危険な言論統制―ACTA

August 29 [Wed], 2012, 18:18
みなさん、TPPについては、ご存じの方も多いかと思います。
発効すれば、日本が米国の「経済的属国」と化す危険性もある、
危険な条約です。しかし日本政府は、ろくな議論も経ないまま
参加しようとしています。それなのに、なかなか国民の反対の
声が大きくならず、大変心配です。

しかし、ここにもうひとつ、危険な国際条約があります。
「ACTA」(Anti Counterfeit Trade Agreement)という
ものです。これにはいくつかの問題点がありますが、深刻な
ものの一つが、インターネット上での表現の自由が侵害され、
個人のインターネット上での発言が、現在よりもっと厳しく
公然と、「監視」される可能性が高いという点です。

まず、これが発効すると、ネット上で個人が何か発言、あるいは
表現する際に、ネタ元−ソースを引用、転載することが出来なく
なります。ブログでも、フェイスブックやツイッターといった
SNSでも、同じことです。YOUTUBEなどの運営も困難になると
思われます。事実上の、言論統制です。

そして、政府にとって都合の悪いサイトや、国際的大企業などが
気に入らないサイトは、強制的にシャットダウンされる可能性が
あります。

こんな条約、日本政府は、国民に全く知らせないまま、勝手に
サインしてしまいました。マスメディアも、「なぜか」全く
報道していません。メディアに上がっていないことは、まるで
この世に存在しないことのように思っている人も多いようですが、
その陰で、こんな危険なことが行われているのです。

こういうのを見ていると、昨今メディアを騒がせている近隣諸国
との領土問題が、国民に対する「目くらまし」ではないかとさえ
思えてきます。

まさか、と思う方も多いかと思いますが、昨今のマスメディアの
政界・財界との癒着ぶりを見ていると、あながち笑い事ではない
と思います。この際、もう、大メディア盲信はやめましょう!

この「ACTA」、EU諸国に関していえば、いったん署名がされた
ものの、欧州議会によって否決されたので、発効はしないと思われ
ます。しかし、とにかく日本においては、「ACTA」の存在自体が
知られていないのですから、国民がこのまま何もせずに、政治家に
任せていれば、たとえそれが民主党政権でなくても、批准、発効、
という具合に持っていかれてしまうことでしょう。

この情報については、電波も紙メディアも完全黙秘なので、ネット
を通じて集める以外にありません。できるだけたくさんの情報を
得て、国民的議論の俎上に乗せなくてはいけないと思います。

参考までに関連サイトを上げておきます。「ACTA」が発効したら
これもできなくなるのでしょうね。みなさん、がんばって情報を
集め、声を上げていきましょう。

強いリーダーが現われて、日本を引っ張って行ってくれたら、
などと考えていては、とんでもないところへ連れて行かれて
しまいますよ!

http://sekaitabi.com/acta.html

近未来の世界最速列車

August 21 [Tue], 2012, 23:57


時速360キロ営業運転を目指して、とりあえず今年から「イタロ」という
私鉄の列車が、イタリアの高速鉄道専用線を走り始めました。

でも今は、線路を「間借り」している旧イタリア国鉄「trenitalia」の
高速列車「フレッチャロッサ」と同じく、営業速度は時速300キロに
抑えられています。間借り人の「イタロ」が、家主の「フレッチャ
ロッサ」よりも短い時間で各都市を結ぶというのは、やはり許されない
事ではないのかな、いったいどうするのだろうと思っていましたが、
ようやく「trenitalia」も「イタロ」に対抗できる性能の列車の開発を、
軌道に乗せたようです。

冒頭に載せた写真は、そのデザインモデルです。イタリアらしく、ただ
空力性能を良くするなどして、速さを追求するだけでなく「美しくある
こと」を重視したことがわかる、おしゃれな外観。

「フレッチャロッサ 1000」と名付けられたこの列車、再来年の2014年
から最高速度360キロという「世界最速列車」として、営業運転を開始
するのだとか。まあ「イタロ」も多分、それに合わせて営業速度を360
キロに上げるのでしょうね。

そして、この「フレッチャロッサ 1000」、地上設備などの改良を経て、
将来的には、最高時速400キロという「超高速列車」として、イタリアの
各主要都市間を結ぶ計画のようです。

時速400キロというのは、F−1マシンでさえ到達できない世界です。

「trenitalia」には、無理をせず、あくまでも100%の安全を確保して、
この列車を運用してほしいと思います。
でも、やっぱり営業運転を始めたら、ただこれに乗るためだけにでも、
イタリアへ出かけたくなってしまいそうな予感。デビューが待ち遠しい
というのが正直な気持ちです。

※その後、延び延びになっていた「フレッチャロッサ1000」のデビューですが、2015年6月14日、ミラノ―ローマ間を、最高速度360km/h、所要時間2時間20分で結ぶということで、ようやく実現が決まりました。詳報は、当ブログ2015年4月29日付の記事に掲載してあります。

原発とは「犠牲」を作るもの

August 13 [Mon], 2012, 2:17


日曜日は、東京大学大学院教授で、哲学者の高橋哲哉さんの
講演会が、カトリック藤沢教会でありました。私も微力ながら
スタッフの一員として、お手伝いしてきました。

高橋さんは、以前に講演(対談)をお願いしたときに、カトリック
教会が「殉教者」を讃えて聖人としてきた事などについて、それで
良いのだろうか?そこに、ある種の危険性はないのかと、非信者の
立場から、私たち信者に向けて、非常に厳しい問いかけをして
下さった方です。

今回の講演タイトルは「犠牲のシステム〜原発事故と私たち〜」。

高橋さんの講演の中で印象に残ったのは、原発には、それを稼働
させるために避けられない、4つの犠牲がある、というお話です。

ちゃんと覚えているか心配ですが、記憶にある限り、原発が作り出す
「犠牲」の内容は、およそ次のようなものでした。

【その1】シビア・アクシデントがあった時の「犠牲」

これは、言うまでもなく福島第一原発事故のような、重大事故が
起きた場合の「犠牲」です。福島で言えば、拡散した放射性物質
によって故郷を追われ、避難を余儀なくされた人たち。そして、
お医者さんでも、使うときには急いで外に出て、ドアを閉めて
しまうレントゲン室、すなわち「放射線管理区域」と同じくらいの
線量のところで、今も暮らさざるを得ない人たち。特に、放射線に
感受性の高い子供たちです。放射線管理区域とは、そこに一定時間
以上留まることも、そこに常備してある物を勝手に外に持ち出す事も
禁じられているような場所。そこに、24時間、365日暮らしている
小さな子供もいるのです。

放射線が怖くてレントゲンやCTが撮れるか、という人もいますが、
レントゲン室に「住む」ことを望む人はいないでしょう。

それから、だんだん被曝の許容量を上げられながら、そして線量計を
時には外したり、線量が上がらないよう、計器に鉛のカバーを付け
させられるといった、とんでもないインチキまでさせられながら、
毎日、放射線にさらされて作業をしている、事故収束作業員。
この人たちも、原発によって「犠牲」にされている人々です。

本来なら、首相は無理だとしても、原発事故担当大臣は福島か郡山に
常駐して、仕事をすべきではないでしょうか。

さらに、本当は東電の幹部が、原発の現場に入って、事故処理の陣頭
指揮に当たるべきだったと思います。せめて、数週間だけでも。

ところが政府の人間は、丸腰の現地の人の前に、完全装備の防護服
姿で現れ、素手を差し出す相手と、分厚い手袋をはめたまま握手した
ではないですか。

東電本社の重役らに至っては、一度として事故現場に入ることを
せず、事故の責任を取らないまま、何億円もの退職金をもらって
「逃げて」しまい、待遇の良い職場に、再就職している始末。
退職金の一部を被災者のために寄付する、などという発想をする
人間が、彼らの中に一人でもいましたか?

