長崎県大村市 玖島城跡

December 15 [Sat], 2018, 7:00
玖島城大村藩の藩庁。
大村藩の藩主家である大村家は、鎌倉時代より地頭を勤め、
領主として地名の大村姓を名乗ったまま藩主家として存続しました。
もちろん稀な例で、長州藩を毛利藩と呼んだり、
薩摩藩を島津藩と呼んだりするような「藩主家+藩」の呼び名ではなく、
他藩と同じように「地名+藩」なわけです。

戦国時代には有馬貴純によって大村から一時的に追放されますが、
再び大村を奪回し、有馬家から養子を迎えて縁戚関係を結び、
龍造寺島津などの圧迫を受けながらも、大村家を存続させています。

豊臣秀吉が九州平定に乗り出すと秀吉に従い、
関ヶ原の戦いでも東軍に就いて所領を安堵されました。
以降、大村藩として江戸時代を通じて大村家が藩主家として君臨してます。


大村公園(桜田の堀)」。
玖島城跡は大村公園として整備されています。
桜田の堀は堀跡を利用した人工の池で、
現在はTV番組の企画によって池の水が抜かれ、
水質改善の為に一定期間の池干しを行っているようでした。


祖庭 長岡安平」碑。
長岡安平は大村藩士の子として生まれましたが、
病弱の為に武芸を好まず、動植物などへの興味を持っていました。
維新後、元大村藩士で政府に出仕していた楠本正隆を頼って上京。
楠本に従って新潟に赴任するなどした後、
東京府土木掛に移って東京府立公園や街路並木の整備を担当し、
以後は公園の整備に生涯を捧げています。
東京都内の公園だけでなく、全国の旧城跡の公園化にも従事しました。
ただ、この大村公園は彼の手によるものではないようで、
旧主君の居城を公園化するのは、彼にとって恐れ多かったのでしょうか?


長堀」。
内堀である長堀と南堀には菖蒲が植えられており、
季節には約30万本の菖蒲が、観光客を楽しませてくれるようです。
また、堀沿いに植えられている桜は、大村原産のオオムラザクラで、
サトザクラの突然変異種とのこと。


板敷櫓」。
玖島城は廃城令によって建造物は全て破却されています。
この板敷櫓は平成4年に再建されたもので、
江戸時代を通じて存在していた櫓だったとされていますが、
じつは江戸期にはこのような立派な櫓は無かったという説もあります。
とはいえ、現在の玖島城跡のシンボルであることは間違いありません。


大村藩お船蔵跡」。
城の裏手には藩の船蔵跡が残されています。
領地が大村湾を取り囲むカタチになっていた大村藩では、
交通手段としての船舶が重要視されており、
ここには藩主の御座船が格納されていいました。
現在でも船を係留していても問題ない位の保存状態です。
これは必見ですね。


大手門跡」。
お船蔵跡より戻って城内へ。
城内は大村神社の境内になっていますので、
大手門に巨大な鳥居が建てられています。


斎藤歓之助碑」。
鳥居をくぐって右手にある顕彰碑。
斎藤歓之助は、神道無念流練兵館斎藤弥九郎の三男。
嘉永2年に剣術修行で兄と大村藩を訪れた歓之助は、
剣に覚えのある藩士らと試合をしてこれを打ち負かします。
これに驚いた大村藩は練兵館を含む江戸の三大道場に藩士を派遣し、
藩士の剣術の向上を計ります。
練兵館に入門した大村藩士荘勇雄は、
藩主や家老に神道無念流が実戦に適していると説き、
歓之助は大村藩に召抱えられ、嘉永7年に大村に赴いて剣術師範役を拝命。
神道無念流が藩の正式な剣術として推奨されるようになりました。
しかしながら歓之助は若くして中風を患い手足が不自由となります。
それでも道場へ出て稽古をつけ、門弟は千人以上に達しました。

大手門より二ノ丸に至り、本丸に続く虎口門前に碑や像が並びます。

少年鼓手 浜田謹吾」像。
太鼓を持った少年の像。
大村藩は2万7000石小藩ながら、戊辰戦争に600弱名の藩兵を派遣。
戦後、賞典録3万石という破格の恩典を賜っていますが、
戦死者も多く出しています。
浜田謹吾もその一人で、若干15歳で鼓手として参加し、
秋田戦争で戦死しました。
銃に倒れた歳若い少年の遺体を葬ろうとした際、
その衣服には謹吾の母が作った和歌を書いた布が縫い付けられてあり、
和歌は下記のように書かれていました(資料により若干異なる)。
二葉より手くれ水くれ待つ花の
     君が為にぞ咲けやこの時

