです。

グリーンを基調にした建物は、管理栄養士がヘルシーな料理を提供する「管理栄養士のビストロ EIZEN」さん。洋服製造として使われていた建造物を大正ロマンの香り漂う建物に改装したものです。経験豊富な管理栄養士が研究を重ね、減塩でありながらしっかりとした味のする今までにないヘルシーな料理を提供して人気なのだそうです。

「蔵のカフェ+ギャラリー灯環」さん


万華鏡ギャラリー見世蔵。江戸から明治期にかけて店舗兼住居として建てられた土蔵を、平成22年から「見世蔵」として公開しているもの。かつてはお茶屋さんだった万華鏡ギャラリー見世蔵さん。ギャラリーでは、流山市在住で世界的に活躍している万華鏡作家・中里保子さんをはじめ、多くの作家の方々の万華鏡作品を展示・販売しています。

国の登録文化財「清水屋本店」さん。流山本町にある老舗の和菓子店さんで、明治中期の建築。居住の増築や江戸川堤防の高さを変更する工事などに伴った改修など、幾度か改良が加えられた跡が分かることも文化財としての価値があると評価を得ています。



この清水屋本店さんのあんこたっぷりの最中は、「出没!アド街ック天国」でも紹介されるなど人気の商品です。細川紙、石州半紙とともにユネスコ無形文化遺産に登録された本美濃紙を使った照明などを販売する「流山あかり館・彩(いろどり)」さん。この建物は元々、乾物屋さんだったそうです。

あかり館・彩さんは岐阜県美濃市を拠点とするお店で、流山への出店が2店目。「1号店のある岐阜から遠く離れた流山にオープンできたのは、この地域の皆さんの協力があったからです。この流山でも提灯と和紙の伝統工芸を後世に伝えていきたいと思います」と仰っています。素敵ですね。



流山市指定有形文化財の呉服ましやさんの土蔵。現在の所有者は呉服店として5代目の古坂稔さん、6代目古坂多さんのおふたりはとってもダンディなんです。呉服ましやさんは、古くはみりんの醸造を営んでいましたが、8代古坂喜左衛門が安政6年(1859)に呉服店を創業し、現在に至っています。

土蔵は、正面土扉や窓の土戸など当初のままの形態を保っており、明治期の土蔵造りの様式を随所に残す貴重な建造物なのだそうです。老舗料理店・割烹柳家さん。流山商工会議所や流山小学校区まちづくり協議会が毎年4月に流山本町で開催している「流山スプリングフェスタ-菜の花まつり」。

このイベントで毎年「あっ」と言う間に売り切れる人気者が、菜の花をイメージしたオリジナルの「菜の花弁当」。でも、もちろん、柳家さんに行けば、「出没!アド街ック天国」でも紹介された美味しいうなぎ料理などがいつでもいただけます。



呉服新川屋さん。流山広小路交叉点のやや南に位置する土蔵造りの商家です。創業は幕末の弘化3年(1846)、店舗は棟札から明治23年(1890)に大工土屋熊五郎が建てたものとか。2階建てで1階が店舗、2階が住まいとなっている形式は当時の典型的な商家ですね。

分厚い土蔵壁は火災の延焼を防いだといい、左右の鬼瓦は恵比寿・大黒があしらわれています。この新川屋さんの近くにある歴史的建造物を利用したイタリアンレストラン「丁字屋 栄」さん。大正12年建築の足袋の販売店を改装したものなのだそうです。

「丁字屋」の名称は、その足袋屋の屋号をそのまま使っていらっしゃるとか。今回は作陶されていません。次の機会を待ちましょう。この流山本町界隈には、俳人・小林一茶が「第2の故郷」として親しんだ一茶・双樹記念館や杜のアトリエ黎明などもあり、新選組陣屋跡や閻魔堂横丁などもあります。



休日には、「北総新選組」というかわいい女の子たちが浅黄色に白いダンダラ模様の隊服を身に着けて観光ガイドなどのボランティア活動をされていたり、交通の要となる流鉄流山線流山駅もすぐ近く。散策には最適ですね。

最近は、一昨年が小林一茶の生誕250年、新選組結成150年、昨年は流山の白みりん誕生200年、今年度は流鉄100年と、流山本町に関係した「節目の年」が続きますね。こうしたタイミングを外さないで盛り上げ続けていきたいものです。さて、今回の企画展の会場ですが…。小坂義弘さんは、流山市加4丁目に「ギャラリーよし」を開いて15年目。



