清洲越しは、集団「高台移転」でした。

November 12 [Mon], 2012, 22:10
先日、中日新聞朝刊(10月22日)県内版に、戦国時代の液状化現象と題して、興味深い記事が掲載されていました。

江戸時代初期、徳川家康による、尾張・清洲の城下町を丸ごと移した「清洲越し」の背景に、相次ぐ巨大地震があったと。清洲城跡に、液状化現象の痕跡が見つかっています。「清洲越し」は近世の「集団高台移転」であった可能性が高いとの研究者(産業技術総合研究所 寒川旭客員研究員)の見解を紹介しています。


現在の清洲の模擬天守閣

清洲越しは「高台移転」。徳川家康、大地震を見越して高台・名古屋へ集団高台移転を断行!!
戦国末期、天正地震(1586年)では、長島城、蟹江城、長浜城が大津波と液状化現象で大きな被害を受け、北陸の日本海側の若狭湾にも大津波が打ち寄せたとする文献も残っています。
さらに、飛騨地方を支配していた謎の戦国大名「内ヶ嶋氏」 の帰雲城が城下町を含め大規模な土砂崩落で一瞬にして消滅しました。織田信雄は居城を長島城から内陸の清洲城に拠点を移すが、「内陸に移って津波の不安こそなくなったが、今度は地盤の緩さが問題となった。」
続いて、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島の各地で大地震が頻発、京都の伏見城の天守閣が倒壊するなど全国各地に多大な被害をもたらします。

五条川沿いの清洲城の石垣の下から見つかった液状化の痕跡。砂跡の下には十六世紀前半の陶器のかけらがあり、上には、清洲越しで廃棄された城の屋根瓦が認められた。したがって、これらの位置関係から、天正地震の液状化現象の痕跡とされています。(発掘調査 愛知県埋蔵文化財調査センター)


織田氏に代わり清洲城を治めた徳川家康は、一大プロジェクト「清洲越し」を決断します。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、西方の豊臣方に備え、交通の要所である名古屋の地に天下普請の堅城を築いたと言うのが通説だが、「強固な台地の上に城を移し、次に起こる大地震を見越した高台移転でもあった」とみる見解もあるようです。

「熱田ぐるりマップ」より
徳川家康は、清洲から8キロ南東の熱田台地の北端に、1610年名古屋城を築き、1612年から武家屋敷や町家、神社など三千戸を丸ごと移します。

補強工事中の坤櫓から天守閣を望む

西北隅櫓(御深井丸内より観た清洲櫓)
外観三重 内部三階 屋根は入母屋本瓦葺。旧清洲城の天守の外容は大入母屋造りの望楼式天守だったことが、転用部材から想定され、この清洲櫓外観とは、かなり異なっていたようです。
別名 清洲櫓(きよすやぐら) と言われ重要文化財に指定されています。


古材を多く用いた移築建造物の証(清洲櫓の一階内部)


清洲越しの百年後、宝永四年(1707)(南海トラフを震源としたM8.7)の宝永地震が東海、近畿、南海を襲います。この巨大地震に対し、「高台に移転した効果とみられる出来事があった」と指摘されています。静岡から九州沖にかけて沿岸部に大きな爪痕を残します。
名古屋城の北部の湿地帯を埋め立てた地に建つ家屋、神社仏閣の多くが液状化現象により倒壊を含む大きな被害が出ましたが、城の南部、東部の同じ台地に建つ武家屋敷、町家の多くは大きな被害を受けたという記録はほとんどありません。
一方、上方の中心地大阪は「川沿いの低地に城下町が広がっていたため、道頓堀を津波がさかのぼり、大型の千石船が何隻も市内の中心部に流れ込み民家や橋を破壊していった。液状化による建物の崩壊も多く発生し、多数の犠牲者が出た」ようです。
家康の先見の明により、名古屋と大阪は明暗が分かれたわけです。

東海地方における近世より発生した大地震を列挙すると

 明応 7年(1498) 東海道沖(M8.3推定)
 天正13年(1586) 被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ超巨大地震であったため、 震源域もマグニチュードもはっきりしていない。複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている
 慶長 9年(1605)  南海道ー房総沖(M7.9推定)
 宝永 4年(1707)  南海道・東海道沖(M8.6推定)
 安政 元年(1854)  東海道沖(M8.4推定)
 明治24年(1891)  濃尾地震(M8.0推定) 典型的な内陸地殻内地震(いわゆる直下型地震)震源地 岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市)、
 昭和19年(1944)  東南海地震(M7.9推定)
 昭和21年(1946)  南海道地震(M8.0推定)

東海地方には、過去、プレート境界型大地震に限らず、内陸地殻変動(直下型地震)大地震にも度々、見舞われていたようです。
安政の大地震の記録は各地に多く残されています。三陸海岸地域にある津波防災伝承の一つである「命てんでんこ」に代表されるような先人の教訓・メッセージも多く残されています。
紀伊長島町史 「養海院 大地震津波記」

「則チ宝永四丁亥ノ津波ヨリ、今嘉永七申寅ニ至リテ一百四十八年今ヨリ後、此ノ如キノ変災有ラル必ズ覚悟有ル可クナリ」
宝永大地震から148年目に安政大地震が今発生した。今から148年後(2002年)に必ず大地震が起きる事、覚悟し後世に語り伝えよ!!

