栃木県宇都宮市 戊辰役戦士墓

July 21 [Sat], 2018, 7:00
戊辰戦争新政府軍に属していた宇都宮藩は、
会津城下の飯寺村の戦いで長岡藩家老山本帯刀を捕え、
薩摩藩軍監中村半次郎に引き渡しています。
山本は恭順を拒んで斬首されますが、
その死を悼んだ宇都宮藩兵によって弔われました。
また、宇都宮の戦いにおける六道口の激戦で戦死した会津藩兵らを合葬し、
墓碑を建てています。


六道口 戊辰之墓」。
山本隊は濃霧の為、会津藩陣営と誤認して宇都宮藩陣営に近づいてしまい、
捕えられてしまいます。薩摩藩に引き渡されると知った山本は、
隊の軍資金200両を宇都宮藩隊長戸田三男に託し、
今回の戦役での戦死者の供養を依頼しました。
戸田はその200両と山本の愛刀を預かった後、
薩摩藩に山本らを引き渡しています。

戸田三男は凱旋後に山本の愛刀を藩主戸田忠友に献上していますが、
現在、その刀は栃木県護国神社に秘蔵されているとのこと。
その後、供養の許しが出ると、預かった200両と旧宇都宮藩士達の浄財で、
戊辰役戦士墓」として六道口の戦い戦死者と共に墓碑を建立しました。
当時はもう少し広い墓域があったようですが、
道路整備の為に縮小され、現在の状態になったようです。

新政府軍が列藩同盟軍戦死者の埋葬を禁止したという話が、
未だに信じられているフシがありますが、
昨今、徐々に埋葬に関する資料などが見つかって、否定されてきています。

現実問題として埋葬が禁止されて野ざらしの状態では、
疫病が蔓延してしまいますので、戦後の経過を考えてもそれはありえません。
これは「埋葬」と「供養」を勘違いした結果で、
賊軍となった列藩同盟軍戦死者を公然と「供養」するのが、
憚られたということで、墓碑などの建立が遠慮されたという事。
今風に言えば新政府に対する「忖度」ですね。

もちろん埋葬とは別に、戦死者に対する「官軍」「賊軍」の扱いや、
靖国神社への合祀などの色々と諸事情は多くありますし、
諸問題を多く抱える出来たばかりの新政府が、
至らなかったのも事実でしょう。
そう考えると、都市伝説である「埋葬禁止令」が諸所で信じられたのは、
仕方のない事なのかもしれませんね。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村

栃木県足利市 足利陣屋跡と足利学校

July 19 [Thu], 2018, 7:00
足利市といえば最古の学校とされる足利学校と、
足利将軍家の菩提寺である鑁阿寺ですが、
そこには足利藩という小さな藩がありました。

譜代大名戸田尊次(宇都宮戸田家初代)の五男戸田忠時が、
6代将軍徳川家宣御側役を務め、後に1万1千石を与えられて立藩。
諸侯に列して歴代藩主は大坂定番奏者番などを務めました。
宇都宮戸田家の分家筋で、宇都宮藩支藩と書かれることもありますが、
宇都宮藩から分地された訳ではないのでそれは間違いです。

JR足利駅北西側周辺(足利陣屋の場所)
陣屋のあった場所は、現在の雪輪町一帯。


陣屋大門」碑。
この路地を進んでいった先に陣屋の大門があったので、
この道は「陣屋大門」と呼ばれたとの事。
つまりこの場所に陣屋の大門があったわけではないようです。


陣屋跡」説明板。
陣屋大門の路地を進んだ先にある説明板。
たぶんこの場所に陣屋の大門があったと思われます。
陣屋の敷地であった雪輪町ですが、
その名の由来は藩主戸田家の馬印が「雪輪」であったからとの事。

周辺に陣屋時代の井戸があるということでしたが、
一帯を捜し歩いても見つからない。
時間もなかったので探すのはあきらめました。

鑁阿寺」。
もともとは足利氏の祖である源義康の邸宅跡で、
その後に足利氏の氏寺となりました。
境内は足利陣屋よりも大きく、さすが元将軍家の菩提寺なだけあります。


鑁阿寺本堂」。
国宝の本堂は室町幕府初代将軍足利尊氏の父足利貞氏が、
正安元年に再建したもの。日本古来の建築様式である「和様」に加え、
鎌倉時代に宋から伝わってきた建築様式「禅宗様」の要素を採り入れ、
新たな様式の「折衷様」として、その後の日本建築に影響を及ぼしたとの事。
この本堂は、いち早く禅宗様を取り入れた建築として、
極めて高い価値を有しているそうです。