訳:芽が出てより手塩にかけて育てた花よ
     君の為に華々しく咲くのはこの時だ

この和歌を見て、葬ろうとした人々は涙したという。
この縁で大村市と秋田県仙北市は姉妹都市となっているようです。


戊辰戦役記念碑」。
前記しましたが大村藩は、戦後に賞典録3万石を賜っています。
これは薩長の10万石、土佐藩の4万石に次ぎ、
アームストロング砲などの最新兵装で参加した佐賀藩を上回りました。
この事は小藩でも雄藩に負けない活躍が出来たという証明であり、
小藩ゆえに何も出来なかったというのは言い訳でしかなく、
他の小藩が維新の動乱で日和見を続けていたという事がわかります。
もちろんそれが良いか悪いかという話ではなく、
結果として小藩でも成せば成るということが言えると言う事。
とにかく大村藩は、小藩ながら戊辰で多大なる活躍をしたという事ですね。


本丸跡」。
本丸跡には大村神社が鎮座しています。
大村神社は、大村藩歴代藩主とその祖である藤原鎌足藤原純友と、
立藩以前の当主を祀っています。


貝吹石」。
境内にある不思議な形の石。
大小ふたつの穴が開いていて、小さな方を吹くと法螺貝の音がするらしい。


大村純熈公」像。
幕末の藩主大村純熈の銅像。
開明的な人物であったようで、藩政改革を積極的に行っています。
軍事においては西洋軍事技術の導入を積極的に行い、
また藩内流派改革によって、剣術を神道無念流に統一。
西洋兵制を取り入れながらも、武術も軽視しませんでした。
比較的早い時期に純熈自らが勤皇の方針を打ち出して、
藩士らに今後の進退を明確にした為、
渡辺兄弟などの勤皇派藩士の活躍を促進することとなり、
薩長の主導する倒幕路線に素早く対応しています。


中祖大村喜前公遺徳碑」。
純熈の銅像の隣には、初代藩主大村喜前の遺徳碑があります。
キリシタン大名でしたが、禁教令に従って棄教し、
領内のキリシタンを弾圧し、最後は恨みを買って毒殺されました。
悲しい歴史ですが、この棄教が大村家存続の一因でもあり、
豊臣・徳川と政権が変化する中、上手く立ち回った事は、
中祖と称されることも間違いは無い事でしょう。


御居間跡」碑。
境内社である玖島稲荷神社の隣にある碑で、
藩主の御居間があった場所です。
この碑を建立したのは、先に紹介した少年鼓手浜田謹吾の父。

幕末の大村藩は、佐幕派と尊皇派で藩論が分かれていましたが、
文久2年に藩主純熈が長崎惣奉行となった事で佐幕派が台頭。
尊皇派は三十七士同盟を結成してこれに対抗します。
元治元年に純熈が尊皇の方針を明らかにした為、
尊皇派が盛り返しますが、同盟の盟主松林飯山が佐幕派に暗殺され、
これを期に佐幕派の粛清が行われて藩論は勤皇に統一。
薩長と手を組んで速やかに倒幕への行動を開始します。
鳥羽伏見の戦いでは、大津に藩兵を派遣して旧幕府軍の援軍を阻み、
秋田会津にも兵を派遣して功績を挙げました。


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長崎県南松浦郡 松園貫一翁頌徳碑

December 13 [Thu], 2018, 7:00
五島列島中通島に長期出張中。
日曜日も現地休暇ということで、普通なら史跡めぐりでも・・となるのですが、
中通島の幕末関連の史跡はすでに周り尽くしています。
<記事は下記>
長崎県南松浦郡 龍馬ゆかりの地
長崎県南松浦郡 ワイルウエフ号と潮合騒動
長崎県南松浦郡 鯛ノ浦キリシタン六人斬り関連史跡
長崎県南松浦郡 続代官所跡

まあ、今回はどこにも行く予定なかったので、
宿のある魚目をうろついていましたが、
ふと立ち寄った祖父君神社にあった頌徳碑の碑文に、
大久保利通の名がありました。

松園貫一翁 中口茂喜翁頌徳碑」。
祖父君神社境内に建てられている碑で、
魚目漁業協同組合が建立したもののようです。
明治維新で諸々の封建制度が撤廃されるにあたり、
地元の名士松園貫一加徳士の所有する漁業権を浦人に解放し、
共同公平な方法で漁業を行うよう提案。
と交渉を重ね、上京して時の内務卿大久保利通に請願するなど、
十年にわたる努力結果、明治12年に至って漁業権の半分を、
浦人一同の所有とすることに成功しています。
・・・・・大久保利通に請願したとなっていますが、
漁業権の半分を得たのが明治12年・・・。大久保の暗殺後・・・。
大久保は松園の請願を取り合わなかったのでしょうね。

もうひとりの中口茂喜という人は大正から昭和にかけての漁業組合長。
村長も勤めて村と村民の生活向上に尽力した人のようです。

江戸時代には、「加徳」と呼ばれる世襲制の漁業権が制定されており、
その加徳士によって特権的に漁業が行われており、
目の前の海で勝手に漁をすることが出来ませんでした。
諸問題を抱える新政府は、漁業にまで目を向けきれていません。
漁業の御一新は、このような人々の人知れぬ努力で、
成し遂げられたのでしょうね。