ギャラリーよしさんの入り口には流山市生涯学習センターや文化会館などのイベントのポスターがいっぱい貼ってあります。商社マン時代に横浜でご自身も陶芸をされていたそうで、73歳のいまも自らお車を運転され、作品を観に全国に行かれ、その合間に流山の文化や観光活動に関わられるなどお忙しくされていらっしゃいます。

そんな小坂さん、5年前から「ストレス解消のひとつに」と絵筆を握って、流山の街角を描いていたところ生涯学習施設などから声が掛かり、描いた絵画は230作品。これら地道な活動は、今春、J:COMの「いきいきシニア万歳」という番組で「移りゆく街をスケッチで記録」として特集されました。



描いてから1年もたたずに閉店してしまった老舗のお豆腐屋さんや自転車屋さんなど今では貴重な資料になっているスケッチも少なくありません。その一方で新しいお店も生まれ、店内に小坂さんのスケッチ画を飾っていらっしゃるお店もあります。

まさに、流山の「いま」を切り取って後世に残すような作業ですね。今回はご自身のスケッチではなく、吉岡さんの作陶で流山の「いま」を切り取ろうと企画されたようです。

商社マンだった若いときから陶芸が趣味だった小坂さんが、定年後、自宅の一画につくったギャラリーよしの経営は、全国のアーティストの作品を流山に居ながらにして楽しめる場にしたいこと、そして、なかなか発表の場を得られない若い才能の発掘と育成の場にしたいことの2つ。



陶芸の土が混じり合ったり、絵画の絵の具が混じり合うと、思いがけない作品になることもあるそうです。今回は、吉岡忠介さんと小坂義弘さんのタッグチームで、どんな世界が展開されるのか楽しみですね。

「一人でも多くの皆さんに流山本町の魅力を陶芸作品で伝えたい」というお二人が奔走し、この作品展の後、年末年始には流山市立博物館でも、吉岡忠介さんの陶芸作品展示されることが、つい先日決まりました。こちらも楽しみですね。



ギャラリーよし

流山市加4−1693−2
東葛流山研究におどり25号に文が残っているので電化する。ギャラリーよしはオーナーである小坂さんが横浜から流山に引っ越してきた12年ほど前、自宅の一部を陶磁器のギャラリーとして改造し、開店した五坪ほどのこじんまりとした空間である。

ギャラリーよしの面白さは、その立地だ。最近、流山市内では通常商店や飲食店の立地としては不利と思われる住宅街の中に立地するカフェやギャラリー、蕎麦屋や日本料理店が増えている。

そしてそういう店舗群は顧客が見つけにくいにも関わらず、なかなか善戦している。異業種からの参入組が多いのも特徴である。ギャラリーよしはそういった異業種から参入してきた住宅街立地する店舗群の代表と言える。ギャラリーよしを初めて訪問した時には驚かされた。



サラリーマンが定年後に趣味ではじめた陶芸のギャラリーというから、小坂さんという人は物静かな趣味人だろうと勝手に思い描いていたのだが、実際にお会いした小坂さんはとにかくエネルギッシュな人物だった。

お店には陶磁器を中心としてガラスや小物の工芸品を展示する常設コーナーの他に、毎月三週間開催する企画展のコーナーがある、この企画展は小坂さんが自ら日本全国を回り、作家に直接交渉し、実現させている。



一ヶ月のうちの三週間を、毎月行うわけであるから、それを継続して行う努力たるや大変なものだ。また流山線の幸谷駅と流山駅にポスターが掲示されているので、ご覧になった方も多いと思うが、新聞等にも紹介されるので、顧客は近隣からももちろん、一都三県や茨城県からも来るそうだ。

この企画展には実物を見てから買いたいという顧客と、努力している作家さんたちの出会える場所を作りたかったと言う小坂さんの強い思い現れている。

陶磁器以外の商品では絵画や携帯ストラップ、ガラス製品、さらには地元の人が作った美しい万華鏡もありと、幅広いが子供が一人で来ても買えるように、数百円の小物も揃えているとのこと。裕福な趣味人だけを相手にするのではなく、地元流山のコミュニティ形成に熱心な小坂さんらしい。



そんな小坂さんは、あたかも流山の施設観光本部長のように活動している。遠くから来ててくれた顧客に、せっかく流山に来てくれたのだから、自分の店だけではなく、街全体を楽しんで欲しいと、自家製の流山観光案内や地図を機会あるごとに配布しているのだ。

商店主は店に力を入れると外に出なくなり、視野が狭くなりがちだが、引っ越してくるまでは商社の営業マンだったという小坂さんらしい、顧客の目線に立った活動だと大いに感心した。また開店からのギャラリーよしが今後どのように発展するのか未知数である。