足利学校」。
平安時代または鎌倉時代に創設されたとされる中世の高等教育機関。
関東における事実上の最高学府だったようですが、
江戸時代には朱子学の官学化によって、易学中心の足利学校は時代遅れになり、
足利学校は衰微していましたが、学者達は貴重な古典籍を所蔵する図書館として、
利用していたようです。嘉永5年には吉田松陰が足利学校を訪れ、
高杉晋作試撃行の際に(たぶん)訪れました。


学校門」。
學校」と扁額された唯一の門らしい。
たしかに「○○学校」ってのはあるでしょうが、
ただ「学校」とだけ書かれたものは無いかも・・・・。


孔子廟」。
聖廟とも呼ばれる孔子を祀ってある廟堂。
建物の正式名称は「大成殿」で、寛文8年に造営されたものです。
扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王の子で、
のちに京都知恩院門跡となった尊超入道親王の書。


方丈」と「庫裏」。
巨大な畳敷き寄棟造りの建物。
方丈には徳川歴代将軍の位牌が安置されており、
講義や学習、様々な行事に使われた場所。
庫裡は釜戸のある土間や台所、畳敷きの四部屋、湯殿などがあり、
庠主や学生の日常生活の場として使われていたようです。

足利学校を出て国道293号を渡って移築された陣屋の表門へ。

足利陣屋移築表門」。
相当状態が悪いようで今にも崩れそうです。
個人の持ち物なのでしょうけど、そこは貴重な遺構ですので、
公的な資金で修理などしたほうが良いと思いますね。

足利藩最後の藩主戸田忠行は、先々代藩主戸田忠録の子でしたが、
忠録は忠行が生まれる前に死去しており、
宇都宮藩からの養子戸田忠文が跡を継ぎます。・・が忠文は3年後に死去。
10歳で忠文の末期養子となって8代藩主となりました。
文久2年には大番頭となりますが、翌年には大番頭職が廃止されています。
文久3年に藩政改革に着手し、藩士俸禄の削減、文武の奨励が行われ、
軍制にはオランダ式を採用して、西洋調練掛も設けられた。

天狗党の乱では、藩医鈴木千里とその子の刈谷三郎が参加。
都賀郡に領地があった関係から、天狗党と大平山退去の交渉をしています。
また足利藩の支配する栃木宿が放火され、藩士らは天狗党に応戦しました。

慶応3年、忠文は陸軍奉行並仏国陸軍伝習方に任命され、
後に足利藩の軍制はフランス式に改められます。
大政奉還後も下野路挙兵などに討伐隊を派遣し、
佐幕寄りの姿勢を崩しませんでしたが、
徳川慶喜が寛永寺で蟄居すると新政府に恭順。
戊辰戦争に出兵し、梁田戦争戸倉戦争に参加しました。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村

5歳になりました。

July 18 [Wed], 2018, 19:00

みよちゃんは5歳になりました。
ああ・・5年も経ったんだなぁとしみじみ思います。

で、5歳のお祝いに大分のハーモニーランドに連れて行きました。
神社仏閣などシブいところにしかつれて行ってなかったのですが、
今回行ってみてみよちゃんは相当楽しかったようで、
そのときに買ってあげたキキララのキーホルダーを、
今も肌身離さず持っています。



↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村

群馬県館林市 館林城跡

July 17 [Tue], 2018, 7:00
館林藩徳川四天王のひとり榊原康政によって立藩された譜代藩。
康政は「」と書かれた旗印を用い、数々の合戦で戦功を挙げ、
特に小牧長久手の戦い羽柴秀次の軍勢を壊滅に追い込み、
森長可池田恒興を討ち取るなどしています。
後に3代藩主榊原忠次が白河藩に移封され、館林は天領となりますが、
すぐに大給松平宗家が入封して2代続き、佐倉藩へと移されました。

そして徳川家光の四男で、後の5代将軍徳川綱吉が25万石で入りますが、
兄で4代将軍徳川家綱が継嗣無く死去した為に綱吉が将軍となり、
館林藩は跡を継いだ綱吉の子徳松が早逝した為に廃藩となります。

