手段の芸能化

2011年02月28日(月) 23時59分
今日はホンの〆切だったのだが、まだ1/4くらい。徹夜などせずに、今日はここまで。それでも、明日から稽古に入る予定だ。

さて、諸般の事情で、ホンになかなか「腰」が入らず、この間についつい読んでしまったのが「考える胃袋 ―食文化探検紀行」という、古本屋で見つけた新書本。石毛直道氏と森枝卓士氏の対談。食の文化人類学をわりと気軽に話していて、面白かった。

一番興味深かったのは、人類でもっとも古い味つけは、草食動物の腸管の内容物ではないかということ。つまり、ウンコの製造過程(石毛氏の言葉)。味や匂いもかなりエグイらしい。しかし、なんとなくわかるような気もするのだ。料理という芸能における、ウン。

ところで、最近は料理を作るときに、皮むき器を使わなくなった。まあ、皮むきも包丁を使った方がちょっと楽しい。今日はなにをしようかな、というところから、買い物して調理、食事して後片付けまで全部含めて、食として楽しめないかと。後片付けがなかなか難しいけどね。

よく「食うためにやっている」と言うが、それだとその行為は手段になってしまう。食うにしても、何かのための栄養補給だけになりかねない。とりあえず、今やってること全てを楽しもう。もちろん、食べてるとき、食べてもらってるときが一つの頂点ではあるのだが、目的意識が強いと、究極的な意味(生きる意味?)さえなくなりかねない。これは、手段の芸能化といえるのではなかろうか。

「祝の島」上映会

2011年02月26日(土) 21時30分
今日は、反原発の拠点として今注目の祝島を撮ったドキュメンタリ「祝の島(ほうりのしま)」を見に行ったんだけどよ、どうも納得がいかないぜい。

一番は、プロジェクターが古くてごめんなさいっていうコメントが上映後にあったんだが、ほとんど映画に対する冒涜といってもいいほど、最初から最後まで赤い縦縞が入るという映像を見せられたことだ。なんじゃ、これ。ごめんなさいで済むのかい?こちとら、映画を見に行ったんだぜ。

映画そのものも、初監督ということなのだが、長いわりに踏み込めてねえ。島の現状を浮き彫りにしてねえし、風景が多くて、もっとヒトに踏み込めよ。インタビューが少ねえぞ。ヒトの声が少ないから、物足りねえ。悪い映画じゃない(正しい悪いという意味ではなく、素直な映像という意味で)だけに、残念だ。プロジェクターがよければ、もっと違う印象を持ったのかねえ。

話は戻るが、主催者は何を考えてんだ。なんか、映画を見ることなく、この上映会をしたみてえだ。付け焼刃なコメントと、通りいっぺんの講義。大学の先生なんてしょせんそんなもんかもねと改めて感じたぜ。終った後、そそくさと帰る客が多かったし。そう感じたのはオイラだけじゃねえだろう。

これはよく思うんだけど、「正義」という皮をかぶった作品にときどき出会う。そいつが皮である限り、その根底は、その反対側(たとえば原発推進側)のきれーごとの言葉とスタンスは変わらねえ。たまたま正義の側なんだ。監督に対してはちょっと厳しすぎるかもしれねえけど(やっぱり一種同業者だと思うから)、主催者に対しては、ガッカリだぜ。

OCT/PASS「風来」はオススメ!

2011年02月26日(土) 0時03分

精華小劇場に来ている仙台の劇団、OCT/PASSの「風来」。すばらしかった! ゆがむことのないストレートな演技、テーマは現代の暗さを扱っているのに、この明るさは何だ。萌も始終大笑い。そして、詩的で、深い。私は泣いた。

風が吹かなくなった世界。そこで灯台ならぬ風守をしている変人男とその家族たち。それは、この日本だ。そんな状況を、あの手この手で掘り下げていくその手腕には、惚れ惚れする。石川さんは、日本のゆがみを描くのではなく、それをスッパリと「無風」とすることで、未来を切り開いてみせる。この人は、なにがつまらないかを描くのではなく、なにが大事なのかを提示できる人だと思った。

大好きなイタリアの作家で、イタロ・カルヴィーノという作家がいるが、もし芝居を作っていたらこんな舞台だったかもしれない。

しかし、客は少ない。14年ぶりの大阪ということだが、もっとたくさんの人たちに見て欲しい。客席には、知った人も多かったが、もっともっと一般のお客さんにぜひ見て欲しい芝居だと思った。芝居はまだまだ面白く、楽しいし、問題を提示し、そこに希望を与えることができるものなのだ。

作・演出の石川さんは、昨年の芝居で100本目の戯曲だったという。スゴイことだ。なんて楽しい台本が書ける人なんだ。
これは、オススメの一品です!