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福井県敦賀市 敦賀陣屋跡

December 11 [Tue], 2018, 7:00
敦賀藩小浜藩の支藩で、小浜藩2代藩主酒井忠直の死後、
次男であった酒井忠稠に1万石が分与されて始まりました。

敦賀といえば戦国大名朝倉義景の領地で、
豊臣時代には大谷吉継が治めていた地ですので、
江戸時代も有力な大名の治める藩かなと思われがちですが、
敦賀藩は1万石の小大名です。

というのも敦賀のほとんどは、宗藩である小浜藩の領地で、
敦賀藩は敦賀郡の一部を領しているだけで、
現在の敦賀市街も小浜藩の所領でした。

歴代藩主のほとんどは幕政に参加し、大番頭若年寄大坂勤番など、
要職を務めており、支流とはいえ名門酒井家の面目を果たしています。
特に幕末の藩主酒井忠毗は、若年寄を3度も勤め、
その功績によって城主格大名に家格を上げました。


敦賀陣屋跡」。
徳山陣屋飯野陣屋と並んで、三大陣屋に数えられた敦賀陣屋は、
別名鞠山陣屋と呼ばれました。
残念ながら遺構は全く無く、私有地なので入ることも出来ません。
昔は企業の保養施設が建てられていたようですが、
今は更地となっています。


鞠山神社」。
陣屋跡の南側にある神社。
敦賀藩は明治期に「鞠山藩」と正式に改称しましたが、
明治3年に宋藩の小浜藩に吸収合併されました。
その後の廃藩置県を経て、明治38年に地元住民と元藩士らが、
初代藩主忠稠の二百回忌を記念にして、
陣屋内にあった稲荷神社に忠稠を合祀して「鞠山神社」としました。

安政6年、ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフが、
軍艦7隻を率いて江戸湾の品川に来航。
樺太全土をロシア領と主張して威嚇し、天徳寺で会談が行われましたが、
当時の外国事務掛の忠毗と遠藤胤統が、
ロシア側の主張を退ける功績を挙げています。

ヒュースケン殺害事件生麦事件下関戦争での賠償問題でも活躍し、
幕府の対外交渉の一役を担いました。
しかし、幕府の弱体化によって立場が苦しくなったために、
四男の酒井忠経に家督を譲って隠居しています。

代わって藩主となった忠経が若年であった為、
家老野口文太夫が藩政を思いのままに専横したとして、
敦賀藩士5名が野口を京都で殺害する事件が発生。
その後5名のうち1人が病死し、あとの4人は小浜藩に自首し、
強く自裁を望みましたが、廃藩置県の為にうやむやとなり、
4人は来迎寺の門前で自刃して果てています。
ちなみにこの来迎寺は、天狗党が処刑された場所でもあります。

敦賀藩は忠毗の隠居後、佐幕の方針を捨てて新政府に恭順。
鳥羽伏見で旧幕府軍として戦った事を許された小浜藩と共に、
北陸道鎮撫使に参加しました。


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西郷どん46

December 10 [Mon], 2018, 7:00

第46回「西南戦争」。
西郷挙兵の情報に、政府は震撼。
岩倉具視木戸孝允三条実美らは、大久保に詰め寄る。
大久保は三条や岩倉に、西郷討伐のを賜れるよう頼みます。

2月18日。西郷軍は川尻到着。
突如、熊本城天守が炎上し、その2日後に夜襲が仕掛けられ、
捕虜が捕らえられて熊本鎮台の仕業と判明します。
捕虜より西郷と一党は賊軍で征討するという政府の意向が判明。
西郷は「一蔵どんそういうことか・・」と西郷は覚悟を決めました。

政府軍は、田原坂吉次峠の2手に分かれ、
熊本城を包囲する西郷軍を攻撃するという情報が入る。
熊本城の事はほとんど触れられず。
熊本地震で崩壊した熊本城に配慮したのか?
・・でも、西郷軍の猛攻を退けた熊本城の雄姿を描くことは、
熊本県民にとっても良かったんじゃないかなぁ??

んで田原坂の戦い
政府軍は西郷軍に対抗するため抜刀隊を編成します。
激戦の末に西郷軍は退却しました。
吉次峠で篠原国幹が戦死したことは触れられず・・。

菊次郎が負傷し、小兵衛が戦死します。
野戦病院に西郷が現れ、小兵衛の遺体を発見。
西郷は泣き崩れます。
ちなみに小兵衛が戦死したのは、田原坂の戦い以前の高瀬の戦いで、
菊次郎の負傷はずっと後の和田越の戦いです。
まあそれは仕方が無いとしても、
関ヶ原以来の最大の野戦」とされる城東会戦をスルー?