しかし大阪出身で横浜から流山にたまたま越してきた小坂さんがこれほど地元を愛し、一生懸命に地域振興に頑張る姿を見ると流山に限らずすべての小売店は見習って欲しいと思う。

売上減少を外部環境のせいにしていても何も始まらない。「熱意」「誠意」「創意」という基本を大事ににする小坂さんは年齢はベテランであるが流山最大の有望株である。



特集、私の一冊

歴史水彩画
流山市立博物館友の会、会報「におどり」第106号に文が残っているので電化する。今までに、出会った本は数々あれど、いまだに、私の心に活きているのは、美術の本である。思い当たるのは、幼少の頃より、描くのが好きで、新聞のイラスト、写真等を模写して遊んでいた記憶がある。

サラリーマン時代、休日にはスケッチブックを片手に街中を散策した。特に勉強をしようとした訳ではないが、美術館や画廊にはつい足を向けていた。「風景画三代の系譜 玉堂・希望・元宗展」(日本経済新聞社主催)はその一つである。



安サラリーの身、高価な絵や工芸品、を買い求めることは出来ないが、画集や美術書を購入し、読み、見、しているうちに絵筆を握り、陶芸にも手を出していた。周りの街並みに築100年以上の古い建物や趣のある商家が点在する、流山に移り住む。

時間が経過すると共に、一つ減り、二つ減りと街の様相が変わっていく。こんな貴重な、街並みを自己流のスケッチで描き始める。小さなスケッチブックに思いつくまま、描き、記録として残していこうと思い立つ。



他人様に見てもらおうと描いたわけではないが、展覧会をしないかとお声かけを戴きあちら、こちらで開催するようになる。今まで描いた中には、すでに無くなっている建物もある。

美術書が好きで始まった水彩画は現在スケッチ用紙160枚になった。目標は大きく、1000枚、50年後に、このスケッチが過去を語る、記録・歴史として、生き残ればと願っている。



外輪蒸気船の事始め

明治10年快速船颯爽の登場
東葛事始め事典に文が残っているので電化する。高瀬舟や木下茶船など帆かけの和船ばかりが走っていた江戸川、利根川に、明治10年(1877)5月、突如外輪川蒸気の通運丸が文明開化の息吹をまき散らしながら快走して話題をまいた。

土手は、どこもかしこも物見高い見物客でびっしり。かたずをのんで見守り、万歳を叫ぶ者もいる。船を作ったのは長崎生まれの平野富二で、この造船所はのちに石川重工となる。運航会社はのちに日本通運となる内国通運で、船名もそこから生まれた。



白と黒のツートンカラーで、船体の真ん中に半円形に水かきがつき、そのカバーに大きく「通運丸」と書いてある。ガシャンガシャンと両側の水車が回ると水面は大きく波打ち、泡立ち、まわりの小舟はほんろうされる。

今までの和船は、帆任せ風任せで、風の無い日は河岸で風待ち停泊していたが、ジェームス・ワットの蒸気エンジンをのせた新鋭通運丸は全天候型で、時速11キロで、両国から銚子まで行く。



東京を午後3時ごろ出れば翌日の正午ごろ調子に着く。当時はまだ銚子行きの総武本線など無かったから多くの人に利用された。東葛地方では、市川や松戸、流山、柏などに停泊し、それぞれの河岸に待合室も持った蒸気宿が置かれた。

では、なぜ江戸川、利根川で通運丸が使われたのか。この船は浅瀬用に作られており、船底は盆のように平らで、深さ1メートルの川でも走ることが出来、浅瀬の多い江戸川や利根川にはうってつけである。



ところで、通運丸が江戸川、利根川を最初に往来した外輪蒸気船かというと、実は明治4年(1871)、すでに川蒸気飛脚船として、利根川丸という小型の船が僅かな期間だが走っていた。これは江戸川を経て関宿から利根川に入り、奥州街道の中田(栗橋の対岸)に達するものであった。

料金は、松戸まで金一分、流山まで一分一朱、野田まで一分二朱、関宿まで二分であった。隔日運航で、深川の万年橋を午前7時に出て中田に午後6時に着いた。その後解体された利根川丸のエンジンは、東京芝琴平町の日就社という民間印刷所に売却され、読売新聞の印刷に使われたという。



人力では一日500枚ぐらいのものが、蒸気エンジンの導入により1万枚以上に大飛躍した。さて、通運丸はそのあとどうなったのか。鉄道に客を取られて乗客が激減し、ついに引き船が本業のようになり、おわい船を連ねて上流へ引っ張っていった。

