西郷どん43

November 19 [Mon], 2018, 7:00

第43回「さらば、東京」。
大久保は閣議にて西郷の朝鮮派遣に反対。
朝鮮国など捨て置いて富国強兵をするべきてあると叫びます。
しかし派遣反対を唱えるのは大久保と岩倉具視の2人だけ。
辞職勧告を求められた岩倉は、西郷の朝鮮国への派遣を認めます。

閣議で西郷派遣が決定し、あとは明治天皇への上奏のみでしたが、
太政大臣三条実美は過労で倒れてしまいました。
大久保は岩倉になりやら腹案を話します。

西郷は三条を見舞い、大久保らが恐ろしい事をたくらんでいると聞く。

閣議では太政大臣が座る席に岩倉が座り、
太政大臣代理であると告げる。
岩倉は西郷が命を落とすかも知れぬと明治天皇に上奏し、
閣議で決まったはずの使節派遣は中止となってしまう。

閣議は騒然としますが、西郷は天子様の決定に従うと言い、
居留民の命が危ないときは助けてほしいと言い残し閣議を去ります。
同じく、江藤新平板垣退助後藤象二郎も政府を去りました。

岩倉が酒宴を開き長州の面々を呼ぶ。
療養中の木戸孝允も出席し、岩倉は木戸に酌をするが、
木戸は西郷が辞職したことにより、反乱を恐れているのかと問い、
西郷君はそんな男ではないと叫びました。

木戸は西郷の許を訪れます。
西郷は木戸もやめる気ではないのかと問い、
欧米を見てきた木戸はこれから政府に必要と説得し、
西郷と木戸は別れの握手を交わす。

西郷は大久保邸に行き、別れの挨拶。
岩倉のはかりごとは大久保の差し金かと問うと、大久保はそうだと答る。
西郷の人を信じるという政は甘いのだと言いますが、
西郷は2人の喧嘩なら周りを巻き込まず、
2人で話し合えはすむ、回りくどいことは好かんと叫ぶ。
大久保は憎めと言いますが、
西郷はどうして憎む事ができようかと涙ぐむ。
大久保に政府は頼むどぞと告げて去り、
西郷と大久保の最後の別れとなります。
西郷は東京を去り、鹿児島へ向かいました。

今回はいわゆる「明治六年政変」ですね。
よく纏まってて良かったと思いますよ。
ただ反対派が大久保と岩倉だけなので、大久保の悪さが際立ってましたね。
実際は佐賀の大隈重信大木喬任が賛成から反対にまわり、
採決が同数になったところで、西郷のごり押しで三条が派遣決定しました。
まあ、その方が西郷VS大久保の構図が出来上がりやすいからでしょうね。




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鳥取県鳥取市 西御館跡〜西館新田藩

November 18 [Sun], 2018, 7:00
鳥取藩の支藩鳥取西館新田藩は、鳥取藩が自領で打ち出した新田を、
鳥取藩2代藩主池田綱清が、弟の池田清定(初代光仲の四男)に分知し、
幕府に認められて立藩した藩です。

もうひとつの支藩鳥取東館新田藩と同様に、
鳥取藩の蔵米を支給される形式で、
藩政と呼べるようなものはありません。
分家を諸侯に列しさせるための方便のような藩でした。

その西館新田藩の屋敷は、鳥取城下にありました。

鳥取県警察本部(西御館跡)」。
現在は県警本部が建てられています。
西館新田藩主家の清定流池田家は、
江戸屋敷が鉄砲洲(現在の湊、明石町)にあった為に、
鉄砲洲家とも呼ばれます。

幕末の藩主池田徳定は、宗家の名代として鳥取藩兵を率いて上洛。
はじめ上洛の名代には東館新田藩主池田仲建に打診されていましたが、
仲建は出兵に反対して抗議の諫死
しがし宗家藩主池田慶徳の意思は変わらず、
西館新田藩主の徳定を代わりに名代として出兵させました。

鳥取藩兵は有栖川宮邸警護を担当。
実は鳥取藩尊攘派と長州藩の間に密約があり、
有栖川宮を奉じて闕下に至り、長州の雪冤を訴える事になっていましたが、
桂小五郎が有栖川邸に向かうと、鳥取藩士河田佐久馬は、
宮廷に向かって発砲するとは何たること!」と、
密約を破棄して桂を追い返しています。
これは良く知られる話ですね。