勅旨が鹿児島を訪れ島津久光に、西郷に改心して降伏させるよう指示。
久光は視察団を送り込んだのは政府で、
シサツ視察刺殺どちらなのか?と問いますが、勅旨は答えず。
これに久光は改心するのは政府の方では?と突っぱねる。

西郷軍は人吉へ退却。
熊吉に抱えられた菊次郎は、自分を殺してくれと
そこへ西郷が現れ自ら菊次郎を抱えて歩く。

木戸は病で死の淵。西郷君ええ加減にせんかと言って死去。
大山綱良は投獄されており、そこへ大久保が現れます。
友だったろうが!」と問う大山に、大久保は「西郷は大罪人」と答え、
おまんらが決めた事じゃろが」という叫びには「おいが政府じゃ」と答える。
完全に悪役の大久保です。

西郷従道の指示により、西郷家保護の為に兵が派遣されますが、
や家族らは敵の世話にならんと断ります。
兵らは帰り、そこへ変装した桂久武が現れ、
小兵の戦死、菊次郎の負傷が伝えられる。
糸は菊次郎の許へつれてって欲しいと久武に嘆願します。
うわ・・嫌な予感。

延岡の野戦病院で療養中の菊次郎と熊吉。
菊次郎は自分の足が無いことに気がつきます。

西郷軍は俵野に本営を置く。
西郷は兵の解散を宣言します。
軍服を燃やす西郷の許に久武と糸が現れました。
ああ・・戦場に無理やり女性を持ってくるパターン。
一番台無しにする要素ですねぇ。

戊辰戦争の二の舞でしたね。
端折りすぎて訳がわからん。
大河「飛ぶが如く」では、まず西郷軍と政府軍の方針と説明し、
高瀬の戦いで西郷軍の強さを強調すると共に小兵衛戦死を描く。
病状の木戸に報告する形で戦況を説明していました。
もちろん「飛ぶが如く」の西南戦争の描き方が良いという訳ではないですが、
あまりにも戦況の描き方が酷すぎですねぇ。
最終回の城山に期待・・は、しないでおきましょう。




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家族旅行の最後に

December 09 [Sun], 2018, 7:00
約一ヶ月をかけて旅行での史跡訪問の記事をUPしましたが、
これにて終了(間に「西郷どん」の記事も挟みましたが・・)。
家族旅行のついでに鳥取岡山の諸藩庁を巡りましたが、
とりあえず事故もなく、なにより家族に喜んでもらえたのが幸いです。

車での旅行の楽しみのひとつは、サービスエリアでしょう。
嫁さんはお土産選びを楽しみ、子供たちは探検を開始します。
スイーツなどのおいしそうなものがあったら、
皆で食べるのもまた楽しい。

帰りに寄った下松SA(下り)には、木彫りの動物や機関車などがあり、
子供たちは大喜び。
あとで調べてみると、チェーンソーアートというらしい。
なんでも世界的なチェーンソーアート作家の作品との事。
乗って遊ばせちゃダメだったかな?
ちなみにゆきちゃんの手には、タコのヌイグルミが・・・。
別のサービスエリアで気に入ったようなので、
旅の思い出に買ってあげました。


木彫りのくまモンのいます。
最近のみよちゃんは、何故か手の甲を見せるポーズをとります。
自分なりに可愛いと思って考えたんでしょうね。

SAを出ると子供たちは眠くなったようで、
家に帰り着く頃には深い眠りについており、
寝たままパジャマに着替えさせました。
よほどはしゃいで疲れたんでしょうね。

どちらかというと勝手に生きてきた僕ですが、
結婚して子供が出来て、考え方も変わってきました。

歴史は好きですが、歴史上の人物達が誰かの為に死ぬ、
何かの為に死ぬという事は、確かに頭では理解できますが、
実際に出来るかと云われれば、絶対に出来ません。
いくら真田幸村が華々しく散ってカッコいいと思っていても、
自分はいくら狸親父でも徳川家康になりたいわけです。

でも、最近はなんとなく出来るかも?って思うわけです。
もちろん主君の為に・・ってのは無理ですが、
最低でも家族の為ならば、自分を犠牲にしても良いと思う。
遅ればせながら自分も父親になったのかもしれません。
自分より大切なものをようやく見つけられた気がします。

僕の場合はそれが家族だったわけで、
幕末の志士達にとっては、主君であったり、朝廷であったり、
幕府であったり、自分の信念であったりしたのでしょうね。


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岡山県倉敷市 東雲院〜生坂藩藩庁

December 07 [Fri], 2018, 7:00
岡山藩の支藩は2つあって、どちらも岡山新田藩
藩というのは大概が藩庁のあった地(国持なら国)の名が付けられます。

