群馬県高崎市 吉井陣屋跡

May 01 [Tue], 2018, 7:00
吉井藩は、7000石の旗本鷹司松平家当主松平信清が3000石加増され、
矢田に藩庁を建てて立藩した親藩
後に矢田から吉井に藩庁を移して吉井陣屋を建設しました。

鷹司松平家は、五摂家の一つ鷹司家の庶子である鷹司信平が、
3代将軍徳川家光の御台所であった姉孝子を頼り、
家臣1名のみ伴い江戸へ赴き、寄合となった事に始まります。
4代将軍徳川家綱の配慮で、紀州藩主徳川頼宣の娘松姫を娶り、
紀州徳川家の縁者となって松平信平を名乗り、
後に7000石の知行地を与えられました。

信平は、江戸時代前期の伝説上の人物松平長七郎の子とも伝えられ、
自刃した家光の弟徳川忠長の血筋とも憶測されましたが、
実際には上記のように鷹司家の庶子で、
門跡に入るのは嫌で姉を頼ったようです。

上信電鉄で七日市陣屋小幡陣屋を周り、再び電車に乗って吉井駅へ。
吉井にある吉井藩の遺構を巡ります。


武家長屋」。
現存する武家長屋だそうですが、屋根や壁などがトタンに変えられ、
ほんとに武家長屋?と疑ってしまいそうです。
たぶん骨組以外は変えられてるんでしょうね。


吉井陣屋内春日社跡」。
吉井陣屋敷地内の西南隅にあった春日社の跡地。
鷹司家の氏神である春日神を京都より勧請して陣屋内に祀ったもの。
石垣も陣屋時代のもので、数少ない吉井陣屋の遺構。
春日社は、明治41年に近くの吉井八幡宮に合祀されています。


吉井藩治址碑」。
石碑や銅像ってのは、逆光になるとどうしようもないですね。
この吉井藩治址碑は、吉井藩の歴史が刻まれているのですが、
藩祖松平信平が駿河大納言(徳川忠長)の子となっています。
この碑の建立は旧吉井藩士中村忠誠なのですが、
藩内でも鷹司松平家の出自が徳川宗家の流れを汲んでいると、
思われていたのでしょう。


吉井藩陣屋の表門」。
吉井文化会館の脇に、吉井陣屋の表門が移築されています。
廃藩置県後に民家に払い下げられていたもので、
昭和45年に吉井町に寄贈されてここに移築されました。

幕末の吉井藩は、8代藩主松平信任に子が居なかった為、
末期養子として津山藩松平家より松平信発が迎えられます。
聡明な人物で、諸外国の動向や諸藩の事情などに精通し、
日米修好通商条約が不平等であると反対しています。
安政の大獄の際には、前水戸藩主徳川斉昭に、
永蟄居を伝える上使を務めました。
子がいなかったため、米沢藩主上杉斉憲の五男を養子とし、
元治2年に隠居しています。
最後の藩主松平信謹は、鳥羽伏見の戦いで雌雄が決すると、
松平姓を捨てて吉井信謹を名乗りました。
しかし、上野国の各所で勃発した世直し一揆は吉井でも起こり、
一揆勢が陣屋を包囲する事態に発展。
吉井藩は成すすべなく一揆勢の要求を受け入れました。


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