徳定はその後も藩主名代として行動し、
鳥羽伏見戦後の西国諸藩の追討の他、戊辰戦争にも参加しています。

西館新田藩は、維新後に「若桜」に陣屋を置いたとされますが、
これは間違い。
東館新田藩と同様に(記事はこちら)鳥取藩内の呼称にすぎず、
実際に「若桜」に陣屋を置いたわけではありません。
かつて若桜鬼ヶ城を藩庁とした若桜藩山崎家にあやかり、
藩内のみで若桜藩主と呼んだだけでのものでした。


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鳥取県鳥取市 東御館跡〜東館新田藩

November 16 [Fri], 2018, 7:00
鳥取藩の支藩鳥取東館新田藩は、鳥取藩が自領で打ち出した新田を、
鳥取藩初代藩主池田光仲の二男の池田仲澄に分知すること願い出て、
幕府に認められて立藩した藩です。

特定の領地はなく、鳥取藩の蔵米を支給される形式で、
藩政と呼べるようなものはありません。
分家を諸侯に列しさせるための方便のような藩でした。
同じく支藩の鳥取西館新田藩も同様です。

藩庁・・・と呼んで良いのか微妙ですが、
この東館新田藩主である仲澄流池田家の屋敷が、
鳥取城下にありました。

鳥取県知事公邸(東御館跡)」。
現在、仲澄流池田家の屋敷である東御館の跡は、
県知事の公邸となっていました。

幕末の藩主9代池田仲建は、幕命による京都出兵に反対し、
本家の鳥取藩主池田慶徳と対立します。
出兵における財政負担や藩内防備の手薄化が反対の理由でした。
慶徳はこれを聞き入れず、仲建は抗議のために自害しています。

維新後、東館新田藩は鹿奴(鹿野)に藩庁を置いたとされますが、
それは間違いです。
ネットではほとんどのサイトでそう説明されていますが、
実際は鹿奴に藩庁を置いた形跡はありません。

実は鳥取藩の2つの支藩は、新政府は認めていませんでした。
その理由については明らかではありませんが、
新政府側の資料にも2つの支藩の記載はありません。
維新後に鳥取藩内でのみで名付けられた呼称だったようで、
藩内文書にはそれぞれ「鹿野藩主」「若桜藩主」と記されていましたが、
新政府宛の文書には「池田従五位徳定」「池田従五位徳澄」と記され、
藩主という呼称は使用されていません。

新政府は方便だけの新田藩主を諸侯とは認めませんでしたが、
鳥取藩としては今更この両藩主を家老なりに格下げすることはできません。
そこで「鹿野藩主」「若桜藩主」と藩内のみで呼称したわけです。
つまり両支藩は、維新後も今までどおり蔵米支給の新田藩で、
カタチだけの存在も曖昧な藩でした。

ではなぜ、「鹿野藩」「若桜藩」と名付けられたのかというと、
内向きでも藩名としてふさわしいのは、旧城地であった場所。
大名として城があった土地を藩名にすることでした。
因幡国内において、城があった場所は、「鳥取」、「若桜」、「鹿野」、「浦富」です。
本城のある「鳥取」を除くと、「若桜」、「鹿野」、「浦富」となりますが、
「浦富」はすでに家老の鵜殿家の領地でしたので、
必然的に「若桜」と「鹿野」だけになります。

どちらを「若桜藩」と「鹿野藩」とするかというと、
江戸時代初期に若桜鬼ヶ城を藩庁とした若桜藩山崎家3万石の大名で、
同じく鹿野城を藩庁としていた鹿野藩亀井家4万3000石の大名。
両支藩の家格としては、東館新田藩>西館新田藩でしたので、
東館新田藩が石高の多かった「鹿野藩」に、
西館新田藩が石高の少なかった「若桜藩」にあてがわれたというわけ。

そういうわけで、ネットの情報はウソなのですが、
ネットなんてほとんどがコピペなんでね。
仕方ないといえば仕方ないんでしょうか?


