シミリー(直喩)

2006年04月28日(金) 8時32分
 馴染みの深い比喩であるのにもかかわらず、シミリー(直喩)の理論は遅れています。「銀河鉄道の夜」から引っ張ってきた次の文を例に借りて、直喩の概説をしてみます。

(1)「僕は立派な機関車だ」(隠喩)
(2)「僕は立派な機関車のようだ」(直喩A)
(3)「僕は立派な機関車のように速く走る」(直喩B)

 (1)と(2)の構文上の違いは、「のようだ」という直喩指標(直喩であることを示す語句)の有無だけです。直喩Aは、隠喩型の直喩と言えます。それに対して、(3)の直喩Bでは、「機関車」というメンバーが「速く走る」クラスに属することが明示されます。こちらは提喩型の直喩です。

 隠喩と直喩との間に互換性があるように見えるのは直喩Aの場合で、それにしても全く同一ではありません。「のようだ」には婉曲・緩和の意が介在しますから、断定とはニュアンスが違います。そして直喩Bよりも、隠喩や直喩Aの守備範囲は広く、互換性はより希薄となります。「機関車」の属性は、ただ「速く走る」だけではなく、「機械」「鉄道」「蒸気機関」「黒い」など、無数のパラディグム(範列)に繋がっていますから。

 直喩指標は、「……のようだ」「……のように」だけでなく、「……らしく」「……よろしく」「……みたいに」「……っぽく」などたくさんあります。グループμ『一般修辞学』にはおもしろい指摘があって、それによると、最上級や比較級もまた、直喩を作る指標となりうるというのです。「夜の暗さよりも暗い気持ち」の場合、「気持ち」は「夜の暗さ」に喩えられるが、その程度はそれよりもいっそう暗い、ということです。すなわち、最上級や比較級は、直喩の強調形を作る直喩指標であるということになります。

 ついでに言うと、直喩は隠喩・提喩と関わりの深い、カテゴリー変換を核心としていて、物理的隣接関係に基礎を置いた換喩とは違います。「赤頭巾のような娘」「青ひげのような男」では、「赤頭巾」や「青ひげ」に元々あった隣接性は消えてしまい、類似性に席を譲ってしまいます。

 教室で隠喩・提喩・換喩の例を挙げようとすると、言葉に詰まることがあります。とっさには思いつけません。ところが、直喩ならば容易に作れます。そして、直喩こそ「発見的認識」(佐藤信夫)の効果をまざまざと見せつける、身近な比喩であると言えるのです。

乾杯について

2006年04月26日(水) 8時24分
 東欧出身者の街の若い労働者仲間たち。そのうちの一人は、ベトナム戦争で帰らぬ者となり、他に脚を失った者もあります。弔いの後、彼らは仲間の家に集まり、喪服のまま、ビール、コーヒー、オムレツで乾杯します。缶ビールを開け、コーヒーを注ぎ、オムレツを焼いて、コップを高く上げたところで、映像は止まり、エンディングテーマが流れます。

 私は小中高の時期にずっとクラシックギターを弾いていたので、アメリカを代表するギタリストで作曲家の、ジョン・ウィリアムスのことは知っていました。『スター・ウォーズ』のテーマなども手がけるこの作曲家は、映画音楽家としても有名になります。しかし、一度聴いたら忘れられないという点において、こちらのテーマ曲は、『スター・ウォーズ』の比ではないでしょう。そして、本業のギター曲でもあります。

 彼らは脱力して妙に明るいのですが、もちろん悲しくてたまらないのです。台所で青年が、卵にミルクを注ぎながら洟をすすっていたのが印象的です。あの頃、私は洋風の卵焼きに、あんな風にミルクを入れるなんて知りませんでした。白い液体を注入し、卵をかき混ぜる撹拌じたいが、弔いの行為のように感じられました。もちろん、乾杯の全体がそうなのです。多義的で、見事な表現です。

 ロバート・デニーロ、クリストファー・ウォーケン、メリル・ストリープ……。終戦後も、闇のロシアン・ルーレット賭場に浸かって帰還しないウォーケンを、デニーロが連れ戻しに行きます。だが、ようやく見つけた彼と対戦して、目の前でウォーケンはこめかみを撃ち抜いて死にます。結婚式、鹿狩り、全裸で夜の街を走る彼ら。折れて骨が突き出した脚。鼠の這う水中の檻への監禁。寂しいの、慰め合いましょう、と言うストリープ。この長い映画のすべてが、乾杯の場面で凝縮します。

