医学部入試操作問題雑感A:客観性のない二次試験というそもそもの問題 

2018年10月28日(日) 20時15分
 
前回の記事では、入試の二次試験における点数操作を一律に不当とすることについては、留保が必要ではないかと論じた。リスクとコストを理由に女性排除を目論んでいた東京医科大学と、理論上有利な浪人生に対して現役生に下駄をはかせていた昭和大学医学部とを、同列に論じるのは妥当ではないだろうというのが私の意見だ。

他方で、一連の医学部入試不正のポイントは、一次試験ではなく二次試験で操作が行われているという点にある。一次試験で点数操作が行われていたのなら言語道断だ。しかし二次試験となると、状況は大きく変わる。今回の点数操作と同じことは、この社会で当たり前のように起こっているし、完全に排除することは不可能だろう。

入試では一般的に、一次試験は共通の問題を解かせることで基礎学力を問い、二次試験では面接や小論文、内申書などの調査書類でその他の適性を判断する。一次試験では基本的に答えが1つしかない設問で客観的に点数を比較できるのに対し、二次試験では点数の上下するラインは曖昧だ。共通の採点基準があったとしても、たとえば小論文の良し悪しに点数を付ければ、おそらく採点者によってばらつきが出るだろう。

結局のところ、二次試験というものには常に主観と裁量が入り込む余地がある。同じくらいの力量の現役生と浪人生のどちらを採りたいかと言われれば、普通は前者を選ぶはずだ。わざわざ点数の操作などしなくても、自分が採用したいと思った方に肩入れすれば良いだけのことだ。両大のように二次試験の判定が点数で行われているとなると、一瞬公平性が担保されているように感じられる。だが実際には、二次試験に関しては入れたくない受験生の点数を恣意的に低くつけたとしても、理由は後から何とでもなるのだ。

このことは、とくに入社試験などではより顕著なのではないかと思う。学校受験の一次試験のような客観的に点数の出る筆記試験を、入社試験で行っているところはおそらく多くはないだろう。就活は、企業側が求める人材を選ぶ場なので、必ずしも公平である必要はない。会社のニーズに合うか合わないかで、ある程度自由にふるい落とす権利がある。しかし、たとえ合理的な理由のない選別が行われたとしても、なかなか表沙汰にはなりにくい。

「総合的に判断した結果、残念ながら…」という通知を受け取った経験のある人は少なくないはずだ。この「総合的に判断して」というのは、私がこの世で最も嫌いな言葉の1つだ。一見客観的に公正に判定したかのように聞こえるが、実のところは「主観的に好き勝手決めさせていただきました」と言っているに等しい。「女性は妊娠するし使いづらい」「親が外国の出身だから」「見た目が何となく気に入らない」などというのが本当の理由だったとしても、「総合的に判断して」とさえ言ってしまえば、それ以上の説明が不要な魔法のフレーズのように扱われている。

今回の医学部不正についても、たとえば女性を故意に落としたいなら、最初から小論文の点数を合格ラインより下につけるよう指示すれば良い。女子の合格率が低いと指摘を受けても、「総合的に判断した結果」とか「小論文の完成度が不十分だった」などと言えばそれまでだっただろう。わざわざ点数を一律で上げたり下げたりというまどろっこしい手法を使っているのが、私にはむしろ意外にすら感じた。そこは、表向きは公平でなければならない教育機関特有の理由があったということなのだろう。

ところでここ15年ほどは、推薦入試やAO入試など、筆記試験によらない柔軟な入試が重視される傾向にあるように思う。たしかに一律の筆記試験では、「ふるい落とす」ことはできても「拾い上げる」ことは難しい。〇か×かの問題では測れない、キラリと光る「何か」を見つけ出せるのが、これらの入試法の一番のメリットだ。

ただし、その「何か」を見つけるのは、あくまで審査する側の人間なのだ。医師を経営上のコマと考えているような大学が試験に小論文を取り入れたところで、豚に真珠の選別をさせるようなものだろう。あまつさえこうして、恣意的に入学者を操作するための隠れ蓑にされている。これほど便利な隠れ蓑なのだから、使っているところはほかにいくらでもあるはず、というのが私の直感だ。

一連の入試不正は、決して医学部だけの問題ではない。教育機関の倫理と入試試験のあり方について、全体的な議論が必要だろう。客観性の担保できない試験方法について、「ユニークだ」と不用意にもてはやす風潮については警鐘を鳴らしたい。試験は受ける側だけでなく、課す側の資質やセンスも問われるものだ。

 

