三重県亀山市 伊勢亀山城跡

August 10 [Sat], 2019, 7:00
伊勢亀山城は、古くから家の居城。
戦国時代の当主関盛信織田信長に降り、
信長の三男神戸信孝の配下となります。
しかし信孝とソリが合わなかった為、
信長の怒りを買い近江国の日野城に移されましたが、
羽柴秀吉配下の樋口直房が逃亡した際にこれを打ち取り、
さらに信孝が四国征伐の総大将となって伊勢から移封となった為、
再び亀山城に戻されています。

本能寺の変後、盛信は秀吉に仕え、
柴田勝家に与した滝川一益に攻められて亀山城は落城し、
盛信は落ち延びていますが、後に秀吉の大軍が亀山城を奪還。
亀山城は岡本良勝に与えられ、大幅な増築が行われ、
その後の亀山城の基礎が出来上がります。

関ケ原の戦いで良勝が西軍となって敗れたため、
東軍に寝返った盛信の子関一政が、
旧領復帰を果たし、3万石で亀山に入りましたが、
後に5万石に加増されて伯耆国黒坂に移封となり、
奥平松平家の祖である松平忠明が入封。
大阪夏の陣で豊臣家が滅んで、忠明が大坂藩に移された後は、
天領や一時津藩領となりました。

その後、三宅家、本多家、板倉家、大給松平家など、
領主が定着しませんでしたが、江戸時代中期に入り、
石川総慶が備中松山藩から入封した後に、
ようやく藩主家が定着する事になります。


亀山城跡」。
亀山城は廃条令によって、石垣や堀、土塁を残して取り壊されましたが、
唯一多門櫓だけは残されました。
現在は保存整備事業などにより、多門櫓や石垣が修復されています。


鐸山近藤君碑」。
亀山藩家老近藤鐸山の顕彰碑。
亀山藩の勤皇派家老として執政を行いますが、
三条実美らと親交があった為、禁門の変への関与を疑われて幽閉。
大政奉還後に復帰して軍事奉行となっています。
維新後は亀山藩大参事となり、明治23年に死去。


飯沼慾斎生誕之地」碑。
亀山出身の本草学者飯沼慾斎の誕生地の碑。
多門櫓の堀向かいの二ノ丸脇に建てられていますが、
本来の生まれた場所は西町とのこと。

飯沼慾斎は、西村信左衛門の次男に生まれ、
母方の親戚であった大垣の漢方医飯沼長顕に学び、
長顕の娘を娶って飯沼家を継ぎました。
本草学日本一と云われた小野蘭山に学び、
大垣の蘭学者江馬蘭斎の紹介で、江戸の宇田川榛斎に師事。
大垣に戻って医院を開業して、49歳で家督を義弟に譲った後は、
本草学の研究に没頭し、「草木図説」を著します。
これは日本で初めてリンネ分類法を用いた植物図鑑であり、
時代を経て昭和に入ってからも木版で出版されており、
海外でも高く評価されました。慶応元年に死去。
亀山出身ですが、ほとんど亀山藩と関わってはいないようですね。


黒田孝富遺剣之碑」。
亀山藩士黒田寛一郎の顕彰碑。
勤皇派家老近藤鐸山の抜擢され、京都での周旋活動を行いました。
京都での人脈に明るく、特に三条実美の信任を得ていましたが、
八月十八日の政変後に謹慎処分となっています。
大政奉還の後に再び抜擢されて、藩政に参加しますが、
これを妬む守旧派藩士らによって殺害されました。


山嵜雪柳翁遺剱之碑」。
亀山藩士山崎雪柳軒は、武術に優れ藩士の剣術を指導。
伊庭秀業心形刀流を学んで免許皆伝を得て、
槍術を音羽恭輔、馬術を早崎士太夫より学んでいます。
城下に演武場を開くと、諸国より門弟が集まりました。
伊庭八郎征西日記(記事はこちら)にも登場していますね。


多門櫓」。
現存する亀山城の源一のまま残る唯一の建築物。
平成23〜24年に掛けて修復工事が行われています。


石段を登って多門櫓を拝見。
土日祝には櫓の中を開放しているとのことですが、
訪問時は平日ですので閉まっていました。


亀山神社」。
本丸跡に鎮座する神社。
石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設け、
家祖である源義家及び六男義時を祀ったことに始まり、
事に始まり、以降は城内で真澂神社として崇敬されました。
明治4年の廃藩置県後、城の北にある若山に遷座し、
明治9年に本丸跡に戻されています。
後に西町の亀山皇太神社、阿野田村の式内社真木尾神社などを合祀。
明治41年に社号を亀山神社と改めてました。


明治天皇行在所」。
亀山神社境内にある明治天皇の行在所。
明治13年、明治天皇は大阪鎮台名古屋鎮台兵対抗演習天覧の為、
亀山の藤屋伊藤市次郎宅でニ泊し、その際に使われた8畳間が、
移築してて保存されています。


