寫眞とは、やって来るもの。

2018年09月03日(月) 0時00分
「楽園」に続く寫眞集のための制作ノート

寫眞集「楽園」あとがき。
撮影中に、しあわせとは何かと聞かれたので、それは関わり方とその結果しだいのもので、線ではなくて点なのだと答えたら「じゃあ私は今日しあわせです」と言われて、いま天使の羽をほしがっているラプンツェルとの次の作品集のタイトルを「楽園」に決めた。「あのときはこんなこと言ってましたよね」とかラプンツェルが中学生だった頃に私が話したことも覚えてくれているから、愛情とか信頼が彼女に残す点がしあわせであってほしいと思う。

寫眞集「楽園」の裏返し。
しあわせとは関わり方とその結果が相手に刻む「点」だと書いた。ならば視点を変えて、相手を見つけられず居場所がない「私」に刻まれるしあわせの「点」とは、私が無になるその瞬間かもしれない。すべてがウソだから心を保つために身体に「点」を刻む。人は誰とも繋がれない。

世界とは生まれたがゆえの不可逆性という悲しみとその浄化の螺旋のフラクタル 。記憶は上書きされて起点は喪失し円環は螺旋になるから進まざるをえない、そのかなしみが世界のすべて。

感覚でああこれはだめだいやだと思ったものはだいたい正しい。そこに囚われ続けて生きていることを突きつけられ続けていて苦しい。それで私は寫眞から逃れられない。寫眞とは、やって来るもの。

見ることは見ないことでもあり、見たいものを見ようとすれば見たくないものは退けられる。裸であるということは、裸であることで裸ではないということでもある。裸であることが裸でないならば、裸は美しいなどというメッキは剥がれる。カメラは対象に意識を向ける程に被写界深度が浅くなり周囲はぼやける。意識を向けたそれがメッキならば、何を見ていたのか。

原因と結果とは、点と点を結んでみたらほら線が引けましたというだけのこと。移動の途中には始りも終りもない。点から点へと移動することで新たな点が見えるという連続と、その連続が直線ではなく螺旋を描くのだと知ることが、しあわせの見つけ方。
  • URL:https://yaplog.jp/photo_zansyou/archive/1288
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