佐賀県唐津市 唐津城

April 18 [Wed], 2018, 7:00
唐津城唐津湾に流れる松浦川の河口の左岸にある唐津藩の藩庁。
唐津湾に突き出た満島山の頂上に本丸、
その西側に二の丸、三の丸を配した連郭式の城郭となっており、
萩城と似たような造りをしています。

本丸の東側には、幅約500m、長さ約4.5kmの巨大な松林があり、
100万本の黒松が茂っており、これが唐津市街を北風から守りました。
この松林が有名な「虹の松原」で、
日本全国の海岸には防風林として松は植えられていますが、
未だこれだけの規模の松林が残っているのは珍しく、
三保の松原」、「気比の松原」と共に三大松原と呼ばれています。

元々は寺沢家が唐津藩主だった頃に造られた防風林で、
小規模の自然林に植林されたもののようで、
その保護の為に、林の松を伐採したら死罪という厳しい掟もありました。


唐津市街周辺(唐津城の場所)。
唐津湾沿いの緑の巨大な林が「虹の松原」です。


虹の松原」。
巨大な松林の真ん中に道路が造られており、車で通る事ができます。
どこまでも続く松林を抜けるには、車でも5分以上かかりました。
「虹の・・」という名前の由来は、
海岸線に沿って湾曲する姿が虹の様だとも、
二里の松原」がなまって「虹の・・」になったとも云われます。


唐津城 本丸」。
虹の松原を抜けると、松浦川の対岸に唐津城が見えてきます。
元々は「虹の松原」のある東側と陸続きだったようで、
河口は山の南側を通って山に沿って海に流れていました。
それを初代寺沢唐津藩主寺沢広高が、東側を掘って河口を造り、
元々の西側の河口を埋め立てて城下町を形成したようです。

この寺沢広高は、土木事業に長けた藩主であったようで、
唐津の城下町の基礎は、広高によって固められました。
しかし、残念ながら広高の次代寺沢堅高は、
天草の乱の失政を問われたことを苦に自刃したため、
継嗣のいなかった寺沢家は断絶してしまいます。


お城のコンビは最強ですね。
この唐津城の天守閣は、模擬天守で本来建築されていません。
藩や幕府などの資料に、天守の存在は確認できず、
天守台が造られたのみだったようです。
現在の天守閣は、昭和41年に観光施設として造られたもので、
慶長期の様式で建築されたと想定されています。

模擬天守に価値はないという方もいらっしゃいますが、
やはり天守閣は城のシンボルですので、
あるのとないのとでは、ずいぶん景観がちがってきますよね。


舞鶴公園」。
本丸のある満島山一帯は、「舞鶴公園」として整備されています。
この230段程の石段を登ると本丸に行けるのですが、
石段は大変だという人には有料(100円)エレベーターもあります。

「舞鶴公園」という名は、お隣の福岡城跡とも一緒の名ですね。
唐津城は「舞鶴城」の別名があるのですが、
じつは「舞鶴城」の別名を持つ城は、全国に16もあります。
風雅な言葉ですので、使われやすい名前なのでしょうね。


藤棚」。
石段を登った先にある総締門跡には、藤棚が造られていました。
唐津城は藤も有名で、季節には見事な紫藤が見られるようです。
唐津市の天然記念物。


本丸内は花見客が宴会していました。
本来はもっと広いのですが、修復中で入れない場所もあり、
現在はこじんまりとしたスペースです。


本丸から「虹の松原」を望む。


天守閣近影。
模造であろうがなんであろうが、天守閣と桜は絵になる。
良い天気が幸いして、僕のボロいスマホでもある程度の写真が撮れました。

模造天守や「虹の松原」に目が行きがちですが、
実は唐津城の真骨頂は、二の丸、三の丸にあるようです。
主要部分の本丸は観光地化しておりますが、
二の丸や三の丸のあった場所には多くの石垣が残されており、
主要部分以外でこれだけ残っているのは珍しいとの事。
町を散策すると、多くの遺構が見つかるようです。
特に海岸部分の石垣がよく残されているらしい。
残念ながら今回は時間が無かったので、本丸のみの訪問となりました。

唐津藩は寺沢家が断絶したあと、明石藩より大久保忠職が入封。
次代の大久保忠朝の代に佐倉藩に移封となり、
変わって佐倉藩より大給松平家の松平乗久が入封します。
3代続いて松平乗邑鳥羽藩へ移封となり、
入れ替わりに土井利益が鳥羽藩より入封。
4代後の土井利里古河藩に移封となって、
岡崎藩より水野忠任が入封します。
天保の改革で知られる4代水野忠邦は、
唐津藩から岡崎藩への転封を自ら願い出たため、
代わりに棚倉藩より小笠原長昌が入封して幕末まで続きます。

幕末の唐津藩といえば、世子のまま老中となった小笠原長行ですね。
長行は初代藩主小笠原長昌の長男でしたが、
幼少であったために養子が継ぎますが、
短命の藩主が続いて、4代小笠原長国の時代に成人しています。
長国は正当な系譜である長行に実権を譲り、
長行は中央へ出て順調に出世していきます。
生麦事件英国に賠償金10万ポンドを無断で支払ったのは長行でした。
一時、老中を罷免されますが、慶応元年に再び老中となり、
長州征伐を主導します。
第二次長州征伐小倉口総督となりますが、
諸藩兵を上手く束ねることが出来ず、将軍徳川家茂の薨去を機に戦線離脱。
この敗戦責任を問わて老中を罷免されました。
その後、徳川慶喜により老中に返り咲き、外国事務総裁に任じられます。
鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、
徹底抗戦を主張して慶喜に遠ざけられ、老中を辞任。
唐津藩では、長国が長行との養子関係を義絶して新政府に降伏しています。
奥羽越列藩同盟が結成されると、板倉勝静とともに参謀となり、
会津陥落後に仙台から蝦夷へ向かいました。
蝦夷共和国政権には参画せず、箱館戦争中に米国船で脱出し、
一時行方不明となっています。
その後、長行は明治5年に明治政府に自首。
駒込に隠棲して明治24年に死去しました。

また、長行の義弟で2代藩主小笠原長泰の子三好胖も、
上野戦争会津戦争と転戦した後、長行と共に蝦夷へ赴いています。
彼は箱館新撰組に入隊し、峠下の戦いで戦死していますが、
彼や長行に随従した唐津藩士の多くも新撰組に入隊しており、
唐津市内には箱館新撰組隊士の墓所が多くあります。


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