大分県佐伯市 佐伯城跡

May 14 [Mon], 2018, 19:00
毛利家といえば長州藩やその支藩の大名家が有名ですが、
大分県佐伯市にあった佐伯藩の大名家も毛利家です。

長州の毛利家とは血縁関係はありませんが、
藩祖毛利高政が毛利姓を名乗ったのは、長州の毛利家との関係から。
高政は当初、森友重と称していた豊臣秀吉の譜代家臣で、
備中高松城攻略中に織田信長の非報を聞いた秀吉の「中国大返し」の際、
毛利家と和睦条件のひとつとして人質交換が行われ、
友重は兄の森重政と共に人質として毛利方の送られました。
その際、友重は毛利輝元に気に入られたようで、
後に毛利家が秀吉の傘下となった際に、その縁で輝元から毛利姓を与えられ、
秀吉の許しを得て毛利を名乗ったということです。
(兄の重政も晩年毛利姓に改姓)
賤ヶ岳の戦い九州攻めで活躍し、日隈城主となり2万石を与えられ、
その後も小田原攻め文禄の役慶長の役に参加。
関ヶ原の戦いで西軍として参加しますが、
藤堂高虎のとりなしや、東軍として戦って戦死した親族の活躍を考慮され、
改易も減封もされませんでした。
その後、佐伯2万石に移封となって、以後12代が佐伯藩主として続きます。


江戸時代の佐伯城
佐伯に入封した高政は、居城を栂牟礼城から八幡山に移して佐伯城を築き、
城下町を構成。
市田祐定羽山勘左衛門などの安土城姫路城に携わった技術者が手がけ、
6年の歳月を掛けて完成した山城でした。

しかし、その11年後に二ノ丸から出火して、山頂の天守や本丸が全焼。
山麓に三ノ丸御殿を建設して、山頂は放棄されます。
江戸中期に入った宝永6年(1709)、6代藩主毛利高慶によって、
山頂部の修築が行われ、天守以外が創建当時に再現されました。
また、高慶は佐伯藩中興の祖とされ、人事、産業振興、災害対策など、
多くの藩政改革を成功させました。
8代藩主毛利高標も名君をされ、先代の治世で疲弊した藩政を改革し、
藩校四教堂を創設して藩士の育成にも尽くしています。

元々佐伯は起伏に富んで耕地が少なく、農業収入は少なかったようで、
藩財政は漁業や貿易、林業などで賄っていました。
佐伯の殿様、浦でもつ」と謳われていた佐伯藩ですが、
こういう特殊な領地では、産業振興や経済統制など、
藩の行政の腕が試されるのでしょうね。


三府御門」。
佐伯市歴史資料館前にある薬医門で、
糾府・勘定府・米金府を司る三府役所の正門。
三府役所は、明治以降毛利家の邸宅となり警露館と呼ばれました。


藩校四教堂正門」。
大手門から三ノ丸櫓門へ続く内馬場通り沿いには、
藩校四教堂の正門が佐伯小学校に移築されています。
名称の由来は「礼記」にある詩・書・礼・楽の教えとされ、
また学問、徳行、忠実、誠信の4つともされ、藩校の基本理念とされました。


三ノ丸櫓門」。
内馬場通りの先には、三ノ丸の櫓門が現存しています。
前面の敷石が斜面となっており、晩種が駕籠に乗ったまま昇り降りが可能。
大分県には城持ちの藩が沢山ありましたが、櫓門の遺構はここだけのようです。


佐伯文化会館」。
三ノ丸櫓門をくぐった先にある佐伯文化会館
三ノ丸御殿のあった場所に建てられています。


独歩の道」。
佐伯城に登城するには、3つの道があります。
ひとつは本来の登城路であった「登城の道」。
次に翠明亭という涼み小屋のあった翠明台を通る「翠明の道」。
そして比較的緩やかで登りやすく、登った所に独歩の碑がある「独歩の道」。
今回は家族で登りましたので、「独歩の道」を選択しました。


みよちゃんも歩いて登ります。
4歳のみよちゃんには大変な道でしたが、頑張って最後まで登りました。


豊後佐伯城址」碑。
石垣まで登ったところにある石碑。
まだ新しいものです。


独歩碑」。
本丸外曲輪の東端にある国木田独歩の石碑。
佐伯藩出身の矢野龍渓の推薦で、佐伯にあった私立学校「鶴谷学館」で、
英語と数学の教師として赴任した独歩は、約1年間佐伯で暮らしました。
佐伯城のある城山(八幡山)は、佐伯時代の独歩が最も愛した山で、
この山なくば余には殆んど佐伯なきなり」と記しています。


独歩碑のあるあたりから市街を望む。
釣りバカ日誌19で、浜ちゃんがここから佐伯市街と佐伯湾を望んだらしい。


本丸への石段。


本丸跡」。
本丸には御殿のようなものが建てられていたわけではないようで、
天守閣が真ん中に建てられていただけのようです。
天守台にはのようなものがありました。


北ノ丸跡」。
本丸の裏側(市街から見て)にある北ノ丸跡。


二ノ丸跡」。
左側の石垣下は「登城の道」。
石垣上には多聞櫓が築かれていたようです。
階段の上には城門があったようですが、
ここが佐伯城の山頂部の正門だったはずですが、
そこまで大きなものではありませんでした。


西ノ丸跡」。
二ノ丸から西ノ丸へ細長く伸びています、
戦時中は高射砲が置かれていたようで、それらしき穴が残っていました。

幕末の佐伯藩は、11代藩主毛利高泰による財政再建が進められ、
殖産興業推進政策、特産品の専売制、流通統制が行われています。
ペリー来航以降は海防も重視し、軍政改革・大砲鋳造も行いました。
大砲鋳造には、佐田賀来家の技術が使われたようです(記事はこちら)。
跡を継いだ12代藩主毛利高謙は、先代と同様に軍政や海防の強化を行い、
また、朝廷とも気脈を通じる尊皇派の藩主でした。

しかし幕末期での同姓の長州毛利家との関連は見当たりません。
やはり同姓だけに距離を置いたのかもしれませんね。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村
Comment
小文字 太字 斜体 下線 取り消し線 左寄せ 中央揃え 右寄せ テキストカラー 絵文字 プレビューON/OFF

不正な自動コメント投稿を防ぐため、チェックボックスにチェックをしてください。

利用規約に同意
 X 
禁止事項とご注意
※本名・メールアドレス・住所・電話番号など、個人が特定できる情報の入力は行わないでください。
「ヤプログ!利用規約 第9条 禁止事項」に該当するコメントは禁止します。
「ヤプログ!利用規約」に同意の上、コメントを送信してください。
Trackback
プロフィール
  • プロフィール画像
  • ニックネーム:kii
  • 性別:男性
  • 誕生日:1973年8月25日
  • 血液型:A型
  • 現住所:山口県
  • 職業:会社員
読者になる
HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
2018年05月
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
P R
https://yaplog.jp/shigekikou/index1_0.rdf