勝俣元会長などは「私にも老後がありますから」などと公の場で
口にしたほど、常識はずれな感覚を露呈していました。普通の
サラリーマンが、一生かかっても稼げないような退職金がないと、
やって行けない老後って、いったいどんな老後なんですか?
ふざけないでいただきたい。

彼らがそんな良い待遇をされているのに、どうして被災者や収束
作業員は過酷な「犠牲」を強いられなければならないんですか?

思わず、高橋さんのお話を外れて、私的な怒りを書いてしまい
ました。次に行きましょう。

【その2】原発の最初の「入口」で避けられない「犠牲」

原発は、核燃料がなければ動きません。その核燃料の原料となる
放射性ウランは、日本の原発の場合、主にオーストラリア中南部の
ウラン鉱山で採掘されているそうです。その地は、もとは先住民
アボリジニの人たちの「聖地」とされていたため、強い反対が
あったそうですが、結局大企業に押し切られてウラン鉱山になり、
そこで働いているのは、現地のアボリジニや、社会的・経済的弱者の
人たちだということです。

そして、重要な点は「被曝労働」なしでは、ウラン鉱石を採掘する
ことはできない、という事実。実際、放射線障害で病気になったり
亡くなったりしている現地の人が、たくさんいるとか。

日本のメジャーなマスメディアでは、皆無に近いくらい報道されて
いない事ですが、日本の原発は、彼らの「犠牲」の上に立って
稼働されてきたのです。日本人の電気を作るために、彼らが病み、
死んでいく現状は、フェアといえますか?

【その3】原発を平常運転するのにも必要な「犠牲」

実は、原発とは、事故を起こさなくても、日常的に放射線被曝を
しながら働く作業員なしでは、動かないものなのです。そして、
高い線量の現場に入る作業員たちは、東電の社員などではありま
せん。先日読んだ本によると、長年原発で働いてきた結果、癌に
犯されて亡くなった作業員の方は、「現場で東電の社員の顔なんか
一度も見たことがない」と言っていたそうです。

そうした作業員の方たちには、東電の下請けの、そのまた孫請け、
といったような会社が、日雇い作業員など、経済的・社会的な
弱者の人たちが暮らしている地域に行って、駆り集めてきた
人たちが多いのです。そして、放射線の恐ろしさなど、ろくに
教えられないまま、時には現場の暑さのために、防護マスクなど
かなぐり捨て、線量計も外して働いた末、非常にたくさんの人が、
放射線障害で、働けない体になったり、亡くなったりしてきた、
というのが、原発の歴史なのです。

私たちがぜいたくな暮らしをするための電気が、そうした人の
「犠牲」の上に作られる現状を、黙って容認していて良いもの
でしょうか?

【その4】「核のゴミ」の処理をめぐる「犠牲」

原発は「トイレのないマンション」に、よくたとえられます。
原子炉を稼働させれば、どんどん使用済み核燃料や、その他の
放射性廃棄物、すなわち「核のゴミ」が出て来てしまい、それを
安全に捨てたり、処理したりする場所が、日本にはどこにもない
からです。その処分は未来の日本人、つまり私たちの子供や孫に
押し付けられています。そのうち技術が発達すれば、良い解決
方法が、何か見つかるんじゃないの?という身勝手で無責任な
論理です。子供たちの、将来の「犠牲」を前提にして、私たちは
原発を動かしてきたのです。

結局、一番安全な方法は「地層内処分」つまり、大深度地下に
埋めてしまうことのようですが、地下構造が複雑な、地震大国・
日本には適当な場所が見つかりません。

そのため日本政府は、モンゴルに「核のゴミ」を押し付ける
「最終処分場」を作ろうとしました。モンゴル人の反対にあい、
さすがに政府も諦めているようですが。日本人が出した「危険な
ゴミ」を、外国人に押し付けて、彼らの「犠牲」の上に自分らが
豊かさを享受しようというのは、何ともおぞましい考えです。



このように、原発というシステムは、誰かの「犠牲」を前提とし
なければ、成り立たないものなのだ、ということを、高橋さんは
強調しておられたと思います。

原発というものが、これほど、人間の「犠牲」によって成り立って
いるシステムなのだ、という事を知った上で、それでも「原発は
必要だ」と言うのは、はっきり言って人間を「差別」することだと、
私は思います。

そして、そうした知識を得ても、この問題に無関心を決め込むのは、
深刻な「いじめ」を目の前で目撃しながら、何も見なかったふりを
するのと、同じようなものではないでしょうか。

脱原発すると、雇用がなくなる?それなら、次世代エネルギーの
開発と、そのプラントの建設を、今まで原発で働いていた人に
お願いすれば良いではないですか。それに、今ある原発を全て
止めたとしても、核燃料を取り出し、原子炉を解体して廃炉に
するまでには、何十年もの時間と、たくさんの労働力が必要に
なります。雇用、という点からは、脱原発に、問題はないと
私は思います。

……などと偉そうな事はいっても、私も学生時代のほんの一時期、
反原発運動をやった経験はあるものの、その後の約二十年間、
頭の中では「原発なんてなくすべきだ」と考えながら、具体的な
行動は、何もしないまま過ごしてきてしまった人間です。

カトリックの信者になってから、また社会活動をするようには
なりましたが、正直、福島第一原発事故の前までは、「反原発」
は、色々な活動の中では「傍流」の一つでしかありませんでした。
本気で「今すぐ原発をやめさせなければ」という気迫を持って
行動しては来ませんでした。

ですから私も、原発を巡る「犠牲」が生まれて来ていることに、
消極的ながら、加担していた人間の一人だと言えます。それに
ついて、懺悔しなければいけないと思っています。

でもその後、様々な人と出会い、原発をめぐる様々な知識を再び
勉強させてもらった今となっては、口をつぐんだままでいる事は
もうできません。

長くなってしまいました。高橋さんと落合恵子さんの対談形式で
構成されている『原発の「犠牲」を誰が決めるのか』というブック
レットの中には、こんな言葉が載っています。ここで、それを
ご紹介しましょう。

――メディアで行われた議論は、自分はあくまでも安全なところに
いて、「電力が必要だから」「経済が大事だから」というものです。
それらはすべて、自分が享受する権利をそのまま維持するために、
誰かを犠牲にする議論です。「あなたは自分が犠牲になれますか」
と問い直されないといけないのです。――

原発とは、それが事故を起こそうが起こすまいが(実際は起きて
しまいましたが)、そして電力が足りていようが足りなかろうが
(実際は足りてしまうのですが)、我々が「人間らしくあろう」
とする限り、あってはならない、一日も早く世界からなくして
しまわなければならないシステムだと、私は思います。たとえ
そこに「痛み」が伴おうとも、です。

皆さんは、どう思いますか?

