文学とパワーポイント

2006年03月31日(金) 14時04分
 研究教育の現場では、ある時代にはコピー機が、次の時代にはワープロ、そしてPCが、新しい技術として話題となりました。今ならばさしずめeラーニングでしょう。私の時代には、既に中学校でも、当時「ファックス」と呼ばれた輪転式の印刷機を備えていましたが、大学まで来ると、研究室にあるのは、なぜか手で転がすローラー式の謄写版でした(!)。古くさいほどむしろよい、という気風さえあったディシプリン、それが国文学なのです。

 自然科学・工学系・情報系はもとより、社会科学や教育系でも、パワーポイントのスライドは一般化してきました。(意外に残っているのが心理系です。オレOHP大好き、という専門家がいます(*^_^*)。)そして、意外でもなく残っているのは、わが文学系です。たぶん、パワーポイント・リテラシーに関しては、最後まで残るでしょうね。

 しかし、研究して資料をまとめ、参加者に対して提示して発表する、というスタイルは、どの分野でもまったく変わらないのです。自然科学でも、研究発表で実際に実験をして見せるなどということはまずありません。実績を資料化してプレゼンするだけです。文学と何も変わるところはありません。加えて、昨今の文学研究は、文化研究というグループがあるように、テキストだけでなく、様々にヴィジュアルな要素を包括しているのです。

 もちろん、違いもあるわけですが、それは文学だけのことではありません。思うに、文学研究者が非テキスト系に対してアレルギーが強いのは、言語媒体は直観的に理解できず、継起的な時間において、徐々に理解するほかにない、という感覚があるためのような気がします。読まなきゃ分からない、考える時間が必要だ、分からない者には分からない、分かってもらえなくてもいい……。

 そうかも知れません。言語コミュニケーションは、不可能性に彩られています。でも、だったら発表しなきゃいいだけのことじゃないでしょうか? コミュニケーションに技術が伴うのは当然のことです。できるだけのことをして初めて、その限界も見えてくるはずです。私は講義はすべて完全にスライド化し、演習でも学生にパワーポイントを使わせています。第一に、パワーポイントは楽しいですよ。簡単で、それでいてとても奥が深いです。

 もうじき、教養教育担当教員対象の、第2回パワーポイント講習会を開きます。

人とネットワーク

2006年03月29日(水) 6時45分
 第12回大学教育研究フォーラムは、研究発表・小講演・ラウンドテーブル(RT)とも複数会場に豊富なテーマが用意されて、2日目も盛況でした。私がこの日聴いた内容は、実に印象的でした。

 このフォーラムの出席者は、多くが各大学の高等教育センターやFD関係者ですが、今回は情報センターの関係者が比較的多く、報告される話題もeラーニング関係が相当な割合を占めていました。現在、授業改善で何が喫緊の課題になっているかは、ここからも分かります。この私も今回はITを用いた修学支援の発表を行い、6月の別の学会ではeラーニングとFDとの関連について報告することになっています。

 ところで、小講演で、ある大学のカウンセラーの方が、学生相談現場の現状について語ってくれました。権力的な教授のアカデミック・ハラスメントや、引きこもり学生の事例などのほか、私が資料の片隅にメモしたのは、「情報の取りすぎは心を壊す」という命題です。常々、冷たいメディアとしてのインターネットに関連して、私が考えていたこととも一致し、興味深く聴きました。多くの人がそうであるように、私も自分の心が壊れそうになると、情報を遮断しています。

 続く午後のRTでは、Web2.0レヴェルの国内外の最先端eラーニングシステムの紹介が行われ、私は文字通り目を丸くして聴いていました。Web2.0は、双方向・集団的なアクセスによって、動的・自己生成的に作り出されるネット上のシステムを指し、例えばブログやWikiもそれにあたります。技術系の話が大半を占めたせいか、ちょっとついていけない部分もありましたが、私がやっているシステム構築なんて、これらに比べると単なる子どもの遊びでしかないなと思いました。