 同じ監督のこれもまた長大な『天国の門』について、蓮實重彦氏が、その絶対的な短さを指摘しています。これは一種の交響曲であり、世界観の表現そのものであって、全く、長さを感じさせない長さです。蓮實氏の批評で最も心に残っている言葉です。左翼からベトナム兵の描き方をめぐってこの映画は批判されましたが、それは政治を見て人間を見ない発想の典型だと感じました。

 マイケル・チミノ監督『ディア・ハンター』。紛うべくもない、アメリカ映画の至宝です。

シネクドキー(提喩)

2006年04月25日(火) 9時02分
 「寒いと思ったら白いものが降ってきた」で、「白いもの」=雪を、「今、必要なのは大砲よりバターだ」で、「大砲」=軍事力、「バター」=民生を指示するのが、シネクドキー(提喩)です。前者は、「白いもの」というクラスでそのメンバー(雪)を、後者は、「大砲」や「バター」というメンバーでそのクラスを指し示しています。シネクドキーは、クラス(集合)とメンバー(要素)との間のカテゴリー変換を本質とする比喩と言えます。

 シネクドキーに一躍、脚光を浴びせたのが、グループμの『一般修辞学』です。彼らによれば、メタファー(隠喩)は、二重の提喩だ、というのです。「男は狼なのよ」の場合、まずメンバー「男」が属するクラス(本能的・野蛮・獰猛・貪欲なもの……(^^;))が参照され、次にそのクラスに属する他のメンバー「狼」が選ばれて、隠喩を構成するという説明です。これも佐藤信夫『レトリック感覚』に明快な解説があります。

 この説では、隠喩と提喩とは、カテゴリー変換を伴う点において近縁の比喩とされます。他方、メトニミー(換喩)は、世界における物理的対象間の隣接性が関与的となります。赤い頭巾そのものと、女の子とは、どこも類似していませんが、ただ、両者は、物理的事態としてくっついているのです。

 ただし、メトニミーとシネクドキーは、境界領域においては混同されます。それは理由のないことではありません。「港を白い帆が出て行った」の場合、「帆」は船の物理的な一部分を成しますから、「青ひげ」型のメトニミーですが、また、「帆」は「船体を構成するもの」というクラスに属するメンバーとも言え、その場合はシネクドキーとも見られます。

 ある対象は、空間的には他の対象と隣接関係にあると同時に、意味論的には必ず何らかのカテゴリーに属します。頭巾と人物の場合とは異なり、船と帆のように、空間的にも意味論的にも近接の位置にある対象間には、メトニミー的とシネクドキー的の両方の性質を措定することができるわけです。

 そして、「……もの」という提喩は、無限の可能性を帯びています。すべてはものである、と言えば、どんな対象もこのカテゴリーに含めてしまうことができます。私は宮澤賢治の詩の表現において、この「もの」の提喩が特徴的であるととらえ、そこに、世界環境における万物の連鎖と、その限界の感覚を読み取ってみました。

メトニミー(換喩)

2006年04月24日(月) 15時19分
 レトリック(修辞学)は、言葉の特異な使用方法の理論です。比喩の理論はレトリックで重要な位置を占めますが、発想・配置や話題の選択などもすべてレトリックの範疇に入ります。さらに、比喩の理論は、歴史上、なぜかメタファー(隠喩)の理論に著しく偏っていて、それ以外の多彩な比喩には、まだよく分かっていないことが多いのです。もっとも、隠喩論も百家争鳴状態なのですが。

 ロマーン・ヤーコブソンが『一般言語学』において、比喩をメタファーとメトニミーに代表させ、メタファーを類似性に、メトニミーを隣接性に基づく比喩と定式化したのは、メトニミーの存在を明確にした有力な説です。よく挙げられるのが、「赤頭巾」型と「青ひげ」型で、「赤頭巾」は付属品=接触物で本体を、「青ひげ」は部分で本体を指示するメトニミーです。「杯を空にする」などは、容器で内容物を示す換喩と言われます。

 メトニミーの概念を大きく拡張したのが、佐藤信夫『レトリック感覚』で、接触や部分などの隣接性だけでなく、隣接性は広く縁故や因果関係などとしてもよいというのです。「茶碗蒸し」は、換喩的な命名です。茶碗と中身とは、容器と内容物との関係にあり、典型的な換喩的表現ですが、それに加えて、蒸して作る、という因果関係も織り込まれています。「茶碗蒸し」には、比喩ではない本来の名前はありません。(たぶん、ないでしょう……。)このように換喩は、けっこう身近なところで活躍しています。