官邸前へ。

August 11 [Sat], 2012, 12:17


毎週金曜日に、首相官邸前を中心としたエリアで、原発再稼働中止を
求める、集会・デモが行われていることは、皆さんもご存じだと思い
ます。私は通常、金曜日の夕方以降は締切で体が空かないのですが、
昨日は「合併号休み」で締切がなかったので、初めて行って来ました。

少し出遅れてしまったので、官邸前に向かう列には入れず、警察官に
誘導されて、国会議事堂前のエリアに向かうことになりました。でも
こちらもすごい熱気。



自分の思いを託したオリジナルのプラカードを持った人も多く。



何にも用意していなかった私は、少し引け目(?)と後悔。



それでも、実際に行って、何が起きているか、自分の目で確かめ
たかったのです。



このデモだけで、すぐに政府や「原子力ムラ」がひるんで、大飯
原発を停止したり、他の原発の再稼働を諦めたりするとは、正直
言って思いません。



それでも、十年、二十年前だったら、もし同じことが起きていたと
しても、日本でこんなデモが、粘り強く、継続的に行われるような
ことはなかったと思います。日本人は確実に変わりつつあるんだ、
何でも人ごとにして、無関心でいたり、いわゆる「お上」の言う事
におとなしく従うばかりの国民では、もうないんだということを、
永田町や霞が関や、その裏で糸を引いている経済界のお偉いさん
たちに理解させる効果は、あると思います。



それに、報道機関でもいくらか報じられているように、このデモは、
昔行われていたような「活動家」たちのものではなく、ごく普通の
市民が集まっているものなのだ、ということも、実感できました。

何でも「ブーム」に流されて動き、熱しやすく冷めやすいと言われる
日本人が、これだけ長い期間、継続して抗議行動をし続けている
ということは、やはりこの国の中で、何かが変わりつつある、という
ことだと思います。今のこの「流れ」を断ち切りたくない、そして
少しづつでも広げていければ、という思いで、私も今回参加して
来ました。

原発がないと、電気が足りなくなる、という「プロパガンダ」がウソ
であるということも、この夏ではっきりするでしょう。

原発を動かすには、外国のウラン採掘地で被曝しながら働く人、通常
運転でも、原子炉維持のために、被曝しながら働く人が必ず必要だと
いう事実。そして「トイレのないマンション」のたとえの通り、どこ
にも持って行き場のない「使用済み燃料」と「放射性廃棄物」が、
どんどんとたまるばかりで、そのツケは、すべて今の子供たちに押し
付けられているという事実。その上に、日本列島が「地震活動期」に
入っている中で、活断層の上にまで原子炉があるという、危険と恐怖。

そして、準備ができるとお医者さんも急いで外に出て、ドアをピタリ
と閉じてしまうような、病院のレントゲン室と変わらない放射線量の
場所に、24時間、365日、放射線の影響に敏感な、小さい子供たち
まで暮らしているという現実が、今現在進行中です。



放射線が怖くて、レントゲンやCTスキャンなど出来ないだろうという
人がいますが、24時間、365日レントゲンを撮られ続けても平気でいる
という人が、どこにいますか?

そうしたものを全て無視してまで、しゃにむに原発が推進されるのは、
一部の人の「利権」のため以外の、何ものでもないのです。

たとえデモ一回一回の効果は薄くても、継続すれば、「原子力ムラ」の
人々に対して、ボディーブローのように、少しづつ少しづつ、きいて
くる可能性はあります。

金曜日の官邸前には、仕事の関係でなかなか参加はできない私ですが、
自分なりにいろいろな形で声を上げ、行動することは継続したいです。

何よりも次の選挙では、党派ではなく、この問題にどういう態度を
取っているかに注目して、投票をしたいと思っています。

2012「緑のハート」への旅E

August 09 [Thu], 2012, 13:23


とうとう、アッシジを去る日が来ました。朝の窓からの風景。この
「眺めの良い部屋」とも、お別れしなければなりません。本当に
名残惜しいのですが、旅には、終わりがあります。

でも、ローマに戻るのは夕方で構わないので、チェックアウト後も
ホテルにスーツケースを預けて、アッシジの街中を散歩することに
しました。本当は、スバシオ山に登り「カルチェリの庵」を訪ねる
という選択肢もあったのですが、副店長が、ショッピングタイムを
取りたいと言います。既に前日、素敵な黒い革のサンダルを、自分の
ために購入していたのですが、会社のみなさんにお土産を買わなく
てはいけないので、それも、もっともな意見。

息子も「彼女」のMちゃんと、一番の親友のI君に、お土産を買い
たいということで、とりあえず街のメインストリートでお買いもの。

副店長は、色も香りも素敵な石鹸と、香り玉をたくさん買いました。
息子は、Mちゃんには、オリーブの枝をくわえた白いハトの絵柄の
かわいい石鹸。まあ、観賞用ですね。それからI君には、陶器で
できた「サン・フランチェスコ聖堂」のミニチュア。

買い物が終わった後は、もう一度「サン・フランチェスコ聖堂」に
入って、楽しいアッシジ滞在ができたことへの感謝をこめて、
お祈りしました。



そして、改めて旧市街の中を散策。



優しい表情の、「辻マリア」さま。



こちらも「辻マリア」さま。



それから、この地ならではの「辻フランチェスコ」までありました。



改めて、どこを歩いても絵になる街だと実感。



結局、午後遅くまで街中を散策しました。



それから、ホテルに戻ってスーツケースを受け取って、とうとう
アッシジともお別れです。いつかまた、是非みんなで「帰って来たい」
と思います。

そして、アッシジの駅から、ローマ・テルミニ行きの準急列車に
乗り込みます。息子はすかさず「撮り鉄」ぶりを発揮。



ところが、この列車で、思わぬ強烈な体験をすることになります。
途中、運行に15分余りの遅れが出ると、突然列車が、猛烈な速度で
飛ばし始めたのです。牽引している電気機関車は、E464型という、
強力機。直線では、少なくとも160キロくらいは出していたのでは
ないでしょうか。

窓を開けて、そんな猛スピードで走ると、どうなるか。カーテンは
引きちぎれんばかりになびき、人の頬を叩きます。新聞などの軽い
ものは、宙を舞います。さすがに乗客も慌てて、大騒ぎ。息子も
目を丸くしていました。

そんな中でも、熟睡していた副店長は、ある意味大物です。

結局ローマ・テルミニ駅には、定刻より5分ほど遅れて到着。降りて
から見てみると、窓が開けっ放しの車両は、私たちが乗ったもの
だけ。他はぴったりと窓が閉じられています。どうやら、運悪く、
冷房が壊れた車両に乗り合わせてしまったようです。

でも息子は「特急券とかなしで、あんな高速列車に乗れたんだから、
ある意味お得だよ。ジェットコースターより面白いんじゃない?」と
ポジティブな意見を言っていました。

イタリア最後の夜に泊まる宿は「ホテル・ミラーニ」というところ。
テルミニ駅からは、徒歩で5分以内の至近距離にあるのですが、道を
一本間違えて、迷ってしまい、結局、バールのおじさんに訊いて、
やっとたどり着きました。



夕食は、ホテルの近くにあった「ナザレーノ」というリストランテ。
「ナザレーノ」とは、イエス様の故郷「ナザレ」の町の人、という
意味。イエス様自身を表す場合もあります。別にねらったわけでは
ないのですが、観光以外に「聖地巡礼」の要素も多かった今回の
旅の、最後の晩餐に、そんな名前の店に入ったのは、不思議な縁
だったかもしれません。



