大分県臼杵市 臼杵城跡

May 17 [Thu], 2018, 7:00
臼杵城大友宗麟丹生島に築いた海城で、
丹生島は三方が海で囲まれ、
西側のみ干潮時に陸続きとなるという天然の要害でした。

宗麟は島全体を要塞化し、干潟を埋め立てて城下を作り、
明確な時期は明らかではありませんが、臼杵城を本拠としています。
後に文禄の役の敵前逃亡で、宗麟の次代大友吉統が改易となり、
福原直高太田一吉が入城し、関ヶ原の戦いの後に、
稲葉貞通が5万石で入り、以後は15代にわたり稲葉家が治めました。


江戸時代の臼杵城。
明治期に埋め立てられる前は、このような海城でした。


臼杵城跡」。
現在の臼杵城は、町の中心に位置しており、海城の雰囲気はなくなっていますが、
その岩山がかつては島であったと想像力を働かせると、
要塞的に優れた城であっただろうとわかります。


畳櫓」。
臼杵城に現存する2つの櫓のひとつ。
臼杵城には20を超える櫓があったのですが、
現存するのはこの畳櫓と卯寅口門脇櫓のみです。


二ノ丸大門」。
古写真等をもとに復元された櫓門
二ノ丸大門は、稲葉貞通入城後に建築されたものです。


井楼櫓跡」。
畳櫓の上段にあった二層櫓で、畳櫓の倍の大きさでした。


会所櫓跡」。
名前から察するに、何らかの会所として使われた櫓だったのでしょうか?


臼杵護国神社」。
西南戦争臼杵城攻防戦で戦死した臼杵隊士43名と、
藩祖である稲葉一鉄と初代稲葉貞通から12代久通までを祀る神社。
護国神社藩主を祀る神社はそれぞれよくありますが、
その両方を祀っているのは非常に珍しい。
元々は別の神社だったのですが合祀したそうです。

稲葉一鉄は西美濃三人衆のひとりで、斉藤道三に仕えて活躍しましたが、
内紛によって美濃が乱れ、三人衆は織田信長に内応します。
信長は美濃を攻略し、稲葉山城岐阜城と改めて拠点とし、
天下統一を目指すことになりました。
以後、信長、秀吉に仕えています。
頑固一徹」という言葉は、稲葉一鉄から来ているという説もあり、
頑固な人物であったとの事。


大友宗麟公」レリーフ。
宗麟没後350回忌を記念して制作されたものでしたが、
戦時の物資供出のため失われ、現在は複製が新たに制作されて、
臼杵公園旧西の丸庭園跡に置かれています。


国崩し」。
龍造寺隆信を破って勢力を拡大する島津義久の北上に対し、
単独では対抗できなくなった大友宗麟は、
豊臣秀吉の傘下に入る事で、これを撃退しようと画策しますが、
秀吉から派遣された長宗我部元親仙石秀久十河存保の軍勢は、
戸次川の戦いにおいて島津勢最強とうたわれた島津家久に敗れ、
元親の嫡男信親と十河が討死。
仙石はその責を問われ、後に改易処分となりました。

島津勢は豊後に侵攻し、府内城を落とし当主大友義統は退却。
大友宗麟とわずかな兵が守る臼杵城にも侵攻します。
これに対しポルトガルより輸入した大砲「国崩し」を用い、
島津勢に攻め入る隙を与えず、退却させました。
そして中央より豊臣の大軍勢到来の報が伝わり、
島津は撤退を余儀なくされ、大友家は滅亡寸前で救われています。

二ノ丸跡にある臼杵公園グランドを越えると、石碑が並んでいました。

野中蘭畹顕彰碑」。
臼杵藩校「学古館(西館)」の教授野中蘭畹の顕彰碑。
帆足万里に師事し、臼杵の海沿いに私塾を開いて、
漢文、語学、算術、習字などを教え、後に藩校に招かれました。
維新後は松方正義の知遇を得て、大蔵省に出仕しています。


勤皇臼杵隊之碑」。
西南戦争の際、野村忍介率いる薩摩奇兵隊約3000名は臼杵に侵攻。
これに旧臼杵藩家老稲葉頼臼杵隊を結成して、785名で臼杵城に籠城します。
援軍の警視隊100名を追加しても1/3の兵力でした。
戦国時代に島津勢を防いだ堅牢な臼杵城でしたが、
抵抗の甲斐なく兵器の近代化と多勢に圧倒され陥落しています。
その戦闘で死亡した43名の臼杵隊を称え、建立されたのがこの石碑。
後に野津道貫率いる4個大隊と軍艦3隻による攻撃により、
薩摩奇兵隊は臼杵城から退却しました。


空堀」。
二ノ丸と本丸を別ける空堀。


天守台」。
臼杵城の天守閣跡。
天守閣の外観は絵図によって異なっており、
何度かの改修が行われたようです。


本丸跡」。
本丸は二ノ丸より標高が低かったようで、
大友時代はこちらが二ノ丸だった可能性もあるとのこと。
まあ、島の形状からすれば、真ん中が高いのは当たり前です。
でも海城だった当時から考えると、いくら標高が低くても、
海からの攻撃をそこまで想定しなくてよい戦国時代では、
一番奥側が本丸の方が理に適っている気がします。
稲葉時代はこちらが本丸なのは確定のようでした。


卯寅稲荷神社」。
本丸内に境内がある卯寅稲荷神社
臼杵城を築城する際に、丹生島明神として祭ったのが始まりで、
稲葉家が臼杵藩主になってからは、豊漁豊作祈願が行われ、
明治六年に現在の場所に移されたようです。


卯寅稲荷の参道鳥居と「卯寅口門脇櫓」。
臼杵城の現存櫓のひとつで、本丸の海側の出入口にあった櫓です。
江戸中期の絵図には「御鉄砲薬櫓」と呼ばれていたようで、
名称や役割が時代によって変わったようです。

幕末の臼杵藩は、14代藩主稲葉観通が軍制改革を行い、
領内川登の猟師らを集め「川登鉄炮卒」を組織し、
また海岸の測量や砲台の建設など海防に力を入れています。

15代藩主稲葉久通は佐幕の立場を続け、
朝廷からの上洛要請にもなかなか応じようとはせず、
豊後の諸藩主の中で最も遅くに上洛しました。
この遅延を挽回しようとしてか、
豊後諸藩の中で最も早く版籍奉還を行い面目を保っています。


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