古老たちの幾つかの証言を考え合わせると、通運丸は昭和4・5年の頃まで気息奄々の状態で走っていたものと思われる。東京通運に身売りしたあとも、同じマークをつけたまま内国通運とほぼ同じコースを走っていたようだ。(※川舟の時代なんてとっくの昔、と感じる人も多いが、ウチのジーサンが小学生の時まで江戸川は舟の時代)



※文を追加しておく
よしさんは地元のイベントにも積極的に参加している、この記事を作っていた去年の春には知っていたから、何度も顔を合わして挨拶はしっかりしてある。よしさんは、流山市加4丁目の住宅街にある「ギャラリーよし」のオーナー。

自宅の一部を陶器のギャラリーにして、自作の簡単市史を自費で印刷して無料配布するなど、私設観光部長というか私設博物館長のような活動をされ、コミュニュティの醸成に力をいれています。壁にはご自身が手がけた流山文化のまちづくり実行委員会主催の「流山ジャズフェスティバル」や「笑って健康!お笑い大行進」のポスターがペタペタといっぱい。

イベントのときは、奥様に店番をしてもらってボランティアでチケットもぎりなどもしているそうです。そうなんです小坂さんは「流山ジャズフェスティバル」や「笑って健康!お笑い大行進」を支えてくださっているボランティアさんのおひとりなんです。

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毎年11月第3日曜日、大生神社巫女舞神事

November 17 [Sun], 2019, 0:00

毎年11月第3日曜日、巫女舞神事

茨城県指定文化財
鹿島神宮と祭神を同じくする由緒ある大生神社では、11月第3日曜日の例祭において「巫女舞神事(みこまいしんじ)」が奉納されます。七人囃子の奏楽にあわせて鈴を振りながら厳かに舞う姿には、幾代にもわたり受け継がれてきた、かつての神と人との関わりを伺い知ることができます。

巫女舞神事は、毎年前夜祭、本祭と大生神社例大祭に古式により行われます。儀式の起源についてはさだかではありませんが、寛政年間、斎下向(ものいみげこう)の祭儀として伝承されており、巫女舞神事の中でも古式の姿で保存されていて珍しい行事となっています。



当日奉納される巫女は大生集落氏子中の7歳から13歳までの少女で11月1日夜半氏子総代によってくじで決定すると同時に、夜に時を待って、当家に気づかれぬように七五三縄(しめなわ)を張ります。舞は先輩によって前夜祭まで伝習され、巫女は浄衣緋袴垂髪とし、右手に幣、左手に鈴をもち舞います。

巫女は神前に進み正面に座し、神楽太鼓に合わせて立ち上がり鈴と幣を大きく上下させながら数歩後退したところで前進し、本の位置に戻り、再び同様の所作を行いながら神前を一周して一座の終わりとなります。五座ないし七座待って終わりとなります。舞は簡単ですが、古い様式をそのままに遺す神事として貴重な存在です。



古式豊かな巫女舞
大生神社巫女舞神事 江戸時代に鹿島神宮より巫女が来て舞を奉納したことに由来するともいわれている。しかしかつての古式豊かな盛大な神事の一部を残したものとされている。舞いを踊る巫女となるのは氏子の家のもので、いくつかの条件を満たしている7歳から13歳までの少女ひとりである。巫女となる少女が決まってから、舞の練習など15日間の準備を経て例祭当日の神事にいたる。巫女舞は県指定無形民俗文化財となっている。

舞が終わると、玉串を捧げる。大生地区は北浦を見下ろす場所だが、神社は裏手の山の中にある。7〜11歳の童女1名による静かな巫女舞。伶人は横笛2,小鼓1,大鼓1,大太鼓1,付太鼓1,神楽太鼓1。11月初旬から毎夜練習があり、当日は行列の繰り込みののち巫女舞となる。



祭儀の期限については詳かでないが、寛政年間、斎下向の祭儀として伝承されており、巫女舞神事の中でも古式の姿で保存されていて珍しい行事となっている。巫女は神前に進み正面に向って座し、神楽太鼓に合せて立ち上り幤と鈴を大きく上下させながら数歩後退したところで前進し、元の位置に戻り、再び同様の所作を行いながら神前を一周して一座の終りとなる。五座ないし七座舞って終りとなる。舞は簡単であるが、古い様式をそのままに遺す神事として貴重な存在である。