その後、越智松平家、譜代太田家と藩主家が変わった後、
再び越智松平家が藩主となり3代続いてようやく藩主家が落ち着きますが、
浜田藩密貿易事件が発覚したことにより、
藩主家の松井松平家棚倉藩に移された為、
越智松平家が浜田藩に移されることになりました。

代わって棚倉藩より井上正春が入りますが、すぐに浜松藩に移され、
山形藩から秋元志朝が入封して幕末に至ります。


上野国館林城図」。
現在はだいぶ埋め立てられてはいますが、
当時は城沼を天然の外堀にするように造られた城だったようです。


館林城跡」碑。
館林城の築城には諸説があるようですが、
有名な伝説として「狐の尾曳伝説」というのがあります。
当地の部将であった赤井照康が館林城を築城する際、
築城奉行が館林に視察に行くと、子狐が子供達にいじめられていました。
そこで子供達から子狐を救うと、その狐が築城奉行を案内するしぐさをした為、
これについていくと、狐はある場所で尻尾を使い城の縄張りを書きだしました。
築城奉行はこの狐が書いた縄張り通りに築城し、
それが館林城となったとされています。


館林市文化会館」。
三ノ丸跡には館林市文化会館が建てられています。
館林城は上杉謙信の関東出兵によって奪われて長尾当長に与えられ、
謙信の関東撤兵後に北条家の支城となりました。
豊臣秀吉小田原征伐が始まると、関東の支城の攻略が行われ、
石田三成を総大将とする別働隊が館林城を包囲します。
城沼を要する館林城に対し、周辺の山から木々を伐採して城沼に投げ入れ、
道を攻略しようと試みますが、一晩経つと投げ入れたはずの木々が無い。
これを館林城を守護する狐の加護であると三成は恐れ、
力攻めをあきらめて降伏していた北条氏勝に説得させて開城に至ったようです。
その後、三成は「のぼうの城」で知られる忍城の戦いに転戦しました。


三ノ丸土塁
遺構の少ない館林城ですが、三ノ丸には土塁が多く残っています。
館林城は維新後に民間に払い下げられていましたが、
明治12年に旧藩士達により買い戻されました。


土橋門」。
明治7年の大火で館林城のほとんどが焼失してしまいますが、
旧藩主家秋元家により、大正7年に土橋門が復元されました。
戦後、老朽化により取り壊されましたが、
昭和57年に市の観光事業の一環として復元されています。


贈従三位秋元志朝之碑」。
秋元館林藩初代藩主秋元志朝の顕彰碑。
志朝は徳山藩主毛利広鎮の八男で、母が秋元家の出身だった為、
継嗣のいない山形藩主秋元久朝の養子となりました。
久朝の隠居により家督を継いた後、館林藩に転封となっています。
広鎮の子ということは、禁門の変の責任で自刃した福原越後
徳山藩9代藩主毛利元蕃、長州藩最後の藩主毛利元徳と兄弟で、
姉や妹も長州藩の家老に嫁いでいました。
そういうわけで長州藩とは親密だったようですね。
文久2年には、飛地領の河内にあった雄略天皇陵の修復に着手しています。
※この雄略天皇陵は2つの古墳を無理やりくっつけた??な陵墓でした。
しかし禁門の変で長州が朝敵となると、その出自ゆえ強制隠居させられ、
養子の秋元礼朝に家督を譲っています。
その後も藩政に関与しており、長州と幕府の仲介役となりました。


館林市役所」。
二ノ丸跡は館林市役所が建てられています。
明治期には上毛モスリンに売却されて紡績工場が建てられていました。


館林城ゆめひろば」。
旧神戸生絲館林工場の跡地で、二ノ丸および南郭だった場所です。
現在は更地となっていますが、これから何らかの活用がされるのでしょうか?