医学部入試操作問題雑感@:東京医科大学と昭和大学医学部の入試操作は同列に語れる問題か。 

2018年10月21日(日) 20時15分
 
文部科学省の幹部が息子を不正入試させたという個人の親バカに端を発し、いつしか医学教育全体の問題に発展している。東京医科大学が女子受験者の点数を一律減点し、男子受験者を優遇していたと認め、次いで昭和大学医学部でも、現役と1浪の受験生に加算していた事実が明らかとなった。

どちらも入試二次試験における点数操作という点では同じであるが、私は両者を同列に語ることはできないと考えている。結論から言えば、東京医科大の女子減点は許されるべきではないが、昭和大の方は批判のポイントが違うのではないかと感じている。

まず、東京医科大学の女性一律減点が問題なのは、憲法や教育基本法を持ち出すまでもなかろうと思う。腕力で女性が男性に劣ることや、妊娠・産休のリスクを理由に擁護する意見もあるらしいが、それは女子受験者を「一律」に不利に扱って良い理由にはならない。男性よりたくましい女性もいくらでもいるだろうし、欧米に大きく立ち遅れているとはいえ男性が育休を取る風潮も少しずつ広がっている。そもそも人命を扱う専門職の人間が出産・養育に不寛容というのは、医師としての資質に疑問を抱いてしまう。

また小児科や産婦人科などは、むしろ男性より女性の方が向いているだろう。擁護論に則るなら、両科を希望する男性は女性より一律で不利に扱われなければならないはずだ。

さて、東京医科大の方についてはすでに同様の論調のコメントが多数出回っているので一旦置いておくとして、メインテーマは昭和大の方である。東京医科大と昭和大の操作における最大の相違点は、女子というカテゴリが存在しているか否かにある。浪人生に対する点数操作は、どちらの大学も行っている。では、女性の点数操作はダメで浪人生ならいいのかというと、私はあくまで許容範囲ではあると思っている。

1浪しているということは、1回その大学の試験を実際に体験しているうえに1年余分に勉強する時間があったのだから、現役生に対して「一律」にアドバンテージを有しているはずだ(ここでいう〜浪というのは同じ大学を受験した回数だと理解しているのだが、合っているだろうか)。そのぶん「一律」のハンデを要求されたとしても、さほど理不尽なことではないように思うのだ。

ただし、そのハンデの負わせ方についても、東京医科大と昭和大では大きな違いがある。前者では、全員の小論文の点数を0.8倍に減点し、現役〜2浪男子は20点、3浪男子は10点、4浪男子と女子には0点を加点するという仕組みだという。それに対して後者では、現役および1浪の受験生に対して、高等学校調査書の評点に加点をしていたという。小論文や高校調査書の点数評価がどういうものか知らないのだが、仮にどちらにも満点が存在するとする。すると、昭和大では浪人生でも満点なら満点のままだが、東京医科大の場合は100点を満点とすると80点までしか取れない計算となる。

ハンデというものは、一般的には機会の平等を図って課せられる。つまり、ハンデを負っている側もいない側も、トップになるチャンスがどちらにもなければならない。昭和大の方では満点さえ取ればそれが可能だが、東京医科大では全ての現役〜2浪男子が75点未満でなければ不可能ということになる。確率は0ではないが、ほぼ0といって良いだろう。したがって、現役生に対するハンデという面でも、東京医科大のやり方は昭和大に比べて不当であると言うことができる。

こうしてそれぞれの操作の内容を比較してみると、同列には論じられない差異があることが分かる。昭和大については、まだ現役生に対するハンデと捉える余地があるのに対し、東京医科大の方は女性と浪人生を明確に排除しようという意図が透けて見える。

このように書くと、昭和大については不問に付しても良いように言っているように思われるかもしれないが、そうではない。点数操作の事実を公表していなかった点については、どちらもやはり問題であろう。大学選択に関する重要な判断材料を提示していなかったのだから、その点では両大学とも同罪といえる。

ただし、東京医科大の女性差別問題は、医学界全体にかかわるイシューとして昭和大の話とは別個に追及されるべきと考えている。他方で昭和大の入試操作については、社会に有形無形の事実としてあまねく存在する「二次試験」というもののデメリットとして捉えられるべきだろうというのが、私の意見だ。この点について、次回に改めて考察したい。

 

北海道の隠れた銘菓「きびだんご」:関東大震災の復興を願ってつくられた伝統菓子 

2018年09月17日(月) 0時25分
 
最大震度7を記録した北海道胆振東部地震。無数の土砂崩れに襲われた厚真町の衝撃的な情景が目から離れません。電力は一応の回復をみたそうですが、インフラや被災した方々の生活の再建はまだまだ難しそうです。