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毎年11月第3週、小鹿野町歌舞伎・郷土芸能祭

November 16 [Sat], 2019, 0:00

小鹿野町歌舞伎・郷土芸能祭

埼玉県小鹿野町
毎年11月第3土曜日・日曜日の2日間開催される。歌舞伎や神楽・獅子舞など郷土伝統芸能が一堂に会し観覧することができる。また、建物外では歌舞伎横丁と称した地場物産販売や地元グルメを食する場所もできる。町内6ケ所に地芝居の本拠地があるのも小鹿野歌舞伎の特徴です。「花と歌舞伎のまち・おがの」で活動する子ども歌舞伎からベテランまで町じゅうの歌舞伎が大集合。観光物産展「歌舞伎横丁」も好評。

小鹿野歌舞伎の創始はおよそ200年前、初代坂東彦五郎が江戸歌舞伎をこの地に伝えたのが始まり。常設の掛け舞台での上演はもちろん、祭り屋台(山車)に芸座・花道を張り出して演じる「屋台歌舞伎」が大きな特長です。役者・義太夫・裏方にいたるまで、スタッフのすべてが地元衆。町内の祭りに奉演される年間6回の定期上演のほか、日本各地で行われる訪問公演は、常に大きな喝采をあび、「歌舞伎のまちおがの」の名を全国に響かせています。



小鹿野歌舞伎は、今から約二百数十年前の江戸時代中ごろに始められました。町内には寛政四年(一七九二)に歌舞伎を上演した記録も残りますが、文化・文政期(一八〇四〜三〇)に活躍した初代坂東彦五郎が一座芝居を組織し、その後勇佐座・天王座・大和座と引き継がれ、小鹿野の大和座は長瀞の和泉座とともに明治・大正期に当地域の最盛期を作り、秩父地域はもとより群馬県まで興行を行っていました。

昭和に入り、高砂座・秩父座・梅松座・新大和座と一座芝居も大きく変化し、映画・テレビの影響を受け昭和三十年代以降は衰退の時期を迎えました。その後民俗文化財保護の機運が高まり、旧大和座系の役者と町内各地で地芝居を続けてきた人たちが合同して昭和四十八年に小鹿野歌舞伎保存会が結成されました。昭和五十年には埼玉県文化財の指定を受けています。



小鹿野町内では十六・小鹿野・津谷木・奈倉・上飯田の五か所に伝承され、それぞれ地元の神社の祭りに各地の氏子が中心となって歌舞伎を演じています。

当町では昭和四十六年より始まった郷土芸能祭を始め、年6〜7日定期的に上演され「町じゅうが役者」という歌舞伎の町の面影を残しています。町内には、常設舞台が五か所残り、掛け舞台や祭り屋台(山車)に芸座・花道を張り出す舞台もあります。最近では小・中学生による子ども歌舞伎、若手歌舞伎、女歌舞伎の一座も活躍し、後継者への受け継ぎも盛んです。

歌舞伎を町の文化使節として派遣する「地域間文化交流事業」も好評を得てこれまで県内外三十九か所で公演しました。歌舞伎を通じた文化交流を進め、町の文化イメージアップを図っています。



小鹿野町(おがのまち)は、埼玉県の北西部に位置し、秩父盆地のほぼ中央に市街地を形成しています。小鹿野町の歴史は古く、約1000年以上前の平安時代中期に編さんされた「和名抄」に記されている「巨香郷こ(お)かのごう」が小鹿野の始まりといわれています。

町制施行も県内では川越に次いで古く、中心部の小鹿野地区は県内でもいち早く教育・交通・産業の振興など各分野で近代化が進められ、西秩父地域の中心地として発展してきました。当時の繁栄を物語る資料として、小鹿野春まつりで曳廻される屋台・笠鉾などがあります。

小鹿野町には、鉄道路線がないため、公共交通機関を利用する場合には、鉄道のある秩父市からバスの利用となります。公共交通機関などの交通網が発達しなかったことで、開発が進まなかったおかげで小鹿野には豊かな自然が残りました。日本百名山の両神山、日本の滝百選の丸神の滝、平成の名水百選の毘沙門水、日本の地質百選のようばけなどに代表される自然がたくさん残っています。



近年、両神山麓花の郷では日本有数の規模を誇るダリア園、尾ノ内渓谷で氷柱といった新しい観光スポットがでてきています。平成23年9月には、小鹿野町を含む秩父地域がジオパーク秩父として認定されました。これは日本全体で20地域しかありません。