三重櫓跡」。
館林城の天守の役割をしていた三重櫓の石垣。
どうもそのまま残されている訳ではなく、
工場の建設に伴って積みなおされている模様です。
とはいえ他がほとんど更地な分、少しでも残ったのは幸いですね。


向井千秋記念子ども科学館」。
本丸のあった場所は、現在向井千秋記念子ども科学館が建てられています。
日本人女性初の宇宙飛行士向井千秋氏は、館林市の出身とのこと。
彼女の偉業を記念してこの名が付けられたそうです。


旧秋元別邸」。
八幡郭のあった場所に建てられた旧藩主家の別邸。
上毛モスリンの重役の別荘として建てられたもので、
大正時代に再び旧藩主家の所有となったもの。


秋元春朝投網の像」。
旧秋元別邸の庭にある館林秋元家13代当主の像。
志朝の後は掛川藩太田家からの養子礼朝、
宇都宮藩家老戸田家からの養子興朝と、毛利家から離れていましたが、
春朝は徳山毛利家10代当主毛利元功の三男で、
再び毛利家からの養子となっています。
粋人で村人からも愛された好人物だったとのこと。
この像は城沼に投網する姿ですが、
明治期の華族が、ふんどし一丁の銅像になっています。
それだけ親しまれていたということでしょうかね?
この像は彫刻家毛利教武の作品ですが、
彼は長州毛利家とは関係ないようです。


城沼」。
館林城はこの沼を天然の要害として利用しました。
一時は水質汚染が深刻化していたようですが、
現在は色々な取り組みによって浄化されているようです。

幕末に館林藩に転封となった秋元家は、
水戸藩と共に関東の尊皇攘夷派の急先鋒でした。
上記したように藩主家は長州毛利家との縁が深く、
幕府にも睨まれていたようです。
秋元家の館林への転封は、水野忠邦による天保の改革の失敗が原因。
三方領知替えによって浜松の水野家が山形へ、館林の井上家が浜松へ、
そして山形の秋元家が館林にうつりました。
水野家は懲罰的な意味合いで、井上家は旧領復帰の意味合いがありましたが、
秋元家の転封はなんら意味はなかったものと思われます。
ですが仮に転封されずにそのまま山形藩でいたとしたら、
戊辰戦争の際にはどうなっていたことでしょう。
結果的には館林に来たのは良かったのかもしれませんね。

↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村

西郷どん26

July 16 [Mon], 2018, 7:00

第26回「西郷、京へ」。
西郷は遠島より5年ぶりに帰ってきます。
新章スタートということで、初登場キャラが沢山出ていました。

岩倉具視笑福亭鶴瓶・・・まあ悪くない。
勝海舟遠藤憲一。渋めですね。あんまり江戸っ子感無いですが、
どんな海舟になるのか楽しみではあります。
そして坂本龍馬小栗旬
微妙に大河にはチョイ役で何度も登場していますが、
今度はある程度重要な役回りとなってきそうですね。

島から鹿児島に帰った5日後、京へ向かって出発。
久々に黒木華扮するも登場しました。

京へは諸侯を集めて参預会議が開かれて、
一橋慶喜島津久光が火花を散らしてます。
西郷は大久保を尋ねると、大久保は宴会で畳を回している。
久光が帰るというので、せめて家臣らを繋ぎとめていたのだそうです。

西郷は久光に謁見しますが、
久光は「一橋も好かぬが、お前はもっと好かぬ!」と西郷を下がらせる。
・・しかし慶喜が久光を嫌う理由も、久光が西郷を嫌う理由も、
なんだかよくわかりませんねぇ。

西郷は慶喜に会いに行きますが、門前払いされる。
対応した平岡円四郎が周りを見回すと、
素人のような密偵がうろうろしています。

西郷は宿へ戻ると、ふきが慶喜の書状を持って待っていました。
ふきはなんと慶喜に身請けされて側室になったとの事。
マジっすか!薩摩の農民の子ですよね・・・。
しかも「ウチの人」って・・・。

遊郭で慶喜と再会した西郷は、久光ともう一度会ってくれと言うが、
あいつはイモだと取り合わない。
慶喜はあれほど憎かった井伊直弼が凄い男だったんじゃないか?と言う。
西郷は否定しますが、理由が橋本左内らを殺したからって・・。
あまりにも私的な理由ですねぇ。で、慶喜は久光に会う事します。
・・が、久光は一橋と話ても無駄だと薩摩に帰るという。
そのかわりに西郷は軍賦役兼諸藩応接掛に任命されます。

一橋家家臣平岡円四郎が慶喜に間違えられて殺される。
この件を慶喜は恐れ、なんだか人が変わった様子。
ああ。こういう風に慶喜の行動心理を描くつもりなんだな・・。

しかし平岡が慶喜に間違えられて殺されたって・・。
平岡は慶喜を裏で操っていると考えられて殺されたわけで、
慶喜自体はまだ天誅の対象ではなかったわけですが、
慶喜を狙ったのだとすると、また話が変わってきますよねぇ・・。




↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村

中山忠光6

July 15 [Sun], 2018, 7:00
中山忠光が再び下関にやってくると、これを好機としたのが久坂玄瑞でした。

京都で活動していた久坂ら尊攘志士30余人らは、
攘夷期限が決定されると下関に向かい、攘夷戦に参加しようとします。
ですが京都では攘夷派のリーダーである久坂も、
長州に帰れば下級藩士であり、下関を守る正規兵からは外されてしまう。
これは門閥意識の強い長州藩士達から軽視されたのと、
何をしでかすかわからない危険集団と見られたため、
隊中には加えられないと考えられた為でした。

これに対して久坂は、忠光を御旗にして別働隊を結成します。
光明寺に駐屯する彼らは光明寺党と呼ばれました。

この事態に下関の長州正規軍を預かる馬関総奉行毛利能登は、
忠光を首とする一軍が別行動を取られては困ると、
藩政府に指揮系統の一本化を要望し、
藩も光明寺党が馬関総奉行の指揮下であると明確化します。

能登の配下がその旨を忠光や久坂に伝え、
指揮下に入って軽卒な行動は慎むように告げたものですから、
攘夷をこの手で決行できると喜んだ忠光は、
その日よりご機嫌が悪くなり、宿泊先となっている白石家では、
忠光の機嫌を治そうと連夜の酒宴が設けられたということです。

そんな中、久留米の神官真木和泉が久留米藩の政争により幽閉され、
佐幕派によって死罪になりそうであるという情報を聞いた忠光は、
お供8名と共に久留米に向かいます。
久留米に着いた忠光一行は、久留米藩主有馬慶頼に面会を求めますが、
明日に藩校明善堂にお出で願いたい」との事で、
翌日に行ってみると大手門が閉ざされていました。
開門を要求すると門内から忠光に向かって「偽公卿!」と罵る声が聞こえます。

これに忠光は怒りを爆発させ「誠に無礼!麿は長州兵を率い久留米を討つ!」と、
言い放って久留米を去りました。
もし本物ならば長州藩と戦争になると焦った久留米藩は、
藩士に長州に帰る忠光一行の後を追わせて、
無礼を謝って久留米に戻るよう嘆願しますが、
怒りの治まらない忠光は聞き入れない。
弱った久留米藩は、真木と共に幽閉中の尊攘派渕上郁太郎らを向かわせ、
真木らの釈放を取り計らうと約束した為、ようやく忠光の怒りは治まります。

忠光は久留米の手前にある松崎宿に滞在。
2人の使者を久留米城に派遣して、藩主に真木の釈放を趣きを伝えさせます。
しかし当時の久留米藩政は佐幕派が握っており、
釈放の確約が得られぬまま、2人は忠光の許へ帰って来ました。
これに忠光は怒ってさっさと下関に帰ってしまいます。
結局久留米藩は真木の釈放を決定。
真木は忠光のおかげで、九死に一生を得たのでした。

忠光の久留米出張中、長州藩は米商船ベンブローク号に砲撃を開始。
攻撃を予期していなかったペンブローク号はあわてて周防灘へ逃走します。
忠光はこの話を聞いて悔しがりますが、攘夷戦参戦の機会はすぐ訪れ、
仏船キンンシャン号、蘭船メデューサ号への砲撃に参加。
忠光は光明寺党と共に長州軍艦に乗ったとも、
前田台場で攻撃に参加したとも伝えられますが、
とにかく攘夷戦に参加したことは間違いないようです。

その後、米艦ワイオミング号が報復にやってきて、
長州艦庚申丸が撃沈、癸亥丸が大破、台場も砲撃を受けました。
忠光は京都へ戻る為に長府に行っており、この戦闘には参加していませんが、
敗北の様子も伝えられた事でしょう。
この帰京の理由を「長州藩の敗北に幻滅した」とも云われますが、
敗北前に京に帰ることに決めていますので、他に理由があるようです。

とにかく忠光は京に帰ったわけですが、
その後すぐに天誅組の総帥となって「天誅組の変」を起こします。
吉田松陰という狂人を排出した長州藩ですが、その松陰を陵駕する狂人ぶり。
その行動は数々の重大な事件に影響を与え、
朝廷が、各藩が、有名志士が振り回されています。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村