今回の話題は、明るく書きたい内容だったので載せようか悩んだのですが、北海道について宣伝することは復興にも寄与するだろうと思い、アップすることにしました。

表題の「きびだんご」とは、夕張郡栗山町の谷田製菓で製造しているお菓子です。栗山町は札幌市の東、厚真町の北にあります。きびだんごといえば、誰もが桃太郎が持っている丸いお団子を想起するでしょう。桃太郎のきびだんごについては、キビ(黍)の粉を原料としているから、あるいは岡山県の吉備地方が発祥だからといわれています。ですが、北海道の「きびだんご」は、この一般的なイメージの桃太郎だんごからはかけ離れています。ただパッケージには、桃太郎がしっかりプリントされていて「日本一」と銘打ってあります。



中身はというと、いくつかタイプがあるようなのですが、私の好みのものはこのようにキャンディのような包みになっています。



この時点で「だんご」と呼ぶのはちょっと違和感ですが、包みを開けてみるとさらにびっくり、



オブラートに包まれた茶色の不定形な物体が現れます。これをオブラートごとむっしゃむっしゃと食べるわけです。これが、不思議な甘さとむっちり食感でとても美味しいのです。水あめにちょっと醤油(原材料にはありませんでしたが)をまぜたような、控えめな甘さで飽きが来ません。ちょっとハードなゆべしとでも言った感じでしょうか。

製造元の谷田製菓さんは大正2年の創業で、きびだんごは同12年に関東大震災の復興の願いや北海道開拓団の精神をこめて生み出されたそうです。なぜ「きびだんご」という名前になったのかは気になるところですが、公式HPによれば当初は「起備団合」と呼んでいたそうです。

私がこのお菓子を知ったのは、先掲の7月の奥尻島滞在でのこと。もくもくとウニ剥きの仕事をしていると、ときどき手休めのもぐもぐタイムがあります。そこで初めて口にして、こりゃ美味いと島の商店でお土産に何袋か購入しました。あとで空港や函館の街中のお土産屋さんなどを覗いてもありませんでした。どうもあくまで地元のお菓子らしく、おそらくスーパーなど土地のお店でないと置いていないのでしょう。

買ってきた分はすぐになくなり、もっと欲しくなったのですが、製造元の谷田製菓さんでは公式な通販はしていないようでamazon経由で再度購入しました。個人的には、こんなに美味しいお菓子なのだからもっともっと広まって良いと思うのですが、北の人々の謙虚さゆえか地元のソウルフードにとどめられているようです。

北海道へ行かれる際は観光客向けのお土産屋だけでなく、ぜひ地元のお店ものぞいてみて、丸くない不思議なきびだんごを手に取ってみて下さい。

  

2017年にイギリスのエイゴン選手権で大坂なおみ選手の試合を観戦した話 

2018年09月14日(金) 0時40分
 
国内でスポーツ界の醜聞が続いているなか、全米オープンで日本人として初めて優勝した大坂なおみ選手の偉業は、一筋の光明として大々的に報じられています。ですが、1年前に大坂選手のここまでの躍進を予期していた人はどれだけいたでしょうか。

実は昨年の夏、私は偶然にも大坂選手の試合を生で、目の前で観たことがあります。イギリスの友人のもとに2週間ほどお世話になっていた時のことです。ウィンブルドンには少し早かったので、その前哨戦といわれるイーストボーンのエイゴン選手権(クイーンズ・クラブ選手権)へ出かけました。快晴ならほかの観光がしたいという理由で大会期間中の曇りの日を選び、とくに誰かの試合が目当てというわけではなく、雰囲気を楽しもうという程度のノリでした。

会場はメインのコートが2つと、それ以外の8つほどのコートから成っています。メインコートは雛壇上の観客席に囲まれていて、専用のチケットを購入しないと見られません。会場に入るだけなら普通のお安い入場券をその場で買えば大丈夫です。メインコートではもちろんトップクラスの選手が試合をしている訳ですが、それじゃあそれ以外のコートは無名戦士ばかりかというとそんなことはなく、私も知っている名前が結構ありました。


会場はこんな感じ



目玉選手の試合はあちら


とにかく驚いたことに、プロの選手が試合をしているというのに、まるで私が普段プレイしている公園のコートと同じくらい観客との距離が近いのです。コートと観客席を隔てているのも腰の高さほどの柔らかシートだけで、セリーナ選手がここでラケットを叩きつけたら、反動で観客に当たってしまいそうなくらいです。


この距離感!


