吉田松陰と米沢 ー松下塾の原点

April 30 [Fri], 2010, 22:24
 
吉田松陰

米沢駅から北西に歩いて20分ほど。北部小学校前に吉田松陰逗留地跡との石碑がある。吉田松陰(1830-1859)は長州で塾を開き、高杉晋作、山県有朋、伊藤博文など維新の多くの人材を育成し、長州を倒幕に向けた偉大な精神的指導者とされている。吉田松陰と米沢とはどのような繋がりがあるのであろう。



吉田松陰逗留宿の跡(米沢市)

米沢の宿で吉田松陰は米沢藩士高橋玄益が持参した米沢藩校、興譲館の教科書を見て驚いた。世の藩校における難しい漢文調で観念的、道徳的な教科書ではない。百姓、商人、武士の役割、果すべき義務、農業の実務、農業土木、治水の仕組みなどが平易に分かりやすく書かれている。本の教えだけではない。米沢では武士といえども農業の実務をこなし、女性も作業を実践している。これは直江兼続、上杉鷹山以来の伝統である。(本ブログ中の直江兼続および上杉鷹山参照)22才の青年吉田松陰は感動し、目を開いた。教育とは本を読むことだけではない、武士は搾取者であってはならない、書物を学び、そのうえで実際に行動しなければならない。1852年3月、吉田松陰が飛躍するきっかけとなった米沢訪問であった。

 

上杉鷹山

吉田松陰は脱藩して、同士宮部県造とともに会津、新潟、秋田、青森、仙台とまわった後、米沢の旧知の高橋玄益を訪問した。当時、北からロシア船が蝦夷に迫っており、吉田松陰は北方の様子を実際に確かめるとともに、各地の人材と会い、自分を磨こうとしての大旅行であった。5ヶ月の吉田松陰の東北周遊は日本の歴史を変える契機となるものであった。


松下村塾

 吉田松陰は長州、萩で松下村塾を開く。そこでは身分を問わず、有為な人材を集め、ともに学び、働いた。誤解されがちだが、吉田松陰はそこでは政治的な煽動を行ったわけではない。歴史、地理、なかでも農学を重点的に教えるとともに弟子達とともに屋外で農作業に汗を流した。 松蔭は、「学問とは人間とは何かを学ぶことである」、「学者になってはいけない。 実行しなければならない」と説いた。日本の歴史を教え、農業生産の実践を進めるうちに、松蔭の人間的魅力と相俟って、有能な弟子達のうちに自然に現状打破、国力充実、体制革新の機運が生まれていったのであろう。
このような日本を動かした吉田松陰の教育の原点が米沢にあったのは興味深いことである。



松下村塾の俊英達
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