福岡県京都郡 甲塚墓地〜萱野権兵衛の次男郡長正の墓

March 12 [Sat], 2016, 7:17
萱野権兵衛は、会津戦争の責任を負って自刃した会津藩家老。
萱野家は家名断絶して、家族は祖先の使った(こおり)姓を名乗ります。

会津藩は斗南に転封となり斗南藩を立藩。
過酷な状況の中、藩を運営していました。

幕長戦争で長州藩と戦った小倉藩は、
小倉城を自焼することになり、香春藩を立藩。
後に豊津に藩庁を移して、豊津藩となりました。

両藩は藩祖が徳川家康の孫と曾孫であり、
両藩ともかつて佐幕であった事からか、
豊津藩は斗南藩に同情的であったとされています。

財政に困窮していた斗南藩は、藩士子弟の教育まで行き届いていなかったため、
豊津藩が斗南藩の子弟を預かり、藩校育徳館で教育させる事になりました。
そして、斗南藩からはるか南の豊津藩に7名の少年がやってくるのです。
その中に、萱野権兵衛の次男である郡長正がいました。
しかし、かれは留学した次の年に自刃してしまいます。
その郡長正の墓が福岡県京都郡みやこ町豊津甲塚墓地にあります。

国道496号線沿いの本立寺脇の道を入ると、甲塚墓地が見えてきます。

墓地には「郡長正墓・秋月藩士墓」の案内板があり、簡単にみつけられます。
この墓地には秋月藩士の墓もあるのです。


斗南藩郡長正神位」。
彼の自刃には二つの説があります。

ひとつは、国元の母に送る手紙に「豊津の食事はマズい」と書いたのを、
豊津藩士子弟に見られてしまいそれが問題となり、その事で腹を切ったというもの。

もうひとつは、豊津藩士に「小倉城を捨てて逃げた」と侮辱し、
その豊津藩士に豊津藩が斗南藩にしてきた恩と、斗南藩が豊津藩にした迷惑を聞かされ、
侮辱したことを悔いて腹を切ったというもの。

母の手紙の方が通説とされていたのですが、
近年になって侮辱の方が真相だといわれだしました。
とはいえ、母の手紙の方も多くの資料に書かれている話です。
侮辱の方はその豊津藩士の子孫が、代々伝えられた話として発表したもので、
どちらの説が正しいか、甲乙つけがたい状況です。

どちらにせよ弁解せずに潔く腹を切った事は、
武士道の鏡」として称賛されたようです。


郡長正。まだ幼さの残る15歳の少年でした。

秋月藩士の墓については次回。

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