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鳥取県鳥取市 鳥取城跡

November 14 [Wed], 2018, 7:00
鳥取藩は、因幡伯耆の2国(現在の鳥取県)全域を治めた大藩。
藩主家の池田家は外様大名ですが、幕府より準親藩の扱いを受けました。

織田信長の重臣池田恒興は、
信長亡きあと小牧・長久手の戦い羽柴秀吉に味方しますが、
鞍に銃弾を受けて落馬してしまい、長男の池田元助と共に討死。
家督を継いだのは次男の池田輝政で、
関ヶ原の戦い後に播磨52万石を与えられ姫路藩主となりました。

輝政の長男池田利隆が姫路藩を継ぎ、
次男の池田忠継は28万石を与えられ岡山藩を設立。
利隆の死後、嫡男池田光政が幼少であったことから、
姫路から鳥取へ移封となります。
一方、岡山藩では忠継が早逝。輝政の三男池田忠雄が岡山藩を継ぎますが、
忠雄の死後に家督を継いだ池田光仲が幼少であった事から、
鳥取藩の池田家と岡山藩の池田家の領地替えが行われました。
以後、光政の系譜が岡山藩主(宗家)、光仲の系譜が鳥取藩主となって、
幕末まで続きます。

鳥取藩池田家は、岡山藩池田家の分家筋なのですが、
その血筋は徳川家康より受け継いでいた為(忠雄は家康の外孫)、
宗家から独立した大名とされ、しかも親藩に準ずる家格が与えられていました。

そんな鳥取藩の藩庁鳥取城。正確な築城年はわかりませんが、
戦国時代は「鳥取城渇え殺し」と呼ばれる壮絶な篭城戦のあった場所でした。

久松山」と「吉川経家公像」。
鳥取城は諸説ありますが、因幡守護大名山名誠通が山城として築城した城で、
毛利元就山中鹿介率いる尼子再興軍による奪い合いが行われ、
その後は織田信長の中国侵攻による毛利家との奪い合いとなり、
毛利家重臣吉川経家が城主となります。
因幡攻めを担当する羽柴秀吉に対抗するため、
経家は籠城の準備を始めましたが、秀吉の謀略によって米は高騰し、
兵糧は手に入らず、しかも蔵米も高値につられて城兵が売ってしまうという事態。
秀吉は鳥取城を包囲し、兵糧攻めを開始しました。
まもなく兵糧は尽き、城内の家畜や植物も食べて飢えをしのぎますが、
まもなく餓死者が出始めます。
城内では餓死者の肉を喰らい、そのうち弱りながらもまだ息のある者まで・・。
4ヶ月が過ぎ経家は自らの首と引き換えに、城兵の助命を条件に降伏。
秀吉は経家の奮戦を称えて助命を申し出ますが、経家は固辞して自害しました。


北ノ御門」より場内へ。
鳥取城の現在久松公園として整備されています。


中仕切門」。
明治に廃城されて城内の建造物は払い下げられましたが、
この中仕切門は残されました。
しかし、昭和50年の台風によって崩壊してしまい、
現在建っているものは同年に再建されたものです。


右膳ノ丸」。
中仕切門より登った場所にある郭。
城代高木右膳の屋敷があったことからこの名で呼ばれたようです。
五輪塔郡の他、「御城内安全」と刻まれた碑がありました。


仁風閣」。
右膳ノ丸より望む仁風閣は、明治40年に建てられた池田侯爵家の別邸。
フレンチ・ルネッサンス様式を基調とした白亜の木造瓦葺2階建てで、
国指定の重要文化財となっています。

右膳ノ丸より二ノ丸へ。

登石垣」。
斜面に直角に設置された非常に珍しい石垣。


二ノ丸」。
藩主の居館として御殿が建てられていた場所。
後に藩主の居館は三ノ丸に移っていますが、
実質的に本丸として機能していた郭でした。


御三階櫓跡」。
三層三階の隅櫓で、鳥取城のシンボルでもありました。


天球丸」。
二ノ丸より天球丸石垣を望む。
山頂の山上ノ丸を除く城内で一番の高所です。


中坂稲荷神社」。
二ノ丸にある小さな稲荷神社。
天球丸へはこの稲荷神社の脇の階段を登って行けます。
藩主の命を受けて江戸への飛脚を務め、
三日三晩で江戸と鳥取を往復したという伝説の狐経蔵坊を祀っています。


天球丸より二ノ丸および城下を望む。
鳥取城は「城郭の博物館」の異名があり、
色々な形の曲輪や珍しい石垣が観られる城としても知られます。

天球丸の名は、恒興の娘で若桜鬼ヶ城主山崎家盛の夫人天球院が、
山崎家を去った後に居住したことに由来します。
後に火災で居館は焼失し、その後は放置されていたようですが、
幕末には稽古所が設置されて、藩士らの鍛錬に利用されました。


