『鳥居で』

December 04 [Sat], 2010, 21:48
別れると言ってしまった。ミズキがワタルにキスされたと言ったのだ。ワタルは食事に行ったことは認めていて、空気を介しての間接キスならしたかもしれないと言って笑った。私はそれでも土鍋一杯分くらいの涙を流して、ワタルを部屋から追い出した。その日、ワタルは部屋に戻ってこなかった。もともとワタルはすごくもてる男の子だった。電車に乗っていると一日に一回は知らない女の人からメールアドレスを手渡される。大学では彼目当てに女子部員が一人もいなかった囲碁部の男性と女性の比率が64にまで増えた。新しい靴を買うと二十人くらいの女の子に、その靴かっこいいねと言われるという。私は自分がワタルにそぐわない女だと感じていた。それほど可愛いわけでもなければ、それほど頭のいいわけでもない、それほどお金持ちというわけでもなければ、それほど性格のいいわけでもない。取り柄というほどのものは、トランプをすごく早く切ることができるということくらいしかなかった。自分で部屋から追い出したくせに、帰ってこないワタルが恨めしく、もしかしたらミズキのところに泊まっているんじゃないかという妄想が膨らんで、来たメールの開けっぴろげのなさがそれを物語っているような気がして、私はい彼にもう別れると言ってしまったのだった。三年前、彼が私に告白するときに指定してきた場所は、アパートから歩いて五分くらいのところにある神社だった。塗られたばかりの真っ赤な鳥居が、参拝者を見下ろすように立っている。森からはコンコンコンコンという不可解な鳥の鳴き声が聞こえる。メールで呼び出された私は何か気に障ることでもしただろうか、と気をもんでいた。あるいは、授業で使う本を貸してくれというだけかもしれない、と。彼はまっすぐに立って鳥居を見上げていた。茶色っぽいくしゃくしゃのパーマで、私の胸くらいまでありそうな長い足の彼は、お稲荷様が人間になって姿を現したみたいに美しかった。とぜん呼び出してごめん、と彼は言った。私はううんと首をふった。実はさ、好きなんだ、付き合ってくれないか私の目は点になっていたと思う。しばらくして、私はうそでしょと答えた。彼は、うそなんか言わないよ、だって神社の前で嘘なんかいたら一生油揚げが食べられなくなるんだぜ、と言った。私は笑った。別れを言うために呼び出した場所も、その神社だった。彼は騙されにきたよと鍵を放り投げた。だから、そんな顔するなよと私をちょっとだけ睨んだ。まるで本当に別れるみたいじゃないか。私に近づくと、いもしてくれているみたいに、髪の毛をわしゃわしゃと荒っぽくなでた。大きくて、温かい手だ。やっぱり嘘だって言っていいよ、そしたらいでも元通りになるよ。彼の声を背中で聞きながら、私は急いで鳥居をくぐり階段を上った。息は切れていて、手のひらのなかの鍵は温かくなっていた。携帯電話で話している声が聞こえて、立ち去っていく気配がした。下を見ると彼はもういなくなっていた。彼が好きだ。私は一生油揚げが食べられなくてもかまわないと思いはじめている。
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