萩市 指月城

January 19 [Fri], 2018, 7:00
今更ながら萩城(指月城)に行ってみました。

関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、周防長門2ヶ国に厳封され、
本拠地である広島も奪われた為に、新たに城を築城することになります。
そこで、山口三田尻を候補地として幕府の裁可を求め、
幕府の指示により、萩に築城することが決定されました。

幕府が長州藩を山陰の僻地へ押し込めたという説が一般的ですが、
そもそも萩を候補地としたのは長州側なので、
幕府は選んだだけなのでしょう。

萩は、松本川橋本川に囲まれた三角州からなり、
実際に攻められた際には、非常に堅固な要害の地で、
城は海側に張り出した指月山を本丸にした梯郭式の曲輪を配置し、
三重の堀で固めた戦闘要塞として築城されました。


二ノ丸南門跡」。
指月城の大手門で、現在は石垣のみが残されています。


毛利輝元公像」。
毛利輝元は、中国地方の覇者毛利元就の孫で、豊臣政権五大老
関ヶ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ出され、
敗戦後は隠居させられ、嫡子の秀就には周防、長門2ヶ国のみ与えられました。
隠居後も実権を握っており、そのまま藩政に関わっています。
大坂の陣の際には、家臣を改名させて大坂方に送ったとされています。

南門を進むと、萩焼の窯元が数件立ち並んでおり、
それを過ぎると本丸に至ります。

内堀天守台」。
萩城といえばこの風景ですね。
天守閣の写真も残されています。

極楽橋(当時は木製の橋で、今は石製)を渡ると本丸ですが、ここからは有料
本丸は指月公園として整備され、歴代藩主を祀る志都岐山神社もあります。

本丸門を過ぎると志都岐山神社に続く参道が伸びており、
大きな鳥居が現れます。

この参道脇にはいくつかの石碑が建っています。

贈正四位前田君碑」。
甲子殉難十一烈士の一人前田孫右衛門の顕彰碑。
前田は正義派の官僚で、吉田松陰や村塾生らと親交があり、
松陰が安政の大獄で江戸に送られる際の最後の手紙は、彼に宛てたもの。
椋梨藤太ら俗論党が台頭すると捕えられて、
野山獄にて他の攘夷派官僚6人と共に処刑されました。
この碑は、大正5年に前田の子孫が建立したものです。


西村秀造翁頌徳碑」。
西村秀造奇兵隊出身の実業家藤田伝三郎の甥で、
王子製紙小田原電気鉄道日本窯業日本瓦斯などの創立に関わった人物。


児玉花外詩碑」。
児玉花外は「社会主義詩集」「ゆく雲」などの詩集や、
明治大学校歌」の作詞者として知られ、熱血詩人と称された人物。
長州の幕末志士ゆかりの地をめぐり、多くの詩を発表しました。

三百年の萩の花 一たび揺れて血の勝利
幕末長州藩がこの一文に約されていますね。


近藤元統の碑」。
指月城が建てられる前、この場所は近藤元統の屋敷があったようです。
元統の孫近藤露竹の代に毛利輝元に献上し、輝元を萩に迎えました。


萩城跡碑」。
本丸中央あたりに建立された記念碑。
最後の藩主毛利元徳の子毛利元昭が建てたもの。


花江茶亭」。
毛利敬親が三の丸の別邸花江御殿に建てた茶庵「自在庵」が、
本丸内に移築されています。
少し前までは内部観れたようですが、現在は外観のみ。


質素な造りの茶庵ですね。
この「自在庵」で家臣らの献策を聞いたとされています。


梨羽家茶室」。
寄組3000石梨羽家の別邸にあったものを移築したもの。
城内の年末大掃除の際に、藩主は城を出て重臣の邸に避難する慣例があり、
一時的にこの茶室で休憩したことから、別名「煤払いの茶室」と呼ばれたようです。


詰丸」への登山口。
萩城は指月山の山麓の本丸から、二の丸、三の丸と梯郭式に続く城ですが、
指月山の山頂には、有事の際に籠城するための詰丸という城郭があります。
この「詰丸」にも本丸、二の丸があり、平時でも6〜7名の番兵が詰めていました。
山頂まで20分掛かるということで登るのは断念。

参道へ戻って志都岐山神社へ。

旧福原家書院」。
参道側のこちらも移築した建物。
永代家老福原家の三の丸屋敷にあった書院で、明治15年に移築されたもの。


万歳橋」。
志都岐山神社前の庭池に架かっている石橋で、
元々は明倫館聖廟前の池に架けられていたもの。

万歳橋は滑るので脇を通ってくれとの指示どおり脇道を通ります。
ふと左側を見ると、少し土に埋もれた石碑がありました。

馬島先生之碑」。
馬島春海は、松下村塾出身の漢学者。
高杉晋作が奇兵隊を創設するとその書記を務めますが、
後に辞任して萩で漢学塾晩成堂を開き、慶応元年頃には、
松下村塾で指導にもあたっていました。
この碑は門下生が建てたもののようです。

吉田松陰や奇兵隊書記の文字が見て取れますね。

参道へ戻ると、少々変わった形の井戸があります。

楫取素彦寄進の井戸」。
大河ドラマ「花燃ゆ」のスーパーヒーロー(笑)楫取素彦寄進の井戸。
明治12年の群馬県令時代のものですね。


志都岐山神社拝殿及び幣殿」。
毛利元就毛利隆元、毛利輝元、毛利敬親、毛利元徳を祀る神社。
他の歴代藩主も配祀されています。
山口にある豊栄野田両神社の分社として、本丸敷地内に建立されました。


初めて来たのにどこかで見たことがある風景。
あとで調べてみたら、「花燃ゆ」で久坂がおみくじ引いてた場所じゃん!
もちろん当時は志都岐山神社などありませんし、本丸のあった場所なんで、
久坂も文も足を踏み入れる事もできない場所です。

さて、本丸跡の指月公園を出て二の丸東側の銃眼土塀へ。

銃眼土塀」。
昭和40年に一部復元された土塀。
海岸からの攻撃に対する土塀ですね。

毛利輝元入城より藩庁が置かれた萩は、人口4万人を超える城下町となります。
しかし文久3年。領内の統制がとりやすい中心部の山口に藩庁を移しました。
幕府の許可を得ずの移転であり、藩主の湯治を理由として山口に移り、
順次城内の役所を山口に移動させます(移転は時後に幕府に報告)。

元治元年に第一次長州征伐から俗論党政権が台頭した為、
一時的に萩に政権が移行しますが、
高杉晋作のクーデターにより再び、山口で政権が運営され、
討幕に向けて動き出すことになるわけです。



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>西村秀造の末裔です様
ご訪問ありがとうございます。
ご先祖様を記事にさせて頂いております事、ご容赦くださいませ。
是非ともまたご訪問下さいます様、おまちしております。

by kii January 07 [Mon], 2019, 1:45

改めて勉強になりました。ありがとうございました。

by 西村秀造の末裔です January 05 [Sat], 2019, 22:57
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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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