考えずに答えよ

2006年03月17日(金) 10時43分
 「では、このことについて、あなたはどう考えるのですか?」
 「……(無言)」

 毎年の演習発表で繰り返される光景です。発表者は、質問があると、しばらく、時としてかなり長い間、考えます。「質問をどうぞ」と指名すると、質問者もまた、しばし無言のまま、多くの場合は「少し考えさせてください」と思索の時間を要求します。

 学校の授業は訓練ですから、これでもいいと言えます。しかし、たとえばあなたが携帯電話を買いに行って、相談した店員が、「少し考えさせてください」と言って考え込んだら、あなたはその携帯を買いますか? 要するに、発話に手間取って時間がかかるのは、その分野に習熟していないからです。

 日本文学の研究の頂上をなしているはずの学会発表は、多くの場合、一人あたり発表25分、質疑応答5分かそこいらで構成されます。他の学問分野では、発表時間がもっと短いこともあります。質疑応答5分の中で、質問者も回答者も長考していたら、沈黙のままに持ち時間は終了してしまいます。 

 授業でも学会でも、研究発表という空間では、時間は有限なのです。

 会議や打ち合わせも併せて言えることですが、それらは、有限な生命の持ち主である他者を、一定の時空間に拘束する行為にほかなりません。それを無意味に終わらせるか否かは、その参加者に掛かっているのです。常々私はこう言っています。「考えないで発言しなさい」とね。

 発表者は発表内容をまとめる段階で、どのような質問が出るかをあらかじめ想定し、また質問者は発表を聞きながら、どのように質問するかを並行して考えなければなりません。発話が終わってから長考、などというやり方は、学校の中でしか通用しません。

 訓練ですから、焦ってもしようがありませんが、質問・回答の仕方を身につけることが、きわめて重要なコミュニケーションの技術であることは間違いがありません。『銀河鉄道の夜』の冒頭の学校の場面は、このテクストがコミュニケーションの問題と深い関わりを持っていることを示唆しています。

総目次(2006年1月〜2月)〈2〉

2006年03月16日(木) 17時00分
【授業の補足】
 先行研究の引用の仕方
 論文の探し方(日本近代文学)
 感想文と論文
 ネット・エチケットについて
 レポートの書き方
 詩を読む
 「大人の仕事は、決してふるさとへ
 断念と発話
 (比較)文学のおもしろさ
 カラー映画に見る昭和初期の日本

【こころ】
 感動をありがとう=H
 孤独原則
 氷の街から
 話し下手の話し上手

【動き】
 卒業論文
 卒論指導の懺悔

【出会い】
 GSボーイ(死語)
 太陽があなたを見放さないうちは
 
 裏返せ 俺を

総目次(2006年1月〜2月)〈1〉

2006年03月16日(木) 16時59分
【サイト告知】
 品評をしないこと
 Project Mのリニューアルについて
 質問・投稿の仕方について
 このサイトについて

【術語集】
 メタフィクション2
 フレーム(概念枠)
 ドキュメント形式
 人物(小説の)2
 人物(小説の)
 句読法(映画の)
 メタフィクション
 メトニミー(映像の)
 メタファー(映像の)
 語り
 表象のパラドックス
 額縁構造
 根元的虚構
 コミュニケーション
 見えるもの・見えないもの

【情勢】
 学ぶこと、教えること
 冷たいメディア
 ゆうキャンパス単位互換
 お涙ちょうだいもの

先読みについて

2006年03月16日(木) 9時18分
 英会話の達者な先生から、「英語では先読みをしないことが大事なのよ。相手の言っていないことまで言うと、『あなたは人の心を読むのか?』なんて言われるわよ」と教えられました。日本では逆で、人の気持ちを読んで行動するのが、「気が利く」などと評価されます。

 これはコミュニケーションや、物語のあり方とも深く関わっています。コミュニケーションは、多かれ少なかれ相手の心を推測することによって支えられていますし、物語はまさしく、これからどうなるのか?、という先読みが、本質的なメカニズムを構成しているからです。

 物語については別に述べるとして、このことは、授業の方法とも密接に関わってきます。ある高校の先生によると、授業には2つの型があり、一方は先生が生徒に向けて情報を提供するタイプ、他方は先生が生徒の考えを聞いて授業を構築するタイプです。多くの授業はこの2つの要素を配合し、この両極の間のどこかに位置づけられます。