そして、一夜明けて、イタリアを去る日。朝食のコンチネンタル・
ブレックファストとも、当分はお別れです。



今回の旅を振り返って思い出すのは、前回同様、毎朝、イタリアの
国営放送「RAI 1(ライ・ウーノ)」のニュース番組「TG1」と、
その間に時々挟まってくる情報バラエティー番組「UNA MATTINA
(ウナ・マッティーナ)」を必ず見ていたこと。

オリンピック関係の情報は、日本のものがほとんどなくて困りました。
その代わりに、フェンシング・フルーレ女子の個人戦で、イタリアが
金・銀・銅メダルを独占したこと、同種目の団体戦でも金メダルを
取ったことが、繰り返し放送されていました。確かに、表彰式で
三つのイタリア国旗が同時に上がってゆく映像は、貴重なものだった
かもしれません。体操の内村航平が、金メダル確実だろう、という
話は、かろうじて伝えられましたけれど……。

それから、鉄道でローマ・フィウミチーノ空港へ早めに行きました。
途中、地上設備の関係で、今は最高速度300キロに抑えて走って
いますが、近い将来、世界最高の、360キロ営業運転を予定している
高速列車「イタロ」を車窓から見ました。今はまだ「レア」な車両
なので、鉄道マニアの息子は大喜びしていました。

空港に着くと、デューティーフリー・ショップで最後のこまごまと
した買い物をして、いよいよ帰りの飛行機、アリタリアAZ784便、
セストリエーレ号に乗り込みました。



そして、離陸。アリヴェデルチ、イタリア!

これで、イタリアの「緑のハート」ウンブリアへの旅も、終わり。
本当に、あっという間の7日間でした。でも、すばらしい思い出を
たくさん作った、忘れられない7日間でもありました。

何はともあれ、家族全員、元気で、事故もトラブルもなく、無事に旅を
終えることができたことに、感謝したいです。

また、がんばって働いてお金をためて、みんなでイタリアに行き
たいと思っています。

2012「緑のハート」への旅D

August 08 [Wed], 2012, 16:00


イタリア・ウンブリア州の旅も5日目。昨日は聖フランチェスコの町
アッシジを歩きましたが、旧市街の「サン・フランチェスコ聖堂」や、
「サンタ・キアラ教会」など、聖フランチェスコを記念する場所は、
どこも彼が亡くなった後にできたもの。そして、徹底した「清貧」を
貫いた彼の生き方からすると、立派過ぎる建築でした。

本当のフランチェスコの「精神」を感じることができる場所は、実は
旧市街地の外にあります。実際、彼はその活動の拠点を、一貫して、
市街地の外の、田園地帯に求めました。

冒頭に挙げた写真の小聖堂は、旧市街の東側、「サンタ・キアラ教会」
に近い「ヌオーヴァ門」を出て、少し歩いた場所にあるものです。
相当古いものと思われるこの小聖堂と、聖フランチェスコとの関係を
示すものは何もありませんが、彼が行った宗教活動や社会活動は、
こうした、野中の、半ば廃屋のような小屋や、礼拝堂で行われたこと
でしょう。

そして、この道は、聖フランチェスコが「私の家を建て直しなさい」
という神の声を聞いたとされる、「サン・ダミアーノ教会」へと続く
道です。あたりの風景はこんな美しいものです。



彼の時代から800年を経た今でも、おそらくあまり変わっていない、
この美しい自然が、聖フランチェスコの精神を育てたのです。
そして、今見るこの美しい田園風景こそが、フランチェスコの心を
写す、鏡のようなものではないか、と思えます。

聖人が神の声を聞き、世俗を捨てて最初に行った事は、石を積んで
崩れかけていた「サン・ダミアーノ教会」を修復することでした。

そのままオリーブ畑の間を抜ける小道をたどると……



今は「フランチェスコ会」の修道院となった、「サン・ダミアーノ
修道院」に着きます。道に面した正面は、フランチェスコがひとつ
ひとつ石を積んで修復した、800年前の「サン・ダミアーノ教会」
より、かなり大きなものになっていると思われますが……。



それでも、中に入ると質素な石の小部屋が続いています。礼拝堂も
壁や天井は自然石を積んだだけの、小さく素朴なものです。清貧に
徹した、聖人の生き方を伝える雰囲気は、まだ残っています。

「サン・ダミアーノ修道院」は、今は男子の修道会の施設になって
いますが、小教会から修道院に改装された時には、聖女キアラが設立
した「クララ女子修道会」の最初の本拠地となりました。

そのためか、今でも修道院の中庭などには、どこか優しい、女性的な
美しさが感じられます。



聖キアラが、自分の手で小さな草花を育てて、慈しんだといわれる、
「ジャルディネット」と呼ばれる小さな空間も。



ここは聖フランチェスコを偲ぶと同時に、彼の精神を、もしかすると
一番よく理解し、受け継いだのかもしれない、聖キアラの心に触れる
ことができる場所です。

サン・ダミアーノ修道院を出た後、アッシジに4回足を運んでいる私も、
自分の目で見たことがない、「リヴォトルトの聖所」という所へ行って
みることにしました。ここは、1209年ごろ、フランチェスコが、彼を
慕って付き従って来た人々と「小さき兄弟会」という集まりを作った
最初期に、皆と一緒に住んだとされる場所です。もともとは家畜小屋
だったと言われていて、「豚小屋修道院」などと呼ばれることもあり
ます。当時の建物が今も残っているのですが、風雨から保護するため、
今は「覆堂」の役目を果たす聖堂の中に、すっぽり収まっています。

一度、レンタカーを借りて、アッシジとその周辺を取材したときに、
リヴォトルトに寄ったこともあるのですが、運悪く聖堂は閉まって
いて、時間もなかったため、入るのを断念したいきさつがあります。

サン・ダミアーノからは、歩いて4、50分と言われていたのですが、
この日は雲一つない晴天だったかわりに、猛烈に暑い日だったので、
(というか毎日そうだったのですが)行きだけ、タクシーを利用
しました。

そしてこちらが、初めて目にした「リヴォトルト」の聖所です。



この小さな小屋に、フランチェスコと、二十人近くの「兄弟たち」
が暮らしていました。夜はまさに、ぎゅうぎゅう詰めの雑魚寝状態
だったそうです。ミサを行ったり祈ったりするときは、この小屋の
外に立てた、素朴な木の十字架の前の地面に、皆で跪いたそうです。
「露天の礼拝堂」の十字架は、こんなイメージだったでしょうか。



しかし、このころが「小さき兄弟会」にとってもフランチェスコに
とっても、何の悩みも葛藤もない、一番幸せな時代だったのかも
しれません。

後に、大きな規模に膨れ上がった「小さき兄弟会」は、「会則」を
巡って、ぎくしゃくした人間関係に巻き込まれてしまうことになる
からです。優しい、多分優しすぎる性格だったフランチェスコは、
最高のキリスト者ではあったものの、大きな集団を束ねるリーダー
としては、必ずしも「最高」ではなかったようです。

晩年のフランチェスコは「小さき兄弟会」内の対立と葛藤を収める
事に疲れて、トスカーナ州のはずれにある「ラ・ヴェルナ」という
山中に籠り、ひたすら祈る生活に入りました。

そしてその場所で、十字架にかかったイエス様と同じ傷痕、いわゆる
「聖痕」を、両手両足と右胸に受けました。そしてその傷の悪化と、
無理な精進がたたっての様々な病気にかかったことで、ついに命が
危ない状態になり、故郷のアッシジに運ばれて、そこで最期の時を
迎えることになるのです。