 隣接性、容器/内容物、因果関係などを押し広げていけば、結局、この世界すべてが得られることになります。あらゆるものは、他の何ものかと隣接しているのですから。すべての対象は、何かと何かの間にある、という意味では、すべてのものはメディア(medium=媒介物・中間物)であるとも言えます。とすれば、メトニミー的な表現は、メディア論やサイバネティックスなど、情報環境として世界を理解し生成する際に、大きな効果を発揮しうるのです。

 それは、情報環境のあり方や、情報の伝達過程の情報を、情報に付け加えるか、あるいは、情報のメッセージに取って代わるレトリックです。メトニミーも、メタファーとは別の仕方で、しかし、人間による世界の認知や生成に重要な機能を果たすのです。

手すりにも一度

2006年04月20日(木) 6時16分
 当時古かった中学校の教室では、冬になると石炭ストーブが焚かれました。天井を這うように銀色のダクト(というか太いパイプ)がわたされ、早めに登校した生徒の中には、ストーブのトレイに足を投げ出すようにして本を読むものが幾人かありました。そのようにして私が読んだ最初の本は、おそらく、父の本棚から拝借した『啄木歌集』でした。

 ……泣けとごとくに……

 賢治の人気がずっと続いていますが、当時はそんなでもなかったように記憶しています。小学校の副読本に、一種の二宮尊徳みたいに紹介されていたりして。むしろ、賢治が和歌を作った際に、中学校の先輩である啄木の影響から、三行(あるいは四行)の分かち書きを試みたように、まず啄木を読むのが、その頃、その地域での文学入門の基本だったのです。

 ……お城の草にねころびて……

 父の本棚には、汚くよごれてしみになった文庫本がたくさんありました。父は、引っ越しの際に水たまりに落としたんだ、と言っていました。そんなことあるんだろうか、と疑って、これは終戦時、中学生くらいだった父の戦後の混乱体験の刻印なのだろうな、と感じていました。その本棚から持ち出した、ゴーギャンの画集の裸婦も、子どもの私にはものすごく印象深いものでした。

 ……かろきに泣きて……

 啄木の歌には、物語性があると感じられました。一つ一つの歌が、ある物語の一場面のように思われるのです。ずいぶんと、人の心のあり方を、それらの言葉からくみ取ったように覚えています。あの薄暗く古い木造の校舎は、その後すぐ建て替えられ、石炭ストーブも今では見られなくなりました。私の心の奥底の層にある、出会いの思い出です。

作者

2006年04月19日(水) 13時25分
 ロラン・バルトの「作者の死」「作品からテクストへ」に代表されるように、テクスト読解の際に作者のコードを利用しないことが、いわゆるテクスト論の徴表であるかのように見なされています。しかし、テクスト論を離れても、作者のコードを過大視するのが一般的とは言えません。むしろ、常に、「作者は、作者は」と遡及する受け取り方の方が、狭隘なものと私には思われます。

 虚心に考えてみてください。あなたがもし創作家であったとして、自分が苦労して作り上げた言葉や映像そのものはどこかに放って置かれて、そこに見出される自分の思想や性質や生活の痕跡だけが虎視眈々と狙われ、針小棒大に拡大されて取り沙汰されるとしたなら、あなたは虚しくないでしょうか? より理論的には、言語や映像の表象は、第一に表現された表意体(シニフィアン)として受け取られるのであり、思想にせよ生活にせよ、そこから理解される意味内容(シニフィエ)を、それは常に超えてゆくものと言えます。

 映画やアニメのような、製作過程が集団的であり、製作結果が集合的であるテクストにおいては、なおさらのことです。すなわち、映画の創作家は、何も監督だけではなく、脚本・音楽・美術など、それぞれの責任者があり、また何よりも、演技をし表情をつくる俳優もまた、一種の創作家であるわけです。(各々の関与の程度は場合によって異なります。)また、出来上がった映画は、多かれ少なかれモンタージュなのであって、どんな映画でも無数の要素に分解することができ、そこに唯一の主体のみを想定することは、到底、できない相談なのです。