こんなに間近で、しかも私が覚えていないくらいリーズナブルなお値段でプロの試合を観られるのですから、個人的にはウィンブルドンよりこっちの方が圧倒的にいいような気がします。ちなみに椅子は適当に並べてあって、メインコート以外は指定席などはありません。適当に座ったり立ったりして観るのですが、席をめぐってイギリスにも紳士じゃない人もちゃんといるんだなぁと思うような出来事が何度かありました(笑)。

で、前置きが長くなりましたが、この日偶然たまたま対戦表に日本人で唯一名前があったのが大坂選手だったのです。



ご本人の写真を掲載するのは憚られるので、こちらでご容赦ください^^; 対戦相手は、デンマークのキャロライン・ウォズニアッキ選手です。

この時の大坂選手は、パワーは圧倒的に優っていましたが、ベテランのウォズニアッキ選手に上手くいなされてしまっている感じでした。パワーショットがすべてふわりふわりと左右に返されるラリーが続くうちに、しびれを切らした大坂選手が仕掛けてミスをしたりカウンターを受けたりするといった展開が多かったように思います。なので、その後コーチが替わって我慢強さを学んでここまで一気に強くなったというのは、実感として納得できるのです。

かなり粘っていたのですが、残念ながら試合は大坂選手の負けでした。あれから40年…じゃなくてたった1年で、あのセリーナに完勝するほどの戦上手になるとは。師弟の相性というものがいかに重要かということを、改めて感じました。
 

奥尻島ウニ剥き生活記<番外編>:空から見た渡島・東北 

2018年09月03日(月) 0時05分
 
奥尻空港への飛行機は函館空港からの1日1往復。帰りの日はこの上ない快晴で、函館で乗り継いで羽田まで、かなりの部分で地上までくっきり見渡せました。

というわけで、今回は帰りの航路で窓から見えた都市や街の風景をアップします。


奥尻空港はこんな感じ



青苗郊外。中心部は反対側の窓から見えます。



江差の隣の乙部という町。
反対側の窓からは江差中心部が見えます。



新函館北斗駅に向かう北海道新幹線の大ループ



空から見た五稜郭



ここから函館〜羽田路線



マグロで有名な大間



青森市



十和田湖



鹿角市(花輪と毛馬内)



田沢湖



秋田県湯沢市稲川町(稲庭のひとつ北)



鳴子温泉郷



大崎市古川(右上の一番大きな街)と
岩出山(左)、中新田(古川の下)



石巻(仙台は雲に覆われ見えず)



亘理と鳥の海



相馬市と松川浦



南相馬市の原町
左上は東北電力の火力発電所



福島原発付近は厚い雲に覆われ…。
ただ「この辺りだよ」と言われている
かのようにひと筋の光が。



水戸



佐倉


他にもいろいろ同定できる都市の写真はあるのですが、窓越しとてズームするとすぐボケるので、掲載に耐えられそうなのはこのあたりです。また関東に入ると曇ってきてしまったので、茨城・千葉の写真もだいぶ割愛させていただきました。

奥尻島ウニ剥き生活記C 

2018年08月25日(土) 7時00分
 
滞在中1日だけ、霧で漁が中止になったことがありました。ここぞとばかりに観光、ということで神威脇(かむいわき)という集落へ出かけました。青苗のひとつ隣の集落なのですが、隣といってもその距離なんと13km!自転車で1時間かかりました。

神威脇は、奥尻島の西岸で唯一の集落です。とはいえ、人家は民宿やゲストハウスも含めて20軒あるかどうか。ただ、ここには奥尻島の貴重な観光資源のうち3つが集まっています。

そのうちの1つが、港に臨んで建つ神威脇温泉。宿泊施設も食事処もない、純粋な共同浴場です。なんともレトロな佇まいで、建物も実に私好みです。



とはいえ奥尻島は火山島というわけではないので、温泉といってもかなり深く掘ってようやく出てくるような、ぬるいアルカリ性のお湯だろうと思っていました。ところが入ってみてびっくり!源泉かけ流しのお湯はアツアツで、塩と鉄の濃厚な味がたまりません!そのままのダダ流しだと熱くて入れないので、湧湯口の隣では水道水も合わせて出しっぱなしになっています。このタイプの温泉に入ると、私はとっても幸せな気分になります(笑)。

かつてはもっと大々的に運営していたのか、小ぢんまりとした内湯のほかに、2階には展望大浴場もあります。お湯の質は1階の内湯の方が良いですが、2階はもちろん眺望がウリです。私のときは濃霧でしたから視界はほぼゼロでしたが、西向きなので晴れた暮れ時にはさぞ美しい夕陽が見られることと思います。


神威脇の集落と神威脇温泉


昔は公営だったのが今は個人経営になってるとかで、社長兼管理人の御老と湯上りにいろいろとお話させていただいた後、また自転車にまたがります。

集落の外れの丘の上には、残る観光資源の2つがほぼ隣り合わせに建っています。1つは奥尻島唯一の「ホテル」で、島を走る観光バスはなべてここに出入りします。神威脇温泉と同質のお湯が引いてあるそうなので、海の幸に温泉にと、かなりお得に楽しめるホテルなんだろうな〜っと拝察します。