志摩町史 「大地震 大津波流倒之記」

而後若し大地震等アラバ火を消し置、財宝を外にし、身命を内にして高き所へ退き、危機を逃れしめん事を伏候所、・・・・・依而如欺之事実を記して来世の一助ニ備んとす、恐らくは後鑑笑うべからず。

南勢町誌 神津佐 徳田家 「為地震津波心得謹世残」 には、此の地震・津波の状況やそれへの心得を音頭に作って「御村繁昌子孫へ傳えへん」としたもので、「欲のために逃げずに命を捨てるな、家・藏の屋敷の高さを上げ、田畑は早くとりかたづけて麦をまけ、浜の田は財産になぬ、堤・井関は丈夫にし、タガネをいれぬと潮がくるぞ」と教えています。

安政の大地震は、6月14日大地震に始まり、11月4日の大津波を伴う大地震を中心に、日に10回以上の強い余震に見舞われ、人々は長期間、野宿生活を強いられたようです。田原では、「殿様も野宿被遊候」と、記録に残っています。被害は、当然の事ながら、勢州沿岸、渥美半島沿岸、三河湾沿岸、知多半島南部沿岸を中心に広がりを見せていましたが、知多郡松原村庄屋小島茂兵衛は、「松原村諸用書覚」で、「当村ハ津波・地震とも御蔭ヲ以て逃れ申候、浜にて見る人之咄しニ波の高サ弐丈もあらん由、向ヒ地之地山波ニ而かくれ候由ニ申候」


大草城天守越しに新舞子(松原村)沖の石油貯蔵タンク群を望む
対岸の四日市、鈴鹿の山並みが見えない程の大津波が襲って、さしたる被害がなかったとは俄かに信じ難いが、現在の松原村(知多市新舞子)周辺は、大規模な埋め立てにより石油コンビナート、火力発電所が立ち並び、高さ弐丈(3.6m以上)の津波が来たら・・・想像するだけでぞっとします。

参考資料 紀伊長島町史 南勢町誌 知多市誌 志摩町史

追 記

「名古屋市の中心部に活断層か」の見出しで中日新聞一面のトップ記事が掲載されていました。



名古屋大学大学院環境学研究科の杉戸信彦研究員のグループが航空写真や地質資料などの分析で、名古屋市の中心部を名古屋城を東西から挟むように2本の活断層が南北に縦断している可能性が高いと指摘しています。
「杉戸研究員らは2本を「堀川断層」「尼ヶ坂断層」と命名。
「堀川断層」は名古屋市北部の矢田川の南から名古屋城の西側、名古屋駅の東側を通り、「尼ヶ坂断層」は市北部から大曽根、鶴舞付近に延びている。長さはいずれも10Km程だが、さらに北側に延びている可能性もある」と。
「この2本の断層の上には、JR東海道本線、新幹線、名鉄本線、名古屋高速1号楠線の一部が重なっている。活断層による地震は、街の直下で発生するため、その被害は大きくなりやすい」と指摘。杉戸研究員は「活断層ならM7か、それ以上の地震を引き起こす恐れがある。土地を堀り起こして直接調査するべきだ」と指摘。
名古屋市の防災室担当者は、「名古屋高速の直下でもあり、衝撃的な場所だ・・・報告の中身を確認し、市の地震対策専門委員会の専門家の意見を聞きながら対応を検討したい」との見解のようです。

徳川家康なら、どう決断するんでしょうか!!
明治24年の濃尾大地震では、名古屋城は、多くの多聞櫓群、西南隅櫓(坤櫓)が倒壊。(坤櫓は大正12年に旧部材で宮内省が復旧 現在、大規模な修復工事中)
直下型地震には、石垣の崩壊が起こり、大きな被害が予想されます。
ここ尾張の国は、プレート境界型にしろ、直下型にしろ大きな震災が近々必ず来ると言われて久しい。市の防災課からの連絡事項、ハザードマップを見直してみよう!!
津波には、東北三陸地方の防災伝承「命てんでんこ」は、さすが先人の知恵と感心します。
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shiro-2さん

あけましておめでとうございます♪
本年もよろしくお願いいたします!

この冬は、とても寒いので体調など崩さないようご注意下さい!!

清洲越しは集団高台移転!の記事には、かなり興味があります。また、新たな調査報告が出ましたら、教えて下さい。


January 04 [Fri], 2013, 19:33
shiro-2さん、おはようございます!

ほんと、寒くなりました。

昨日から、津島を訪問してて、津島神社の大銀杏の紅葉が見事でした(^O^)

今日も津島界隈を散策する予定で、今回は3連休と短いので、明日にはもう帰らなければならないのですが…

津島は、かれこれ6〜7回ほど散策してるのですが、やはり、織田信長の経済重視の姿勢は、「津島湊」の活発な商取引や、情報が飛び交う人々の交流を、間近でみていたからだと思います。

そして、祖父信定と父信秀の「時代の常識」に捕らわれない、自身の発想と行動力を受け継いだのだと思います。

毎回、ボーっと津島湊跡である「天王川公園」を見ていると、幼少時代の信長を見ることが出来ます。。

そして今回の旅でも、信長からパワーをもらって、また、ハードな仕事に頑張りたいと思います!!


November 20 [Tue], 2012, 4:15
shiro-2さん、こんにちは

今回の記事ですが、とても興味深く読ませて頂きました!

東日本大震災以降、歴史に学ぶ地震研究が加速するなか、これまで「清洲越し」は、名古屋城普請によって西国大名に負担をかけさせ、その勢力をそぐためが、定説でしたが、城跡の発掘調査の研究(液状化現象の痕跡が確認された)で、清洲越しが「高台移転」だったのではとの説、驚きました。

天正地震の後、徳川家康が今後の大地震を見越して高台である名古屋へ集団移転をしたとは、やはり、ただの「狸おやじ」ではありませんでしたね。。


November 13 [Tue], 2012, 10:40
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