福岡県福岡市 福岡城跡

January 28 [Sun], 2018, 7:00
黒田長政が入封する前の筑前国の旧領主小早川秀秋の居城は、
博多湾に突き出した丘陵に築かれた名島城でした。
ですが名島は立地的に城下町の整備の余裕が無かった為、
長政は近隣の福崎に新しく居城を建設する事になります。

築城の際して、福崎を黒田家ゆかりの地である備前国福岡にちなみ、
地名を「福岡」に改めます。
福岡の地は博多那珂川を挟んで西側に位置し、
城下の整備をするうえで最適な場所でした。


下之橋御門」。
福岡城の大手門にあたる門。
元々は二層の櫓門でしたが、明治期に一層に改装され、
それが戦火を免れて現存していたのですが、
平成12年に不審火により焼失してしまい、
その後の平成20年に元々の二層櫓門に復元されたものが、
現在の下之橋御門です。

明治初期の下之橋御門。
福岡城へ入城するには、この下之橋御門意外には、
東側の上之橋御門と搦手である追廻門の3つしかありませんでしたが、
現在も本来の位置を保っているのは、この下之橋御門のみとのこと。


黒田如水公御鷹屋敷跡」。
下之橋御門をくぐってすぐの小高い場所に、
藩祖黒田如水が隠居場所とした三ノ丸御鷹屋敷がありました。
本来ここは本丸よりも高い山があったようで、
それを均して低くして隠居屋敷を建てたとされ、
現在はボタン・シャクヤク園となっています。


名島門」。
福岡城が建てられる前にあった名島城の脇門
黒田二十四騎の一人林掃部に下げ渡され、
林の屋敷門として使用されていましたが、
明治期に玄洋社平岡浩太郎の自宅門となり、
戦後、平岡の孫によってここに移築されました。


旧母里太兵衛邸長屋門」。
福島正則から名槍「日本号」を飲み取った事で知られる母里太兵衛
軍師 官兵衛」では速水もこみちが演じていましたね。
彼の屋敷にあった長屋門が移築されて現存しています。


舞鶴公園」。
本丸及び二の丸は、福岡県庁が置かれた後、
陸軍第12師団歩兵第24連隊の駐屯地となりました。
戦後、公園化され舞鶴公園となっています。
公園名は、福岡城の別名舞鶴城から命名されたもの。


二の丸梅園」。
二の丸跡には、約280本の梅が植えられています。


本丸表御門跡」。
二の丸から本丸に登る正門。
訪問時にはテントが建てられており、何かなと見てみると、
チームラボのイベント「福岡城 チームラボ 城跡の光の祭」が開催中との事。
午後6時より本丸がデジタルアート空間に変身する様です。
みよちゃんが見たいというので、
暗くなってからもう一度来ることを約束して本丸内を散策しました。
表御門の櫓門は、黒田家の菩提寺崇福寺に払い下げられ、
移築されて崇福寺の山門となっています(記事はこちら)。


祈念櫓」。
本丸表御門跡をのぼると正面に祈念櫓が見えてきます。
この祈念櫓は、本丸東北隅に鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、
万延元年に竣工したようです。
大正7年に崇福寺に払い下げられ、末寺の大正寺(北九州市)に移築され、
観音堂として使用されていましたが、
昭和53年に大正寺より元の場所に戻されました。
元々は白漆喰壁の櫓だったようで、大正寺移築時に大幅に改装されたようです。


本丸跡」。
イベント用のたまごのようなバルーンが沢山・・・。
本来は、本丸御殿があった場所で、
公式政務を行う部屋や大広間などのある表御殿と、
藩主の住居などがある奥御殿とが建てられていました。


鉄御門跡」。
大きな天守台に似合わない狭い入口。
文字どおり鉄製の門があったようで、敵の侵入を防ぐために幅が狭いらしい。
本丸まで敵の侵入を許した時点でアウトだと思いますねどね。
また、少数の特別の人間しか入れない門だったという説もあります。


