ストゥディウム/プンクトゥム

2006年06月29日(木) 8時16分
 ロラン・バルトの写真論『明るい部屋』(「暗い部屋[camera obscura=カメラ]」のもじり)に示された用語です。バルトの写真論はちょっとユニークで、まず、写真はコードのないメッセージ、つまり現実そのものだ、というものです。これは、根元的虚構論の観点から見れば、大いに疑問の余地があります。

 曖昧な視野の枠によって、球面(眼球)で把捉された両眼視による対象像という肉眼の視覚と、明確な枠によって、平面(印画紙)上に展開された単眼像という写真の映像とは異なります。(なお、その意味で肉眼像もまた、ありのままの現実ではありません。私たちの目は、メディアであり、変換装置です。ついでに言うと、耳も。)また、コードの多くの部分は読解の帰結でもあるので、その意味では言語であっても、あらかじめ用意されたコードなどはない、とも言えます。すなわちこれこそが、暗黒の中における跳躍≠ナす。

 実はこのことが、ストゥディウムとプンクトゥムという見方にも関わってきます。ストゥディウムは'studium'であり、スタディやスタジアムと同語源です。写真における「一般的関心」、いわば定常状態を意味し、ゲシュタルト心理学でいう、いわゆる「地」(ground)にあたります。プンクトゥム(punctum)は点・ポイントであり、「刺し傷」であって、写真の中の問題となる箇所を指します。いわば「図」(figure)にあたる部分です。

 しかし、事前に用意されるコードはないわけですから、プンクトゥムは一つには決まらず、受容者の介在によって規定されます。つまり、見る者によって、プンクトゥムの在処は変わってくるのです。

 『明るい部屋』は、バルトの母の映像についてのエッセーでもあり、それはバルト論として興味深いものですが、ここでの提案は、この、ストゥディウムとプンクトゥムの見方は、写真だけでなく、他の表象ジャンルにも応用できるだろうということです。絵画や映画、あるいは文芸についても、定常状態において事後的に発見される、跳躍としての、「刺し傷」を認めることです。

起承転結―再び(論文・レポートの書き方5)

2006年06月28日(水) 8時04分
 学期末が近づき、レポートの執筆に頭を悩ませる季節となりました。簡単にレポートを書けるフレームワークを示してみましょう。文学・映画準拠でまとめてありますが、他の対象にも、もちろん拡張可能です。6枚のレポートを書くとしたら、次のように構想してみてはいかがでしょうか。

1)〈起〉なぜこの対象(作品)を選んだのか―動機(1枚)
 対象との出会い、その対象を選んだ理由、その対象の第一印象などを書いてみましょう。これが論全体の出発点となります。印象については、特に魅力的と感じられる要素(言葉遣い、発想、題材など)や、筆者の体験との響き合い(共感、違和感、驚異)などに即して書くと良いでしょう。一番明確なのは、ここで対象の中に謎を発見することです。そして、それらのことが、論述の過程を通して、どのように変容または展開していくのか、を、以下の焦点とすれば良いのです。

2)〈承〉この対象(作品)はどのように理解できるのか―解釈(2枚)
 これは、いわば構造を取り出す分析と言えます。対象の構成を鳥瞰的に概観し、逆に、細部の語学的解釈やショットの分析を行います。また、レトリック(修辞・発想・配置など)に留意したり、それぞれの分析単位ごとの意味を明確にしたりします。この分析を通して、〈起〉で述べた内容を展開したり、あるいは変容させて、膨らませていけば良いでしょう。その過程で、共感・違和感・驚異などの理由を解明したり、あるいは謎に接近してください。論述は過程です。論じてゆく過程を重んじてください。

定型(物語5)

2006年06月26日(月) 13時17分
 イーザーの『行為としての読書』やロトマンの『文学理論と構造主義』など、情報理論を取り入れた読解の方法論では、「テクストと読者とが各々所有する情報のバランス」が問題にされています。