まっすぐな木

2011年02月24日(木) 0時05分


本日は、板ワサ。手抜きだけど、うまい。あと里芋の煮っ転がし作った。萌おかわり。デザートにプリンも作ってみた。インスタントのやつ。安上がりだが、旅には冷蔵庫がないのだなあ。

午前中の散歩で、マンションの5階くらいの高さまで、まっすぐに伸びている木を見つけた。いや、しょっちゅう見ている木なんだけど、あらためてナントまっすぐなんだろうと思った。風だって吹くし、太陽だってまんべんなく当たるわけじゃなかろうに。重力を感じて微調整しながら成長しているのか。人間が立てた電柱の多くが傾いてやっと立っているのと比較すると、スゴイことだなあと思う。

高江のヘリパットにしても、田ノ浦の原発にしても、未来の世代にとって大きな負担にしかならないようなことを、姑息な手段で強行している。毎日パンダのニュース。この国はどうなってるのか。
一方、中東では、命をかけた革命が起きている。これは、次の世代のためでもあるのだ。大変なことが起きていると思うが、うらやましいような気さえしてくる。

キリコが教えてくれた、元原発で管理職にあり、癌で亡くなった人の内部告発のサイトを読んだ。ここまで恐ろしいということを、知らなかった。
http://www.iam-t.jp/HIRAI/index.html
心がざわざわする。

池原歩行術

2011年02月23日(水) 0時01分
本日昼は、けいらんうどん。これ、汁はダシに薄口醤油のみで、みりんとか酒とか入れないのだが、うまい。片栗粉でトロミをつけて溶き卵を流し入れ、ショウガをたっぷりトッピング。夜は生春巻。業務用スーパーでライスペーパーの安いのを発見したため。あまりうまく巻けなかったが、好評なり。両方とも旅メニューに追加なり。

今夜は、「ツバメ恋唄」を短い物語にして劇団員(といっても、キリコと萌)に読み聞かせた。読みながら多少の問題のあるところも感じたが、総じて良しということになった。ラストについて、キリコからいくつかのアドバイスもあり。明日からは台本として書いていく。締め切りまであと6日。なんとか間に合わせたい。焦らず、地道に進めよう。

そうそう、先日、以前に私がキリコの台本についてアドバイスした言葉を逆に教えてもらった。それは、登場人物に姿勢の傾きが必要なことと、人物同士の対立が必要なこと。ぜんぜん忘れていた。姿勢の傾きというのは、今、どっちに動こうとしているのかということ。構えというか、欲望というか。構えは受動的で、欲望は能動的だが、そのどちらも含むから、「姿勢の傾き」というのが私としては一番ピッタリくる。芝居では、あんまり落ち着き払っていてはいけない。カカトが浮いているくらいでちょうどいい。だからこそ、対立も起きてくる。

「カカトの浮き」関連だが、沖縄の金武町で「池原歩行術」という本を見つけた。膝や腰を守る歩き方の本で、ナンバ歩きに近い。もともとキリコの腰痛のために購入したのだが、私も膝によく痛みが出る。この歩き方は、着地をカカトからでなく、つま先からする。最初は、「脳梗塞で一度倒れた人が歩いているみたいだから、やめた方がいい」と言われていたのだが、それならそれで、一番理にかなった歩き方かもしれないと、那覇からずっと試し、かれこれ2ヶ月になる。立つときも親指の根本近くに重心を置くので、少し前傾になる。ゆっくりだと忍び足のカンジ。背中は丸めないけど。
2軸歩行といって、モデルさんたちの歩きとはまったく違い、右足と左足の間にはラインをまたぐカンジになる。両腕は脇から少し離す。

池原英樹さんは、1956年金武町生まれの沖縄空手の方で、すり足からヒントを得てこの歩行術を思いついたという。現在、講習会などで普及活動を行っている。今まで杖なしでは歩けなかった人が、ぞくぞくと杖なしで歩けるようになっているし、アスリートも学びに来ているという。

先日、竹馬で日本全国を歩きまわっている人がテレビで特集されていて、あ、同じだと思った。竹馬はナンバだし、少し前傾だ。竹馬に乗っているつもりで歩けばいいのか、と思い、最近はだいぶスタスタと歩けるようになってきた。
たった一冊の本だけが頼りの独学(たいがい私はいつもそうなんだよね)なので、なにか間違ってるかもしれないが、もしかすると、帰ってきていくら食べても太らないのはそのせいかも。ダイエットにもなるらしい。

今日も午前中2時間ほど、買い物も兼ねて十三を歩いた。歩きながら、「足の裏は語る」の平澤彌一郎さんが、大昔の人は今よりつま先に重心がかかった立ち方をしていたと書いていたのを思い出す。そう、原始人に近い歩き方かもしれん。たまにカカト着地の歩き方をすると、急に文明人になったようで、優雅な気分にもなるのがおかしい。

田ノ浦で深夜に原発工事!