私の目的はそのひとつ奥にある、奥尻ワイナリーです。奥尻では島内でブドウを栽培していて、それでもってさまざまなワインを醸造しています。無料で数種類の試飲もできるので、飲める人はホテルに泊まるか、バスかタクシーで訪ねると良いでしょう。私の感想としては、北の大地で海風を受けて育っているせいか、赤も白も果実味が濃く出ているように思いました。

酒好きの私が、というより酒好きだからか、ワインをひと通り購入&発送して満足してしまったのか、ワイナリーの写真を撮るのを忘れておりました。代わりに、ブドウ畑の写真を載せます。この畑は、島の幹線道路から奥尻空港へ入る交差点の脇にあります。面白いことにワイナリーは神威脇にあるものの、ブドウ畑自体はほとんどが青苗周辺に広がっているようです。





さて、青苗と神威脇の間は海岸沿いの道が続きます。途中には



滝や



巨岩がちょいちょい現れます。

なかでも面白かったのがコレ。



モッ立岩というのですが、その由来がなんとも、、、とある未亡人がこの岩を見つけ、その形が死んだ亭主の「からだの一部」に似ていたので懐かしくなり、名前を付けたのだとか^^;

この、余計なオブラートに包まない感じが、なんとも島らしいなぁと一人感じ入ってしまいましたw

というわけで、ぜひもう一度じっくりご観賞くださいw


 

奥尻島ウニ剥き生活記B 

2018年08月23日(木) 0時05分
 
今回は、青苗地区のようすについてもう少し触れてみたいともいます。昨年の記事とかぶるところもありますが、ご容赦ください。

青苗は奥尻島の南端に突き出た指のように細長い半島にあります。西側は高台と崖で、東側には崖下の平地があります。かつてはこの崖下と岬の先端部の平地に人家が集まっていましたが、1993年の北海道南西沖地震による津波と火事で壊滅してしまいました。岬の先端部は津波館(資料館)と記念公園として整備され、住宅の建設は認められていません。また東側の崖下は全体が6mかさ上げされ、避難時の渋滞を防ぐために道路は集落の規模に不釣り合いなほどに広くなっています。


岬先端の津波館と記念公園。
かつてはここも集落内でした。



慰霊碑「時空翔」



時空翔から岬の高台先端の灯台を望む



土地がかさ上げされている平野部住宅地





青苗で唯一信号のあるメイン交差点




いっぽう高台の上には、もともと家屋はほとんどありませんでした。震災を受けて丘の上にも住宅地が開かれ、一応「山の手」と呼ばれています(笑)。


青苗の「山の手」の風景



山の手から見た麓の中心街


青苗の半島の付け根には中学校がありましたが、残念ながら昨年休校になりました。



さらにその向こうには川があり、緩やかな谷戸がかなり奥まで続いています。ここにはきれいに整地された谷戸田が広がっていて、意外と収穫高もありそうです。奥尻には島産のコメを使った日本酒、そのなも「奥尻」もあります。


青苗川



青苗川の隣のワサビ谷地



谷戸田の風景



個人的になんとなく気に入っている青苗郊外の一枚


最後は山の手から見る青苗沖の夜景を載せます。水平線に並んでいるのはイカ釣り船の灯りです。


烏賊船や 夜空と海の 切り取り線

  

奥尻島ウニ剥き生活記A 

2018年08月20日(月) 7時00分

午前中はひたすらウニ剥きですが、午後は日によって「副業」でモズク採りに出かけるので、その時は船に乗せてもらえました。私は舳先側に乗るので凪の日はルンルンですが、少しでも波があると船首がバンバン跳ね上がり、着地のたびに強かに打ち付けられてお尻が痛くなってしまいます(笑)。

それどころか私はドカナヅチなので、投げ出されたらアウト!波がある日はへいつくばって必死に船の縁にしがみついてました。もちろんカメラを持つ余裕もないので、以下の写真はすべて麗らかな凪の日のものです。





ウニもモズクも漁場は磯です。穏やかな岩陰で、漁師さんは手製の潜望筒を覗きながらモズクを掻き採っていきます。その間、私は手伝おうにもすることもないので、景色を眺めたり水と戯れたりするばかり。夏の北海道の強い日差しを浴びながら、あれやこれやと眺めています。







3枚目の写真奥の山の上に見えるのは航空自衛隊のレーダーサイトです。奥尻島の若者の大半はこの基地に駐屯する自衛隊員といわれていて、町役場のある奥尻地区に住んでいるそうです。件の寿司屋で若き自衛隊員と隣り合わせたことがありましたが、どうしても出会いの絶対数が少ないのが嘆かわしい様子でした^^;