 イーザーのレパートリーは、テクスト・読者が所有する情報そのものであり、過去の文芸や同時代の社会から引用された蓄積であり、それら相互の水準の相違が読書行為の契機となります。ロトマンもまた、情報において「テクスト>読者」となる場合、テクストは難解に過ぎ、逆に「テクスト<読者」となる場合、既知の情報しか得られない、ということになると述べています。

 定型は、テクストが読者との間の文芸的コンタクト(接触)を確保するための、重要な紐帯となります。すなわち、読者があらかじめ所有する類型のストックに訴えることによって、テクストは自らを受容する回路へと、読者を引き込むことができるのです。

 特に、物語の場合には、定型は、この意味では必須とも言えます。『不如帰』とか『愛と死をみつめて』とか『めぞん一刻』とかの物語の枠組みは、他に多くのヴァリエーションが存在する定型です。読者は一定程度に「安心して」物語享受のシートに座り、ゆっくり寛いで個々の物語を堪能することができる、というわけです。

 加藤幹郎『愛と偶然の修辞学』に結実したメロドラマ論は、いわばこの物語の定型論の最終理論とも言えます。つまり、メロドラマでは、「いつか見た物語をもう一度見ることによって存分に泣くこと」が求められるのであり、むしろ定型にぴったり合った物語こそが歓迎される、というわけです。小説・映画・マンガなどを横断して語るこのメロドラマ論は、この分野を考える際に必須の、参照の枠組みを与えてくれます。

 もちろん、定型は「型」である限り相対的なものですが、さまざまな定型を便宜的にであれ、押さえておくことは、読解に基盤を与えます。ところで……定型という観点から見た場合、21世紀以降に、新たな物語は現れるのでしょうか? 現在の物語は、そのジャンルに拘わらず、20世紀までの定型の変容とそこからの逸脱に終始しているのではないでしょうか?

暗闇の中における跳躍2

2006年06月22日(木) 8時14分
 「私は、インターネットの中で笑い、インターネットの中で泣くでしょう。私の声は、言葉は、私の愛も、憎しみも、すべて、Uniコードに変換され、パケットに乗って送信されるでしょう。私はそこで、すべてを見、すべてを手にしますが、ほんとうは何も見えず、何も得られないのです。」

 「私は、あなたを検索し、HPを通じ、掲示板を開設し、blogに書き、SNSに登録し、メールを出して、すべてのテキストメッセージを、あなたに向けて発信するでしょう。あなたから何も返信がなくても、あなたがそれを見てくれているだけで、私のメッセージは、意味をなすのかも知れません。けれども、私の言葉は一切の確証を得られず、あなたの愛も、憎しみも受け取れず、私のメッセージは、ネットの暗闇に吸い込まれ、そしてどこへともなく、消えていくのです。」

 「インターネットは、双方向システムであるというのは、幸運な場合にそう見えるだけで、実際のところ、それは一方通行でしかありません。私がこれだけ書いたのに、私が心をこめて書いたのに、あなたは何も応えてくれません。私にはあなたが見えず、あなたには私が見えません。私はあなたに触れることができず、あなたは私に触れることができません。限界づけられたコミュニケーションの方式の中で、いつしか私は、コミュニケーションとは元々、何であったのかを、忘れてしまうのです。あの頃、私は、いったいどのような声で、あなたと話していたのかを。」

 「私は自分をテキストに変換して、インターネットに飛び込みます。そこは、真っ暗闇で、救いのない空間です。1度の送信、1ファイルのアップロードが、各々、危険な賭にほかなりません。どうしてそんなリスクを負うのでしょう? それはたとえ、どれほど暗闇で跳躍するような行為であったとしても、私は自分をネットワークから切り離すのが怖いのです。それは、もう決定的に、あなたと私とのコンタクトを解消することです。」

パセリ、セージ、ローズマリー、&タイム

2006年06月21日(水) 8時36分
 私を吹奏楽に誘った女の子は、ビートルズファンになって私にビートルズを教える前は、サイモンとガーファンクルのファンで、それで私も最初にS&Gのファンになりました。まったく、かえすがえすも、主体性ゼロの中学時代です。