また、小鹿野といえば歌舞伎のまちとして知られています。役者から裏方まで全て住民が行うのも全国でも珍しく、地芝居として小鹿野歌舞伎は高い評価を受けております。小鹿野町のキャッチコピーは「花と歌舞伎と名水のまち おがの」です。豊かな自然と伝統芸能が息づく小鹿野町へぜひお出かけください。


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平成10年11月15日、我孫子駅構内にエスカレーターを設置

November 15 [Fri], 2019, 0:00

平成10年11月15日、我孫子駅

駅構内にエスカレーターを設置
駅南東方はかつての水戸街道我孫子宿であるが、全体的に交通の利便性から新興住宅が増えた地域であり、当駅も常磐線沿線の住宅地最寄駅の性格が強く、商業地としての賑わいはあまり感じられない。

南口から国道356号(旧水戸街道)に通じる 県道195号はかつて停車場通りと言い、大正期から昭和初期には旅館が10軒ほどあったほか、東葛銀行、魚屋、穀屋、蕎麦屋、小間物屋などの商店が古くから建ち並び、町の中心部として栄えていた。



1973年(昭和48年)より駅前土地区画整理事業が始まり、当初は橋上駅舎と直結する高層商業ビル構想が計画されたが、地権者の一部に同意を得られず、1984年(昭和59年)3月18日に計画を断念した。

その後も区画整理を進め、1999年(平成11年)3月25日に現在の南口駅前広場が完成した。北口が整備されるまでバスやタクシーの乗降口は南口にしかなく、駅の北側に向かうバス路線も南口から発着していた。



島式ホーム3面6線、単式ホーム1面1線の計4面7線を持つ地上駅である。橋上駅舎を有している。エスカレーター・エレベーター・自動改札機・自動券売機・自動精算機・みどりの窓口(営業時間7:00 - 19:00)が設置されている直営駅である。

エスカレーターは北口・南口・ホームとコンコースを連絡するものが整備されているが、エレベーターは北口・南口と改札外コンコースを連絡するもののみ設置されている。改札口の正面に高床式のトイレがあり、8番線に向かう通路に車椅子対応トイレがある。



売店は大正期、野口駅売店が営業していたが、昭和になってからは弥生軒が営業するようになった。戦後しばらくの間、弥生軒は駅弁の製造販売を中心にしていたが、複線化と電化により都内への利用者が増えて立ち食い店の売上が伸びるようになり、昭和50年頃には駅弁よりも立ち食い店が主流となった。

平成初め頃、立ち食い店の新商品としてげんこつ大の「唐揚げ」を始めたことから、から揚げそばに人気が出て看板商品となった。弥生軒は昭和16年から昭和21年までの一部の期間、画家の山下清(当時は身元もはっきりしない無名の青年)が住み込みで働いていたこともあり、そのことを示す緑色の吊り看板が1・2番線ホームの6号店にある。



駅弁の掛け紙として山下清に制作を依頼し、我孫子駅の風景、トンネルがある風景、県立手賀沼公園の3点が作成され、1960年から順次使用された。掛け紙には「僕が働いて居た所です。あじはいかがですか 山下清」と書いてあった。

映画・ドラマで山下清が駅弁の立ち売りをする場面があるがこれはフィクションであり、1951年に出発した山形・新潟への旅の途中で本人は駅弁を売ることができないので洗い物やお使いや弁当を詰めたりする仕事をしていたと述べている。駅弁の掛け紙は山下の描き下ろしである。



東日本旅客鉄道 我孫子変電所は当駅北口の線路脇にあり、常磐線と成田線に電気を給電している。き電線は全部で11本あり、快速下り(柏方)、快速上り(柏方)、快速上り(取手方)、快速下り(取手方)、緩行下り(柏方)、緩行上り(柏方)、緩行上り(取手方)、緩行下り(取手方)、快速車庫線、緩行車庫線、成田線に分かれている。

当駅の駅名は、知らないと読めない難読駅と定義することもでき、『国鉄監修 交通公社の時刻表』では1965年10月号の紙面改善として国鉄全駅名の平仮名が併記されるまで、欄外に難読駅として平仮名が書かれていた。



我孫子駅

東日本旅客鉄道(JR東日本)
常磐線と成田線(我孫子支線)の2路線が乗り入れており、このうち常磐線を所属線としている。常磐線に関しては快速線を走る中距離電車および常磐線快速電車と、緩行線を走る常磐線各駅停車が停車する。常磐線快速電車の一部は成田線我孫子支線との直通運転を行っている。現在の場所に当駅ができたのは、飯泉喜雄が私財を投じて誘致したからである。