中山忠光5

July 13 [Fri], 2018, 7:00
攘夷の魁たる長州藩が、外国製の軍艦や武器を買うとは何事か!
そんなものは打ち壊してしまえ!
」。

中山忠光は、長州藩が軍備に外国製を採用しているのを聞いて激怒。
高性能の武器を揃える事は当たり前の事で、
忠光の言っている事は無茶苦茶なのですが、
藩の重臣達がどう説明しても納得しない。
とうとう藩主の毛利慶親にも掛け合う事になるですが、
もちろん外国製の武器を打ち壊せなど聞けるわけの無い話。
慶親は丁重にお断りしています。

萩に入って3日後、立腹した忠光は下関に向かいました。
供は藩より忠光の接待役に任命されている宮城彦助楢崎八十槌
宮城は後に教法寺事件で切腹した人物です(記事はこちら)。

白石正一郎の許に、先触れの楢崎が忠光の来訪を告げに来る。
白石家には多くの要人や志士らが出入りしていましたが、
大納言の子息で侍従、皇太子の叔父にもあたる貴公子が来るというので、
さすがの白石も大慌てで座敷の掃除などの用意をしています。
そして現れた貴公子は、過激な志士らを相手にしてきた白石の想像を、
大きく超えるような過激さをいきなり発揮しました。

丁重なもてなしで忠光を迎え入れた白石は、
忠光と国事について夜まで議論した様ですが、
夜半八ツ過(午前2時過ぎ)」に長府へと向かいます。
自分の太刀は寝室に置いており、それを取りに行く暇もなく、
白石の刀と弟の廉作の短刀を借りて飛び出して行きました。

深夜に、しかも太刀を取りに行けないほど急いで出ていくのですから、
ただ事ではないでしょう。
忠光の性格を考えれば、長府藩主か重臣に何らかを掛け合ったのか?
長府に向かった忠光がどういう行動をとったのかわかりませんが、
白石家には戻らず、そのまま萩に帰ってしまいました。
おそらくそんな深夜に門を叩いても、応答が無いでしょうから、
立腹したまま萩へ帰ったのでしょう(宗家に言いつけてやる的な)。

萩に帰ってからの行動は、吉田松陰の墓を参った他はわからず、
その後またすぐに下関の白石家に戻っています。
それからは白石および供の者が、忠光の激情に振り回される日々。
議論の末に絶食し、なだめた末に機嫌が直ったと思ったら、
また怒り出して外へ飛び出していく。
これらの異常な行動に手を焼き、萩滞在中に仕えた土屋矢之助という藩士を、
わざわざ下関まで呼んたりしています。
そうかと思うと、建設中の前田砲台(記事はこちら)に現れて、
一般の人夫にまじってモッコを担ぎ、朝から晩まで働きました。

それから萩に戻って藩から丁重にもてなされますが、
すぐに下関に戻ってきます。
攘夷期限が迫り、下関で攘夷が決行されるという風評には、
忠光の性格上、じっとはしていられません。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村

中山忠光4

July 11 [Wed], 2018, 7:00
中山忠光の父中山忠能は、出奔した息子を八方手を尽くして捜索。
すると忠光の従者2人が帰ってきて、忠光は大阪長州藩邸におり、
久坂玄瑞が付き添っていると告げ、忠光の手紙を渡します。

心配されている事と思いますが、自分は皇国の為に尽くします。
親不孝を許してくださると共に、金子を少し工面してください
」。
というような内容の手紙で、兄の正親町公董にも同様の手紙を託けました。

これに忠能は「すぐ帰ってこい」といった内容の手紙を家臣に持たせ、
大坂へ向かわせます。すると今度は久坂玄瑞が中山邸にやってきて、
大坂の長州藩邸にお預かりしていたのですが、
目を離した隙に行方不明になったと告げます。
翌日には大坂にやった家臣も帰ってきて、
大坂の長州藩邸に行ったが、忠光は居なかったと報告。
仕方なく忠能は朝廷に息子の辞官を願い出ます。