 私の授業ですが、講義については、明らかに前者のタイプです。「変異する日本現代小説」の資料は50ページ以上になり、その他にスライド資料も配付し、講義ではパワーポイントを全開に使います。こうなってしまうと、学生の反応を取り入れる余地は、ほとんどなくなります。

 演習では、どちらかというと後者のタイプで、もちろん指導し意見も言うのですが、結論じみたことは言わない(言えない)ので、最後はやらせっ放しで、感想を書かせて終わります。ところが、教員の方が情報の蓄積は多く、そこは商売ですから、学生が言いたいことをうまく言えないでいても、だいたいの場合、分かってしまうことが多いのです。先読みですね。

 しかし、こちらが先読みすることが相手に伝わると、相手はそれに依存して、自分で言葉を生み出さなくなります。常に、先生の顔色を見ながら発言するようになってしまう、これではダメです。何のための演習か分かりません。そこで、分からないようなフリをして、できるだけ学生自身の言葉を引き出そうとします。でも、一度知られてしまうと、なかなか巧くいきません。

 スピーチやプレゼンの技術はもちろん必要です。それは追って書こうと思いますが、こうしたコミュニケーションのバランスは、何も授業に限ったことではないでしょう。先読みの多い社会は、やはり、甘えの構造なのかも知れません。

メタフィクション3

2006年03月15日(水) 10時14分
 メタフィクションはフィクションの一種ですが、逆に、フィクションこそメタフィクションの一種だとも言えます。今・ここにある記号は、記号である限りにおいて表意作用を行いますが、それがどのような意味であるかは、概して一義的には決めることができません。「JAZZ」という記号は、音楽のジャズのことだと理解されることが多いでしょうが、私が今、念頭においていたのは、「FIT」の外国名でした。すなわち、車の名前です。

 「JAZZ」が何を示すのか分からなくても、「JAZZ」という文字の連なり、時として発音は分かります。それは記号の自己呈示であり、シニフィアン(表意体、記号表現)に属します。シニフィアンに限定した記号の機能は、記号それじたいを指し示す機能にほかなりません。つまり、どのような記号でも、それじたいを指し示す機能において理解することができ、それこそが、記号の最基底をなすということができます。

 このような、記号が記号じたいを指示する自己呈示に着目して記号を見るとき、記号は記号についての記号ということになり、すなわちメタ記号と呼べます。テクストをメタ記号のシステムと見なすことによって、どのようなテクストも、それじたいについてのテクスト、いわばメタフィクションと見ることができるわけです。何かを呈示するフィクションは、それじたいを呈示するメタフィクションの一種である、というのは、このような事態を指します。

 これを私は、メタフィクション思考と名付けてみました。この発想により、メタフィクションは特定作家の所産から、広くテクスト的営為全般に拡張することができ、逆に、特定作家はそのようなメタフィクションの純粋化を試みたのだ、と考えることもできます。あなたのよく知っている小説・詩・映画を、このようなメタフィクション思考によって、別の角度からとらえ直してみませんか?

倒置法

2006年03月14日(火) 12時28分
 知っていますよね?、倒置法のことを。言うことができますか?、その機能を。多くのことが、まだ書かれていない、と思われます。書くべきことが、まだある、という感覚が、書くことを始めさせます。

 倒置法なんて、詩を読む際の基本です。中学校でも教わるかも知れません。倒置法は、正叙法と比べると、文体に屈折を与えることによって、内容を強調したり、余情・余韻を添加したり、要するに抒情の強度を増大させる、というのが、一般に知られている倒置法の意味なのだろうと思います。しかし、どんなものも程度の問題です。むちゃくちゃ倒置法ばかり用いている詩人がいたとすれば、すべてが強調され、すべてが余情的ということになり、抒情の水準は高止まりして、畢竟、何も強調されていないことにはならないでしょうか。

 その典型が、立原道造の詩であり、そのことを正しく指摘したのが、菅谷規矩雄です。菅谷は、『近代詩十章』に収められた立原論において、それまで、名声高い研究者らによって、恋愛だの恋人だの軽井沢だのといった、おきまりの実生活に癒着したあほんだらな観点からしか読まれてこなかった、この珠玉の詩人の詩を、その珠玉の地平、すなわち言葉遣いじたいの審級において、およそ初めて、定位し直したのです。

