岩国市 岩国城

September 05 [Tue], 2017, 7:00
下関市の住んでいる僕からすれば、岩国市はすごく遠くに感じられます。
県内じゃん。と思われるでしょうが、下関―岩国は高速で2時間強
ちょっとした旅行になってしまうわけですが、
頭では同じ山口県内というのがあるので、旅行とも言いにくい。
40km先の広島ならば旅行って感じなんですけどね。
たぶん岩国市の人もそんな感じなんじゃないかと思うのです。
と、まあ近くて遠い岩国市なんですけれど、今回行ってきました。


錦帯橋」。
岩国を流れる錦川に架かる世界的にも珍しい木造アーチ橋。
日本三名橋に数えられ、名勝に指定された有名な橋です。

吉川家が岩国の領主となってから、錦川には何度も橋が架けられましたが、
洪水のたびに流されてしまっていた為、
3代領主吉川広嘉は、洪水に耐えられる頑丈な橋を造ることに着手。
明の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖に架かる橋が、
橋脚を石垣で強固にすることで、洪水に耐える強度を得ているとの情報から、
児玉九郎右衛門の設計により、5連のアーチ橋を完成させます。
・・が、翌年の洪水で無残にも流されてしまいました。
そこで、橋脚の石垣をより強固に改良して再建したところ、
洪水が何度来ても流されない橋が完成したのです。

以来250年以上流される事なく、定期的な修復だけで保っていたのですが、
昭和25年のキジア台風により崩落。
戦時中から修復がおろそかになっていた事と、
岩国米軍基地建設の為に、錦帯橋付近の砂利を採取した事が原因という。
翌年より復旧が行われ、昭和28年に再建。
平成13年から3年掛けて、橋体部分の架け替え工事が行われた後、
平成17年に台風14号で、橋の一部が流された事による復旧が終わり、
現在に至ります。

渡った感想としては、アップダウンが激しく少々疲れます。
しかも湿度が高く、子供を抱っこしていましたので、
渡るだけでバテバテでした。


巖流ゆかりの柳」と「槍倒し松」。
橋を渡った左河縁にある2本の木。
巖流ゆかりの柳」は文字通り、巖流佐々木小次郎ゆかりの柳で、
佐々木小次郎は岩国の出で、錦川の河畔で風に揺れる柳の枝を切り、
水辺を飛び交う燕を切り落とすことで「秘剣燕返し」を編み出したとの事。
佐々木小次郎は色々と謎の多い人物で、不明な事が多いのですが、
この話も吉川英治の小説によるところらしいです。

槍倒し松」は、大名行列の先頭には「槍持ち」がいて、
街道では槍を垂直に立てて進むのですが、
他の大名の城下では槍を倒して通るのが礼儀とされていましたが、
大藩の大名行列の中には、槍を立てたまま城下を通過する者がおり、
これに憤慨した岩国の武士が、槍を倒さなければ城下を通れないように、
わざと邪魔になる松を植えたという事。
この松の位置では、邪魔にはならないだろうし、
大藩だろうがそんな無礼は許されない気もしますし、
色々つっこみどころのある木ですねぇ。


吉川広嘉公像」。
錦帯橋創健の偉業をたたえて建てられた銅像。


錦帯橋碑」。
吉川広嘉公像のななめ後ろにありますが、だれも見向きもしません。


吉川經家弔魂碑」。
羽柴秀吉鳥取城攻めの際、鳥取城を守備していた吉川経家の弔魂碑。
秀吉は鳥取城を包囲して兵糧攻めを行っています。
鳥取城の兵糧は尽き、城内では飢えで餓死者が続出。
経家は城兵の助命を条件として降伏、切腹することとなりますが、
秀吉は経家の奮戦を称えて助命しようとします。
しかし経家は、責任を取って自害するとの意志を変えなかった為、
秀吉は仕方なく切腹を許可しています。
この碑は明治期の吉川家当主吉川元光が建てたもの。


佐々木小次郎像」。
吉川英治の小説「宮本武蔵」の中で、
佐々木小次郎は岩国の出となっています。
実際はよくわかっていない謎の人物で、
岩国出身というのは吉川英治の創作のようです。