 しかし、作者の情報もまた、テクストの要素やテクストを理解するための要素であって悪い理由はありません。必要な限りにおいて、作者の情報を参照することは間違いではないでしょう。しかも、作者の情報を意図的にテクストに導入することによって、テクストのスタイルを独自なものにしようとする試みは少なくありません。作者のコードを排除することが主眼なのではなく、ただ、テクストの豊かさを矮小化してしまうような、その極端な援用は、創作された対象を受容する際には、本末転倒の結果しか導かないのだということなのです。 

ミメーシス

2006年04月17日(月) 12時53分
 プラトンが『国家』において、詩人を理想国家から追放すべきと述べたのは有名です。プラトンによれば、詩人はミメーシス(真似)を得意とし、人の行為を真似して表現するが、真似はえてして悪い部分、劣悪な性質に偏りがちだというのです。(子どもが親の悪いところばかりを、すぐに真似するように。)詩には民衆教化の利点もあるが、詩が自らを弁明することができないでいる間は、詩人を追放せよ、ということになります。

 ちなみに、真似に対して単純な語り(ディエゲーシス)があり、ホメロスはこれが優れていたと評価されています。ジェラール・ジュネットは真似を直接話法、単純な語りを間接話法としてとらえ、ウェイン・C・ブースからジュネットに至る語り論において、ミメーシスはshowing(物語内容)、ディエゲーシスはtelling(物語言説)と言い換えられ、『国家』は語り論のはるかな先駆として位置づけられます。語り論が追究したのは、tellingの詳細であるわけです。

 さて、アリストテレスは師プラトンの詩人論を、まさに詩に弁明させることによって反転したのです。『詩学』によれば、ミメーシスはミュートス(物語)を生成するメカニズムです。悲劇や叙事詩において、物語は歴史のように現に起こったことではなく、起こる可能性のある出来事です。何がどのように起こる可能性があるのかの認識には、人間と世界に関する哲学的洞察が不可欠となります。その意味で、詩は歴史以上に哲学的である、とされるのです。

 アリストテレスのミメーシスは真似ではなく、現実に対する哲学的省察の結果として、人の行為とは何であるかをその本質においてとらえ、イメージによって表現する機構です。それは、現実から物語の言葉が発生する根元の力でもあります。ミメーシスは形象による対象呈示と言えます。また、ミメーシスとディエゲーシスとは区別されず、語り方の諸相も、ミメーシスの多様な方法として分類されます。

 『詩学』にはミメーシスを自然の模写・模倣などとする記述は一切ありません。ところが、歴史上、一時期の狭隘なアリストテレス解釈が今でも残り、誤解が多いようです。ポール・リクール『時間と物語』の、豊かな『詩学』解釈をおすすめします。より美学的には、竹内敏雄『アリストテレスの藝術理論』が秀逸です。なお、私の『フィクションの機構』の根元的虚構論は、一種のミメーシス論でもあります。

境界

2006年04月13日(木) 17時04分
 文化テクストの様式を空間性の観点からとらえたのが、ユーリー・ロトマンの文化記号学です。文化テクストは、内/外、下/上、我々/彼らといった空間的対立構造を骨格とするような、空間的配置をとるということです。文化テクストとは、その文化に属するあらゆるテクストを包括するようなインヴァリアント(不変異体)なので、一種の世界モデルのようなものになります。そのようなごたいそうなものでなくとも、テクストを、境界によって区切られた文化的空間として見る観点は、物語や人物の表面だけを見る見方を揺り動かしてくれることがあります。

 ロトマンが、物語とは境界の越境であり、そのような越境が重要なので、必ずしも人物は物語に不可欠ではない、と説いていることは前に触れました。小説などの物語だけでなく、空間を可視化するジャンルである映画映像においても、境界の発見は解釈のための有効な契機となりえます。『ミツバチのささやき』のアナが男を介抱するのは「村はずれの廃屋」でした。アナは線路を越えてそこへ行くのであり、また鉄道が街(都会)へ通じているとする感覚もあります。また、アナは森を抜けていこうとして、こころの向こう側にまで行ってしまったのです。

 川、橋、道、壁、家、体、その他、どんなものでも境界のラインとなりえます。動く映像が、その「動く」ことを本質とするとすれば、「動く」とは境界線を越えることにほかならないのですから、映画映像の本質が境界にあると言っても過言ではないのです。極言すれば、映像を論じる語彙は、すべて何らかの意味で境界の諸変形にほかなりません。さらに、映像はかならずや、フレーム(この場合は画面の外周の限界のことです)によって枠取られていて、フレームは映像が生得的に内蔵している境界であるわけです。ジル・ドゥルーズの『シネマ1 動くイメージ』は、フレームへの注視から始められます。境界は、意味の始まりです。

