松陰の北浦巡視6

November 12 [Sat], 2016, 7:00
ラスト。


廻浦紀略の道筋7

嘉永2年7月18日
@早朝出発。宿の近くにある厳島の祠に向かう。

A厳島の祠(伊崎厳島神社 記事はこちら)に参拝。
裏手の日和山を越える。

B海辺に出て「身投げ岩」に到着。
ここへは会所の軽卒が、海上を監視する場所との事。
※「身投げ岩」は彦島側にありますので、その対岸でしょう。
筋ヶ浜を過ぎて、大坪金毘羅山へ。

C大坪金毘羅山の狼煙場に登る。武久を眼前に見下ろし、
遠く北浦の海まで見えた。金毘羅を下って会所へ向かう。

D新地会所に寄って、武器庫を検視。終了後、宿に帰る。

E宿で昼食を取り、小舟で丸山八幡へ向かう。
※丸山八幡と記されていますが、亀山八幡宮の事でしょう。

F亀山八幡宮の下に小舟を着けて拝謁。
小舟はここで帰して徒歩で阿弥陀寺に向かう。

G阿弥陀寺では、絵説を聞いて宝物を見学。
※阿弥陀寺は現在の赤間神宮。絵説は「源平合戦図」の事でしょう。
現在でも赤間神宮の宝物殿で見ることが出来ます。

伊藤木工之助宅(本陣伊藤家)に寄ると、偶然にも頼龍三郎と出会う。
小舟で一緒に宿に帰る。

H関屋松兵衛の宿で宿泊。

嘉永2年7月19日
H早朝、宿を出発。鰯松の下を通って小門へ。

I小門の御船倉を巡検。ここは13隻の船を所有している。
午後から新地会所に向かう。

J新地会所で出立の挨拶をする。会所を出て徒歩で伊藤家へ。

K本陣伊藤家に到着。数刻にわたり話をして帰る。
伊藤曰く、関・新地・伊崎・竹崎などを合わせて人家は万を数え、
寺は35個所に及ぶという。


廻浦紀略の道筋8

嘉永2年7月20日
@早朝、「和布刈通」で出発。小瀬戸(小門)の間を抜ける。
綾羅木、安岡を通り過ぎ、吉見浦に至る。

A吉見に到着して宿泊。
このあたりの漁船は、肥中で見たものと同様のようである。
これらの漁船は大抵馬関で造られ、12~13両するらしい。
この値段は8年分位の生活費と同様との事。

嘉永2年7月21日
A宿を出発して出航。吉母、大谷頭を経て矢玉に向かう。

B矢玉に着いて同行の飯田猪之助と上陸して陸路を行く。
涌浦・荒田村を経て特牛浦へ向かう。

C特牛浦に着いて「和布刈通」と合流。浦の民家に宿泊。

嘉永2年7月22日
C港を出発。西風が吹いて、船は順調に進む。
尼ヶ瀬、、辻山、向津具を越え、河尻、立石、津黄を通過する。

D瀬戸崎の港に停泊し、宿泊。

嘉永2年7月23日
D朝、御番所の役人山崎半左衛門を訪ね、王子ヶ鼻台場を巡視。
出航して白潟・澤江・小嶋を右に見て通り過ぎる。

E御船倉に到着。

・・というわけで、20日にわたる北浦の視察は終わります。
巡視もまんべんなくという風ではなく、いきあたりばったりの感がありますね。
結局、北浦が攻められたという事も無く、戦火は瀬戸内での下関戦争及び、
小倉戦争に限られたわけです。
小倉に関して言えば、「城下を固めて賊船を寄せ付けなければ・・」と、
松陰はその防戦方法を考えていますが、小倉藩は反対に城を自焼させて、
野戦の策を取ったわけです。
しかも相手が長州藩だとは、松陰も思わなかったでしょうね。


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