我孫子に生まれた飯泉喜雄は日本鉄道株式会社の鉄道計画を知り、「鉄道なくして町の繁栄はない」との思いから所有していた土地を町外れの原野だった現在の駅周辺の土地と交換して、停車場の用地を確保した。停車場予定地として準備した土地を無償提供して、停車場の誘致を行い我孫子駅の設置が決定した。日本鉄道土浦線の開通と同時に開業した駅の1つである。

明治30年代我孫子付近を走る貨物列車


駅南東方はかつての水戸街道我孫子宿であるが、全体的に交通の利便性から新興住宅が増えた地域であり、当駅も常磐線沿線の住宅地最寄駅の性格が強く、商業地としての賑わいはあまり感じられない。南口から国道356号(旧水戸街道)に通じる 県道195号はかつて停車場通りと言い、大正期から昭和初期には旅館が10軒ほどあったほか、東葛銀行、魚屋、穀屋、蕎麦屋、小間物屋などの商店が古くから建ち並び、町の中心部として栄えていた。

1973年(昭和48年)より駅前土地区画整理事業が始まり、当初は橋上駅舎と直結する高層商業ビル構想が計画されたが、地権者の一部に同意を得られず、1984年(昭和59年)3月18日に計画を断念した。その後も区画整理を進め、1999年(平成11年)3月25日に現在の南口駅前広場が完成した。北口が整備されるまでバスやタクシーの乗降口は南口にしかなく、駅の北側に向かうバス路線も南口から発着していた。



我孫子駅と山下清

千葉県我孫子市本町二丁目
東葛観光歴史辞典に文が残っているので電化する。常磐線開通百周年記念のオレンジカードに明治時代の我孫子駅が載っている。木造の小さな駅舎の前は桜並木。我孫子を舞台とした志賀直哉の小説『和解』にも出てくる駅である。

「自分は停車場まで送っていった。汽車は遅れた。父は疲れたかのように見えた。暫くして汽車が着いた。皆乗り込んだ。笛が鳴ると皆さよならと言った。自分は帽子に手をかけて何処かを見ている父の目を見ながらお辞儀をした。父はあゝと言って少し首を下げたが、それだけでは自分は何だか足りなかった。自分はしかめっ面とも泣き面ともつかぬ妙な表情をしながら尚父の目を見て・・・・」宿願の父直温との和解が成って、父が我孫子を訪れた時の描写である。



日本鉄道土浦線の駅として我孫子駅が開業したのは、明治29年12月25日でその頃は北柏とか天王台、東我孫子といった駅はまだなく、このあたりの人はみな我孫子駅を利用していた。我孫子駅の開設には、若い飯泉喜雄が大活躍した。

水戸街道の旧我孫子宿が今後栄えるにはどうしても停車場が必要であると説き、自ら停車場用地を無償で提供したが、41歳の若さで亡くなった。いま駅前の緑地に「停車場道碑」があり、その発起人の筆頭に飯泉喜雄の名が刻んである。



開業当時は上野駅から五往復の列車があり、一時間二十分かかった。そして最終列車の到着は午後五時五十分。志賀直哉や柳兼子が我孫子の駅を利用していた大正の頃はかなり便利になって列車が十一本到着し、所要時間は一時間十五分、最終列車は午後十時十四分。アルト歌手の柳兼子が東京で仕事を終えて帰ってくるときには、いつもこの最終列車を利用していた。

交通博物館で古い我孫子駅の写真を見た。屋根付きだが石がゴロゴロいているプラットホームで改札口への跨線橋が見える。昭和24年に電化されるまで補給用の石炭置き場、水タンク、機関車の方向転換のターンテーブルがあったのも写っている。

我孫子駅(1905年頃)日本国有鉄道百年写真史より


いま我孫子駅の構内に弥生軒の駅蕎麦屋があるが、弥生軒は駅弁でも名が知られていた。「僕が働いていたお店です」と山下清の文字入りの包装紙を使った駅弁は我孫子駅の名物で人気があった。山下清は18歳で市川の八幡学園を抜け出して放浪を始めた。我孫子駅前の弥生軒に腹一杯食べられるところとして居着いた。それは昭和17年から22年までの食糧難の時代だった。

イモやニンジンの皮むきをさせると、とても丁寧に包丁を使ったし、アイスクリームのレッテル貼りなどは一日やっても飽きることはなかった。夜、暗い電灯の下で拾い集めた紙切れや段ボールを使って貼り絵もしていた。が、天才画家という評価を得たのは我孫子時代から数十年も後のことである。

大阪戎橋にたたずむ山下清 (1955年)


