福岡県柳川市 柳川城跡

May 23 [Thu], 2019, 7:00
柳河藩立花家の初代藩主立花宗茂は、
大友宗麟の配下の忠義の武人として知られる高橋紹運の長男で、
同じく宗麟配下であった立花道雪の養嗣子となった人物。
この大友家の両雄を父と養父に持つサラブレッドであった宗茂は、
大友宗麟が豊臣秀吉に下った際に、秀吉の直参となりました。

これは秀吉が宗麟に宗茂を譲るように命じたとも、
宗麟が家中の逸材である宗茂を譲って忠義を示したともされますが、
いずれにせよ、それほどの人物であったという事でしょう。

九州随一武士の中の武士西国無双などと称され、
最強の戦国武将としても評価か高く、九州征伐小田原征伐
朝鮮出兵などに参戦し、各戦場で目覚しい武勇を挙げています。

秀吉の死後、徳川家康から東軍へ誘われますが、
豊臣家への恩義を重んじて拒絶。
西軍に属して大津城を攻め落としましたが、
大津城の落城が関ヶ原の戦いと同日だった為に参加できず、
西軍の敗北の報を受けて大坂城へ引き上げました。

宗茂は徹底抗戦を主張しますが、総大将の毛利輝元は恭順を決め、
仕方なく宗茂は領地の柳河へ戻ります。
国許では東軍に属した黒田孝高加藤清正鍋島直茂に包囲され、
篭城の構えをみせますが、孝高や清正の説得により降伏。
改易されて浪人となり各地を転々とした後に家康に召しだされ、
徳川秀忠御伽衆となり、棚倉1万石を与えられました。

大坂夏の陣では秀忠の軍師参謀を勤め、
数々の戦況予測を的中させ、その後の千姫事件でも活躍し、
幕府から旧領の柳川10万9200石を与えられています。
改易された西軍大名が10万石以上に復帰したのは、
宗茂と丹羽長重の二人だけで、
また、旧領に復帰した例は、宗茂の一件のみでした。

とはいえ、御伽衆であった宗茂は、国許へはほとんど帰らず、
江戸で秀忠や次代の徳川家光に近侍していたとされますが、
島原の乱が起こるとその討伐に参戦し、
豊富な知識と経験を生かしての戦況予測は、
参戦した諸将に賞賛されましたが、その4年後に死去。
まさに武勇の生涯を送った武将でした。

柳河藩はその後、江戸時代を通じて立花家が治めています。


柳川観光といえば「川下り」でしょう。
柳川城のお堀を「どんこ舟」と呼ばれる小舟で巡るのですが、
ウチの嫁さんに「川下り」に行こう!と誘うと、とても怪訝な顔。
ウチの子らはまだ無理でしょう?」との事。
どうも急流をカヌーなんかで下るようなモノを想像したようです。
たしかに「川下り」となっていますが、川を下るわけではない。
なんで「川下り」なんでしょうね。

とにかく説明して「川下り」が「川下り」ではない事を納得させ、
家族で乗ることになりました。

「川下り」には1時間コースと30分コースがあり、
悩んだ挙句に30分コースを選びました。
もし「おしっこー」とか言い出したら大変だし、みよちゃんは怖がりなので、
お気に召さなかったら困るので・・。

とにかく乗船して堀を優雅に進みます。

風情のある水路。
はじめは案の定、みよちゃんは怖がっていましたが、
この頃になると馴れてきたのか、楽しんで色々喋ってました。
もちろんゆきちゃんは元気いっぱいです。


藩主専用の船着場。
船頭さん曰く、藩主のみが使用できたという船着場で、
この奥にある藩主別邸から舟に乗る際に利用したようです。


御花」跡。
5代藩主立花貞俶の時代に建てられた藩主の別邸で、
二ノ丸の奥屋敷が手狭となった為に建てられた別邸。
「御花」や「御花畠」と呼ばれていたようで、
現在は料亭旅館「柳川藩主立花邸 御花」として運営され、
その庭園松濤園は国の名勝に指定されています。

歴代藩主の居住はあくまで本丸御殿でしたので、
本丸と「御花」とを行き来していたようですが、
最後の藩主立花鑑寛は「御花」に居住したようです。


舟がギリギリくぐれるような状態で木が立ち塞がりますが、
普通にこれを通ります。これにはウチの子二人も大興奮。


ナマコ壁が美しい「殿の倉」。
先ほどの藩主別邸の土蔵で、現在は「立花家史料館「殿の倉」」として、
立花家伝来の美術品などを展示しています。


船頭さんとゆきちゃん。
この頃には舟内を走り回っていました。落ちないかヒヤヒヤですね。
後ろの赤い石碑は、北原白秋の歌碑「水影の碑」。
我ついに還り来にけり倉下や 揺るる水照穏に焼けつつ
柳川出身の詩人北原白秋が帰郷した際に、
この土蔵の白壁を見て詠んだ歌という。