天守台」。
福岡城にはこのような大きな天守台がありながら、
天守閣は無かったという説もあります。
天守台を造ったものの、幕府に遠慮して天守閣は建てなかったとされますが、
近年に見つかった資料には、かつて天守閣があったが取り壊したと書かれ、
かつて天守閣があったという可能性が出てきました。
また、天守台周辺の発掘調査を行った際には、
瓦片の出土もあり天守台になんらかの建物があったことは証明されています。

天守台には天守閣の柱を建てる約40個の礎石が配置されています。


天守台より本丸跡を望む。
これが昼の景色ですが、イベント期間中なので、
夜になるとすごいことになります。


南側からの天守台。


多聞櫓」。
二の丸南郭(南丸)にある多聞櫓
江戸時代から場内に残る数少ない現存建屋です。


追廻橋」。
福岡城の搦手である追廻門へ通じる追廻門。
福岡城の南側にある福岡護国神社の道路向かいにあります。

一旦福岡城の散策を終え、例のイベントの為に夜まで待つことに。
少し時間があるので、大濠公園に行ってみます。

大濠公園」。
福岡城の外堀で、入り江でもあった草香江を池にして公園としたもの。
池を二つに分けるように連なる小島に橋を掛けていることが特徴です。
園内をジョギングする人や散歩する人が多く、
市民の憩いの場となっており、スタバがあったり遊具があったりと、
時間をつぶすにはもってこいの場所でした。
寒いので橋を渡るのはやめて、みよちゃんとゆきちゃんと遊具で遊ぶ。
り台大好きのみよちゃんに付き合いながら暗くなるのを待ちました。

・・・で、午後6時。あたりは暗くなったので本丸に向かいます。

人多い!どこから湧いたんだって思うほどの人・人・人!
チームラボだしな・・そりゃそうだわな。


本丸跡は昼間とは全く違う風景になっていました。
無数にあったたまご型バルーンは、光の色を変化させます。


天守台に登って本丸を望むと、これまた昼間とは別世界。


天守台の石垣に映し出されたプロジェクションマッピング
花弁でできた動物たちが歩いたり飛んだりしていました。
その動物達をさわると、鳴き声が聞こえてきます。
どうなってるんだろ?


たまご型のバルーンは触れます。
みよちゃんやゆきちゃんも大喜びでした。
思いがけない家族サービスが出来ましたね。

幕末の福岡藩は、筑前勤王党という尊攘派藩士らがいましたが、
藩主である黒田長溥は開明派ながら佐幕寄りの考えを持っていました。
薩長同盟は、筑前勤王党無しでは実現できなかったともいわれ、
五卿大宰府への移動にも貢献しています。

しかし、幕府は長州寄りの行動をする福岡藩士らの行動を咎め、
また尊攘派家老加藤司書犬鳴谷に建設していた犬鳴御別館が、
長溥を幽閉するための施設であるとの諫言を長溥が聞いたことで、
乙丑の獄が発生し、筑前勤王党は壊滅しました。

加藤司書は切腹。中心的存在であった月形洗蔵らは斬首。
女流勤王歌人野村望東尼も流刑となっています。

その後、幕長戦争で長州藩が勝利し藩論は討幕へと移行しますが、
尊攘派の壊滅した福岡藩では人材が皆無であり、
戊辰戦争への出兵に際しても質の良い兵を送ることが出来ず、
大砲の音を聞いて逃げ出す連中か、反対に粗野で乱暴者だけの軍となり、
他の官軍から疎んじられたとされています。

明治3年、福岡藩による太政官札偽造事件が発生。
その後の調査で藩首脳部の関与が判明し、藩知事黒田長知は解任され、
後任には嫡子ではなく有栖川宮熾仁親王が就任したことにより、
事実上の廃藩となってしまいました。
時を待たず廃藩置県が行われた為、
黒田家が福岡藩を去った事はあまり知られていません。



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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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