忠光はというと、飛船で長州の富海(記事はこちら)に到着。
萩往還を北上して萩城下に入ります。

宿舎は指月城三ノ丸の藩主別邸「川手御殿」内の「花江茶亭(記事はこちら)」。
長州藩は朝廷に対し、忠光の長州入りを報告していますが、
内容は「久坂と入江が大坂で、偶然にも侍従様とお会いして聞くところによると、
四国、九州で義挙しようとしていたと言われるので、
大坂の藩邸にお連れして帰京を勧めたのですが聞き入れられず、
久坂らが外出した隙に行方不明となってしまいました。
その後、藩用で入江が萩に帰ってきたところ、
ちょうど同日に萩城下にお見えになったので、
藩内に滞留されるようにお願いしたところです。
侍従様は、昨今の時勢に御不満のある様子なので、
当分の間、当藩に御留めしたいと思います。
京都出奔の件はどうぞ御寛容に御処置くださいませ」。との事。
忠光の長州入りは全くの偶然で、藩は出奔には関わってないという報告です。
・・という訳で、長州藩は「偶然にも」錦旗を得たのでした。
しかし、忠光はそんな簡単に扱える手駒ではありません・・・・・。
萩に滞在して3日後、突如として萩から姿を消してしまうのです。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村

中山忠光3

July 09 [Mon], 2018, 7:00
文久3年2月9日夜。
中山忠光は再び岩倉具視を斬ると言い出します。
攘夷期限の決定や朝廷の言路洞開人材の登用三事が行われないのは、
岩倉具視らの妨害が原因だと思い込んでいる様子。

岩倉は昨年既に失脚しており、岩倉村で蟄居の身。
全くのデマなのですが、何故か忠光は岩倉のせいだと思い込んでいます。
相当岩倉に憎悪しているのか、岩倉を悪の化身のように考えている様子。

これに久坂玄瑞宮部鼎蔵轟武兵衛は驚いて忠光を説得しますが、
全く聞く耳を持たず、今にも行動を起こそうとするので、
仕方なく一応承諾して忠光を中山邸に帰し、すぐに武市半平太に相談して、
忠光の言う三事を関白に建議しようということになります。

久坂、宮部、轟の3人は、関白近衛忠煕邸を訪問し三事の実行を嘆願。
聞き入れられない場合は、この場で自刃すると論じます。
やがて三条西季知姉小路公知、そして当の忠光など、
13人の攘夷派公卿も近衛邸に駆けつけました。
これにとうとう関白も押しきられて奏上することになります。

その結果、一橋慶喜に攘夷期限の決定をせまり、
慶喜は松平春嶽山内容堂松平容保らを招集して夜を徹して協議し、
夜明けになって「将軍帰府後20日」を攘夷期限とすることになりました。

またしても忠光の暴議(わがまま)から、歴史的な重大事が決定されたわけです。
それ以降、攘夷派公卿によって朝廷が制圧され、
将軍の上洛前には賀茂行幸も決定されました。

賀茂行幸が盛大に行われ、忠光もこれに参加。
京都の政情は攘夷へと移行していくのですが、
その日より忠光の帰宅は遅くなり、また攘夷派公卿や志士らが、
頻繁に中山家を訪問して慌ただしくなります。
そして3月19日。突如として忠光は出奔してしまいました。

その理由には諸説があり、中川宮と激論を交わし、
抜刀して宮を追いかけた為に、追われて京を出奔したという説。
自ら攘夷の魁とならんと大阪湾内の外国船への攻撃を模索する為、
麻耶山河内紀伊などに視察に行ったとする説。
そして長州藩が攘夷を実行するにあたって「錦の御旗」とする為に、
忠光を誘い出したとする説があります。

とにかく忠光は4人の従者と共に大坂へ向かい、
偶然にも久坂玄瑞と入江九一にばったり会います(出来過ぎ)。
久坂らと共に大坂の長州藩邸に入った忠光は、
大坂で攘夷の同志を募って決起するつもりであると語り、
久坂はそれを聞いて無謀だと論じ、
しかしながら京に帰ってもお咎めをうけるだろうから、
ひとまず長州に行ってみてはどうか」と提案すると、
忠光はその案を受け入れ、入江と共に長州に渡った・・・ということです。

話が出来過ぎていますので、
久坂らと偶然出会った件、長州行きの件などは、
初めから計画されていた事でしょうね。
忠光の性格を考えると、自ら長州行きを言い出した事も十分考えられますし、
長州も忠光のような錦旗が来てくれれば、十分な大義名分となります。
死ぬかもしれない戦場で、しかも本州の片田舎になんて、
わざわざ赴いてくれる公卿なんて忠光以外にはいません。