 菅谷の立原論は、素晴らしいものです。一言でいうと、倒置法は、ある臨界の線を越えると、指示対象を無化し、主体・客体の構造を解体し、記号が何ものかを表現するという機能を自壊させて、それじたいとしての自立的な呈示を行う、ということになります。菅谷はこれを、「錯叙」と呼んでいますが、これは倒置法だけでなく、あらゆる文体構造の錯雑化を含む用語でしょう。倒置法のほかにも、「錯叙」には無数の型があります。

 私は菅谷の立原論「幸福な詩人の不幸な詩」を第一級の詩論として認めます。しかし……菅谷でおしまい、なのでしょうか? この線をもっと延ばしてみる余地はないのでしょうか。考えるべきこと、書くべきことが、まだまだ残されているはずです。菅谷のいうことに対しても、厳密な検証の必要があります。ぜひ、あなたもトライしてみてください。冗談は言いませんよ、私は。

先行研究への対応

2006年03月13日(月) 9時08分
 論文の書き方や、演習発表の準備において、多くの学生から聞くことのできる感想が、「他人の論文を読むと納得させられてしまい、自分の考えを独自に表明することができなくなる」というものです。誰しも、感じたことのある思いだろうと思われます。

 他人の意見に賛成だと思うことは、別に悪いことではありません。しかし、論文を書く以上は、他人の意見とは違う自分の主張を行うのが当然です。いくつも先行研究を紹介して、それが全部正しいと述べるだけでは意味がありません。研究史を書く際であっても、先行研究を羅列するのではなく、それらに対する論評が求められるのです。

 もちろん、多くの場合、先行研究の筆者はその分野の専門的研究者であるわけで、それぞれ、それなりの理論と実証の基盤の上に論を展開しているはずです。従って、そう簡単に論破されるほど安易には論じていないでしょう。逆に、初学者にいとも容易に批判されるような論者は、早いとこ商売替えをした方がいいようです。

 ところで、正直に言いますと、私は、この仕事を始めてからというもの、自分の専門分野に関して、他人の意見に賛成だと思ったことは、ただの一度もありません! けっこういいな、と感じることはあっても、厳密に一致することはまず、ありえないと思っています。学会や書評では、相手を賞めるようなことを言うことが多いのですが、それは、不一致の深刻さの裏返しというニュアンスが強いのです。

 それはそうでしょう。2人として同じ人はいません。2つとして、同じ解釈はないはずです。同じだと思ったら、それは先行研究の論法によって幻惑されているか、あるいは単に、あなたによる先行研究の読み取り方が間違っているのです。いくら年功の差があったとしても、相手は同じ人間です。テクストの受容に完璧などということはありえません。

 当然、学ぶ=倣う段階というものはあるでしょう。けれども、いざ論文を書く段階になったら、あらゆる先行研究を疑ってかかり、それとの対決において、あなたの説をふくらませてください。批評的に取り扱うべきなのは、何も論ずるテクストだけではありません。ちょっとした態度の変更によって、その説得力を相対化する道が開けてくるはずです。

マルメロの陽光

2006年03月12日(日) 8時41分
 教授と私は、チサンホテルの横の、旅館を改造したような飲み屋で酒を飲んでいました。ユルマズ・ギュネイの『路』と、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』の2本立てを見て、「世の中にはまだ、いい映画というものがあるのだな」と言い合っていました。打ちのめされたからです。

 ニューアカデミズムの頃、知的空間は張りつめ、常に緊張していました。しかし、商業的でない映画を上映する映画館が、街にはなかったのです。教授と私は、教養部や医学部、エルパーク、白鳥会館などで行われる自主上映に足繁く通っては、前衛的な映画を見ようとしました。マン=レイの『ひとで』、ジュネの『至上の愛』などは、医学部まで歩いて行って見ました。

 駅裏にシネアートが開館して、ヨーロッパ現代映画の連続上映を始めました。私はほとんど毎週のように、仕事の後、9時頃まで映画を見て、明るい駅の構内を歩いて表通りに戻り、缶ビールを飲みながらテレビゲームをして帰りました。『ゼビウス』を知っていますか? 『グラディウス』は?