 情報は人の心を傷つけ、しかし情報の進展を止めることはできません。今、ICT(IT・コミュニケーション)の領域で進んでいる事態は、これまで人間が体験したことのないものです。教育・研究が人間と文化を相手にしている限り、ここから逃げるわけにはいきません。しかし、話をした参加者が口々に言うのは、FDは結局、人と人間関係に帰するものだということです。教育におけるテクノロジーと人間とのインターフェイス、それが今後のFDの大事な課題となるわけです。

 帰ったらいろいろやることがあるな。今日はこれから、信州大学のeラーニング視察調査に回ります。

第12回大学教育研究フォーラム

2006年03月28日(火) 6時42分
 昨日から、京都大学で開かれているFDのフォーラムに出席しています。昨朝は、カリキュラム研究部会の座長を務め、YUサポーティングシステムの研究発表をしました。午後のシンポジウム「FDの新たな組織化をめざして―教員、学生、事務職員―」では、久留米・名城・京都3大学の取組が報告され、ディスカッションが交わされました。

 このフォーラムは、京都大学高等教育研究開発推進センターが主催しており、要するにある大学のセンターのイベントに過ぎないのですが、回数の通りの伝統があります。全国から500名の大学人が参加し、他の関係学会に勝るとも劣らない活発な討論と情報交換を行いました。このような交流には高い価値があります。

 今、大学が内部で、また相互に、授業方法やカリキュラム運営や修学支援などについて、日常的に研究と改善を続けていることを、あなたは知っていますか? これらを総称してFD(ファカルティ・ディヴェロップメント)と呼び、多くの大学はFDの司令塔として高等教育センターを設置し、センター相互間でもこのように連携しています。

 大学は昔の大学ではありません。FDを中心として、いかにして教育・研究をよりよいものにしていくかを、組織的・継続的に追求しています。

 しかし、FDの取組は、大学生自身や高校生、あるいは社会に広く知られるまでにはなっていないので、もっとうまく広報すべきだろうと思っています。ついでに、「FDって何? フロッピーディスクのこと?」などと、いまだに言っている大学教員がいるとしたら、そんな人は、冷たい井戸水で顔でも洗って出直してきてください。

 今日も一日、研究発表・小講演・ラウンドテーブルが続けられます。

作者、テクスト、文化研究

2006年03月27日(月) 6時29分
 私はテクスト論者だと見られることが多いようですが、別に自分をそうだとは思っていません。ロラン・バルトの「作品からテクストへ」とか「作者の死」は正しいと思いますし、おおかたの文化研究なるものはおもしろくないと思っていますが、だからと言って作者を問題にしてはならないなどと考えているわけでもなく、文化研究は全部ダメだと言うわけでもありません。

 だいたい、人を何らかの主義者に分類しようとすることじたいが偏見なのです。あえて言うならば、私は私主義者です。私の考え、書くことすべてが私の主義です。

 さて、言葉は不透明な対象です。その意味は、言葉は純粋に一義的な意味を伝達する道具ではなく、それじたいで多様な意味を持ちうるということです。一義的な意味としては誰にも制御できないので、それを制御できるとしたら、その人に権力を与えることになります。作者の意思が作品の意味であるという考え方は、作者に権力を与えることにほかなりません。逆に、ある読者(指導的研究者など)の読み方が正しい読み方だと見なすのは、その読者に権力を付与しているのです。

 また、一部の文化研究では、テクストじたいの意味などは捨象して、その影響力こそがテクストの意味であると見なし、そのテクストや作者のいわば責任を問題にします。そこでは、言語の不透明性いかんにかかわらず、結果責任がすべてなので、極端な場合には、結論はあらかじめ決まっており、たとえ作者や読者がそれを否定したとしても、そのような反論は意味を持たないことになります。

 これらの様々な立場の間には、言語観において決定的なフレームの対立があり、たぶん容易には調停できないでしょう。それらは相互に共約不能であるか、または係争的な状態にあります。また、一定の水準にある論述は、多くの場合、その筆者を単純に何々主義者だとレッテル貼りできない程度に、その内部にも係争をはらんでいるものです。

 私はもういい加減、作者かテクストか文化研究か、などというお山の大将争いはやめて、虚心に対象に向き合うべき時だろうと考えています。よいものはよく、悪いものは悪い、と、その都度、判断することです。

アイロニー

2006年03月25日(土) 6時59分
 とても散らかった部屋を見て、「この部屋はずいぶんきれいだね」と発話する時、それはアイロニー(皮肉)だと言われます。現代詩の言葉遣いはアイロニーに満ちていて、ストレートなメッセージとしては伝わってきません。例えば「詩は滑稽だ」という谷川俊太郎の言葉は、ほんとうに詩を滑稽だと述べているのでしょうか?