北海道の海も、凪いでいればなかなか透き通っていて綺麗です。ちなみに、一般に出回っている沖縄産のモズクと違って、こちらのものは細くてザリザリとした食感です。東京で能登や山陰産の「岩もずく」として出回っているものと同じものだと思うのですが、私は個人的にこちらの方が好みです。




他にも採ってる方がいました

船に乗せてもらったという話を島ですると、たいていの人に「船酔いしなかったか」と訊かれます。いわく、島へ渡るフェリーでも酔う人は多いのだとか。私は半時化のときでも先述のように尻が痛いのには悩まされましたが、船酔いはまったくありませんでした。とはいえからきし泳げないので、船に向いているのかいないのかは分からないままです。釣りをやる人には珍しくもない話題かもしれませんが、私にはなかなか貴重な経験でした。

かご一杯に採れたモズクは、5kgか10kg単位で島の旅館や食堂に卸します。新鮮そのもの、もちろん無添加!私も数kgお土産にいただいてしまいました。塩にして冷やしておけばなんぼでももつので、おかずの無いときに手軽に土佐酢で食べてます。おかげでモズクも市販のものには手がのびないカラダになってしまいました^^;
  

奥尻島ウニ剥き生活記@ 

2018年08月13日(月) 1時10分
  
先月の下旬に1週間ほど、また北海道の奥尻島に行ってきました。きっかけは、去年この島を訪ねたときに宿泊先の集落で唯一のお寿司屋さんで飲んでいたところ、隣になった漁師さんと盛り上がり、「どうせ来るならウニの時期に来い、いつでも泊めてやる」と連絡先をもらったことでした。酔った勢いの話と本気にしてはいなかったのですが、せっかくだからと年賀状を送ったところトントン拍子に話が進み、ウニ剥きのお手伝いがてらお世話になることになったのです。


いまひとたびの奥尻島へ


私のいた集落は青苗といって、1993年の北海道南西沖地震による津波で壊滅的な被害を受けたところですが、その辺のお話は昨年の記事をご参照ください。

2017年の奥尻旅行記:<前編><後編

奥尻島で獲っているのはムラサキウニで、北海道でもとくに美味といわれているそうです。その代わり漁期はとても短く、海の日前後からお盆前あたりの23日間しかありません。ウニ獲りの船は2人乗るのがやっとの磯船で、量も1隻1日あたり2カゴと決まっています。なので、できるだけ身の詰まったウニを探すのが勝負どころです。正午までに身だけに剥いた状態で漁協に卸さなくてはならないので、のんびりもしていられません。

出港も朝4:30と決められています。大型の船外機を積んだ磯船が一斉にスタートする様子はまさにオートレース!船首側が半分持ちあがった状態で水しぶきをあげ、めいめいのポイントへと繰り出していきます。









船には別の機会に乗せてもらったのですが、さすがに生活とかいろいろ懸かってるウニ漁の邪魔はできません。岸壁で見送るだけで、私はいったん引き上げて朝食です。高台から東側を見ると、ちょうど朝焼けが綺麗な時分です。



6時を回るとぼちぼちと船が帰ってくるので、私もいよいよウニ処理部屋へ出勤です。ウニ処理場は港の脇に長屋団地のように並んでいます。長屋の中は昔の冷蔵庫の製氷器のように仕切られていて、それぞれ漁師さんごとのブースになっています。







と、いよいよウニのご到着です。







作業は大きく分けて3つ、@殻を割ってA中身をくり抜いてB食べる部分以外のハラワタを取り除きます。ちなみに我々が食べているのは卵ではなく、あくまで生殖器です。オスもメスも生殖器が1個につき5粒入っていて、外見からは雌雄の区別はつきません。

ウニは片側に口、そして反対側に肛門があり、どちらかに金べらを差し込み殻を割ります。次に大きな耳かきのようなスプーンを差し入れ、中身をクリッとほじくり出します。もちろんこのときに身をできるだけ傷つけてはいけません。ウニの中身は見事に生殖器と消化器だけで、肉と呼べるものはありません(笑)。最後にピンセットで腸や胃を除去するのですが、これが大変!ベテランでも1発できれいにとはいかないので、時間と手間と神経を要する作業です。これだけ手がかかってるのだから、ウニが高級食材なのも当然です。むしろどうやったら100円寿司として回せるのか、薬剤でハラワタを溶かしでもしないと無理なんじゃないかと思いました。

申し訳ないことに作業風景の写真はありません。なにしろ午前中に仕上げなければならず、ギリギリというわけではないのですが、皆さんおしゃべりはすれども手は動き続けているので、一人だけサボって写真など撮ってる余裕はありませんでした^^;