 この寡作で寡黙なスペインの作家、エリセの代表作は、静かでゆっくりしたシークェンスによって、見る者を突き刺します。私は、饒舌な詩人、物語の得意な小説家、賑やかな映画作家を信じません。その夜は、アナが水辺でモンスターに出会った時と同じほど、暗かったのを覚えています。教授は、「あの子がすべてだな」と言いました。

 アナは、町はずれの隠れ家で介抱していた男が射殺されたことから、家出して、『フランケンシュタイン』のモンスターが住む、幻想の向こう側に行ってしまいます。自分の属する世界を信じられなくなること、そして、その背景に父と母との間の静かな、しかし深い溝があること、『ミツバチのささやき』のこれらの要素は、それが、きわめて普遍的な物語であり映像であることを示しています。

 PCも携帯も地下鉄もなく、CDがようやく出回り始めた頃でした。でも、私が不自由に思っていたのはそんなことではなく、大きな本屋のないことと、映画が見られないことでした。けれども、あの頃、マルメロの果実のように、身の回りと未来に、いくらでも豊穣にあるかのように感じられた私の時間は、今、ほんの一つかみしか手元にないのです。……

パラダイム

2006年03月10日(金) 10時02分
 トーマス・S・クーン『科学革命の構造』で提唱された、科学史の用語です。自然科学の歴史は直線的な発展の経過ではなく、相容れないパラダイムの交替の歴史である、と説きます。パラダイムは、専門母型とか、規範的教科書として言い換えられます。専門はディシプリンの訳です。

 ディシプリンは、理論のフレームを提供し、それを信奉する教師と生徒の集団を形作り、それらによって市民権を得るような、学科・専攻とその共同体のことです。「○○学は、まだディシプリンを形成していない」と言えば、それらが脆弱で、まだ学問として十分に認められていない、という意味になります。

 規範的教科書としては、たとえばユークリッドの『原本』、ニュートンの『光学』や『プリンキピア』などのテクストそのものを指すことも、またそのテクストが提示した理論のフレームを指すこともあります。ニュートンとアインシュタインの体系は相容れず、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とは相容れません。

 新たな理論が、十分に支配的な指導力を発揮するとき、そのテクストはパラダイム転換(シフト)を行った、と言われ、特に20世紀初頭におけるその一連の現象を科学革命と呼びます。

 規範的教科書は、単に理論の枠組を提示するだけでなく、その理論の枠内にある限り、今後解決しなければならない課題を示す問題集という性質も兼ね備えています。アインシュタインが相対性理論を発表した時には、まだそれを実証するだけの完璧なデータは揃っていませんでしたが、その後の研究がそれを裏づけていったのです。

 このように、あるパラダイムの枠内で、そのパラダイムが提起する課題を解決しようとする科学を、通常科学と呼びます。

初心忘るべからず

2006年03月09日(木) 9時39分
 私は車の運転をこよなく愛する者ですが、街を走っている車が、原則を守らないのには、常々驚かされます。ウィンカーを出さずに曲がる、曲がり始めてから出す(!)、一時停止線を守らない、交差点の角で堂々と駐車する、両側同位置に駐車する、制限速度を守っている車を脅かす、横断歩行者がいても停止しない……。交通事故死者は減っているようですが、それでも年に8千人内外の人が、まことに不条理な亡くなり方をしていることを、運転する者は肝に銘じるべきです。もちろん私も。(私は教習所の副読本が面白くて、今でも愛読しています。説明してくれるおねえさんのイラストが可愛いし。)

 さて、おねえさんはどうでもいいとして、このサイトは公開しているので、どなたでも読み、投稿してくださることを歓迎しますが、一応、ターゲットとして想定している読者の水準は、大学1〜2年生程度で、教養教育で文学や表象文化、比較文学を学び、あるいは専門教育でそれらに進もうとしている人たちです。そしてまた、初学者はセオリー通りに、というのがこのサイトのモットーです。世の中には専門的な、あるいは趣味的なブログなるものが星の数ほどもあるので、このサイトはそういうのを見慣れた人からすれば、相当に物足りないものと思います。

 私には端(はな)からそんなものを書く能力はない、というのが最大の理由ですが、私が基本に徹しようとしているのは、基本は何も初学者だけでなく、どんなレヴェルでも有効なのだ、という信念からです。車の運転はもとより、スキーでも水泳でもそうですし、英語でもそうですよ。口をついて出てくる中・高時代に覚えた言い回し、たとえば"I'll ask you to tell〜"なんて、いくらこなれないように思われても、立派に通じますからね。

 初心忘るべからず。ただ、難しいことでもありますね。初心を忘れないことを忘れないようにすることこそ、若い人が、くだらない年寄りにならない最高の秘訣だろうと痛感します。歩行者の妨げになるほど、停止線から大きく鼻先出して止まっている車を見たら、蹴っ飛ばしてやりたくなるのは私だけでしょうか。
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