巻石垣」。
これも城郭には非常に珍しい石垣で、円形をしています。
石垣のたわみを防ぐためのもので、本来は港や河川に用いられる手法。
はじめ天球丸の名は、この巻石垣に由来していると思っていました。

幕末の鳥取藩の藩主は、水戸藩主徳川斉昭の五男池田慶徳
それゆえ尊攘思考を持った藩主でしたが、
鳥取藩としては準親藩として佐幕的な側面もあったため、
藩内は勤皇派と佐幕派で対立していました。
河田左久馬ら尊攘派藩士22名は、京都の本圀寺にて、
佐幕派重臣黒部権之助高沢省己早川卓之丞を暗殺。
藩論を勤皇に統一させようとしますが、
禁門の変によって政情が変わると、河田らは幽閉されてしまいます。
その後、大政奉還によって幕府が崩壊すると、
新政府に恭順して官軍として鳥羽伏見の戦い戊辰戦争に出兵しました。


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西郷どん42

November 12 [Mon], 2018, 7:00

第42回「両雄激突」。
西郷の家には、欧州に留学するために菊次郎市来宗介が身を寄せる。
大久保より文が届き、不平等条約の改正は難航していると書かれ、
欧米の近代化の様子も記されていました。

菊次郎と宗介の長男は欧州に旅立ち、
西郷は菊次郎に農業を勉強して来いと告げる。
ちなみに菊次郎はアメリカで農業学を学ぶのですが、
結局のところ農業に関係する職には就いていません。
片足で農業は無理だったのでしょうか?

政府では土肥のメンバーが主導権を握り始め、
西郷は改革の必要性を感じはじめる。
弟の従道は、岩倉使節団留守中に新政策を行う事を心配しますが、
民のためになることだから大久保も納得してくれると信じる。

井上馨が銅山を不正に差押えて私服を肥やしていることが発覚し、
井上は土肥のメンバーに糾弾される。
西郷は井上の辞職を促し、残るメンバーに改革の推進を宣言すると、
皆は賛同して「学制」、「徴兵令」、「地租改正」など、
次々と政策を進めていきます。

そんな中、皇居で火災が発生。
宮廷太政官府が焼失してしまいます。
西郷自身も過労で寝込んでしまい休養を余儀なくされる。
これは明治6年5月5日に起こった皇城火災の事ですね。
明治天皇皇后赤坂離宮に非難し、
皇居が再建されるまで仮皇居としています。

一足早く帰国した大久保が西郷の許を訪れ、
土肥の連中に「あなたの居場所は無い」と追い返されたと語り、
産業革命を自ら見た大久保は留守政府の連中を追い出し、
また新たな政府を作ろうと西郷に言いますが、
西郷は留守を守ったのは江藤新平ら土肥の連中で、
彼らと共にやっていけば良いと否定。
大久保は政府を去ると言い残し去っていく。

西郷が復帰すると朝鮮国交問題が発生。
朝鮮に出兵するか否かで会議は紛糾。
結局、西郷の派遣で決着。

しばらくして岩倉使節団が帰国。
岩倉具視は明治天皇の言葉に落ち込みます。

伊藤博文は岩倉を慰めるため、綺麗どころがいると案内しますが、
そこに待っていたのは木戸孝允ら長州閥の面々。
岩倉は西郷と大久保の仲たがいの聞き、
おもろなったやないか」のセリフ。
そこへ大久保が現れなにやら密談が始まります。

閣議が開かれ岩倉も参加。
そこに大久保が現れ西郷は喜びますが、
大久保は西郷の朝鮮派遣を反対し、
西郷に対して敵意の目を向けます。

まあ岩倉使節団に対しては評価の分かれるところ。
不平等条約の改正はなんら目的は達成できませんでしたが、
政府のトップの大半が実際に欧米を体験出来た事は、
日本の近代化に大きく貢献したことは間違いないでしょう。
ただ「留守にするから何もするなよ」ってのは、
流動的な政治において絶対に無理な話です。
江戸時代の留守居役や城代じゃあるまいし・・・。
こういうところは、江戸時代の考えが抜けていなかったのでしょうね。




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広島県安芸高田市 安芸吉田陣屋跡

November 11 [Sun], 2018, 7:00
広島藩の支藩広島新田藩は、他の新田藩と同様に領地を持たず、
宗藩の蔵米支給によって運営され、藩主は江戸に定府していました。