大久保神官家棟門」。
南崎権現社の神官大久保家の邸宅の門。
大久保家は幕末期には13ヶ村42社の神官を兼ねていたという。
この門は小学校の裏門として移築された後、
亀山神社境内に再び移築されています。


亀山演武場」。
山崎雪柳軒は、10代藩主石川総脩の許しを得て、
南野村にある元藩主石川総和の隠居所喬松館の東に、演武場を創設。
江戸の伊庭道場の長所を取り入れた約50坪の道場で、
心形刀流の稽古を行っています。
明治15年に現在地に移築されますが、昭和60年に火災で焼失。
その後、旧演武場の外観や内容を再現した亀山演武場が再建され、
現在も心形刀流剣術を伝承しているようです。


二之丸跡(亀山市役所)」。
藩主の住居及び藩庁は、二之丸内の御殿にあり、
現在は亀山市役所となっています。

亀山市街には遺構ではありませんが、
街中には大手門跡太鼓門跡などの碑が建っており、
ある程度の規模の城であったということがわかります。
同じく亀山城の名を持つ城に丹波亀山城がありますが、
面白い逸話として、幕府が丹波亀山城の天守の破却を決定し、
これを幕閣であった松江藩主堀尾忠晴に命じますが、
間違って伊勢亀山城の天守を破却してしまいました。
以後、伊勢亀山城には天守が再建されず、
現存する多門櫓が建てられたわけです。


石井兄弟亀山敵討遺跡」。
市役所より坂道を下った途中の池の畔に、
仇討ちがあったことを示す石碑が建っています。
元禄の頃、浜松藩青山家家臣石井宇右衛門は、
武術の遺恨によって赤堀源五右衛門に討たれますが、
長男の石井三之丞は仇の源五右衛門を追い、
源五右衛門の義父赤堀遊斉を討ち、高札を建てて決闘を申し込みます。
しかし、三之丞が宿の庭で行水をしていると、
源五右衛門が背後より忍び寄り、あえなく討たれてしまいました。
これに三之丞の弟である半蔵源蔵は、父や兄の仇を討つことを誓い、
28年目水右衛門と変名していた源五右衛門を亀山城下で見つけ、
見事本懐をとげたという。

幕末の伊勢亀山藩は、嘉永6年に8代藩主石川総紀が隠居し、
前藩主の子である石川総禄に家督を譲りますが、
その影響力は衰えず力を持ち続けていました。
藩の執政は藩主総禄の下で、勤皇派家老近藤鐸山が取り仕切り、
黒田寛一郎を京都に派遣して勤皇活動を行わせています。
しかし文久2年に総禄が死去すると、総紀は幼い実子を藩主とし、
近藤や黒田など勤皇派を謹慎させ、佐幕派に実権を握らせます。
幕末の動乱に際しては、軍制改革を進め、
会津藩士林権助の門人小幡枝織を招き洋式兵制を行い、
譜代藩として幕府を補佐しました。

9代藩主総禄は、慶応元年に疱瘡で死去。
総禄の弟石川成之が幼くして藩主となります。
その後、将軍徳川慶喜が大政奉還し、これに動揺した亀山藩は、
勤皇派に人脈のある黒田の謹慎を解いて京都情勢を探らせ、
勤皇諸藩士や三条実美に引見し、伊勢亀山藩は勤皇であると陳述。
旧幕府側として守口に駐屯していた藩兵も、戦う事無く解散させています。

近藤の謹慎も解かれ、再び勤皇派が実権を握りますが、
これに反対する勢力が黒田を襲って殺害し、近藤も幽閉。
政局が二転三転しますが、結局、執政は中間派が行う事となりますが、
この事が新政府に知れる事となり、藩主成之と隠居の総和が呼び出され、
黒田殺害犯を厳罰と、近藤の幽閉解除と政務への復帰、
そして桑名藩征討の先鋒を言い渡されます。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村
Comment
小文字 太字 斜体 下線 取り消し線 左寄せ 中央揃え 右寄せ テキストカラー 絵文字 プレビューON/OFF

不正な自動コメント投稿を防ぐため、チェックボックスにチェックをしてください。

利用規約に同意
 X 
禁止事項とご注意
※本名・メールアドレス・住所・電話番号など、個人が特定できる情報の入力は行わないでください。
「ヤプログ!利用規約 第9条 禁止事項」に該当するコメントは禁止します。
「ヤプログ!利用規約」に同意の上、コメントを送信してください。
Trackback
プロフィール
  • プロフィール画像
  • ニックネーム:kii
  • 性別:男性
  • 誕生日:1973年8月25日
  • 血液型:A型
  • 現住所:山口県
  • 職業:会社員
読者になる
HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
2019年08月
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
P R
https://yaplog.jp/shigekikou/index1_0.rdf