このサイトのポリシー

2006年04月12日(水) 17時53分
 Project M Annexは、日本近代文学・比較文学・表象文化論の授業や研究について、学生や一般の方の質問を受けつけ、情報を発信することを目的とします。最近、発信ばかりで投稿をしてくださる方がほとんどないのは残念なのですが、まあこのような押しつけがましい運営の仕方にも問題があるのだろうと思います。ただ、新年度も始まったことですし、しばらく様子を見まして、今後どうするかは追々考えてゆきます。

 情報は必要であると同時に、情報を得るだけでは、新たな情報を生み出すことはできません。それを自分なりに解釈し、加工し、変形していく過程において、新しい創造が伴うものと思います。これまでに、「話し下手の話し上手」「メトニミー」「メタフィクション」「カラー映画に見る昭和初期の日本」「レポートの書き方」「ネット・エチケットについて」などの記事が、多く検索されました。必要とされている情報の傾向がやや分かってきましたので、少しずつ、配慮をしていこうと考えております。

 お分かりのように、これは真実にも虚構にも「日記風サイト」ではありません。私は20代の頃、フランス語の勉強のために、1年間くらいフランス語で日記を書こうとした(「書こうとした」です、あくまでも)ことはありますが、日本語で日記を書いて1ヵ月と、もったためしはありません。私には真実にも虚構にも日記を公表する意思は寸分もありません。だいたい、他人の日記なんてどんな内容であっても辛いだけです。辛さを感じさせない日記など、真実でも虚構でもなく、単に嘘なのでしょう。(このことは機会があればまた書きます)が、記事内容との関連で、見聞録が混じることはあります。

 このサイトのポリシーは、「大学教養課程か、専門課程入門者をターゲットに、専攻分野についての基礎的知識を提供すること」にあります。そうですねえ、日記は書かないけど、思い出話に花を咲かせることはありますね。「老人には過去を、青年には未来を」そのままですね。未来はあなた方のためにあります。ささいなことですが、このような仕方で、私は初学者の方々に応援したいと思うのです。

 ご質問・ご投稿をお待ちしております。

話し下手の話し上手2

2006年04月11日(火) 14時46分
 話のうまい下手は見かけでしかないので、それだけで人間は決まりませんし、だいたい、「人間が決まる」なんて尊大な言い方です。話が下手でも書くことは得意な人、言葉は苦手でも創作や仕事では成果を上げている人はいくらでもいます。話の技術は人の本質ではありません。

 作家の文体が人それぞれ全然違うように、話し方も人それぞれ異なっていてよいし、異なって当然なのです。人は他人にはなれません。「文は人なり」の伝で言えば、「話は人なり」です。特定のスタイルを求めたり押しつけたりしない方がよいので、これはどんなことにでも言えます。

 とはいえ、学校でも社会でも、話し上手は有利ですし、演習や就職活動でちゃんと話ができないと点数に関わりますし、何よりも人から見られているイメージが気になり、そうしたことすべてが悩みの種になることも事実です。話し上手になるのは、一つの理想です。私も話し下手なので、気持ちはよく分かります。

 初めは、話す前に、簡単でもよいので、話す内容を書いてみましょう。私の場合、初仕事の時から講義のノートは全部ワープロで一字一句事前に入力し、冗談や脱線まで書き込んだこともあります。話し下手だということに、ものすごい危機感をもっていたので、意識的にこれに取り組みました。

 言うまでもなく、話し言葉と書き言葉は違うので、文章語を読むようなことに極力ならないように留意して、しかし、台本がそろっていると芝居はやりやすいものです。これを、10年くらいは続けましたね。書くことで頭に入りますし、内容を事前に精査することもできます。また、私の場合は、その副産物として、講義の内容を論文化するのも容易でした。

 すると、「先生は講義の際にノートを見ていて顔を上げない」と言われました。申しわけありません、でもこちらも必死です! ノートがなければ講義ができないような状況が続きました。でも、……今はかなり平気です。むしろ、学生と一緒に使うスライドやテキスト資料をちゃんと作れば、ノートはなくても大丈夫になりました。

 あなたも、スピーチや面接の際、初めはぜひ、どんなことを話すのか書いてみてください。さすがに面接では原稿を読むことはできないでしょうから、あらかじめ何度も予行演習をして、書いたことを頭に入れてください。書いてみると言葉になる、というのは、やはり基本中の基本と思われます。 
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