 アイロニーには様々な説があります。

1)「適切性条件からの逸脱」
 サール、グライス、バック&ハーニッシュらの説で、字義通りの意味と反対の主張を行う文であることを、言葉の受け手が計算しているという考え方です。これは彼ら言語哲学者によると、レトリック全般に通じるということです。しかし、ではなぜ反対の主張をしなければならないのでしょうか? それから、私たちはいちいち計算するのでしょうか?

2)「メンション・セオリー」
 スペルベル&ウィルソンの説です。つまりアイロニーとは言葉の「使用」ではなく「言及」(メンション)なので、言葉を直接使うのではなく、社会的な期待が間接的に指示され、それを満足しない状況を表現する、という説です。しかし、これは「部屋はきれいだ」には適用できても、「詩は滑稽だ」には適用できないように思われます。

3)「仮人称発話説」
 橋元良明の説です。これはメンション・セオリーの変形で、事実とは逆の評価をする仮想の人物の立場に主体を移し、その主体の発話に「言及」する発話行為である、とされます。これによると、「仮人称」なんて誰も学んだことはないはずですが、私たちは無意識にこれを使っているということになります。

 どれが正しい、などということは言いませんが、気になるのは、すべて発話行為の側からとらえており、また、アイロニーであることが明白な例にばかり即している点です。

 「詩を読む」とは詩を読むことです。詩人を読むことではありません。「詩は滑稽だ」が、果たしてアイロニーか否か、そうだとすればどのような意味か、それを考えるのは読み手の側です。これらの先行研究を念頭に置いて、読み手が各々、自分のアイロニー観を構築しなければなりません。

 新年度前期教養教育「『詩は滑稽だ』―現代詩とアイロニー」へのイントロダクションです。

卒業式

2006年03月24日(金) 8時40分
 学校という職場に勤めていると、卒業式は年中行事で、毎年繰り返す、印象深い節目となります。印象深い理由は、言うまでもないことですが、それは、完成であり、また出発であるとともに、何よりも、別れであるからです。卒業式を最後に、2度と会わない、ということも、稀ではありません。というより、大半の学生とはそうです。

 実際、うれしいだけの思いではありません。卒業論文などの、研究という場で培った間柄は、他のどのようなものとも違います。完成に導き、出発を喜んだその時に、さよならを言わなければならないのが、大学というシステムにほかなりません。けれども、これはこの職業の、いわば宿命ですね。お客さまと別れるのが悲しくてやってられないとしたら、誰もパイロットなど、できないわけですから。

 私の卒業式の日は、大雪でした。記念講堂の前で撮った、証書の筒を持ち、晴れ着とスーツで着飾った友達の写真は、降りしきる雪のシャワーを背景にしています。同級生とは、格別なものです。色々な友達がありますが、同級生との絆は、他に掛け替えのないものでしょう。たとえ2度と会わなくてもね。卒業式は、「同級生」という関係が、真に始まる瞬間でもあります。

 大学は、これまでになく、変わりつつあります。卒業生が、もっと気楽に遊びに来れるような場になっていければいいとも思います。まあ、大半の卒業生にとっては、大学なんてもう何の関係もないのも当然なんですけどね。でも、「卒業生」という身分も他で代替はできません。卒業していない大学の卒業生には、どうしたってなれないのですから。どうぞ、これから必要な時には、この身分をどんどん利用してください。

 おめでとう! あなたが、自分の空で大きく羽ばたくことを祈ります。

発話と主体

2006年03月23日(木) 12時29分
 言葉を発する主体と、その言葉との間の関係は、日常的には自明のように思われますが、実際には単純ではありません。単純でない場合がある、のではなく、どんな場合にも単純ではないのです。