ところが幕末の文久3年、広島藩は不穏な状況の長州藩への牽制の為、
新田藩主浅野長厚を帰国させ、幕命を得て陣屋を建設させ、
安芸吉田藩が成立します。
皮肉にも長州藩に備える為に建てられたその陣屋は、
毛利元就の本拠地吉田郡山城の麓に建てられました。
これには深い理由があったようです。

吉田は長州藩主毛利家の父祖の地であり、
仮に長州藩が広島を攻めるとなれば吉田が狙われます。
また攻めてくるとすれば、山陽岩国からの他、
山陰浜田藩を破って石見を抜けた場合、
広島を防衛する為には吉田を要害とする必要もありました。

それとは別にもうひとつ。吉田に陣屋を建てたい訳もありました。
吉田には元就や毛利隆元の墓所があり、
毛利家が長州に移ったあとも、代々の長州藩主が墓参りに訪れています。
もちろん藩主の墓参りですので、大人数が吉田に来るわけで、
住民達は大歓迎で迎えます。

元々が毛利家の領地だったわけで、しかも藩主自ら墓参りに訪れる。
そうなれは民衆の感情としては、実際の領主である浅野家よりも、
毛利家贔屓になってくるわけです。

広島藩としても隣国の大藩とは仲良くしたいので、
墓参りを断るわけにもいかない。
とはいえ、吉田の民衆に領主は浅野家であると知らしめなければなりません。
そこで、吉田を支藩の居城(陣屋)とすることで、
吉田の民に「領主は浅野家」だという事を思い出させようとしたのです。

そういうわけで、文久3年9月より8ヶ月掛け、
総工費銀約1000貫、米約1500石、建坪440坪の広大な陣屋が建てられました。

郡山」。
かつての毛利家の居城吉田郡山城は、この郡山全域に及んだという。
はじめは砦程度だったものが、毛利家の勢力拡大とともに拡張され、
山全体が要塞化していたようです。
後に毛利輝元広島城に拠点を移すまで、
毛利家の居城として機能していました。


広島県立吉田高等学校(安芸吉田陣屋跡)」。
安芸吉田陣屋は現在、吉田高等学校の敷地となっています。
堀の跡が残っているらしいのですが、よくわかりませんでした。


史跡 郡山城址」碑。
吉田高等学校より北西に進んだ道より郡山城へ登る事ができますが、
今回は時間の関係で断念。この先に毛利元就の墓もあります。
このあたりに元就が晩年過ごした御里屋敷があったらしい。


毛利元就公像」。
地域振興事業団の第二事務所敷地内にある銅像。
毛利家は安芸の小領主に過ぎませんでしたが、
元就は権謀術数を駆使して中国地方の覇者となっています。


三矢の訓碑」。
少年自然の家敷地内にある碑。
一般的に知られる「三矢の訓え」は、1本の矢は簡単に折れるが、
3本束ねると容易に折れないので、兄弟が結束して毛利家を守れというもの。
元就は「三子教訓状」という書状を、3人の息子に宛てて書いていますが、
三矢を絡めたような話は書かれていませんので、後世の創作のようです。
とはいえ、吉川元春小早川隆景が毛利宗家を支えるという両川体制は、
三矢の訓えそのものといえるでしょう。


法圓寺」。
安芸吉田陣屋跡には遺構建築物は残されていませんが、
同市の法圓寺に陣屋の馬見櫓が移築されています。


三菱窟」。
安芸吉田藩は明治2年に宗家に吸収され、
吉田陣屋は解体されて民間に払い下げられます。
この三菱窟は陣屋の馬見櫓として使用されていたもので、
学問僧として著名であった法圓寺住職が払い下げを受け、
学問所として利用されました。三菱窟の名は移築後に名付けられたもの。
陣屋時代は茅葺であったようですが、銅板葺に変えられていました。
現在は茶室として使用されているそうです。

幕末の藩主で7代浅野長厚は、浅野家支流の子として生まれ、
幼少時に5代藩主浅野長訓の養子となります。
広島藩10代藩主浅野慶熾の早逝によって、長訓は宗家を継ぐ事となり、
新田藩は同じく長訓の養子で従兄の浅野長興が継ぎますが、
再び長訓の養嗣子(後に広島藩最後の藩主)となった為、
新田藩は長厚が継ぐことになりました。
そんな矢先に、広島への帰国と陣屋の建設が命じられた訳です。

