【土佐の偉人Q】片岡利和:新撰組と斬り合った!

June 02 [Wed], 2010, 19:05
今回の土佐の偉人は、片岡利和(かたおか としかず)さん。

明治天皇の信任厚い侍従であり、千島列島を探検した人です。
また幕末にあの新撰組の沖田総司・斎藤一・永倉新八と斬り合った剣の使い手です。さて、そんな利和さんって一体どんな人なんでしょ?




利和さんは1836年10月9日、高知市の潮江に永野源三郎の二男として生まれた。永野家に生まれたものの土佐藩家老兼佐川領主・深尾家の家臣である那須橘蔵のもとへ養子に入り、佐川の鳥之巣村へ移り住んで、名を那須盛馬と改めた。
成年した後、このころ各地で土佐勤王党への入党勧誘をしていた島村寿之助か川原塚茂太郎に誘われ同党に入党。しかし入党直後に、容堂が土佐勤王党の弾圧を開始したため、容堂の命を受けた佐川領主・深尾鼎により、利和さんを含む佐川領内の勤王党員らは親類預けなどの謹慎処分を受ける。
これに不満を持った利和さん達は1864年8月14日の夜、田中光顕・大橋慎三・井原応輔・池大六と共に、越知村の赤土峠を越えて脱藩。だが、利和さんらの脱藩は翌日に発覚し役人に追われる事になるものの、何とか逃れて大洲までたどり着き、大洲から船で瀬戸内海を渡って長州の三田尻に渡った。ちなみに逃亡の途中、井原応輔が腹痛のため歩行ができなくなったため、皆が「置き捨てて行けと」いうのを、小柄ながらも怪力だった和利さんは担いで運んだそうだ。

三田尻に渡った利和さん達は、各地の脱藩志士が集まっている招賢閣に滞在し、尊王攘夷活動を開始した。
すると、ちょうどその頃に「幕府が攘夷活動をする長州を征伐する為に大坂城に軍を集結している」という話が出回り、その話を聞いた皆は「尊王攘夷の仲間を助けなければ!」と長州の味方になることを決意。長州が計画していた大坂城焼討ち計画に参加する事にした。そして利和さんは、田中や大橋らと大坂へ出て、武者小路家の雑掌を自称する本田大内蔵が営んでいたぜんざい屋に潜伏し、焼打ちの機会をうかがっていた。
ところが、焼打ち計画が新撰組に漏れてしまい、店が襲撃される。利和さん達は運よく外出していたため命拾いし(しかし店に残っていた元土佐藩郷士・大利鼎吉は討たれた)、そのまま奈良の十津川へ逃げ込んで、名を片岡源馬と改名して潜伏した。

潜伏先となった十津川では、地元十津川藩の郷士たちと交流。同じ郷士と言う事もあってか親切に接してくれたので、剣術に優れていた和利さんは剣術を教授したそうだ(ちなみに、この時に知り合った田宮流居合の使い手・中井庄五郎共とは意気投合し、1865年には中井を護衛に雇って上京している)。また利和さんは十津川の郷士だけでなく、中岡慎太郎ともこの時に、恐らく田中を通じて知り合っている。そして、中岡が陸援隊を結成する事になると利和さんは資金集めに奔走。この他にも田中らと共に長州へ赴き、薩長同盟締結の支援をしている可能性がある。
だが1867年11月、中岡が近江屋で暗殺されると、田中が陸援隊の副長だったこともあって一時は田中の下で行動(ちなみに利和さんは、近江屋事件の際に中岡が佩びていたという短刀を形見として譲り受けている)。戊辰戦争が勃発すると、嘉彰親王の下で柏崎軍監として従軍した。

明治維新を迎えてからは、正式に名前を「利和」と変え新政府に出仕。軍防局管轄軍曹、東京府参事を経て、宮内侍従となる。
宮内侍従となった利和さんは明治天皇の信任が厚かったそうで、天皇の命によって1892年から千島列島を探検・調査したり、北海道の石狩川が大氾濫した時にも天皇の命により約40日間の被害地視察をするなど、天皇親政の実務を補佐した。また天皇とはプライベートで何度も相撲の相手を務めたそうで、この話からも信任の厚さがうかがえる。
1906年に貴族院議員となるが、2年後の1908年11月2日に亡くなり、青山墓地に葬られた。享年73歳。




さて、利和さんの経歴の中で、恐らく多くの方が注目するのは次の事だろう。




◆剣の達人
利和さんは剣の達人だったと言われており、実はあの新撰組の沖田総司・斎藤一・永倉新八と斬り合っている。
1867年1月7日、利和さんと中井の2人は、四条小橋西高瀬川沿いのとある店で飲んだ後に、当時 陸援隊士が居住していた白川の土佐藩本陣に帰っていた。すると、同じくどこかの料亭で飲んで帰る途中だった沖田総司・斎藤一・永倉新八と四条河畔で遭遇し、斬り合いになる。利和さんは、沖田と永倉に肩先と右足を斬られ負傷するも、中井に助けられ何とか逃げられた。途中で中井の助力を得たとはいえ、2対1という不利な条件のなかで命を落とさなかった事から、かなりの腕があったと言えるだろう(ところで、このとき双方泥酔していたと言われているが、いつ闇討ちに会ってもおかしくないあの時代に、双方とも本当に酩酊するほど深酒をしたのだろうか?しかも、あの辺りは土佐の攘夷浪士にとっては三条に新撰組の出張所があり気が抜けず、また新撰組にとっては150mほど離れた所に土佐藩邸や多数の隠れ家があるので気を抜けなかったはずだ。常識的に考えると、軽く飲んだ位というのが真実ではないだろうか?)。

↓恐らく斬り合ったであろう四条河畔の辺り。
四条小橋西高瀬川沿いから四条河畔を経由して白川へ行くには、四条大橋を渡らなければ行けない。そして四条の河畔で斬り合ったということは恐らく四条大橋を渡ろうとしたところで鉢合わせしたのではないだろうか?




↓四条小橋西高瀬川沿いから150mほど離れた所にある土佐藩邸跡。
陸援隊士の食事は、ここから白川の土佐藩本陣(今の京大・農学部辺りか?)へ運んでいたらしい。
ちなみに土佐藩邸については「京都にある高知ゆかりの場所…三都物語したA」も参照下さい。



ちなみに、函館・小樽・室蘭・釧路など北海道の重要港湾を近代的な港にした廣井勇は、利和さんの甥にあたり、廣井は札幌農学校に入学するまでの5年間、東京の利和さんの家に下宿していたそうだ。

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