 「私はあなたが好きです」と好きでもない人に言う場合、一般には嘘をついていると言えます。同じことを、芝居の舞台の上で言う際には、演技をしているのであり、架空の物語の中で書くときには、虚構である、と言われます。嘘・演技・虚構などの場合から分かるように、発話された言葉の主体(主語=この場合は「私」)と、それを実際に発話している主体(この文を発した人間)とは、区別されなければなりません。前者を発話の主体、後者を発話行為の主体と呼びます。

 語り論では、語り手と作者とは別ものである、と見なします。語り手は、会話文の主語となる作中人物と同じく、発話の主体であるのに対して、作者は発話行為の主体であるからです。作者が心にもないことを語り手に語らせることは、架空の意思を人物に言わせることと同じように可能です。作者なるものを探すとすれば、語り手や人物や物語や文体など、あらゆる言語的要素を総合して、それらを発したと想定されるところに見出される、ある人格なのだ、と言うほかにありません。

 しかし、そのように想定された発話行為の主体が、作者その人の人格と必ずしも一致するとは言えません。語り手や人物や物語や文体などは、すべて読者の読解行為によって構成された対象です。読者によって、そのイメージは全く異なってきます。すなわち、発話行為の主体も、作者とはまた別ものなのです! 一般にそれを作者と呼び習わしているのは、慣習(読むフレーム)によるものです。それは、受容者が作者を求めるからこそ召喚される、ある幻想に過ぎません。

 ところで、これは嘘・演技・虚構の場合だけなのでしょうか? いいえ。日常的に、私たちは発話主体、発話行為の主体、そして発話した人(の心理、真意、真情……)を一致するものと見なしていますが、それは強固な慣習(マナー=言動の誠実さへの要求)によるものです。私たちの言葉は常にメディアであり、メディアは媒介するのであって、決して本体を転写しません。このように、虚構的な発話は、決して言語一般からの逸脱ではなく、むしろそのメカニズムの根元に発しているのです。

何がおもしろい仕事

2006年03月22日(水) 14時52分
 就職相談に来る学生に、「先生はどうしてこの仕事に就くことに決めたんですか」と聞かれるのですが、答えられません。いつ決めたんだろう? いや、決めなかったし、悩まなかったですね。だから、就職に関して、私は良いロールモデル(お手本)にはなれません。すみませんm(_ _)m。

 むしろ、私の周りには先輩の大学院生が大勢いて、研究者のロールモデルには事欠かなかったのです。4年次に進むころには、大学での勉強が終わるとは考えられなくなり、あとは目の前にあった道を歩いてきただけです。それから現在に至る道が単にまっすぐだったとは言いませんが、万一、この仕事に意義を感じていないとすれば、これまで支援してくれた私自身の先生や係累に対して申し訳が立たないと思います。

 おもしろいことは、まず、私は人の話を聞くことは嫌いですが、自分の考えを表現するのは好きでした。そうでなければ、この仕事はやってられませんよね。ただ、話すのは苦手なので、初めのうちは冗談までノートに打ち込んでから講義していたのです。最近は、年のせいか、けっこう講演などを聴くのも耐えられるようになってきましたが、それでもやはり、聴きながら、(この講師の話し方は、ここをこうすればもっとよくなるのにな)、などと余計なことの方を考えてしまいます。

 それから、学生の考えをずっと聞いていると、ときどき、(えっ? これは!)と思うようなスゴイことを言うことがあるのです。つまり、自分では(まだ知識が足りないので)スゴイという自覚はなくても、それまで研究史で言われてなかったことや、理論的に水準の高いことを言う学生が、年に一人や二人はありますね。その時は、私は躊躇なく、「それはスゴイ。本当にスゴイ」と言っています。

