周南市安田 宍戸家郷校徳修館

September 15 [Fri], 2017, 7:00
岩国~三丘と周って、さあ高速で帰ろうと熊毛ICへ向かう途中、
徳修館」の看板を見つけたので寄ってみました。


熊毛IC周辺(徳修館の場所)


徳修館」。
21代当主宍戸就年が、士民教育振興のために創立した郷校です。
23代当主宍戸元礼は、明倫館に模して聖廟を新築。
この聖廟が現在残っている徳修館です。
当初は他に講堂、習礼場など、大小10棟の建物があり、
総敷地面積は1500uに及んだとされます。


徳修館に似合わないハニワや壺がいたるところに・・・
なんでかな?とおもったらこういうことでした↓。

弁慶穴古墳」。
このあたりは古墳が多く見つかったらしく、
この弁慶穴古墳は別の場所で見つかったもので、
山陽自動車道の建設に伴って、ここに移築されたようです。
古墳って移築できるんですね。初めて知りました。


贈従四位宍戸親基公碑」。
幕末後期の当主宍戸親基の記念碑です。
禁門の変下関戦争内訌戦などの事態の収拾に努め、
動乱の長州藩において、筆頭家老としての役目を果たしました。
また徳修館の経営にも力を注いでいます。

実は、ここから山陽自動車道を越えた熊毛北高校の近くに、
宍戸親基の墓があったようなのですが、見落としていました。
また近いうちに訪問します。


大涛君墓碑銘」。
市のコミュニティーセンター三丘徳修館の側に、
石碑が建てられており、「大涛君墓碑銘」と題されていましたので、
調べてみるとなんと、中根市之丞(記事はこちら)を襲撃した人物でした!
大涛緩有馬幸次とも呼ばれ、三丘村の出身で奇兵隊に入隊。
朝陽丸でやってきた幕使中根市之丞を小郡で襲撃しますが失敗し、
船で逃げる中根を追いかけて、中関の洋上で惨殺します。
その後は下関戦争、内訌戦、幕長戦争、戊辰戦争と転戦しますが、
明治3年の兵制改革で、諸隊の反発を抑えるため奔走するのですが、
逆に諸隊士から誤解されることとなり自刀してしまいました。
この碑は彼の四十周忌を記念して、建てられたものです。

徳修館は最盛期には、生徒数が400名以上だったというから、
その盛況ぶりに驚かされます。当時の人々はこの徳修館の構内に、
古墳やハニワが設置されるとは、夢にも思わなかったでしょうね。

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