島根県鹿足郡津和野町 津和野城跡

January 21 [Sun], 2018, 7:00
津和野城は、津和野盆地南西部の霊亀山に築かれた山城で、
鎌倉時代に地頭吉見頼行三本松城として築城したものでした。

以後、吉見氏14代の居城となり戦国時代には、
大内義長陶晴賢に攻められますが、籠城戦の末にこれを防いでいます。
大内、陶の主力が三本松城に釘付けとなっている間に、
毛利元就は安芸国の掌握を進め、間接的に毛利家の覇業に貢献しました。
厳島の戦いで元就が勝利すると、吉見家も傘下に入り、
以後も吉見家が三本松城を居城とします。

関ヶ原の戦いで、毛利家が防長2国に厳封されると、
吉見家も津和野を退去してに移住しました。

これに代わって津和野には、坂崎直盛が3万石(後に加増)で入り、
石垣を多用した近世城郭へと改修します。
すでに戦国の世は終わりかけていましたが、
長州藩ににらみを利かす意味もあるためか、戦闘的な城郭となりました。

坂崎直盛は大坂夏の陣にも出陣し、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室千姫を、
大坂城から救出するという功を立てましたが、
その後の千姫の処遇をめぐる対立から、千姫を奪う計画を立てたとされ、
それが露見して自害、若しくは家臣に殺害されてしまい、
坂崎家は断絶することになります。

代わって鹿野藩より亀井政矩が4万3000石で入城し、
以後、11代にわたり亀井家が続きました。
亀井家の治世の時に山麓に御殿や藩庁が建てられ、
城下町も整備されていますが、正確な築城時期は不明のようです。

津和野城藩庁跡」。
県立津和野高等学校の北側のグランドは、
山麓の藩庁及び藩主御殿があった場所。
この門のある場所に藩庁の正門があったらしい。
現在の門も亀井家の家紋である「隅立四つ目結」をモチーフにしています。


馬場先櫓」。
津和野城の現存建屋のひとつ。
津和野藩邸表門左側の隅櫓で、近くに馬場があったことからそう呼ばれました。
重層入母屋の本瓦葺き。外部漆喰仕上げの櫓構建築です。
石州瓦の城遺構は珍しいですねぇ。


嘉楽園」。
藩主御殿の庭園の一部が公園として整備されています。
公園名は、藩校養老館の初代学頭山口景徳の命名との事。

公園内には、藩主の頌徳碑など記念碑が建てられています。

亀井茲監頌徳碑」。
亀井茲監は、津和野藩第11代藩主。
江戸下屋敷を売却した資金で藩校養老館の規模を拡張するなど、
藩士子弟の学問を推奨。
幕長戦争では、中立的立場を取って長州軍を領内通過させました。
以後、薩長陣営に与して新政府の参与に任じられ、
神祇事務局判事議定職神祇事務局輔神祇官副知事などを歴任します。
この頌徳碑は、頭頂部に胸像を配したものですが、
実はこの胸像は近代銅像第一号とされる大村益次郎像より早く造られており、
胸像ながら「隠れ第一号」という説もあります。


山邊丈夫君頌徳碑」。
山辺丈夫は元津和野藩士で、東洋紡の創始者です。
旧藩主の嫡子亀井茲明のイギリス留学に随行し、
経済学や保険学、機械工学を学んで明治13年に帰国。
渋沢栄一藤田伝三郎松本重太郎などの財界人の援助により、
紡績事業計画を策定し、東洋紡の前身大阪紡績株式会社を設立しました。


子爵福羽美静先生之碑」。
津和野藩士福羽美静は藩命で京都に出て大国隆正の学び、
帰藩後は養老館で教授を務めました。
再び藩命で京都へ赴き、八月十八日の政変の際に七卿と共に西下。
帰藩して藩論を長州支持にまとめます。
維新後は、神祇制度確立に尽力。
元老院議官貴族院議員などを歴任しました。


贈従四位大國隆正翁之碑」。
大国隆正は津和野藩の国学者。
平田篤胤村田春門に国学を学び、その他、絵画や詩、蘭学や梵学も学び、
古事や皇朝学、五十音図に関する諸書を研究。
その後脱藩して京都で国学(本教本学)を講じ、
各藩の藩校や藩主、宮中にも招かれています。
11代藩主亀井茲監によって藩に復帰。養老館で教授を務めました。

嘉楽園には石碑が建てられているだけではありません。

物見櫓」。
現存する建屋遺構のひとつ。
元々は今の津和野高校の正門付近にあったようで、
嘉楽園内に移築されたもの。

さて、山麓の津和野藩邸より山頂の城郭へ向かいます。

山頂へは津和野観光リフトでないと行けません。
太鼓谷稲成神社の参道の途中にあります。


約5分のリフトで山頂へ。ここから山道です。


出丸」。
坂崎氏時代に増築された曲輪で、
家老浮田織部が普請奉行を務めたことから「織部丸」と呼ばれました。
石垣修理の為、立ち入りできませんでした。


史跡 津和野城址」の碑。
出丸と本城の間にありましたが、写真は逆光により文字が見えません。


「史跡 津和野城址」の碑より上り道を登り本城へ。
ここから天空の城です。


東門跡」と「三段櫓跡」。
この東門が津和野城の大手門。
三段の石垣は、それぞれ平屋の櫓が建てられていて、
見る方向によっては、三重櫓に見えたそうです。


天守台」。
手前の一段低い場所に天守閣が建てられていました。
ここに三層の天守が建てられていましたが、
天守が一番高い位置ではないのは珍しいですね。


三十間台」。
津和野城の最高所。
津和野の城下が一望できます。


太鼓丸」。
三十間台の北側の一段低い位置にあります。
この名前から察するに・・・。

太鼓谷稲成神社が遠くに望めます。
だから太鼓丸なんですね。


太鼓丸より東の山脈を望む。
津和野城は兵庫県朝来市の竹田城と並び、
天空の城と称されるだけの絶景を誇ります。
ペルーまで行かなくても、マチュピチュみたいなものは日本に沢山ありますね。


三の丸南部」より「人質櫓跡」と「三十間台」。
人質櫓の石垣は津和野城で最も高い石垣。
三の丸南部には南門があり、尾根を南に下り中荒城(吉見時代の出城)に続きます。

津和野城は、戦国時代の三本松城と、江戸時代の藩庁の、
山頂と山麓の二つの顔を持った城でした。
しかも江戸時代を通じて山頂の城もしっかりと使用されていたようで、
明治7年に取り壊された事がなんとも惜しい限りです。

幕末の津和野藩は、隣藩だけあってか長州藩に好意的であり、
幕長戦争後は、堂々と長州藩と行動を共にするようになり、
新政府にも人材を送り込んでいます。
その輝かしい栄光に泥を塗る事件が、キリシタンの弾圧でした。
浦上四番崩れにより信徒は流罪となり、流刑先の一つに津和野が選ばれます。
流刑者は乙女峠光琳寺で拷問を受けました。
津和野には153名が連れてこられ、36名が殉教しています。

現在、拷問の舞台であった光琳寺は廃寺となり、
跡地には乙女峠マリア聖堂が建てられ、
聖母マリアと36人の殉教者を偲ぶミサが行われています。



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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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