 たぶん、そういうことは、大学院重点化大学ではもっと多いのでしょう。まあそれは当然でしょうが、なかなかどうして、こちらも捨てたものではありません。私はそういう演習発表、卒論発表に出会ったときに、自分の研究以上にうれしいと感じ、どうにかしてそれを伸ばして、公開させてあげたい、と思ってしまうのです。それが、この仕事の大きなやり甲斐ですね。……あっ、でも、「できない子ほど可愛い」というのも、やっぱり真実ですけどね(^_^;)。

啓蒙について

2006年03月21日(火) 6時48分
 「神話は啓蒙であり、啓蒙は神話である」。これはマックス・ホルクハイマー、テオドール・W・アドルノの『啓蒙の弁証法』の骨子です。私はこの本を読んで、文字通り蒙を啓(ひら)かれました。難しい本ですが、長く続く効力を持っています。

 古代の神話は、単なるお伽噺などではなく、当時の人々が生きていくための知恵を教えている、つまり啓蒙なのだ、という主張が、ホメロスの『オデュッセイアー』などを例として語られます。逆に、現代の啓蒙は、容易に神話的な水準に堕し、神話と同じように人々をある共同性に染め上げ、自分で考えることをしない奴僕と化してしまう、とも。名指しは避けられていますが、ここでは、ナチズムやスターリニズムが念頭に置かれています。

 これらの全体主義の解明は容易ではありませんが、忘れてならないのは、これらは決して単純な暴力的圧政として出発したのではなく、当初は民衆の支持によって権力を握ったということです。それらを野蛮として告発するだけでは、その本質はとらえられません。ファシズムは、啓蒙としての性質によって、民衆を魅了し、民衆は啓蒙家として、彼らを歓迎し珍重したのです。全体主義は支配者だけの問題ではなく、私たち自身の問題でもあるわけです。

 しかし翻って考えるならば、人が生まれて生き延びるためには、無数の学習の過程を経なければなりません。社会的生活を営むためには、より高度な様々の知恵や技術を身につけなければなりません。文学や芸術でも同じことである、どころか、その最たるものですらあります。このような生きるための知恵とイデオロギー的な領域とは、画然と区別できるものではありません。どこかでつながっています。私たちは、啓蒙を捨てることも、もはやできないのです。

 ここにはパラドックスがあります。けれども、パラドックスは人の生の本質です。私たちは、知恵や技術、そしてイデオロギーをも学びながら、それらを常に批判的にとらえ、それらをいちいち相対化して、自分で判断する習慣を身につけなければ、必ずや、いつか来た道に戻ることになるでしょう。そして、例によって、私のテキストもまたそうです。私がしていることは、「啓蒙批判」という啓蒙であり、自分自身で考えよ、という啓蒙にほかならないのです。

係争中の主体

2006年03月20日(月) 10時40分
 テクストに対する、十分な水準にある読解は、定量分析によってその正否を決定することができません。そのような複数の読解は、各々がそれなりの正しさを有しています。そのような素朴な意味で、真理は複数的であり、真理はその概念枠に対して相対的です。

(注 「十分な水準」もまた、経験則的に曖昧です。「大」か「犬」かは点一つの差ですが、明確にどちらと決められない場合があります。)

(注 複数的な真理という観念は成り立たないという議論があります。それは真理ではない、という主張です。)

 従って、意味は常に、読解と読解との間の葛藤の場において、見出されると言えます。複数の読解は、その間がほとんど交渉を持たない(共約不可能な)状態か、対立という交渉を持つ(係争中の)状態か、いずれかの関係に置かれます。意味は、共約不可能性、または係争の中にあります。

(注 「共約不可能性」については改めて書きます。)

 読解は、異なる主体間で係争中となりますが、一つの主体内部においても、またその読解の形成過程においても、係争中です。係争中であることが読解と意味の重要な属性をなし、かりそめに読解や意味を固定したとしても、それは次の振動へのプロセスに過ぎません。

 論述の強度は、この係争中の主体のあり方を、どのような様式によって表現するかによって決まります。それは結論の正しさではなく、論述じたいの様式によって評価される軸です。逆にそれは結論の正しさを、相対化する契機ともなります。

 それは、定量分析を受けつけない対象に対する、定量的ではない、むしろ本来的な処方と思われます。
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