 私は外国語オンチで、国際交流のため英語ができなくて現在でも四苦八苦していますが(皆さん、英語は学生時代に、ちゃんと勉強しておいたほうが身のためです!)、幾つかの外国語の「美しさ」にはあこがれの気持ちを持っています。ただ、日本語だってそうですけど、どんな外国語でも、常に美しいわけではなくて、美しく話されるときに美しいのです。ビートルズもそうですが(「Yesterday」や「Here Comes Sun」や「And I Love Her」や「Across The Universe」や)、S&Gの発話の美しさは、私の記憶の奥底で、そのあこがれを支えています。

 「Sound Of Silence」や、「Scarborough Fair」の冒頭のフレーズなど、Fighting Languageとも言われる活発な英語でも、こんな内にくぐもった、ささやくような、深い響きになるのか、という魅力がこもっていました。例によって、確か、全音楽譜から出ていたS&G曲集を買ってきて、 「Sound Of Silence」のやや単純な、「Scarborough Fair」の複雑なアルペッジョをギターで練習しました。これらの静かな曲は、クラシック・ギターで弾いても効果的だったのです。

 「水曜の朝、午前3時」、「明日に架ける橋」、「ボクサー」……。まったく、年代が分かりますね。サイモンとガーファンクルのデュエットは、言葉の意味は分からないけど、その響きは、至上の美しさを帯びていました。ものごころついたころに体験した、シニフィアンの原初的な感覚です。私は部屋で、確か、低音部をカセットに録音して、それを再生しながら高音部を歌い、「一人デュエット」のように歌っていたように思います。

鎮魂歌

2006年06月19日(月) 12時12分
 私が中学生の頃、何か本でも買えと言われて、盛岡市肴町の東山堂書店の仮店舗(当時、新築中でした)のプレハブで、初めて買った単行本は、『ヒロシマの証言』という被爆記録集でした。それは、学生・主婦・労働者などが、突然の災厄に見舞われ、どのようにして生き延びたのか、また町がどのように壊滅し、人がどのように死んだのか、多数の人の証言から成っていました。

 なぜそんなものを買ったのか分かりません。写真集『決して忘れはしない ナチス虐殺の記録』や戦記文学を見て育った関係かも知れません。私が『フィクションの機構』に収めた原民喜論を書いたきっかけは、立原道造論などと同じく、院生時代に学生同士で開いていた小研究会で、「鎮魂歌」の発表を聴いたことです。その発表に私は満足できず、いつか、自分の「鎮魂歌」論を書いてやろう、と心に決めていました。

 私は「鎮魂歌」のものすごさに感銘を受けていました。もちろん、原作品で最も有名な「夏の花」連作も読んでいましたが、『ヒロシマの証言』を中学生時代に繰り返し熟読していた私は、「夏の花」に、それ以上の感動を覚えた記憶はありません。『ショアー』が出たとき、『ナチス虐殺の記録』を見ていたからか、そこまで驚かなかったのと同じように。あるいは、証言記録と、文芸テクストには、求めるものが違っていたからかも知れません。

 今の職場に勤め始めた頃、有島武郎研究会が広島で開かれました。文学散歩の途中、なにげない街角に、原の小さな文学碑を見つけました。一念発起して、夏休みの暑い時期に、毎日毎日、少しずつ書き繋いで、100枚の論文を書きました。その論文は、原のテクストから、被爆体験の衝撃的な事実性を取り去ったとして、後に残る文芸性とは何か、というようなスタンスです。後に残るもの、それは、レトリックでした。戦前期から、原は幻想コントを量産した作家だったのです。原民喜論は、自分でも気に入っている論文の一つです。

 それにしても、「鎮魂歌」という小説はすごいですよ。近代文学で3本の指に入ると思います。まだの方は、ぜひお読みください。

掲示板への投稿(ネット・エチケット2)

2006年06月15日(木) 14時39分
 LMS(授業支援システム)上の掲示板や、無料掲示板などで、授業に関する質問・相談、意見交流、補足情報の提供などを行っています。ところが、これらが今一つ盛り上がらないのです。学会の席上、他大学の担当者たちと意見を交換したところ、次のような事由が浮かび上がってきました。