フランチェスコの「物語」が長くなってしまいました。すみません。

リヴォトルトを拝観し終わった後は、バスで、旧市街からずっと
離れた、鉄道駅の近くにある「サンタ・マリア・デッリアンジェリ
教会」というところまで行くことにしました。

バス停の傍らに、こんな銅像が立っていました。



ハンセン病の患者さんの体を、水で湿らせた布で拭いている、
フランチェスコの銅像です。そんなことをする人は、当時はこの
聖人ぐらいでした。手で涙をぬぐう患者さんの姿に、社会から
はじき出され、忌み嫌われて、つらい思いをしていた患者さんの
心情が表れていて、胸に迫るものがありました。

バスに乗って着いた「サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ」は、
こんなところです。



ここは、初期のころから、フランチェスコが亡くなるころまで、
「小さき兄弟会」が本拠とした「ポルツィウンコラ」という小さな
礼拝堂を保護するために、やはり「覆堂」として建てられたもの
です。しかし「覆堂」としてはいかにも大きすぎて、強い違和感を
感じずにはいられない建物でもあります。これを眺めている限りでは
フランチェスコの精神とは、全く異質のものしか感じられません。

巨大な聖堂の中に保存されている「ポルツィウンコラ」はこちら。



外壁に描かれた豪華な壁画と、屋根に着いた飾りは、後の時代に
加えられたものです。フランチェスコがいた時代の、質素で小さな
礼拝堂の姿を頭の中で再現するには、少し想像力を働かせなくては
なりません。昔はこの礼拝堂の周囲に、何軒かのあばら家が建って
いて「小さき兄弟」たちの住居となっていたとのこと。


「小さき兄弟」たちが、ここに落ち着いたいきさつは、こうです。
ある日「リヴォトルト」に、そこを貸していたお百姓さんがやって
きて、小屋に無理やり豚を押し込みました。代わりに追い出された
「小さき兄弟」たちは、もとはベネディクト修道会のものだった
この「ポルツィウンコラ」を借り受けて(後に譲り受けて)、それ
以後ずっと、ここを本拠としたのです。

「小教会」の右手奥に、小さな礼拝堂があります。ここが、1226年
10月3日、フランチェスコが亡くなった、あばら家が立っていた場所
です。今、その時の様子を偲ぶにも、やはり想像力の助けが必要です。

旧市街の外で、フランチェスコの心を感じることができる場所と
しては、この他に、アッシジの背後にそびえる「スバシオ山」の
山中にある「カルチェリの庵」というものがあります。
フランチェスコと「兄弟」たちが、静かに祈ったり、瞑想したり
するのに使ったとされる小洞窟がたくさんあります。その森閑と
した山奥の雰囲気は、時間があれば、ぜひ訪れる価値のあるもの
なのですが、私たちには、もう時間切れとなってしまい、今回は
訪れるのを諦めました。

またいつか、皆でこの町を訪れる時まで、その楽しみはとって
おくことにします。

代わりに行ったのが、アッシジ旧市街の一番高い所に建っている
「ロッカ・マッジョーレ」(大要塞)です。



ここは、最初はアッシジに住む貴族たちが、町を防衛する拠点
とした所です。ところが、フランチェスコがまだ少年だったころ
新しく台頭してきた、町の富裕な商人=ブルジョアたちが、貴族
に対して反乱を起こし、この要塞を襲って破壊してしまいました。

その時、命からがらペルージャに逃げたアッシジの貴族たちは、
その後復讐を期して、ペルージャ軍と共に、アッシジに戦争を
仕掛けました。その戦争には、まだ町の富裕層のお坊ちゃまで、
「回心」する前だったフランチェスコも参加し、結果、捕虜と
なって、数年間ペルージャの牢獄に入ることになりました。

ですから、ここもまた、フランチェスコとは何の縁もゆかりも
ない場所ではない、と言えるでしょう。

昔はただの荒れ果てた廃墟だったこの大要塞ですが、今は整備
されて、ちょっとした博物館になっています。

昔、要塞の「バンケット」だったという部屋には、こんな人形も
展示されていました。



いくつかある「見張りの塔」にも上ったのですが、終わりの方は、
息子と副店長は元気だったのに、私だけぜいぜい息が上がって
しまいました。自分の年齢と、日頃の運動不足を実感しました。



でも、ここに一度来てみる価値はあります。アッシジの旧市街が、
まるでジオラマのように、上から眺められるからです。下の写真の
左手に見える聖堂が、サン・ルフィーノ大聖堂。右に見える聖堂が
サンタ・キアラ教会です。



一日歩き回って、多少の想像力の助けは必要でしたが、アッシジの
聖フランチェスコの、本当の「心」を偲ぶことはできたような気が
します。フランチェスコが手を触れたであろう、古い壁の石が、
在りし日の聖人の物語を、語りかけてくるような気がしました。

しかし何と言っても、この町を取り巻く田園風景、そこに吹く風と
いったものこそが、800年前のフランチェスコのまなざしや、その
声といったものを、何よりも身近に感じさせてくれるものだった
ような気もします。

夕食は「マンジャール・ディ・ヴィーノ」というオステリアで。
コムーネ広場から、サンタ・キアラ教会へ向かう道筋の左手に
あったお店です。「ポルチーニとトリュフのストランゴッツィ」は
おいしかったのですが、カプレーゼが、トマトが青すぎるなどで、
残念なものでした。

でも、ホテルに帰るまでに、アッシジの夜をたっぷり楽しんだので、



残念な気分もすべて帳消し。ホテルのバルコニーから見える夜景を
また堪能して、気持ち良い眠りにつきました。

2012「緑のハート」への旅C

August 07 [Tue], 2012, 14:08


イタリア旅行4日目。いよいよ、私にとっての、一種の「聖地」
アッシジにやってきました。アッシジと言えば、なんといっても
聖フランチェスコの町。アッシジの聖フランチェスコがどんな人
だったかは、このブログの4回前の記事「私が最も尊敬する人物」
を読んでいただければわかります。

今から9年余り前に、私が洗礼を受けた時にいただいた「霊名」も
アッシジのフランチェスコです。

アッシジの町に着くと、ホテルの部屋はまだ準備ができていな
かったので、とりあえずホテルにスーツケースを預け、街に出て、
すぐに息子に「タウ十字架」というものを買ってやりました。
こんなものです。材質は、オリーブの木です。



聖フランチェスコが好んで使っていたということから、アッシジの
市内の土産物店でも、教会の売店でも、どこでもたくさん売って
います。私と副店長は既に持っているので、これで三人揃いました。
息子のものは、まだ神父さんに「祝別」してもらっていませんが、
聖フランチェスコに敬意を表して、これをつけてアッシジを歩こう、
というわけです。

そして真っ先に向かったのが、冒頭の写真の「サン・フランチェスコ
聖堂」です。

ここは、聖フランチェスコの死後、わずか二年後に建設が始まった
と言われ、11年後に完成しました。究極の、と言っても良い清貧を
貫いたフランチェスコにささげるには、大きく立派過ぎる、という
意見もありますが、私は、その清楚なファサードが気に入っていて、
イタリアの教会建築の中でも、1、2を争うくらい好きなものです。

この聖堂は上下二段になっていて、上部の聖堂には、ルネサンス
絵画の先駆けともいわれる、ジォットの非常に有名なフレスコ画
「聖フランチェスコの生涯」連作28点があります。その中でも
特に有名な1点が「小鳥に説教をする聖フランチェスコ」です。