ちなみに吉川英治は、小田原の出で岩国吉川家とは関係ありません。
苗字も「きっかわ」ではなく「よしかわ」です。


昌名館付属屋及び門」。
昌名館は7代領主吉川経倫の隠居所だった場所で、
廃藩置県後に岩国県庁が置かれました。
現在は吉川資料館となっています。


錦雲閣」。
明治18年に旧岩国藩主吉川家の居館跡が公園として開放された際、
旧藩時代の矢倉に似せて造られた絵馬堂です。


吉香神社」。
歴代岩国領主を祀る神社。
享保13年に横山の白山神社内に建てられたものを、
明治18年に移築したものです。


致遠有坂先生之碑」。
岩国の砲術家有坂致遠の顕彰碑。
有坂家は代々岩国の砲術家の家系で、致遠は七代目でした。
玖珂村の石田三左衛門の子として生まれ、
幼少の頃より中島流砲術を学び、有坂家の養子となります。
有坂流石田流荻野流など、17流派の砲術を修め、
さらに安盛流合武三島流自得流を修め、
長崎に赴き高島秋帆について西洋砲術を学び、
砲術24流派の奥義を極めます。
天保12年、高島秋帆による江戸での銃隊運用演習では、
砲銃打方や西洋流銃陣を幕臣や諸大名に披露しました。
その後、岩国に帰って西洋砲術を研究し、
近隣諸国より門人を多く抱えます。
天保14年には、吉川家の命を請けて大砲を鋳造し、
近隣諸国からも依頼を受けるようになり、
中国・四国地方における西洋砲術の最高指導者となりました。
安政2年、死去。
致遠の子有坂長良は「日新隊」砲術師範として鳥羽伏見の戦いに参加し、
徳山藩の「山崎隊」と共に大阪城一番乗りの功名を得ています。


吉香公園」。
上記に紹介した場所はすべて吉香公園の敷地内。
岩国城の「土居」と呼ばれる敷地内です。
その中央には噴水のある広場があり、市民の憩いの場となっています。


ロープウェイを使って山頂へ。


岩国城天守」。
岩国城は平時の領主居城である「土居」と、
戦時の城である横山山頂の「横山城」とで構成されていましたが、
一国一城令により山頂の「横山城」は破却されました。
これは復興天守で、昭和37年に建てられたものです。
一国一城令とはいえ、周防国にはこの岩国城しかないはずですが、
長府藩が櫛崎城を破却したことに合わせて破棄されたようです。


天守からは岩国城下が一望できます。
城下の区割りは当時とさほど変わっていないそうです。
錦帯橋も見えますね。

天守内部は刀剣の展示が豊富で、刀好きにはたまらないでしょう。


天守最上階での我が子達。
みよちゃん&ゆきちゃんです。


岩国城跡旧天守台」。
本来の天守のあった天守台跡です。
天守復興の際、ここに作ると錦帯橋から見えないので、
現在の位置に作ったようです。


岩国領(藩)は、毛利元就の次男吉川元春を祖とし、
元春の次男吉川広家が初代領主として岩国を治めます。
関ヶ原の戦いで、徳川家康に内通した広家は、
毛利家本領安堵を条件に、毛利勢の動きを封じ戦闘に参加させませんでした。
しかし、戦後その条件は反故にされ、毛利家は取りつぶし、
広家に長門・周防2国を与えるという沙汰が下ります。
広家としては、毛利家の為を思っての事だったので、これに驚いて家康に直訴。
家康は広家に与えるはずであった長門・周防2国を毛利に与えます。
そうして長州藩が立藩し、広家は東の守りとして岩国3万石を与えられ、
岩国の領主となります。
しかし、毛利家の大減封は吉川広家のせいであるという声は、
長州藩家中から聞こえ、遺恨を残す事になります。
これには幕府からは優遇されていたという事実もあり、
実際に毛利家からの独立も図られた事もあり、
関係の修復は幕末まで持ち越す事となります。



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  • 誕生日:1973年8月25日
  • 血液型:A型
  • 現住所:山口県
  • 職業:会社員
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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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