1)まず、学士課程学生の場合、PCリテラシーとPC利用度が、こちらの期待するほど高くないのではないかということです。ある有名掲示板などが盛り上がっているように見えても、それを利用しているのは国民全体の1%にも満たない、というような話が出ました。掲示板を開設しただけでは始まらず、操作方法をもちろん教えた上で、盛り上げていかなければ盛り上がらないというのです。

2)ではどうすれば盛り上がるのかというと、一番良いのは、誰か熱心な学生に先導してもらうことのようです。サクラ≠ナすね。サクラ≠ノ頼むなどは芳しくないようにも思えますが、最初はペースメーカーが必要かも知れません。確かに、20人に1人くらいは、PCオタク≠ェいそうですよね。ヴァーチャルでの交流の前に、リアルでの関係を作っておかなければならないわけです。

3)そして、担当教員(または、担当学生・院生)が、こまめにフォローしてコメントを書くこと、これが効き目があるようです。純粋に盛り上がってしまえば、あとは先生は調整役に徹して、問題があったら介入するくらいでも大丈夫になるとのこと。掲示板の種類や目的によっても、これらは微妙に異なってきますけれども。

 一般に、掲示板やブログに投稿する際の注意は、1)「公開掲示板の場合は、匿名で投稿すること(メールアドレスその他の個人情報は書き込まない)」、2)「掲示板の管理者が信頼できる人であること」、3)「その掲示板に合った、正しい言葉遣いで書くこと」、これらを守っていれば、ほとんどの場合、トラブルは未然に避けられます。また、管理者が信頼できる人であれば、トラブルにも対処してくれるはずです。

 Web利用は慎重を期すべきことであるのはもちろんですが、エチケットを守って、意想外の学問的交流を行うこともできるはずです。ご投稿をお待ちしております。

色っぽい文章(言葉に付加価値を!2)

2006年06月12日(月) 6時17分
 大学では初年次の導入教育における、基礎的スキルを育成する授業開発が盛んで、コンピュータリテラシー、英語能力のほか、言語運用に関するセミナー型の授業が、広く行われています。人に読ませるべきリポートを書いても、いっこうに感想文の水準を出ない、というような学生が、そのまま専門課程や社会に出て行っては困るわけです。

 それは当然のことです。けれども、私は単に中性的で公用書向けの文体を養う仕方には疑問を持っています。むろん、そのようなものも書けなければならないでしょう。けれどもまた、それしか書けないというのは、結局、文化の断念なのではないでしょうか。一義的に情報を伝達するという思想には、言葉というものが本来そうはできていないので、無理があるというだけではありません。言葉が付加価値を得て、新たな文化を創出する場合、言葉は、伝達の水準から大きく飛躍していくはずなのです。

 私は「色っぽい」文章が好きです。こんな風に書くと、ジェンダー批評家からたたかれそうですが、別に書き手の性にこだわっているわけではありません。

 内容の伝達という地平を超えて、その人の、テクストや世界への、深い関わりのあり方を共示するような文体、それは、その人の愛をにじませた、「色っぽい」文章になるはずです。そのようなものを書くためには、ただ書くことの技術ばかりを修練していてもだめで、テクストや世界との間で、慈しみにも似た、魂のやり取りを交わすことを心がけなければならないでしょう。大学でもそのような指導ができるでしょうか? もしかして、文学や表象の時間なら?

 そのような文章はまた、私のあこがれでもあります。私もまた、そのような文章を書きたい。

言葉に付加価値を!