自然を愛し、自然界のすべてのものを「兄弟姉妹」と呼んだ彼は、
近年になって「自然環境を保護する人」の守護聖人にもなりました。

それから、いったん外に出て、下部聖堂に入ります。

堂内は薄暗くて、装飾は見づらいのですが、ここにはゴシックから
ルネサンス初期の巨匠たちによる名画が非常にたくさんあります。
ジォット、シモーネ・マルティーニ、ピエトロ・ロレンツェッティ、
チマブーエなどの傑作が詰まったそこは、まるで美術館のようです。
こちらは、チマブーエが描いた「聖母と天使と聖フランチェスコ」の
作品の一部。聖フランチェスコの肖像部分です。



ちなみに、この下部聖堂内にチマブーエが描いたフレスコ画のうち、
高さ4.5m、幅9mという大作「聖マタイ」は、97年に起きた大地震
によって、一片の大きさがわずか数pの、12万個もの破片となって
崩れ落ちてしまいました。とても修復は無理と言われたこの壁画。
しかしイタリアの修復家たちは、全ての破片の大きさ、厚さ、形、色を
コンピューターに記録し、再構成して、ついに修復に成功してしまい
ました。文化財保護にかける、イタリア人の、熱意をも超えた、執念に
近いものを感じます。

しかし、絵が大好きな一方、熱心なクリスチャンという面では私以上の
うちの息子。今回の旅行で、どこの教会に行っても、美術を鑑賞する
以上に、真剣に祈りを捧げている姿が印象的でした。おかげでこちらも
自然と敬虔な気持ちにさせられました。今回の旅は、観光旅行でもあり
ますが、聖地であるアッシジへの「巡礼」にもなりました。

下部聖堂のさらに下には、聖フランチェスコのお墓があって、聖人の
なきがらを納めた石棺が、今でも見られるようになっています。
金額は志納の献金をし、ろうそくを一本持ち、それを石棺前の祈祷台の
横に置いて、お祈りするのが決まり。

私も、ここを訪れるといつも特別な気持ちになり、息子を見習うまでも
なく、心を澄ませて深い祈りをすることができる、特別な場所です。

聖フランチェスコの「お墓参り」を済ませ、何か清々しい気分に
なって、アッシジで滞在する「ジォット・ホテル」に戻りました。
そして部屋に入るなり、思わず声を上げてしまいました。そこが
飛び切りの、「眺めの良い部屋」だったからです。バルコニーから
望む景色は、こんなものでした。



アッシジの丘から眺める、ウンブリアの平原の美しさには定評があり
ます。以前にも、アッシジの旧市街から平野を見下ろす、眺望の良い
部屋に泊まったことはありました。

しかし、このホテルの部屋からの眺望は、見下ろす平野の前景に、
1200年代に建てられた「サン・ピエトロ教会」が見えて、さらに
景色を味わい深いものにしていたのです。もう数えきれないくらい
イタリアのホテルに泊まってきましたが、今回の部屋が、窓からの
景色という点では、最高だったかもしれません。出来ることなら、
この部屋に住んでしまいたい、と思ったほどです。

部屋自体も、調度品はペルージャの「ホテル・フォルトゥーナ」と
異なり、アンティークではありませんでしたが、清潔で機能的で、
十分なスペースがありました。



従業員の応対も親切で感じが良かったです。またアッシジに来たら
この「ジォット・ホテル」に泊まりたいな、と思います。

ホテルの部屋で「切り売りピッツァ」と「自販機バール」で買った
飲み物で昼食を済ませ、またアッシジの街に出ます。

さすがに世界遺産の町。メインストリートこそ、観光客でいっぱい
ですが、一歩裏通りに入れば、中世の雰囲気を色濃く感じられる
場所がたくさんあります。



また、アッシジ旧市街に住んでいる人も、ちゃんと自分の義務を
承知していて、家の外観を美しく保っています。



町の起源は古代ローマ時代にさかのぼるアッシジ。「フォーロ」と
呼ばれる公共広場だったところには、当時の「ミネルヴァの神殿」
の一部がまだ残っていて、今は教会として使われています。



広場の雰囲気は、重厚でありながら、のんびりとしていて、いまや
観光地とは言いながら、それでもひなびた感じがあります。



それから、この町で印象に残ることは、水道水が冷たくておいしい
こと。ローマの水もおいしくて、スペイン広場の「バルカッチャの
噴水」などで、ペットボトルに水を汲む人が多いくらいなのですが、
アッシジもそれに負けていません。古代の「フォーロ」跡にある
「コムーネ広場」の東側には噴水があるのですが、その横に、公共の
水飲み場があります。ここの水が最高! 飲んだり、ペットボトルに
入れたりと、我々もさんざん活用させてもらいました。

それから、町の旧市街の東のはずれにある「サンタ・キアラ教会」
を訪れました。



白とピンク色の石を、交互に重ねたファサードは、聖女キアラに
捧げられた教会にふさわしい、かわいらしい外観です。

ちなみに聖キアラは、フランチェスコの教えを忠実に守り、彼に
従った女性で、のちに「クララ女子修道会」を設立しました。
イエス様の近くに聖マグダラのマリアがいて、フランチェスコの
近くに聖キアラがいた、というのは、不思議な符合に思えます。

「サンタ・キアラ」教会の地下礼拝堂にも、聖キアラのお墓が
あります。ただ、人がいっぱいな上、お祈りする場所がなくて、
ゆっくりできないのが残念なのですが。

でも「サンタ・キアラ教会」のもうひとつすばらしいのは、内側
から見た、バラ窓に差す光が、本当に美しいこと。写真のないのが
残念です。

それから「コムーネ広場」から少し上がったところにある、この町の
カテドラル、「サン・ルフィーノ」大聖堂に行きました。



アッシジの町の「ドゥオーモ」であるこの聖堂ですが、少し地味な
存在。それでも、左手の鐘楼は11世紀のもの。聖フランチェスコも
この鐘楼を見上げ、鐘の音を聞いたのかと思うと、感慨深いです。

夕食はコムーネ広場の端にある「トラットリア・デッリ・ウンブリ」
という店で。かなりおいしくて、値段も手ごろでした。ウンブリアの
名物である、太くてもちもちしたロングパスタ「ストランゴッツィ」
のウンブリア風が、特に美味でした。

アッシジは、ペルージャ以上に安全な町。凶悪犯罪のたぐいは皆無
なだけでなく、泥棒、スリのたぐいもほとんど話を聞きません。
イタリアでも、小都市は日本の田舎町と全く変わらないくらい安全
なのですが、アッシジは観光地でもあるのに関わらず、超安全です。
偉大な聖人に遠慮して、悪い人は、寄りつかないのでしょうか。

となれば、夜のお散歩、ぶらぶら歩きは何よりの楽しみ。特に
中世の雰囲気が濃いアッシジの夜は、何とも言えない情緒がある
のです。ライトアップされた、夜のサン・フランチェスコ聖堂も、
本当にうっとりするくらい美しいです。



ホテルに帰ってから見た丘の下の夜景も、とてもきれいでした。



息子もアッシジを気に入って、「ヴェネツィアと同じくらい好き。
世界で一番好きな場所が、二つできた」と言っていました。

明日は旧市街の外に出て、聖フランチェスコの足跡をたどります。

2012「緑のハート」への旅B

August 06 [Mon], 2012, 16:40


イタリア3日目の朝は、ペルージャの「ホテル・フォルトゥーナ」の
朝食室で始まりました。ホテルの朝食室には、下の写真でもわかる
とおり、1300年代に、この建物が作られた当時のフレスコ画がまだ
残っていて、クラシックで素敵な雰囲気を醸し出しています。