幕末の動乱によって新田藩から安芸吉田藩となった訳ですが、
結局あまり目立った行動は見られません。
版籍奉還で広島藩に吸収されましたが、
実際にはやはりカタチだけの藩だったのかもしれません。
長厚自体も明治6年に死去しており、
どのような人物であったのかもよくわかりません。

この吉田の地に藩庁を置く事が重要であったわけですが、
実際には長州藩が吉田を狙ったという事実も見られない。
取り越し苦労と言ってしまえばそれまでですが、
当の広島側からすれば、何らかの手を打たざるを得なかったのでしょう。

現在でも広島の一般の人は、「広島の殿様は?」と聞くと、
毛利元就!」と答える人が多く、「浅野家」の名が聞かれる事は少ない。
たしかにそういうものかもしれませんね。


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鳥取旅行

November 09 [Fri], 2018, 7:00
仕事で大きな案件が進んでとても忙しい中、
有給を取って家族旅行に行きました。
少々同僚には迷惑掛けましたが、リフレッシュも大事です。
休んだ分はあとで頑張ればいいんだと、
勝手に自己解決して鳥取へ出発!

前々からJTBの旅行券を持っていたのですが、
なかなか使用することができず、そろそろ使ってやろうと鳥取旅行を計画。
鳥取を旅行先に選んだのは、中国5県の中でも行く機会が少ないのと、
予算の関係等の事情からです。もちろん史跡も重要な要素ですが・・・。

まずは中国地方の最高峰「大山(だいせん)」へ。
大山は鳥取県西部にある成層火山で、
古来より山岳信仰の対象とされていました。
四季それぞれに美しい姿を見せる山で、
何度か米子道(高速道路)から新緑や雪化粧を拝んだ事があります。
この季節の大山は紅葉が綺麗だということと、
大山のソフトクリームは美味しいらしいということで、
嫁さんのリクエストで大山に行く事が決定した次第です。

まずは遠くからわが子2人の記念写真。
長旅で疲れたようですが、松江道も開通して行きやすくなっていました。
しかし大きな山って距離感がつかめませんよね。
すぐそこじゃんって思っても意外と遠かったりします。


大山まきばみるくの里」からの大山の眺め。
山なんて興味ないなぁなんて内心思っていましたが、
実際に行ってみるとその迫力に触れるのは中々良いものですね。
牛も放牧されていて子供達も喜んでいました。
ソフトクリームも濃厚でとても美味しかったです。

大山より東へ進み、三朝温泉へ。
仕事関係で三朝温泉に泊まった事があり、
その時の泉質や温泉街の雰囲気が良かったものですから、
いつか家族を連れて来たいと思っていました。

三朝温泉は国内有数のラドン温泉で、療養温泉としても知られます。
情緒ある温泉街も魅力的でした。

子供達を連れて温泉街にある「いづみ娯楽場」へ。
射的手打ちパチンコ。そしてスマートボールのある遊技場です。
みよちゃんはスマートボールを体験しましたが、
はじめは中々入らずイライラしてましたが、
そのうち入りだして楽しんでいました。

2日目は鳥取砂丘へ。

鳥取砂丘は、日本海海岸に広がる広大な海岸砂丘。
写真は「馬の背」と呼ばれる砂丘列で、相当歩かないと行けません。
遠くから眺めるだけかなと思いきや、みよちゃんは行く!って裸足になりました。
まじっすか・・・・。


子供達にとっては鳥取砂丘は「大きな砂場」。
これだけはしゃぐとは、連れてきた甲斐がありました。
みよちゃんはあっち行ったり、こっち行ったり。
その体力は大人には無い・・・。
対照的にゆきちゃんはペタンと座って砂いじり。
それはそれで楽しそうなんですけどね。

その後、鳥取城などを訪問した後、県をまたいで岡山へ。
津山城鶴田陣屋跡をめぐって湯原温泉へ。
史跡については後日アップします。

湯原温泉も情緒ある温泉街のある温泉地で、
ダムのすぐ下にある共同露天風呂「砂湯」が有名です。

2日もお泊りできるなんて子供達にとっては貴重な体験。
浴衣も気に入って着ていました。
少しは家族サービスになったかなと自己満足しつつ、
合間にちゃっかり史跡も訪問した充実した旅行になりました。