ちなみに、仕上がったウニはこんな感じです。



だいたい7kgほど、いい時で8kg越えくらいだそうです。これを1週間見続けたので、価値観がおかしくなってしまいました…。ちなみに帰りはお土産に生ウニと塩ウニにしてもらったのを合わせて2kgほどいただきました^^

ところで、ウニは割ってみるまで身の状態は分かりません。なので、色が悪かったり、斑(ふ)が入っていたりするものがちょいちょいあって、商品にはならない欠品となります。とはいえ食べられないわけではないので、欠品ウニは作業場のみんなのおかずになります。毎回ウニ丼2~3杯分ぐらいの欠品ウニはどうしても出てしまうので、リアルに連日三食ウニ飯が食べられる生活を送っておりました(笑)

さてもさても最初の2日間ほどは、慣れの期間でとにかくなるべく迷惑をかけないよう体で覚えるので一杯一杯でした。その後は、自分で言うのもなんですが手先の器用さにはわりと自信があるので徐々に楽しくなり、最後は嘘か真か帰るのが惜しまれるくらいの腕前に(笑)。観光客がやりたいといっても出来ない仕事なので私自身も楽しく、また来年もやりたいなぁと思った次第です。

ちなみですが、私はもともとウニはずっと嫌いでした。保存と発色、そして型崩れを防ぐために投入されるミョウバンの臭いが苦手だったのですが、初めて行った北海道でさすがにウニを食わないわけにはいかないとダメ元で試したところ、あまりの味の違いに驚愕。ウニが美味しいという感覚を知りました。ですが、奥尻のウニは函館や札幌、小樽などのものとも別格です。港で剥いたウニはもちろん添加物ゼロ!この味に慣れてしまったら、もう都会のウニは食べられません^^;




おいでよ!奥尻^^


  

奇跡のような戦国大名:安房里見氏と肥前有馬氏 

2018年06月28日(木) 0時15分
 
古来名門の上位者が、後出の実力者に取って代わられる下剋上の戦国時代。なかでも最大の出世頭は、草履取りから天下人にまでなった豊臣秀吉でしょう。ただ、秀吉がそこまでのし上がれたのは、天下統一へ邁進していた織田信長の家臣として、戦国大名並みの所領を与えられていたことが大きな要因として挙げられます。

戦国大名と呼ばれる大勢力の多くも、守護や守護代、あるいは又守護代などから発展した例が多く、土豪レベルから独立を保ってそこまでのし上がるというのは、実際にはあまり見られないような気がします。秀吉以外で劇的な急成長を遂げた大名としては、土佐の一領主から親子2代で四国に覇を唱えるまでに成長した長宗我部氏や、安芸国の一有力国人から中国・九州10か国以上に勢力を広げた毛利氏、守護京極氏の一家臣から近江国北半を治めるまでに至った浅井氏、同様の条件下から九州を三分する勢力にまでのし上がった龍造寺氏などが挙げられるでしょう。

とはいえこれらの例も、地方世界の片隅から突如として湧き上がってきたわけではなく、もともと地方国内の中心部でそれなりの地盤は有していた勢力といえます。地勢・地縁・血縁など、ある程度有利な条件が揃っていないと、戦国大名化への舵を切るのはやはり難しいように思われます。

そのようななかで、スタート地点から考えると戦国大名にまで登り詰めたのは奇跡ではないかと思えるような大名が、私の知る限2家あります。房総の里見氏と肥前の有馬氏です。

里見氏は関東の雄の北条氏と争いながら、最盛期には千葉県の半分以上を勢力圏としていました。出自は清和源氏流で足利氏の同族、新田氏の庶流といわれ、その発祥の地は現在の群馬県高崎市とされています。そして里見氏が千葉県南部の安房国に移ったのは、15世紀中ごろのことと考えられています。ただ安房里見氏初代とされる里見義実は、『南総里見八犬伝』にも登場する重要人物ですが、史料上は実在していたかどうか裏付けが取れていません。里見氏がどういう経緯で安房国に土着したのかについても、諸説あってはっきりしていないのが実情です。

 

 
里見氏が居城とした
佐貫城(上)と久留里城(下)


来歴のあやふやな里見氏ですが、安房での最初の本拠地は白浜(現南房総市)にあったとみられています。今でこそ首都圏の南国リゾートとなっている房総白浜ですが、地図を開いてみると分かる通り、房総半島の先っちょのそのまた先っちょにあり、街道筋からも外れていてとても発展性の高い土地とはいえません。この白浜で一介の外様勢力からスタートして、安房国の中心である館山平野にいた同国の事実上の支配者安西氏を倒し、さらには房総半島全体を席巻するというのは、地図上からだけ見れば相当な奇跡のように思うのです。

 
里見氏のおおよその最大版図と
スタート時の勢力(緑丸)