新田藩の多くは本藩の蔵米支給で成り立つ藩であり、
実際は「1万石以上」という大名の称号を得るための方便でした。
宗家がその分家を諸侯にするため「1万石以上」を与えた訳で、
領地を分与して宗家の家格を下げないように、
新田開発によって生じた増益分」というカタチで、
1万石以上の蔵米を分与したのが多くの新田藩でした。

よって新田藩には、領地の政務を行う藩庁が存在せず、
藩庁の「土地名+藩」という名称ではなく、
本藩の土地名+新田藩」という呼び方をします。
ネットなどの説明では、藩庁は本藩の「城内に置かれた」となっていますが、
要は藩政は本藩が行っていたわけ、藩庁が無かったのです。

とはいえ、実際に新田開発された土地を分与された支藩も存在し、
そうなれば必然的に藩庁を置く事になり、
その藩庁の「土地名+藩」の名が付きました。

岡山藩初代藩主(宗家)池田光政の三男池田輝録は、
国内の新田を分知し別家を立てることを幕府に願い出て許され、
1万5000石の分与が決まりました。
実際に開発された新田領地が与えられる予定でしたが、
宗家の内高より蔵米支給となっています。

新田藩の藩主は定府大名が多かったのですが、
(諸侯に列する為の大名家であり、また統治する土地も無い為)
輝録流岡山新田藩は城下に居住していたので、
ちゃんと参勤交代を行っていたのでしょう。

この輝録流岡山新田藩には、藩主すりかえのエピソードがあります。
4代藩主池田政弼が死去し、実子永次郎が数え2歳で跡を継ぎ、
池田政房として5代藩主となりました。
しかし翌年に政房は夭逝してしまい、お家断絶の危機となります。
そこで、岡山藩主池田治政の庶子鉄三郎が選ばれ、
ひそかに江戸に送って政房とすり替えられました。

鉄三郎は庶子であったためか幕府に出生を届けておらず、
池田家の血も入っていた為に選ばれたわけですが、
夭逝した本物の政房は数え3歳(2歳)。
鉄三郎は数え6歳(5歳)で、ちょうどウチの子二人と同じ歳の差。
どう考えてもバレるだろうと思いますが、
バレなかったのか?それとも幕府は判ってて気付かぬフリをしたのか?
とにかく輝録流岡山新田藩は存続しています。

幕末の藩主池田政礼は、岡山藩主の名代として御所の警護を勤め、
維新後も岡山藩と共に新政府に恭順しています。


東雲院」。
新政府が領地を持たぬ新田藩主を諸侯と認めなかった為、
輝録流岡山新田藩は備中国都宇郡などに領地を持つ事となり、
藩庁が必要となりました。
そこで仮の藩庁として選ばれたのが「生坂」にある東雲院で、
藩名も生坂藩と改称しています。
寺伝のよると初代藩主輝録は、儒教を擁護して神社仏閣を迫害し、
東雲院の住職増意は3年間の苦難の末に許されたという。
輝録流岡山新田藩は蔵米支給のはずですが、
生坂周辺の領地は持っていたということかもしれません。
また、輝録は名君で民政に尽くしたという別の話もあり、
輝録流岡山新田藩が全く政務を行っていなかったかといえば、
どうもそうではないようです。
生坂と輝録流岡山新田藩には何か繋がりがあるように感じられますが、
生坂を藩庁にしたのも、このあたりの理由かもしれませんね。

実際に東雲院が仮の藩庁となったのは1年だけで、
廃藩置県によって生坂藩は消滅しています。

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岡山県倉敷市 岡田陣屋跡

December 05 [Wed], 2018, 7:00
岡田藩は、羽柴秀吉に仕えた黄母衣衆の一人伊東長実を祖とします。
長実は秀吉の死後は石田三成と敵対し、
徳川家康に三成の挙兵をいち早く知らせた功績があり、
関ヶ原の戦いにおける東軍勝利の要因のひとつとなりました。

ですが、大坂の陣では豊臣方につき、家康と戦っています。
戦後、関ヶ原での功を鑑みられ、改易されず僅かな厳封で大名として存続。
以後、江戸時代を通じて伊東家が岡田藩の藩主として続きました。


倉敷市立岡田小学校」。
岡田陣屋は現在、倉敷市立岡田小学校の敷地となっています。
訪問時は平日の午後。あまりオッサンが一人でうろつけないので、
娘のみよちゃんと一緒に行こうと言ったのですが、
「いかない」というので仕方なく一人で訪問。
校門付近で親御さんらしき人達が話していたので、
ワザとらしく「岡田陣屋の碑とかありますか?」と聞いてみると、
校門入ってすぐの場所にあると教えてくれました。


岡田藩址」碑と「岡田藩邸長囲炉裏」跡。
校門入ってすぐ右側にあります。
岡田陣屋の遺構はほとんど残っていません。
この長囲炉裏は、陣屋内の別の場所にあったものを移築したようです。
校舎の方に陣屋時代の井戸も残されていたようですが、
ちょっと入りづらかったので断念しました。

