岡山県総社市 浅尾陣屋跡

December 02 [Sun], 2018, 7:00
豊臣秀吉の小姓であった蒔田広定は、成長して秀吉の旗本となり、
父の蒔田広光が死去すると、その跡を継いで1万石の大名となりました。

秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦い西軍に属したため、
所領を没収され改易となるところを、舅であった大島光義や、
同世代で親交のあった浅野行長らの弁明によって所領を安堵され、
後に備中浅尾に転封となり、外様大名浅尾藩が成立しました。

ところが広定の死後、長男の蒔田定正が家督を継ぎますが、
広定の遺言によって次男の長広に3000石が分与された為、
大名ではなくなりました。
以後は旗本として江戸時代を通じて11代続き、
幕末の文久3年に、当時の当主蒔田広孝江戸市中警護の功で、
所領の高直しが行われて1万石の大名に返り咲きました。

こうして再び大名となった蒔田家でしたが、旗本からの昇進の為、
元々外様だったはずが、譜代大名に列することになります。


総社駅北側周辺(浅尾陣屋の場所)
蒔田家は旗本時代より、交代寄合であったため、
大名と変わらぬ統治を行っていたようです。


浅尾藩校集義館跡」。
広孝によって開かれた学問所で、
現在は、総社市を中心に展開する薬局の研修センターとなっています。


稲荷神社」。
丘陵部の頂上のある神社で、御殿が建てられていたとされていますが、
どうもこの神社ははじめからここにあったようで、
藩主の御殿があった場所は、近くの民家が集まっている場所のようです。


浅尾陣屋跡」碑。
広孝は京都見廻役を任じられ、禁門の変長州藩と戦っています。
その恨みが原因かはわかりませんが、
立石孫一郎に率いられた第二奇兵隊脱走兵100余名は、
倉敷代官所を襲撃した後、浅尾陣屋の北側にある宝福寺に宿営。
これに陣屋の留守居役は早々の立ち退きを要求し、
交渉の末に明日立ち退く事が約束されました。

しかしその深夜。脱走兵達はひそかに浅尾陣屋に近づいて、
陣屋内の建物に次々と放火
火事に驚いた陣屋内は大混乱となり、夜襲と気付いた藩士らは、
大砲を発射するなど応戦しますが、陣屋から退却しています。

知らせを聞いた藩主広孝は、急遽幕府の許可を得て帰国。
陣屋はその大半を焼失してしまっていましたが、
その修復も十分に出来ぬまま、職務の為に京都に戻らざるを得ず、
広孝が京都見廻役を退任したのは、慶応3年になってからでした。
その間の政務は仮藩庁を設けていたようですが、
最後まで陣屋の修復もされずに、明治維新を迎えています。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村
Comment
小文字 太字 斜体 下線 取り消し線 左寄せ 中央揃え 右寄せ テキストカラー 絵文字 プレビューON/OFF

不正な自動コメント投稿を防ぐため、チェックボックスにチェックをしてください。

利用規約に同意
 X 
禁止事項とご注意
※本名・メールアドレス・住所・電話番号など、個人が特定できる情報の入力は行わないでください。
「ヤプログ!利用規約 第9条 禁止事項」に該当するコメントは禁止します。
「ヤプログ!利用規約」に同意の上、コメントを送信してください。
Trackback
プロフィール
  • プロフィール画像
  • ニックネーム:kii
  • 性別:男性
  • 誕生日:1973年8月25日
  • 血液型:A型
  • 現住所:山口県
  • 職業:会社員
読者になる
HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
2018年12月
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
P R
https://yaplog.jp/shigekikou/index1_0.rdf