他方の肥前有馬氏は、天草四郎らが島原の乱で立て籠った原城や、その近くの日野江城を拠点に、最盛期には長崎県のほとんどと佐賀県の一部にまで版図を広げました。藤原純友の子孫を自称していますが、こちらも島原半島に土着した経緯についてはよくわかっていません。


原城跡


有馬氏の拠点である原城と日野江城についても、江戸時代に島原半島の中心となった島原城からみると、かなり半島の南端近くに偏っています。とくに周囲に対して有利な地理的条件があったようにも思えず、肥前国の中心である佐賀平野からも遠く隔たっています。ここからスタートして有力大名にのし上がるというのは、やはり地図上だけで判断するならかなり難易度が高いように思われます。

 
有馬氏のおおよその最大版図と
スタート時の勢力(緑丸)


では、この両家の大化けにはどのような理由が考えられるでしょうか。また、そこには共通点があるのでしょうか。

肥前有馬氏については、南蛮貿易に代表されるような海運による収入が、勢力拡大に資したといわれています。ただ、複雑な海岸線をもつ肥前国で良港をもっているのは有馬氏に限ったことではなく、決定的な要因とはいえないように思います。むしろ有馬氏の対外政策で特徴的なのは、養子縁組を積極的に活用している点にあるといえます。江戸時代まで大名として存続した大村氏や、千々石ミゲルを輩出した千々石氏、松浦水軍を率いる松浦党嫡流の相神浦松浦氏、さらには有力国人の西郷氏や長崎氏など、肥前国内の多くの有力豪族に養子を送り込みました。

しかし他方の里見氏については、養子政策をとっていた様子はみられず、海上交易で潤っていたという話もとくに聞きません。したがって、これらの点は辺境からのし上がるための必要条件というわけではなさそうです。

では、両家に共通していることは何かと考えると、多分に憶測ですが大きく3つあると思われます。1つは近くに強力な大名がいないこと、もう1つは名君が二代以上続くこと、そして最後に、周囲に付け入るチャンスが巡ってくることです。

有馬氏を戦国大名に脱皮させたとされる有馬貴純のころ、のちに肥前の大大名となる龍造寺氏はまだ一国人領主に過ぎず、その龍造寺氏を倒すことになる島津氏は、薩摩国内で同族争いをしている状態。九州の最大勢力の座を争っていた大友氏と大内氏は、いずれも島原半島からは遠く離れていました。

そのため現在の長崎県内には、有馬氏と同程度の小勢力が盤踞していて、貴純はこれらをひとつひとつ取り込みながら勢力を拡大しました。とくに黎明期には、近隣の領主に後継ぎの男子がいないところに付け込んで、自分の子を養子に入れるというやり方で少しずつ地盤を確立していったようです。

貴純の子尚鑑は治政が短かったのか事績があまり伝わっていませんが、その子晴純は有馬氏の最盛期を築いた名君として知られています。とはいえ晴純一代でそこまで至った訳ではなく、貴純が戦国大名としての基礎を固めていたからこその飛躍といえます。

一方の里見氏の前に立ちふさがった安西氏や真里谷氏は、それぞれ安房国と上総国の戦国大名レベルの勢力でした。しかし、太刀打ちできないほど強力だったわけではなく、何よりそれぞれ内紛を抱えていました。内輪のごたごたを最大限に利用する形で、里見氏はライバルをひとつずつ退けて発展していったのです。とはいえ里見氏がこの両氏を独力で倒したことはやはり驚嘆に値することで、それは第2の点にかかわってきます。

『南総里見八犬伝』ではすべての因果の始まりのような役回りの里見義実ですが、実在したとすれば安房里見氏の基礎を築いた人物で、その後に続く義通の代に、安房一国を掌握したとみられています。そして、里見義堯・義弘父子のころに、里見氏は最盛期を迎えました。ただし義堯の家督相続は、本来の嫡流である従弟義豊を攻め滅ぼしての下克上だったとされています。もしこのとき周囲に野心家の名将がいれば、あるいは里見氏も窮地に追いやられていたかもしれません。ですが、義堯自身が知勇兼備の将だったこともあり、ピンチにまでは至らなかったようです。

それぞれの勢力の栄枯盛衰には、もちろんそれぞれ固有の理由が絡み合っています。ですが、特定の条件下にある勢力が同様の力学的作用を見せるとき、そこには何かしら共通の要因が関わっていることが考えられます。私が今回のテーマで安房里見・肥前有馬両家について直感的に思いついた仮説は、一見すると当たり前のようなものばかりです。ですが、これらの要因が歯車のようにピッタリ噛み合う状況というと、実は日本広しといえども意外と少ないように思うのです。

 
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