幕末の岡田藩の動向ですが、さしあたって特筆するような事は無く、
維新後に恭順して備中松山藩討伐などに兵を出している位です。
色々と幕末の岡田藩について探したのですが、何も見つからず。

仕方が無いので、岡田に疎開していたという横溝正史について紹介。
横溝は肺結核の為に、徴兵される事がなく執筆活動を続けていましたが、
終戦前の昭和20年に岡田に疎開しています。
戦後、戦時中は制限されていた推理小説を勢力的に書き始めますが、
物語に登場する地名店舗などは岡田にあったものが多く使われました。
特に「本陣殺人事件」では岡田にあった川辺本陣を舞台としており、
物語に登場する場所の多くが、実際にあったりします。

ただ、その地名は一字だけ伏字となっています。
たとえは、清音駅は清―駅。川辺村は川―村。高梁川は高―川など。
ですが作品中の地名や建物、道などの配置は実際の岡田そのもので、
探偵金田一耕助がどこで聞き込みをし、どこで事件が起こったかなど、
岡田を散策すると見えてくるようです。
また、別の作品「獄門島」や「八ッ墓村」に登場する寺や祠もありました。
岡田は横溝ファンの聖地でもあるようです。

以上、幕末とは関係の無い話でした。

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西郷どん45

December 03 [Mon], 2018, 7:00

第45回「西郷立つ」。
私学校が開設されて1年。
生徒の数は2000人を超えました。
元庄内藩士伴兼之榊原正治もはるばる山形から参加。
彼らは西南戦争に参加し、伴は田原坂で、榊原は延岡で戦死しています。
戊辰戦争の回は端折りすぎで庄内藩と西郷の関係は、
本編では語られずに今回の「西郷どん紀行」で補足してましたね。

一方政府は、中原尚雄密偵として潜りこませます。

西郷は菊草をつれて帰ってくる。
菊次郎にしてもそうですが、愛加那の2人の子は、
島で暮らしたほうが幸せだったのかもしてませんねぇ。

明治9年3月。廃刀令が発令。
私学校の生徒達は激怒します。
収集のつかない状態で桐野利秋が登場して刀を差し出す。
これを見て私学校の生徒はしぶしぶ受け入れました。
このドラマの桐野ってなんか違う気がする・・。

神風連の乱秋月の乱萩の乱が勃発。
これらの反乱を、政府が力でねじ伏せたことに私学校の生徒達は激怒し、
桐野に立ち上がるように訴えますが、桐野は動きません。
う〜んやっぱりなんか違うなぁ。

そこに西郷が現れ、立つ事はならんと釘を刺しますが、
篠原国幹は政府が密偵を潜り込ませてるとあおります。
庄内藩士にもとばっちりですが、密偵には絶対向いてないと思う・・。
西郷は笑い飛ばし、密偵がいたところで何か困ることがあるか?
何もやましい事がないと皆に叫びます

密偵より政府により「ハンランノケハイアリ」と報告があり、
川路利良は大久保に報告。
大久保は熊本鎮台に、有事に備えるように指示します。
西郷従道は大久保に西郷を信じてないのかと問うと、
西郷の覚悟一つで日本中の士族を振るい立たす事もできる」と答える。
従道は激怒しますが、川路は西郷は立たんと従道に言い、
自分も半次郎とは戦いたくは無いと話します。

政府より中原に「ボウズヲシサツセヨ」という電文が届く。
中原は私学校の過激派から西郷を救おうと別府晋介に相談。
政府が弾薬庫を運び出すという事を告げ、自分が密偵である事を話します。
それを陰で聞いていた私学校の連中が出てきて中原を押さえ込み、
中原は拷問を受ける。

私学校の生徒らが政府の武器庫を襲撃し、武器弾薬を奪う。
政府にも情報が入り、大久保は来るべき事態に備えよと命令。

西郷も連絡を受けて私学校にもどると、
中原は拷問され吊るされでいました。
西郷は桐野らを殴り、お藩らのやったことは国家に対する反逆だを怒鳴る。
桐野は先生はわかっていないと小さな紙切れを出し、
西郷の暗殺命令だと断言します。

西郷は中原に「シサツとは刺し殺せという意味か?」と問いますが、
中原が答えないと西郷はその意味を察して泣き崩れます。

桐野はを奪われても耐えてきたのは、
西郷を従うがゆえにだったのに、
その西郷の刺殺を命じるとは、大久保はあんまりたと叫びます。

西郷は覚悟を決め東京行きを決意。
政のありかたを問い正して、皆で薩摩に帰ってくるのだと発言。
政府に尋問の筋これあり」を大義名分にします。

2月17日 大雪
出発前に川口雪篷と酒を組み交わす。
酒は10年ぶりだと西郷は言います。
あれ?禁酒してたの?そんな話あったっけ?
実際の西郷はあまり酒は強くなかったとされています。

桂久武も弓を引っさげて参加。
海江田信義も現れて島津久光の伝言を伝える。
このドラマの久光はいい味出してましたよね。
実際は西郷と合わなかったようですが、
それはそれでこのドラマの久光は嫌いじゃないです。
菊次郎も市来宗介も参加。

何故か菊草が島歌を歌いだすのですが、
ちょっと意味のわからん演出だなぁ。

さあ、とうとう次週は西南戦争た!




