奈良県天理市 柳本陣屋跡

August 30 [Fri], 2019, 7:00
織田信長の弟である織田有楽斎は、本能寺の変で信長が倒れた後、
徳川家康に接近し、小牧長久手の戦いでも家康に味方しています。
豊臣政権期には、豊臣秀吉御伽衆となっていますが、
秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いでも家康に味方しました。

ですが戦後は家康に仕えず、豊臣家家臣として仕え、
豊臣秀頼の大叔父として淀君を補佐し、
徳川方との対立にも穏健派として交渉にあたり、
大坂冬の陣でも和平に向けて行動し、大野治長と共に講和を実現します。
しかし、その後再戦に向かう大阪城内において立場を失い、
大坂城を退去して京都で隠遁して茶の湯に専念。
自らの所領3万石のうち、1万石を隠居料とし、
残りは1万両ずつ四男の織田長政、五男の織田尚長に与えました。

このうち五男尚長の系譜が、柳本藩となっています。
(長政の系譜も芝村藩として存続)


天理市立柳本小学校」。
柳本陣屋跡は現在、柳本小学校の敷地となっています。


(黒塚古墳)」。
土地柄、古墳が多く点在していますが、柳本陣屋は古墳の周濠が利用され、
堀の一部として利用されました。
中世には黒塚古墳の上に柳本城が築かれていたようですが、
こういう経緯もあってか古墳自体に庶民が立ち入る事ができず、
盗掘の被害を防いだようで、古墳の調査では多くの品が発掘されています。


天理市柳本から移動して橿原市へ。
柳本陣屋の御殿は、橿原神宮に移築保存されており、
「文華殿」として利用されているとの事。

橿原神宮文華殿(織田屋形)」。
わざわざ行ってみましたが、文華殿は非公開でした。
調べればすぐにわかることなんですけどね。


4代藩主織田秀親は、大聖寺新田藩藩主前田利昌と仲が悪く、
利昌は秀親殺害を計画し、寛永寺の宿坊で家老と共に秀親を殺します。
もちろん利昌は切腹となりますが、秀親を殺された柳本藩も断絶の危機。
名門の断絶を惜しんだ幕府の裁量によって、弟織田成純が家督を継ぎました。

名門とはいえ1万石の小藩。江戸後期には他藩と同様に財政難に陥り、
11代藩主織田信陽は藩士のリストラや知行削減を行っています。
これにより財政難は緩和されますが、幕府によって城主格に昇進となり、
また領内の行燈山古墳(崇神天皇陵)の修復も命じられ、
天誅組の鎮圧にも兵を出しています。

このような状況で維新を迎え、12代藩主織田信成は朝廷からの上洛要請に対し、
病気を称して情勢を静観。鳥羽伏見の戦いが新政府の勝利で終わると、
織田信及を名代として参内させ、恭順の意思を示すとともに隠居し、
信及が家督を相続し13代藩主となりました。
信及は崇神天皇陵景行天皇陵の修復許可を願い出るなど、
新政府に対し勤皇をアピールしています。


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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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