橋の下を通る。
コレは高い方で、もっと舟ギリギリの低さの橋もありました。
30分コースでもたくさんの橋の下を通ります。
思ったより喜んでくれて嬉しかったですね。


終わっちゃった〜」と残念そうな二人。
連れてきた甲斐がありました。

さて、「川下り」を終えて柳川城跡へ。

柳川城址」。
柳川城の本丸は現在、柳川市立柳城中学校の敷地となっています。
隣の私立柳川高等学校の校舎あたりが二ノ丸
生徒に「へそくり山」と呼ばれる石垣で囲まれた丘が残っており、
その位置あたりに天守が建てられていました。


へそくり山(通称)」。
柳川城は明治5年の火災で本丸、二ノ丸を消失。
明治8年に城跡と堀が競売にかけられて私有地となり、
堀には蓮が植えられ、二ノ丸跡は畑に、本丸跡は牧場となりました。
その後、行政が買い戻し、城跡の活用が議論され、
昭和3年の御大典事業で天守跡を中心とする柳城公園が整備され、
この時に造成されたものが「へそくり山」です。
ネット等では天守台となっていますが実際は天守台ではなく、
旧柳城公園の遺構ということになりますが、
位置的には天守台があったとされる位置でした。


お地蔵様」。
中心にそびえる木の根元にはお地蔵様が・・。
綺麗に整えられていますので、手入れされてる人がいるようですが、
このお地蔵様の由緒はわかりません。
後日市に問い合わせましたが、いつの間にか置かれていたとの事。


柳川城址」碑。
柳川城の城域は一応、本丸と二ノ丸だけのようで、
柳川城らしい面影を残すのはここしか残っていませんが、
ある意味では堀(水路)をめぐらせた町全体が柳川城ともいえます。


「へそくり山」の周りには石垣が残っていますが、
これらは公園の造成時に組まれたものなのか、
それとも柳川城のものなのかはわかりません。
ちなみに「へそくり山」と呼ばれる由来ですが、
立花の殿様の財宝が埋められているという噂からだとか。

幕末の柳河藩には、幕末三剣士の1人大石進がいました。
大石神影流の創始者で、左片手突きは天下無双の技と呼ばれ、
男谷精一郎島田虎之助と並び称されています。

最後の藩主立花鑑寛は、改革派の家老立花壱岐を登用。
安政の改革を行いました。
壱岐は横井小楠橋本左内らとも親交があり、
吉田松陰も壱岐の高名を知っていたようです。
非常に開明的な人物だったとされ、鑑寛は藩政の全権を壱岐に一任。
能力による役人の登用と、不要な役人の整理。
租税の緩和、殖産興業の奨励などの先進的改革を進め、
大きく財政は好転しています。しかし、文久元年に病気を患って辞職。
隠居して療養に専念しました。

明治に入ると壱岐は復帰し、再度全権を一任されると、
兵制改革を行って精鋭で編成された部隊を戊辰戦争に送り、
柳河藩兵は盤城平の戦いなどで活躍しています。

柳川城は明治5年に炎上して消失。
これは士族の反乱を防止する為の放火とも云われ、
その結果、以後に各地で起こった士族反乱でも、
柳川では動揺は生じなかったとされています。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村
Comment
小文字 太字 斜体 下線 取り消し線 左寄せ 中央揃え 右寄せ テキストカラー 絵文字 プレビューON/OFF

不正な自動コメント投稿を防ぐため、チェックボックスにチェックをしてください。

利用規約に同意
 X 
禁止事項とご注意
※本名・メールアドレス・住所・電話番号など、個人が特定できる情報の入力は行わないでください。
「ヤプログ!利用規約 第9条 禁止事項」に該当するコメントは禁止します。
「ヤプログ!利用規約」に同意の上、コメントを送信してください。
Trackback
プロフィール
  • プロフィール画像
  • ニックネーム:kii
  • 性別:男性
  • 誕生日:1973年8月25日
  • 血液型:A型
  • 現住所:山口県
  • 職業:会社員
読者になる
HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
2019年05月
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
P R
https://yaplog.jp/shigekikou/index1_0.rdf