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岡山県総社市 浅尾陣屋跡

December 02 [Sun], 2018, 7:00
豊臣秀吉の小姓であった蒔田広定は、成長して秀吉の旗本となり、
父の蒔田広光が死去すると、その跡を継いで1万石の大名となりました。

秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦い西軍に属したため、
所領を没収され改易となるところを、舅であった大島光義や、
同世代で親交のあった浅野行長らの弁明によって所領を安堵され、
後に備中浅尾に転封となり、外様大名浅尾藩が成立しました。

ところが広定の死後、長男の蒔田定正が家督を継ぎますが、
広定の遺言によって次男の長広に3000石が分与された為、
大名ではなくなりました。
以後は旗本として江戸時代を通じて11代続き、
幕末の文久3年に、当時の当主蒔田広孝江戸市中警護の功で、
所領の高直しが行われて1万石の大名に返り咲きました。

こうして再び大名となった蒔田家でしたが、旗本からの昇進の為、
元々外様だったはずが、譜代大名に列することになります。


総社駅北側周辺(浅尾陣屋の場所)
蒔田家は旗本時代より、交代寄合であったため、
大名と変わらぬ統治を行っていたようです。


浅尾藩校集義館跡」。
広孝によって開かれた学問所で、
現在は、総社市を中心に展開する薬局の研修センターとなっています。


稲荷神社」。
丘陵部の頂上のある神社で、御殿が建てられていたとされていますが、
どうもこの神社ははじめからここにあったようで、
藩主の御殿があった場所は、近くの民家が集まっている場所のようです。


浅尾陣屋跡」碑。
広孝は京都見廻役を任じられ、禁門の変長州藩と戦っています。
その恨みが原因かはわかりませんが、
立石孫一郎に率いられた第二奇兵隊脱走兵100余名は、
倉敷代官所を襲撃した後、浅尾陣屋の北側にある宝福寺に宿営。
これに陣屋の留守居役は早々の立ち退きを要求し、
交渉の末に明日立ち退く事が約束されました。

しかしその深夜。脱走兵達はひそかに浅尾陣屋に近づいて、
陣屋内の建物に次々と放火
火事に驚いた陣屋内は大混乱となり、夜襲と気付いた藩士らは、
大砲を発射するなど応戦しますが、陣屋から退却しています。

知らせを聞いた藩主広孝は、急遽幕府の許可を得て帰国。
陣屋はその大半を焼失してしまっていましたが、
その修復も十分に出来ぬまま、職務の為に京都に戻らざるを得ず、
広孝が京都見廻役を退任したのは、慶応3年になってからでした。
その間の政務は仮藩庁を設けていたようですが、
最後まで陣屋の修復もされずに、明治維新を迎えています。


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岡山県高梁市 備中松山城その2

November 30 [Fri], 2018, 7:00
展望台より備中松山城を望んだ後、高梁市街におりて城を目指します。
高梁市街は山に囲まれた盆地で、そこを高梁川が貫流しており、
その様子からそこが城下町であったであろう事が伺えました。

その北側が備中松山城で、山城であった備中松山城は、
平時には不便な為、山麓に「御根小屋」と呼ばれた御殿を設置して、
藩政務および藩主の居館としました。
現在の岡山県立高梁高等学校が、御根小屋のあった場所で、
小屋と名付けられていますが、巨大な御殿だったようです。

備中松山城は鎌倉時代秋庭重信が大松山に城を築いた事にはじまり、
時代を経過して小松山(現在の備中松山城の場所)まで拡張したようです。
戦国時代には三村元親が城主となっており、
はじめ毛利家についていましたが、織田信長に寝返り、
備中兵乱を経て小早川隆景によって三村は討たれて、
備中松山城は毛利家が領有することになりました。

関ヶ原の戦い後に毛利家が防長2国に押し込められると、
備中松山城は天領として小堀正次小堀遠州が代官として入り、
城や城下を整備しますが、その後に池田長幸に与えられてます。
以後、水谷家安藤家石川家と藩主家が代わり、
最終的に板倉宗家が入封して幕末を迎えました。


