岡山県高梁市 備中松山城その2

November 30 [Fri], 2018, 7:00
展望台より備中松山城を望んだ後、高梁市街におりて城を目指します。
高梁市街は山に囲まれた盆地で、そこを高梁川が貫流しており、
その様子からそこが城下町であったであろう事が伺えました。

その北側が備中松山城で、山城であった備中松山城は、
平時には不便な為、山麓に「御根小屋」と呼ばれた御殿を設置して、
藩政務および藩主の居館としました。
現在の岡山県立高梁高等学校が、御根小屋のあった場所で、
小屋と名付けられていますが、巨大な御殿だったようです。

備中松山城は鎌倉時代秋庭重信が大松山に城を築いた事にはじまり、
時代を経過して小松山(現在の備中松山城の場所)まで拡張したようです。
戦国時代には三村元親が城主となっており、
はじめ毛利家についていましたが、織田信長に寝返り、
備中兵乱を経て小早川隆景によって三村は討たれて、
備中松山城は毛利家が領有することになりました。

関ヶ原の戦い後に毛利家が防長2国に押し込められると、
備中松山城は天領として小堀正次小堀遠州が代官として入り、
城や城下を整備しますが、その後に池田長幸に与えられてます。
以後、水谷家安藤家石川家と藩主家が代わり、
最終的に板倉宗家が入封して幕末を迎えました。


山田方谷先生家塾 牛麓舎跡」。
備中松山藩の藩校有終館の学頭であった山田方谷の邸宅跡で、
方谷はここに家塾も開いて「牛麓舎」としました。

方谷の家は元々武家でしたが、祖父の代に追放されて百姓となっており、
優秀であった方谷は士分に抜擢されています。
遊学して佐藤一斎陽明学を学び、帰国後に藩校有終館学頭に任命され、
藩の財政改革にも参加しました。
藩主板倉勝静は方谷を信頼し、藩の内政を担当して財政を建て直し、
藩の実収入は20万石におよんだという。


松山城シャトルバスのりば」。
自家用車で登れるのはここまで。
ここから八合目の「ふいご峠」までシャトルバスで登ります。
ふいご峠までは5分程度の道のりでした。

ふいご峠より徒歩で備中松山城へ。
5歳と2歳の子供を連れての登城は、かなりしんどいものがあります。
佐伯城にも歩いて登ったみよちょん(記事はこちら)も、ここではギブアップ。
もちろん2歳のゆきちゃんは抱っこなんで、
二人を抱っこして登るという苦行の末、ようやく石垣がみえてきました。

大手門跡」。
石垣が見えてくるとテンションも上がってきます。
すでに乳酸出まくりの足に鞭打って登りました。

大手門跡より見上げると、見たことのある景色。
実はこの備中松山城、大河「真田丸」のOPに使われた城なのです。

大河ドラマ「真田丸」のOP。


二ノ丸」。
結構観光客が登っていて、しかもご老人ばかり(平日ですしね)。
皆さんこの二ノ丸でお弁当を食べておられました。
お弁当を買ってこなかったのを悔やまれます。


天守」。
全国で12棟しかない現存天守の中で、
一番高い位置にあるのが備中松山城の天守です。
2層2階の小さな天守ですが、それでも立派。
この天守を含む本丸には300円必要です。
仮に財布忘れたとかだったら最悪だろうなぁ・・。


囲炉裏」。
天守の中に囲炉裏があるのは非常に珍しい。
備中松山城は実際に篭城戦を何度も経験した城で、
実際の篭城戦でも使用されたようです。
標高が高く寒いので、暖を取るのに丁度良さそうですね。


天守2階からの眺め。
紅葉も綺麗ですし遠くに見える城下も美しい。


二重櫓」。
天守の裏手にある2階建ての櫓。
備中松山城にあった櫓の中で、2階建てだったのは、
天守とこの二重櫓のみだったようです。

幕末の藩主板倉勝静は、井伊直弼と対立して安政の大獄によって罷免。
井伊が暗殺された後は、老中に2度も就任するなど幕政に深く関与しました。
徳川慶喜に厚く信任され、老中首座会計総裁に任じられ、
大政奉還にも深く関与しています。

鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜が大坂城から脱出すると、
それに同行して江戸に向かいますが、
慶喜が朝敵となると老中を辞任して、新政府によって蟄居処分となり、
日光を経て宇都宮に移されて英厳寺に軟禁されました。
宇都宮戦争が始まると、大鳥圭介伝習隊によって開放され、
以後は奥羽越列藩同盟の参謀として戊辰戦争を戦っています。

一方、備中松山藩の国許では、新政府が岡山藩に討伐を命じますが、
山田方谷は藩主不在ながら、城の明け渡しを決断。
不在の藩主を強制的に隠居させた事として、
先代藩主板倉勝職の従弟にあたる板倉勝弼を新藩主として迎え、
全面投降して岡山藩の占領下に入りました。

ほどなく大坂より熊田恰が藩兵を率いて帰国しますが、
岡山藩は、鳥羽伏見の戦いの責任者として熊田の首級を要求。
熊田は備中松山藩の責任者として自刃してます。

そんな国許の様子を知らぬ勝静は、五稜郭まで戦い続けますが、
新政府は勝静および嫡子万之進の降伏および死亡が確認されなければ、
恭順は認められぬと強硬姿勢をとった為、
方谷は藩士を箱館に派遣し、国許の状況および新藩主の就任を知らせ、
江戸に連れ戻します。
勝静は自首して謝罪。終身禁固刑となって安中藩預かりとなり、
備中松山藩は2万石厳封のうえで存続が決定しました。

廃藩置県後、備中松山城は廃城令によって廃城となりますが、
取り壊されたのは山麓の「御根小屋」だけにとどまり、
山中にあった城はそのまま放置されますが、
このことによって天守が現存されたわけです。


大手門跡でのゆきちゃん。
頑張って連れて来たんですけど、
2歳なんで城に登った事なんて忘れちゃうんでしょうね〜。


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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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