我孫子にいたのは六年間だったが、幾度もひょっこり放浪の旅に出ては、悪びれることもなく「ただいま」と帰ってきたという。亡くなったのは昭和48年だったがその二年前に頼んでおいた駅弁の原画を「ボ、ボクの絵で駅弁いっぱい売れるかな」と心配そうな顔をして届けてくれたそうだ。

文を追加しておく
平成27年3月14日上野東京ライン開通により快速電車の一部が品川駅まで直通運転開始となった。ホームには売店4店舗と立ち食いそば・うどん店3店舗があり、改札内はすべて合名会社、弥生軒が運営している。

改札外のコンコースにはKIOSK(JR東日本リテールネット)があり、南口の階段の傍にNEWDAYSがある。改札階と各ホームを連絡する階段は、綾瀬・上野寄りはエスカレーターとなっている。



山一林組と蚕霊塔

イトーヨーカドー前、我孫子駅南口一号公園
東葛いしぶみ事典に文が残っているので電化する。我孫子市本町のイトーヨーカドーの場所(※手賀沼と反対側)は、かつて製紙業界で全国に名を知られた明治39年創業の合名会社山一林組我孫子支店があった。大正中期には我孫子で唯一の大工場で女工300余名を使用し生糸500貫を製造したと言われている。

当時、千葉、茨城の両県は新興の養蚕地帯で我孫子は繭の集散地であった。養蚕から製紙まで首尾一貫して、生糸を生産輸出し日本資本主義の発展を支える原動力であった。しかし昭和2年の山一林組の大争議は我孫子支店には直接関わりがなかったが企業衰弱への闘争となる。



この間の事情は「女工哀史」に詳しく書かれている。経営は破綻を生じ、昭和11年に株式会社石橋商店(後の石橋製紙株式会社)に買収される。今、当時のものは残存していない。我孫子駅南口一号公園の傍らの安井ビル、東隣の駐車場に蚕の霊を祀った碑と小さな祠が残るのみである。

訪れる人も無く閑散としている。碑文は正面に「蚕霊塔」裏に大正14年8月15日山一林組とあるのみ。敷地跡の一号公園車止めは、蚕の繭玉をイメージしたものである。(※志賀直哉の「和解」にも登場する。1925年(大正14年)建立の「蚕霊塔(さんれいとう)」が残る。)



秋谷半七

「手賀沼と文人」
東葛人物事典に文が残っているので電化する。秋谷半七は我孫子の郷土史家の草分けである。執筆テーマは主に手賀沼と我孫子ゆかりの文人たち。研究というより文人の愛した手賀沼や作品から我孫子の良さや環境を守る大切さを知って欲しいという誰にも負けない郷土を愛する思いが込められている。新住民がこの街の文化や歴史を知りたいと思う時、必ず手にする「しるべ」となる作品でもある。

秋谷は明治41年、我孫子で生まれる。生家は旧我孫子宿の中心地で呉服商を営んでいた。明治39年、駅前に山一林組製紙工場が開業すると、父は我孫子に染織工場を営む夢を持つ。秋谷は八王子にあった東京染織工業学校へ進むが、昭和8年母の死により呉服商を廃業、それを機に当時日本領であった樺太に渡り教師になった。



終戦直前に帰郷して現在の広島大学で化学を専攻。戦後、文学への願望から改めて日本大学で学ぶ。卒業後は県立東葛飾高校で英語教師として教鞭をとる。昭和30年代からの東葛各地の人口流入により、秋谷のかけがえのない手賀沼が汚染されていくことに心を痛める。この手賀沼再生への願いが湖沼学研究へと繋がる。

その成果を講座や「手賀沼と共に生きる」などの著書で発表。崙書房出版から発売された「手賀沼散策」や「手賀沼と文人」は東葛各地で読まれている。私家本の一冊に「手賀沼ゆかりの科学者」がある。地元ならではの逸話を添えて、地元出身の著名な学者達を紹介してある。その一人、薬学の大家、秋谷七郎氏は秋谷の従兄。秋谷は平成13年86歳で没した。

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    ・神輿-田舎町にはこれが一番
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開発に取り残された街、なんて言いますけどね、コミュニティの強さ、田舎町の安心感、歴史財産まで、今の時代に一周遅れでトップになった感じです
TX沿線の新市街地に住む方たちも歴史情緒ある流山本町、今では一割もいないだろうと思われる流山先住民、昔からの生活をする住民として発信出来たらいいな、と思っています。
なお、神輿会に入りたい人については上に紹介はしますが審議にかけられます、個人として権力ないもので
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