朝食の内容は普通のコンチネンタル・ブレックファストですが、味は
十分満足できるものでした。



朝食を済ませたら、街へ出て、ペルージャを散策。中世の香りを満喫
します。そもそも、ホテルを出た瞬間から、こんな良い雰囲気です。



旧市街は、どこへ行っても絵になる景色です。



こんな、素敵な小路に迷い込むのも、また楽しいものです。



ただちょっと意外な(?)物も発見しました。自販機だけがたくさん
置いてある、無人のバールです。私たちが気づいた限りでも、旧市街に
2か所、無人バールがありました。



普通の店で買うと1ユーロが相場のミネラルウォーターが、ここでは
半額の50セント。ペットボトル入りのジュース類も、最低1ユーロ
50セントから2ユーロするところが、ここだと1ユーロ。日本の
自販機で飲み物を買うのより、ずっと安いです。お菓子のたぐいも、
キンキンに冷やして(笑)売っています。



学生の街だから、こんな所もあるのかな、と思っていましたが、この
後に訪れたアッシジでも、同じような店を2か所見つけました。その
うちの一軒では、レンジで温めて食べるパスタや軽食も売っていて、
ちゃんと電子レンジまで置いてありました。

外国人の学生やツーリストが多い街だから、というのと、治安が良い
ために、こういう所があっても、荒らされたりする心配が少ないから
というのが「無人バール」が出来た理由なんだと思います。

お金のない、節約旅行の私たちは重宝して、使いまくりましたが、
本来コミュニケーションの場でもあるイタリアのバールが、無人
というのは、ちょっとさびしい気もします。

旧市街を回っていると、意外に古いクルマによく出会いました。
最近はイタリアでも、古いクルマは本当に珍しくなったのに。
これは、昔の、オリジナルのフィアット500です。



一方通行の狭い道を、ものすごい勢いでバックしていたのが笑え
ましたけど。

そして、こちらは古いクルマではなく、最新鋭。カラビニエーリ
(国防省警察)の、パトカーです。使用車は、アルファロメオ159。
やっぱりかっこいいですね。



それから、ルネサンス初期に作られたファサードが美しい、サン・
ベルナルディーノ教会に寄って……。



大学の前を通って、街の反対側へと向かいました。

カルドゥッチ公園から見下ろすウンブリアの野の風景は、本当に
美しいです。



その後、旧市街の南の端の地下にある、パオリーナ要塞の中を見て
から、城壁の外に出ました。

とりあえず、国立ウンブリア考古学博物館に立ち寄ります。
石器時代からこの土地に人が住んでいたことを証明する遺物や、
イタリア半島の先住民のひとつ、エトルリア人の墳墓から出た
副葬品などがたくさんありましたが、疲れているせいもあってか
あまり強い印象はなく……。

それより、カラヴァッジョなどの優れた絵がいくつもあるという、
サン・ピエトロ教会へと気持ちは急きます。本当に、街のはずれに
あるサン・ピエトロ教会。



やっとたどり着いたというのに、お目当ての「巨匠」たちの作品が
探しても見つかりません。教会の中はがらんとして、尋ねる人も
いません。それでも諦めきれず、教会入口左手にあった聖具や絵葉書
などを売っている売店に行って、座っていたアフリカ系の神父さんに
尋ねてみると「あるよ。今行って見せてあげるから」とちょっと
ぶっきらぼうに答えてくれました。付いて行くと、教会の奥にあった
小部屋の扉を開けてくれて……ありました。
カラヴァッジョの「ローマの聖フランチェスカと天使」。



ラファエロの「幼子イエスと洗礼者ヨハネ」。



などなど。その中でも、私が一番気に入ったのは、これ。
パルミジャニーノの「聖家族」です。



なんだか、隠しておいた秘密の宝物を、そっと見せてもらったような
気がしました。これらのほかにも、何点か名品が。
やっぱり、延々歩いて来た甲斐がありました。


帰り際に、案内してくれた神父さんにお礼を言うと、それまで恐い
顔をしていた神父さん、ようやく微笑んでくれました。

でも、せっかくこれだけ良い絵があるのに、何で扉を閉め切った、
普通ではわからないような所に置いてあるのでしょう。まさか本当に
「隠している」のではないと思うのですが。教会が「観光地」に
なってしまうのを、嫌ってのことなのでしょうか。
ちなみに、某背表紙の黄色いガイドブックにも「訊かないと見せて
くれない」などとは、書いてありません。

でも、もし、少しだけ勇気を出して神父さんに訊いてみなかったら、
多分、見ないまま、諦めて帰るしかなかったでしょう。

やっぱりイタリアでは、ガイドブックを過信してはいけません。
過信してはいけないのは、地図や、交通機関の時刻表などもそうです。
何かとイレギュラーな事が多いこの国では、何でも人に「訊きまくる」
というのが、何より大事なのだということを、改めて実感しました。
そう考えると、「イタリアの奥座敷」のような場所まで見て回るので
あれば、最低限のイタリア語はできないとだめだな、と思います。

その後夕食は、目をつけていたトラットリアが、行ってみるとガラガラ
だったので、嫌な予感がして回避。仕方なく「黄色い背表紙のガイド
ブック」に「町一番と評判」と書かれていた「サン・ロレンツォ」と
いうリストランテに入りました。ところが、お値段はかなりする上に、
味はそこそこ。その上ポーションがお上品すぎて、私たちには不向きな
店だということがわかりました。

やっぱりイタリアでは「人に訊いてみる」これが一番大事ですね。

次回は、アッシジに向かいます。

2012「緑のハート」への旅A

August 05 [Sun], 2012, 19:02


一夜が明けて、イタリア旅行も2日目。この日はウンブリア州の
州都、ペルージャに向かいます。

ペルージャは、私が大好きな作家・須賀敦子さんが、イタリア語を
学んだ土地。個人的にも、思い入れのある街です。

まずはローマ・テルミニ駅から、特急のインテルシティ(写真上)
に乗って、テルニという町まで行きました。インテルシティは、
最高速度200キロの、かなりの高速列車ですが、乗り心地は良い
です。ただ、トンネルに入るときに気圧が上がり、耳が痛くなる
のがちょっと困りますが。

テルニ駅からは「ウンブリア中央鉄道」というローカルの私鉄に
乗り換えて、ペルージャ・サンタ・アンナ駅まで向かいます。

本当は、フォリーニョというところまでインテルシティで行き、
そこからインテルシティと同じ、旧国鉄「trenitalia」のローカル
列車に乗り換えて行く方法もあるのですが、今回は、乗り継ぎが
あまりに悪かったので、この方法を選びました。

ところで、テルニ駅についても、「ウンブリア中央鉄道」の切符
売り場がなかなか見つかりません。人に聞いて、駅付属のバールで
買うのだと知りました(下)。



バスの切符をバールで買うのは普通ですが、電車は初めて。
やっぱり、本当にローカル線なんですね。

ちなみに、列車の待ち時間に、息子がジェラートを食べたいと
言うので、このバールで「卵と生クリーム」の味のジェラートを
買いました。意外なことに(?)その味が絶品。しょせん駅バール
なんだから、と期待していなかっただけに、得をした気分でした。
それと、バールのおじさんが、最初切符を買って、二回目に
ジェラートを買いに行って「ブォンジョルノ」と言ったときに、
「リ・ブオンジョルノ(ブォンジョルノもう一回)」と答えて
くれたのが、ちょっとお茶目で楽しかったです。