2006年06月07日(水) 8時10分
 YU教養教育「詩は滑稽だ」の授業では、詩を読むにあたって覚えておくとよい、比喩の理論や、配置の理論について概説しています。すなわち、隠喩・提喩・換喩・直喩の四大比喩やアイロニー、反復や倒置法などです。たぶん、TUADの文芸研究入門「宮澤賢治の文芸世界」も含めて、「これが教養教育なの?」と感じる人は多いのではないかと思います。確かに、文芸を読む場合以外に、比喩の理論などを必要とすることはほとんどなく、これらは、やや難しいかも知れません。

 しかし、それらで私が一貫して伝えたいと意図していることは、言葉とは、通常、誰にも平等に与えられている利器であると同時に、それを意識して彫琢しようと思えば、どこまでも高めていけるような価値をも帯びているという事実です。すなわち、研究や開発がそれじたいや商品に対して、新たな付加価値を付与することを目標とするように、言葉にも、付加価値を付けていけるのだ、ということにほかならないのです。そして、漫然とただ歩くだけでは、いっこうにカロリーを消費しないように、言葉にも、努めて意識的に向き合わなければ、なかなか付加価値どころではないのです。

 それは、哲学者が「ノイラートの舟」と言うように、大洋で船が故障しても下船して修理するわけにはいかず、それに乗ったまま何とか策を講じなければならないのと同じく、一旦、言葉を使うのをやめて洗練作業を行い、それから言語使用を再開する、などということはできないことにも原因します。一挙に、爆発的に改善することはありえません。しかし、日頃から言葉に留意して、言葉の付加価値とは何かを自分なりに意識することによって、徐々に、言葉は変わってくるのだと思います。

 もっとも、幾ら恋愛小説を明晰に分析したからと言って、上手な恋愛ができるようになるわけではなく、比喩の理論を勉強しても、それだけで巧みに比喩を操れるというものではありません。どんな技術でも、それを身につけるためには、一定のトレーニングを経る必要があります。ただ、そうしようと思えば、その機会は、そのへんに幾らでも転がっています。何せ、相手は言葉です。言葉を使わない限り、毎日、暮らしていくことはできないのですから。

 言葉に付加価値を! 私の授業の、共通目標はこれです。

小説(ジャンル)2

2006年06月06日(火) 8時20分
 芸術としての文芸という観点から小説をジャンル論的に定義しようとする際に、第一に問題となるのは、まさに、小説というのは芸術なのだろうか?という疑問です。小説が広く娯楽として流通した時代に、哲学者・美学者たちは、小説に正面から向き合おうとしなかったのです。まあ芸術であろうとなかろうとそれじたいはどうでもよいこととも言えますが、このポイントは、小説のジャンル論が、他のジャンルと違って実体論的な定義をすり抜ける理由の一つとなります。

 ヘーゲルの『美学』は、芸術である文芸の3基本ジャンルとして、抒情・叙事・劇を挙げ、各々、主観・客観・主客合一の弁証法的な図式によって説明しています。しかし、当時既に一般大衆においては広く読まれていたはずの小説については、たかだか2、3行の記述しかありません。それも、小説は叙事に基礎を置きながらも散文を志向する、というような逸脱的な書き方で、散文とは非芸術のことです。どうもヘーゲルは、小説をまともに考察したとは思えませんが、それはカントも同様です。

 しかし、ヘーゲルのこの逸脱的な定義を正面から受けとめて、ユニークな小説論を展開したのが、スガ秀実氏です(スガは糸へんに圭)。『小説的強度』は、小説ジャンル論としては希有な達成と言うべき好著です。スガ氏は、柄谷行人・蓮實重彦らの小説論・物語論や、先に見たバフチンの小説ジャンル論などをも統合して、小説を「雑」の強度、逸脱の強度それじたいを糧とするジャンルとして強力に解明しました。当時の、一連の〈代行=表象〉の論議を集約したものです。

 ただ、「雑」の強度は認めるとして、では、小説は芸術なのか?という問い掛けは、依然として残るとも言えます。私の仮の答は、それは、小説も含めるように、芸術の定義の方を変えればよいだろう、というものです。人が電車で読み、寝っ転がって読み、青空文庫からダウンロードして読み、TVや映画やアニメに原作を提供し、形を変えながらも人の話題となり続けているような娯楽を芸術と見なさないならば、芸術研究者は骨董品の鑑定団となる以外にないでしょう。
 
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