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西郷どん41

November 07 [Wed], 2018, 7:00

第41回「新しき国」。
いつの間にか廃藩置県は実施されたようです。
新政府は諸制度改革を進め、欧米への使節団派遣が決定。
肥後土佐の連中は薩長主導で進められる事に苛立ち、
使節団の留守中がチャンスだと考えます。

鹿児島の菊次郎の許には、
使節団について欧米へ行くように西郷からの手紙が届く。
島津久光は鹿児島県大参事大山綱良を呼び、
欧米の猿真似では馬でも鹿でもできると苦言を唱える。

一方、東京では村田新八が天皇の傍に仕える事になり、
川路利良が欧州各国への視察の許しを賜り、
中村半次郎改め桐野利秋が、陸軍少将を拝命したと、
一通りの出世が紹介されたところで、
村田が自分には荷が重いと辞退を申し出る。
しかし西郷は、川路や桐野の性格とその役目が適任であると言い、
村田もそうであると納得させます。
まあ茶番なんですが、上手く話を纏めていますね。

西郷は宮中改革を進め、従来の天皇のあり方を改めようとする。
宮中は騒然としますが、明治天皇はそれを了承します。

岩倉使節団の派遣が決まり、岩倉具視は西郷に留守中の事を頼む。
西郷は留守政府を取り仕切る立場となり、
肥後や土佐の連中が好機とばかりに攻勢に出ますが、
西郷はそれを跳ね除けます。
そんな中、山城屋事件が発生。
桐野は山縣有朋を斬ると息巻き、江藤新平らは山縣の罷免を求めます。
留守政府の人事を変える事になった事で反対派は息巻きますが、
こういう事件の辞任は人事とは別な気もしますが・・。
それにこの事件の背景に徴兵令の議論もあるはずですが、
それには触れず・・。
山縣が汚職まみれでヘタレだというイメージだけが残りました。

鹿児島からは海江田信義が現れ、久光を県令にせよと迫られます。
西郷は久光を県令にはできんと断り、天皇行幸を告げる。

そして行幸が始まり、鹿児島に天子様が来ます。
久光の前に現れた明治天皇は洋装でした。
その後、西郷は久光に会い「これが兄斉彬と共に作りたかった国か」と問われる。
西郷は正直にかけ離れていると答えます。
予想に反して久光は「やり抜け!」と激励。
久光・・・・相変わらずいい味だしてるなぁ。




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すこしだけ休憩。

October 31 [Wed], 2018, 7:00
ここ数年頑張って2日おきに記事を書いてきましたが、
ちょっと仕事とプライベートが大変で、
2日おきに記事をUPするのが困難になってしまいました。

1〜2週間記事を休みます。

いえ、その後は前のように続けますよ!
少しだけ待っててくださいね。


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西郷どん40

October 29 [Mon], 2018, 7:03

第40回「波乱の新政府」。
大久保と岩倉具視勅書を持って鹿児島へ。
島津久光に東京へ上って力を貸すようにという内容でしたが、
久光は病気を理由にそれを断る。もちろん仮病。
この辺の久光の演技は嫌いではない。
俗物感があって何故か好感が持てるのは僕だけ?

西郷は2人にどういう理由なのかを尋ねると、
大久保は藩を取り潰そうと考えているという。
新政府の財政難を、諸藩から税収権を取り上げて賄おうという考え。
これに西郷は御親兵を創設しようと言い出し、
一同、それは良いと賛成する。
え?なんで?突飛すぎない?ちょっと説明が雑すぎじゃない?

なんやかんやあって西郷は熊吉と共に東京へ。
大久保邸にて新政府のお歴々と西洋料理と会食。
激論が展開している様子を目の当たりにし、
これが現在の政府の実情だと大久保は西郷に言う。

廃藩置県の激論が交わされ、なかなか議論は進まない。
西郷は町人長屋に暮らし、質素倹約に努めますが、
大久保は皆がやりにくいと西郷に訴えます。
西洋に舐めらねぬ為に、西洋の真似をしてるという。
お座敷遊びは外国に舐められるのとは関係無い気がしますが・・。

大久保は木戸孝允を呼んで手を貸してくれと頼み、
勅書に賜って断行に踏み切りますが、
お歴々は大久保の独断を批判し、
木戸は何故西郷が居ないんだと、お歴々らと場を去ろうとしますが、
そこへ西郷が遅れて登場。
大久保は西郷さえいれば他はいらんと言いますが、
西郷は皆がいなければならんと引きとめます。
何故か「花燃ゆ」を思い出しました。




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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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