宮崎県日南市 五百祀神社と招魂社

June 12 [Wed], 2019, 7:00
廃仏毀釈という仏教を廃する運動は、
明治政府が推し進めたものではありませんが、
全国的にこの運動によって破壊された寺院は数多い。
僕の地元の下関でも、安徳天皇の墳墓のある阿弥陀寺が廃され、
赤間神宮となっています。

実際に腐敗していた寺院で、民衆から反感を買っていた例もあれば、
民衆から慕われた寺院が士族によって破壊された例もあるでしょう。
日本人の中にたまにいる「お祭り騒ぎでやり過ぎる人達」や、
神仏分離令の意味を履き違えた人達が、破壊した例もあったでしょうし、
藩の方針として廃仏に至った例もあります。

とはいえ、仏教が根絶されたわけではなく、
一過性の熱病のように全国で広まった後に収束しました。
藩主家の菩提寺もほとんど残っておりますし、
地元に根ざした寺院が簡単に廃されることもありません。
上記の赤間神宮については、天皇の御陵が寺院ではおかしいので、
神社に改められたという、ごもっともな理由もあったりします。

とはいえ、藩主家が神式に改める例も少なからずあり、
薩摩藩島津家などは菩提寺を廃しています。
今回訪問した飫肥藩も、藩主家菩提寺が廃され神社となった例。

五百禩神社」。
元々は飫肥藩主伊東家の菩提寺として創建された報恩寺で、
明治5年に廃仏毀釈によって廃寺となり、
跡地に伊東家の氏神である板敷八幡社が遷座され、
五百禩神社になりました。
五百禩」とは、6代当主伊東祐持都於郡に城を構えてから、
最後の藩主伊東祐帰の代まで500余年を経ていた事に由来します。


幣殿」。
本殿が完成したのは明治9年。
幣殿及び渡殿を増設したのが明治37年という。

には境内で「泰平踊」という郷土舞踊が行われるようです。
これは敵対していた隣国の薩摩藩と和解した事を祝い、
士民共に踊ることが許された珍しい行事とのこと。
盆は仏教行事なので、報恩寺だった頃もここで踊られていたのでしょう。


伊東家墓所」。
本殿の裏側に旧報恩寺の墓地があります。
神社らしからぬ不思議な光景。完全に寺院の様式ですね。


正四位子爵伊東祐歸墓」。
最後の飫肥藩主伊東祐帰の墓。


正三位勲三等子爵伊東祐弘墓」。
祐帰の子で貴族院子爵議員の伊東祐弘の墓。

幕末の藩主である第13代藩主伊東祐相の墓はここには無いようで、
東京の谷中霊園にあります。
そのわりに次代の祐帰や、次々代の祐弘はここにあり、
祐相の墓だけが無いというのはちょっと残念ですね。

旧報恩寺墓地には、藩主家以外にも武家の墓所が並びます。

平部嶠南墓」。
幕末期の家老で、明治2年には飫肥藩大参事となった平部嶠南の墓。
藩校振徳堂の教授を経て藩政にも関与し、
安政元年に隠居しますが、文久3年に再び登用されています。
藩主世子の授読や、番頭中老を経て慶応3年家老に就任し、
幕末期の飫肥藩を支えました。
廃藩置県後は、日向国の地史や資料を編纂し、
日向地誌」、「日向纂記」、「六鄰荘日誌」など、
江戸末期から明治初期の日向国の歴史資料を残しています。


侯爵小村壽太郎墓」。
旧報恩寺墓地の一番奥側にある小村寿太郎の墓。
小村は第2次桂内閣総辞職後に政界を去りますが、
その年に結核で死去しました。東京の青山霊園にも墓があります。

五百禩神社を出て、山手側の招魂社へ。

招魂社」。
○○招魂社とかいう名前は無く「招魂社」のみ。
境内は「西公園」という名称となっていますが、
公園らしきところは一段下の広場くらいです。


西南役記念碑」。
階段上がって右手側にある記念碑。
台座には小倉処平以下、西南戦争で戦死した飫肥士族の名が刻まれます。


右手側には、西南戦争戦死者の墓碑が並ぶ。


嗚呼小倉處平之墓」。
西南戦争で飫肥隊を率いて戦った小倉処平の墓。
飫肥藩士長倉喜太郎の次男として生まれ、
同藩士小野九十九の養子となっています(後に小倉に改姓)。
藩校振徳堂で書記句読師寮舎長を務め、
武技は平部右金吾より槍術を学びました。
維新後、飫肥藩の長崎留守居役に就任し、
英語教育の必要性を感じ、優秀な子弟の長崎留学を推進。
小村寿太郎らを長崎に派遣しています。
数ヶ月の長崎滞在の後、東京に出て大学南校に入学し舎長に抜擢され、
貢進生制度を建議して採用され、小村は飫肥藩からの貢進生として、
大学南校への入学が許されました。
その後、小倉は大学権小丞准席となっています。

明治3年には、欧米への学制視察を命じられて、
翌年に文部権大丞としてヨーロッパに渡航。
イギリスフランスで当初の予定を変更して経済を学びました。
帰国後の征韓論争江藤新平が辞職すると、
これに同調して官を辞して飫肥に帰郷しました。
江藤が佐賀の乱に敗れて小倉を頼った際には、
これを匿って四国への逃亡の手助け、その罪で禁固刑となり、
出獄後は再び上京して大蔵省に出仕しています。

西南戦争が勃発すると、これに参加すべく帰郷しようとしますが、
監視の目が厳しい為、伊東博文に「日向の人心を鎮める」と訴え、
通行の便を図って貰っています。
その帰路で伊藤に本心を書いた手紙を出して、
西郷軍への参加の意志を伝え、伊藤は騙されたと悔しがったという。

飫肥へ帰ると既に飫肥士族300余名が参加しており、
小倉も一隊を率いて遅れて参加。
野村忍介率いる薩軍奇兵隊の傘下となり、
和田越の戦いで負傷し、延岡の川坂で療養します。
西郷軍が可愛岳を突囲した事を知るとこれを追いますが、
合流が困難であると悟り、高畑山の中腹で自刃しました。

小倉は「飫肥西郷」と称えられるように、
人望の厚い人物だったようです。


左手側には西南戦争後の戦役での戦没者の墓碑が並びます。
西南戦争の戦死者は一応賊軍側で、他の戦役の戦死者は英霊ですよね。
ある意味こういうのも珍しいかも?
護国神社と改称せず、ただの「招魂社」である所以でしょうか?
地元では賊軍とか官軍とか関係なく、
祖国に準じた勇者として祀っているのでしょう。


社殿」。
小さな社殿は招魂社としては珍しくはありません。

ちなみに「西公園」内の歴史展望台と呼ばれる場所には、
○○禅師と刻まれた円筒形の墓石が並んでいます。
定かではありませんが、これって旧報恩寺の歴代住職の墓?
これについては調べていませんが、
もしそうなら廃寺の際に移されたのでしょうかね?


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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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