山田方谷先生家塾 牛麓舎跡」。
備中松山藩の藩校有終館の学頭であった山田方谷の邸宅跡で、
方谷はここに家塾も開いて「牛麓舎」としました。

方谷の家は元々武家でしたが、祖父の代に追放されて百姓となっており、
優秀であった方谷は士分に抜擢されています。
遊学して佐藤一斎陽明学を学び、帰国後に藩校有終館学頭に任命され、
藩の財政改革にも参加しました。
藩主板倉勝静は方谷を信頼し、藩の内政を担当して財政を建て直し、
藩の実収入は20万石におよんだという。


松山城シャトルバスのりば」。
自家用車で登れるのはここまで。
ここから八合目の「ふいご峠」までシャトルバスで登ります。
ふいご峠までは5分程度の道のりでした。

ふいご峠より徒歩で備中松山城へ。
5歳と2歳の子供を連れての登城は、かなりしんどいものがあります。
佐伯城にも歩いて登ったみよちょん(記事はこちら)も、ここではギブアップ。
もちろん2歳のゆきちゃんは抱っこなんで、
二人を抱っこして登るという苦行の末、ようやく石垣がみえてきました。

大手門跡」。
石垣が見えてくるとテンションも上がってきます。
すでに乳酸出まくりの足に鞭打って登りました。

大手門跡より見上げると、見たことのある景色。
実はこの備中松山城、大河「真田丸」のOPに使われた城なのです。

大河ドラマ「真田丸」のOP。


二ノ丸」。
結構観光客が登っていて、しかもご老人ばかり(平日ですしね)。
皆さんこの二ノ丸でお弁当を食べておられました。
お弁当を買ってこなかったのを悔やまれます。


天守」。
全国で12棟しかない現存天守の中で、
一番高い位置にあるのが備中松山城の天守です。
2層2階の小さな天守ですが、それでも立派。
この天守を含む本丸には300円必要です。
仮に財布忘れたとかだったら最悪だろうなぁ・・。


囲炉裏」。
天守の中に囲炉裏があるのは非常に珍しい。
備中松山城は実際に篭城戦を何度も経験した城で、
実際の篭城戦でも使用されたようです。
標高が高く寒いので、暖を取るのに丁度良さそうですね。


天守2階からの眺め。
紅葉も綺麗ですし遠くに見える城下も美しい。


二重櫓」。
天守の裏手にある2階建ての櫓。
備中松山城にあった櫓の中で、2階建てだったのは、
天守とこの二重櫓のみだったようです。

幕末の藩主板倉勝静は、井伊直弼と対立して安政の大獄によって罷免。
井伊が暗殺された後は、老中に2度も就任するなど幕政に深く関与しました。
徳川慶喜に厚く信任され、老中首座会計総裁に任じられ、
大政奉還にも深く関与しています。

鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜が大坂城から脱出すると、
それに同行して江戸に向かいますが、
慶喜が朝敵となると老中を辞任して、新政府によって蟄居処分となり、
日光を経て宇都宮に移されて英厳寺に軟禁されました。
宇都宮戦争が始まると、大鳥圭介伝習隊によって開放され、
以後は奥羽越列藩同盟の参謀として戊辰戦争を戦っています。

一方、備中松山藩の国許では、新政府が岡山藩に討伐を命じますが、
山田方谷は藩主不在ながら、城の明け渡しを決断。
不在の藩主を強制的に隠居させた事として、
先代藩主板倉勝職の従弟にあたる板倉勝弼を新藩主として迎え、
全面投降して岡山藩の占領下に入りました。

ほどなく大坂より熊田恰が藩兵を率いて帰国しますが、
岡山藩は、鳥羽伏見の戦いの責任者として熊田の首級を要求。
熊田は備中松山藩の責任者として自刃してます。

そんな国許の様子を知らぬ勝静は、五稜郭まで戦い続けますが、
新政府は勝静および嫡子万之進の降伏および死亡が確認されなければ、
恭順は認められぬと強硬姿勢をとった為、
方谷は藩士を箱館に派遣し、国許の状況および新藩主の就任を知らせ、
江戸に連れ戻します。
勝静は自首して謝罪。終身禁固刑となって安中藩預かりとなり、
備中松山藩は2万石厳封のうえで存続が決定しました。

廃藩置県後、備中松山城は廃城令によって廃城となりますが、
取り壊されたのは山麓の「御根小屋」だけにとどまり、
山中にあった城はそのまま放置されますが、
このことによって天守が現存されたわけです。


大手門跡でのゆきちゃん。
頑張って連れて来たんですけど、
2歳なんで城に登った事なんて忘れちゃうんでしょうね〜。


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プロフィール
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  • ニックネーム:kii
  • 性別:男性
  • 誕生日:1973年8月25日
  • 血液型:A型
  • 現住所:山口県
  • 職業:会社員
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HP「ぬしと朝寝がしてみたい」のオフィシャルブログです。 下関を拠点に史跡をまわったり、幕末・維新に係る記事を書いたりします。
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