そんなこんなで忠光は、長州へ向かいます。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村

中山忠光2

July 07 [Sat], 2018, 7:00
文久2年9月1日。
京都滞在中の武市半平太の宿舎へ、中山家の家臣が面会に来た。
土佐藩他藩応接掛である武市は、攘夷派公卿の中山忠能とは既知でしたが、
訪問してきた大口出雲守という家臣に面識はありませんでした。
会ってみると「本間精一郎を殺した者の名を教えて欲しい」とのこと。
大口は当主の忠能の命ではなく、子息で侍従中山忠光の使いのようでしたが、
そんなことを軽々しく言える訳がなく、自分は知らないと言って追い返しています。

同月8日になって再び大口が現れます。
大口は今度も忠光の命でやってきたようで、
幕府に通じている岩倉具視らに未だ天誅が下らないので、
今夜にも刺し殺そうと思っているので、力を貸してほしい
」と伝えました。
これには武市も驚いで、とりあえず一度侍従様にお会いしようと伝えると、
その日の夜に忠光がやってきて、同じような事を武市に告げます。
武市は思い止めるように説得するが、忠光は頑として聞かない。
仕方なく「明日の夜までに同志と相談する」と言って忠光を帰します。

武市は夜が明けると、土佐勤王党平井収二郎と対策を相談。
平井は忠光がどういう人物か探るため、姉小路公知に忠光の人となりを聞く。
姉小路は「粗暴な振舞が多いと聞くが、どういう人物かはわからない」というので、
平井は姉小路の許を辞して中山邸へ行って忠光に面会を求めます。
ここでは会う事ができず、家人より今夜武市の宿舎に行くという紙を貰う。
武市も三条実美宅を訪れて事情を報告。三条も驚いて忠能に連絡します。

忠能は忠光の計画を知り、本人に直接問いただすと、
岩倉を殺そうと思っているが、許してくれなければ自害する」と息巻くので、
いきなり殺害するのは暴挙であるから、彼らの罪を訴えて、
それが聞き入れなければ、その時に手を下すべきだと諭し、
言う事を聞けぬならまず父を殺してからゆけと迫った。
忠光も父は殺すわけにはゆかぬと計画を断念し、
その晩に武市の許を訪れて中止せざるを得ない事と、
明日にでも関白殿下に訴える旨を告げました。

翌10日朝、中山家から武市と平井にすぐ来てくれという使いがあり、
平井が不在だったので武市だけが行ってみると、
忠光が現れて「本日訴えに行くから、三藩の協力が欲しい」と言う。
武市はこれを謹んで受けいれて退出します。

忠光は関白の近衛家に出向いて、
岩倉らを遠島にするか洛外退居にせよ。もし聞き入れられない場合、
自分は位階を返上し、三藩と謀って天誅を加える
」と迫った。
12日には、岩倉邸、千種有文邸、久我建通邸に、
2日以内に退去せねば、加茂川に首級を晒し、累は家族に及ぶ
といった内容の脅迫状が投げ込まれます。
これに岩倉は髪をおろして僧姿となって、西賀茂の霊源寺に逃げ込み、
その後、洛西の西芳寺に移っていますが、
追放令まで発令されて、仕方なく岩倉村で蟄居するに至りました。

実は岩倉らは8月には既に三条や姉小路などの攘夷派公卿に弾劾され、
失脚して蟄居処分となっており、すでに辞官していたのですが、
それに追い打ちを掛けるような脅迫を受けたわけです。
岩倉らは朝廷の権威高揚に努めていたのでしたが、
和宮降嫁に尽力した事で佐幕派とみなされたようでした。

失脚にとどまらず天誅予告・追放処分にまで発展したのは、
岩倉らが天皇を毒殺しようと企んだという風説が流れたからで、
忠光が岩倉を亡き者にしようとした理由ではないかとされます。

この忠光の一連の狂気じみた行動により、
武市や三条といった有力な志士や公卿が動くことになり、
挙句に岩倉らは慶応3年11月という最末期まで、
京に入る事は許されませんでした。


↓ランキングご協力お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村
プロフィール
  • プロフィール画像
  • ニックネーム:kii
  • 性別:男性
  • 誕生日:1973年8月25日
  • 血液型:A型
  • 現住所:山口県
  • 職業:会社員
読者になる
HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
2018年07月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
P R
https://yaplog.jp/shigekikou/index1_0.rdf