そして、やってきた「ウンブリア中央鉄道」の列車がこちら。



ディーゼル(気動車)、単線、一両編成という、ローカル線の
王道(?)を行くウンブリア中央鉄道。ちなみに、使っている
Aln776型という気動車は「trenitalia」の「お下がり」です。

途中の車窓風景は、なんとものどかな田舎。オリーブの畑や、
ひまわり畑の中を走ります。



ただし、おんぼろ気動車の割には、かなりスピードはだしました。
とにかく、乗り物は何でもめちゃくちゃ飛ばすのが、イタリアの
特徴(?)です。

そして、ペルージャ着。町はかなり標高のある丘の上にあるので
「trenitalia」の駅は、丘の下の、旧市街からかなり遠い所に
あるのですが、ウンブリア中央鉄道のサンタ・アンナ駅は、途中
スイッチバックしながら、かなり高いところまで登ります。

駅から旧市街までは、それでもさらに標高差があるのですが、
途中、何度か公設のエスカレーターに乗れるので、それほど
苦労はしないで、街の中心地まで登れます。



そして着いたのが、こちら「ホテル・フォルトゥーナ」。中世の
雰囲気を残す裏通りにあります。ホテルの建物自体、1300年代の
建築を改装したものだそうです。築700年のホテル!



部屋に入って、小さなバルコニーに出ると、そこも中世の雰囲気
たっぷりの景色。



室内の調度も、味わいのあるアンティークなものです。



部屋の天井や壁には、建物が出来た当時のフレスコ画の断片が
残っていたりします。



フロントはじめ、ホテルの従業員もフレンドリーで感じが良く、
部屋も清潔で広め。ペルージャに宿泊するなら、ぜひおすすめの
ホテルだと思います。

ホテルを出て、路上の真ん中に出ている日よけ付きのテラス席で
遅い昼食を食べました。

すぐそばに、プルチネッラ(ナポリの伝統演劇のキャラクター)の
格好をして、じっと動かない大道芸人の人がいました。この日は
よく晴れて、ものすごい暑さ。顎から汗が滴っています。

大変だなあと思い、お金を渡して、ついでに息子と一緒に写真を
撮ってもらいました。



それから、かつての政庁舎だった、プリオーリ宮へ行きました。
2、3階は、現在も市庁舎として使われているのですが、その上が
「国立ウンブリア美術館」になっています。以前一人でペルージャに
来たことはあるのですが、ちょうどこの美術館が閉館日だったので、
見逃してしまっていました。

ゴシックからルネッサンスのウンブリア派の絵画が、大量に展示
してあったのですが、特に気に入ったのは、こちら。ペルジーノの
「慰めの聖母」です。



全体的には、ウンブリア派の絵画は、様式にとらわれた古い描き方
のものが多いように思われて、正直言って、いまひとつだったの
ですが……。

それから、サン・ロレンツォ大聖堂を見学。大聖堂前の広場には、
1300年代の代表的な彫刻家である、ニコラ・ピサーノ、と、
ジョヴァンニ・ピサーノの父子が彫刻を手掛けた、有名な大噴水が
あります。



そして大聖堂内には、聖母マリアの「結婚指輪」という聖遺物が
まつられています。本物かどうかという事以前に、聖母の結婚当時、
ユダヤの人々に、結婚指輪を交換する習慣があったのか疑問ですが、
まあ、そこは信仰の問題ですから……。単なる金属を磨いた鏡だって
神社にまつれば「ご神体」になるわけですしね。同じです。

夕食は「JOYCE」という名前の、いかにも観光客向けのオステリア・
バーで食べたのですが、これが意外に美味。特に、メロンに乗った
生ハムと、カラッフェで頼んだ赤のハウスワインがおいしかったです。



夜になっても町の雰囲気に、物騒な感じがなかったので、ぶらぶらと
散歩しました。やはり結構人は出ていて、大聖堂の横には、こんな
人だかりも。



観光都市というよりは、「大学都市」として名高いペルージャ。
サッカー選手の中田がいたころは、日本人もたくさん訪れたよう
ですが、今はほとんど日本人観光客の姿はありませんでした。
でも、旧市街にはまだ中世の雰囲気を残すところがたくさんあり、
意外にのんびりした街で、リラックスして過ごせました。

第二日目は、ここまで。次回はイタリアでの3日目のご報告をします。

2012「緑のハート」への旅@

August 04 [Sat], 2012, 20:07


こちらを「閉店」している間、私たちは「夏休み」をいただいて
家族3人でイタリアに行って来ました。

今回の行き先は、「イタリアのど真ん中」にある、ウンブリア州。
「イタリアの緑のハート」とも呼ばれる地域です。

この前の記事で書いた、アッシジの聖フランチェスコが生まれた
アッシジの町も、ここにあります。

成田からローマ・フィウミチーノ空港行きの、アリタリア航空
AZ785便は、定時に出発、ローマにはやや早着。

着いて早々面白い事があったのは、空港からローマ市内へ向かう
列車「レオナルド・エクスプレス」の中でのこと。



我々は先頭車両の一番前に乗っていたのですが、イタリア人らしき
お兄ちゃんがやってきて、乗務員室のドアのカギを、ガチャガチャと
開けました。鉄道員でもない様子なのに、おかしいなと思っていると、
そのままドアを開けっ放しにして、客室を通って列車から降り、
ホームでタバコを吸い始めました。その時点では、よく事情はわかり
ませんでしたが、「ずいぶん不用心だなあ。誰か客室から運転席に
入って、いたずらしたらどうするんだろう」と思っていました。

そして、出発時間になると、なんと、そのお兄ちゃんが戻ってきて、
乗務員室の扉を閉めて、そのまま列車を運転し始めたのです。私服で。

私も何十回とイタリアには行っていますが、列車の運転士が「私服」
だったのは、初めて見ました。

それも、けっこうヨレた黒Tシャツに、ダメージ系のジーンズ、肩には
アジア系エスニック調の小さいカバンをかけて、という超ラフな格好。
バスの運転手でも、そんな恰好で仕事をしているのは、見たことが
ありません。

やっぱりローマは、何かにつけて、結構きっちりしている北イタリア
とは違って「南」なんだなあ、と。地理的に言えばローマは「中部」に
当たるのでしょうが、この「ゆるーい」感じを見ていると、北部の
イタリア人が、時々「ローマは南イタリアだ」と言っているのも、
なんとなくわかるような気がします。

「あまりにいい加減」と言えばその通りなのですが、一応列車は
「わずか」5分程度の遅れで、終点のローマ・テルミニ駅に着いたし、
「何か問題でも?」と言われてしまえば、それまで。

まあ、とにかく面白いものを見せてもらいました。

今回、ローマは全く観光しない予定。夜になってテルミニ駅に着いて
から、場所を探すのに少し苦労した(結局、屋台で物を売っていた
北アフリカ系と思われるお兄ちゃんに訊いて、やっとわかりました)
「ホテル・ボローメオ」で一泊した後、翌朝は、すぐに列車に乗って、
ウンブリアへと向かいました。

そのご報告は、また次回。
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