岡山県津山市 津山城跡

November 21 [Wed], 2018, 7:00
津山城津山藩の藩庁で、森可成の六男森忠政が築城した城です。
小早川秀秋の死によって小早川家が無嗣改易となり、
信濃川中島藩より忠政が入府。
居城の建設場所をめぐって家中で騒動が発生し、
重臣の暗殺や筆頭家老の出奔などが起きています。

城は鶴山の地に決定し、地名を「津山」と改めて建築が開始され、
77の櫓が立ち並び、4重5階の大天守を頂く広大な平山城が、
13年の歳月を費やして完成しました。


森忠政公」像。
津山城を築城した森忠政の銅像。
兄には織田信長の小姓として知られる森蘭丸がいました。
忠政自身も信長の小姓となっていましたが、
別の小姓との喧嘩を信長に咎められて帰されてしまいます。
この事が結果的に本能寺の変を避ける事となりました。

兄で森家を継いでいた森長可小牧・長久手の戦いで戦死した為、
忠政は森家を相続して豊臣秀吉に可愛がられ、
羽柴姓を与えられています。
秀吉が死去すると徳川家康に接近して石田三成と対立。
関ヶ原の戦いでは東軍に属しています。
小早川家が改易されると美作国に加増転封となり、津山城を築城。
大阪の陣にも参戦して功績を挙げました。
晩年には、出雲・石見・隠岐の3ヶ国への加増転封の話が浮上しましたが、
忠政の急死によって立ち消えとなっています。
急死の理由は桃に中っての食中毒との事。


冠木門跡」。
津山城に入るには300円の入場料が掛かります。
天守閣なんかへの入場にお金が掛かることは多々ありますが、
そのほぼ全域に入場料が掛かるって稀ですよねぇ。
維持管理に必要なお金なんでしょう。


表中門跡」。
冠木門より石段を上がって三ノ丸に登ると現れる大きな門。
なかなかの大きさですので、かつては巨大な門扉があったのでしょう。
ここを登ると二ノ丸です。

二ノ丸はあとにまわして三ノ丸を散策。

駒井匏軒頌徳碑」。
津山藩儒臣駒井匏軒の頌徳碑。
表中門跡の向かって右側に建てられています。
津山藩学問所の教授を勤め、兵学に通じ、詩歌や書にも秀で、
明学(廟堂音楽)にも精通して横笛を得意としました。
ペリー来航に際しては鉄砲頭として浦賀へ出張。
長州征伐にも出陣しています。
晩年は私塾啓蒙學舎を開いて子弟の教育に尽くしました。


鶴山館」。
学問所の校舎として廃藩置県直前に建てられたもので、
当時は「修道館」と名付けられました。
廃藩置県も校舎として明治36年まで使用され、
新校舎の建築に伴い三ノ丸跡に移築されました。
「鶴山館」の名は移築時に付けられたものです。


贈従四位鞍懸君碑」。
津山藩権大参事鞍懸寅二郎の顕彰碑。
鞍懸は赤穂藩の足軽の出でしたが、秀才の誉れ高く江戸に遊学し、
江戸の儒学者塩谷宕陰や水戸藩の会沢正志斉らに学びました。
帰国後は足軽身分ながら勘定奉行に抜擢されて、
赤穂藩の藩政改革に尽力しますが、守旧派の妨害によって追放。
師の塩谷の斡旋によって津山藩領で私塾を開きました。
その後、津山藩より抜擢されて国事周旋掛となり、
小豆島での英国による島民射殺事件では、
弱腰の幕府にしつこく訴えて、銀200枚の賠償を得ることに成功。
津山藩領で起こった改政一揆では、一揆勢の説得にあたり、
京都では津山藩の代表として諸事にあたりました。
明治に入り、鞍懸は津山藩権大参事に襲名しますが、
民部省にも出仕しています。
明治4年。何者かに射殺されましたが、犯人は見つかっていません。

表中門跡を登って二ノ丸へ。

備中櫓」。
築城400周年を記念して2004年に復元された備中櫓。
初代津山藩主森忠政の長女松姫が、鳥取藩主池田長幸に嫁ぎ、
松姫が若くして亡くなると、四女宮姫も長幸に嫁いでいましたが、
その2人の娘婿である長幸が津山城に訪れた時に建てられた櫓で、
長幸の官位が「備中守」だった為、その名が付いたとされます。
77の櫓を誇った津山城ですが、現在建っている櫓は、
この復元された備中櫓のみです。

備中櫓を横目に通り過ぎて二ノ丸から本丸へ。

本丸跡」。
広い敷地を有する本丸跡。
大きな御殿が建てられていたのだと伺えますね。


太鼓櫓跡」。
本丸東側の長細い石垣の南側に鐘堂が設置されており、
ここには時刻を報せる太鼓が鳴らされた太鼓櫓がありました。
太鼓櫓に鐘堂が建てられているケースって結構ありますよね。
まあ太鼓だと維持管理大変なんでしょう。


天守台」。
5重5階(地下1階)の立派な天守として建造されましたが、
あまりにも立派で幕府に咎められた為、
4重目の瓦を取り外して板葺きにして、
あれは庇(ひさし)で5重ではない」と弁明したという。

・・で、その天守台にはハートの石があるという・・・。

・・う〜ん。ハートに見えない事もない。
こういうの好きな人いますよね。
あ、ウチの娘がこういうの好きだわ・・。
このときは車で寝てたケド。


津山城・・なかなか見ごたえのある城でした。
300円取るだけの事はある(しつこい)。
津山城は全景を写した古写真が残っており、
その当時の壮大な様子が伺えます。

津山城を築城した森忠政の森家は、
5代藩主森衆利が乱心したという理由で改易。
後に幕府は隠居していた2代藩主森長継に、
2万石で森家を再興させています。

森家の改易後、越前松平家宗家の松平宣富が津山に入り、
以後は越前松平家10万石が津山を治める事になります。

幕末の京都において、長州薩摩などの外様勢力が、
国事奔走の先鋒となっている事態に急進派藩士達は憤りを感じ、
親藩である津山藩が公武合体を主導しようと考えていました。

そして藩主松平慶倫が京都にて国事周旋のために上洛。
御所に参内して「速やかに掃攘之功を建てよ」と勅命を得ました。
とはいえ、国事周旋といっても何か方針があるわけでもなく、
慶倫は帰国願いを幕府に提出しています。
幕府は将軍在京中は帰るべきではないと認めませんでしたが、
将軍の退京のメドが立たなかった為、帰国を許されました。
京に残った津山藩兵は、御所の警備や大阪湾の警備など、
幕命に忠実に行動しています。

国事周旋には結果が出せなかった慶倫でしたが、
思想としては強硬な攘夷派で、幕府には攘夷決行を要求しています。
江戸からの帰国途中。八月十八日の政変が勃発。
京都は政情が切迫していた為、大阪湾警備の津山藩兵の京都に呼び寄せますが、
諸藩兵が多勢で警備にあたるほどでもないと大阪湾に兵を返しています。
また、幕府が英蘭横浜鎖港の談判を始めると、
早々に帰国の途につきました。
政治的センスは無いが行動派」といったところでしょうか?

幕末の津山藩といえば、優れた洋学家を数多く排出したことでも知られます。
特に蘭学の名門宇田川家や、藩医家であった箕作家は、
一族、一門に多くの学者を排出し、その子弟も優秀でした。

現在も津山は「洋学のまち」としても知られています。
政治的にはそれほど貢献できなかった津山藩ですが、
日本の近代科学発展に大きく貢献したともいえるでしょう。


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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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