2011年02月21日(月) 23時52分
昨日の朝は、フレンチトースト。昼は尾道風ってこんなかなとお好み焼きをしたのだが、後で調べてみたら、スナズリが必須らしい! 夜は肉じゃが。今日はマーボ豆腐なり。

ホンはちびっとづつ固まりつつある。最初の二つのシーンを書いてみて、思い直して、ラフスケッチでラストまで。なんとなく行けそうな予感。締め切りまであと1週間。

これはtanisesさんのmixiで知ったことなのだが、今朝、田ノ浦で原発建設のための工事に、何百人もの作業員が深夜作業をしたらしい。
たくさんの人たちが祝島で反対の声を上げる中、夜明けまで作業し、夜明けと共に去ったらしい。
ネットで検索して知ったので、あまり確かなことはわからないのだが、ニュースとしては、レイバーネットだけが報道しているようだ。我が家は新聞をとっていないが、テレビのニュースではまったく報道されていないと思う。たぶん新聞もそうだろう。これは、沖縄のヘリパッドと同じだ。

エジプトやリビアと、日本もほとんど変わらないのだ。いや、違うのは、大勢の民衆が立ち上がっていることなのか。

原発推進のコマーシャルに出ていた宮本信子や浜村淳は、どう思うのか聞きたいものだ。沖縄に次いで、この事件を報道しないことを選択したマスコミ、とくにNHKには、報道しなかった理由を聞かせて欲しいものだ。政府とは無縁の立場を取れる自由を保障するために受信料を取っているのだから。

ホシハチカニオドル

2011年02月20日(日) 14時14分


昨日は、「ホシハチカニオドル」を観るために、広島へ。私たち家族に加え、田口さん、三宅さんをお誘いし、片道約5時間の行程。天気もよくて、オニギリもたくさん作ったし、三宅さんはオヤツをたくさん持ってくるし、まるで楽しい遠足。高速代も安いしねー。

ホシチカは1時間ちょっとで、芝居あり踊りありは大槻さん一人、谷本さんが横でバイオリンを弾きまくり、裏方として、谷瀬さんが照明、映像、それに仕掛けまでをこなすというトリオで作っている。チェルノブイリや東海の原発事故などの問題を扱った作品なのだが、暗くて重いかというとまったくそんなことはない。軽く、しなやかで、なんだかゼイタクとさえ言っていい作品だった。

大槻さんの動きは柔らかく、姿は美しく、声は優しい。顔は長いが、かわいらしくて、繊細。私がとくに好きだったのは、仮面をつけて、黒い妊婦が踊るところと、森の妖精がリンゴをかじりながらチェルノブイリでコンクリート詰めにされている作業員と語るところ、そして最後の天使が様々な映像に飲み込まれていくところ。最初の包帯グルグル巻きで、オクサンのことを「さっちゃん」と呼びつつの会話も捨てがたい。(ほとんどだ〜)
谷本さんのバイオリンも(ピアニカとかパーカンションも)いいし、谷瀬さんがそれらにたっぷりとした広がりを加えている。そうそう、冒頭の「闇」という字の解説がスライドで映される。トビラの向こうから、カスカナ音が聞こえてくる闇。ほんとに、闇に消えていきそうな声を拾い上げようとする作品だった。

アフタートークも興味深かった。ラストについて、「希望の天使」という言葉がアフタートークで語られていたが、私には、なんといったらいいのか、「天使の絶望」に見えた。希望という言葉が、ほとんどかなわないカスカナノゾミという意味であれば、同じことかもしれないが。

私には知らないこともたくさんあるのだが、別に難しいところなどまったくない。これは、強烈なインパクトというのではなく、どちらかというと、後から効いてくる作品だと思う。
コレ、いろんな人に見せたいなあ。
これからまだ続けていくようなので、どこかでもう一度見たいと思う。そのときはどうなってるだろう。楽しみだ。リンゴなんて、この回ではじめてやってみたことだそうだ。

その後、上演地候補の尾長天満宮へ。坂と階段の上にある小さなステキ神社で、宮司さんご夫婦もとても親切で感動。以前はここから海が見えたらしい。梅の花が咲いていた。(海と梅って字も音も似ているな)使わせて頂けることになり、これで広島の上演地が決定。

途中、尾道ラーメンを三宅さんにご馳走になったりしながら、5時間おしゃべりしながら帰宅。楽しい一日!

蝶の不思議

2011年02月18日(金) 0時21分

昨日は手作り餃子。本日はロールキャベツ。そう、キャベツが安かったのだ。まだひと玉冷蔵庫にあり。次はお好み焼きか。このところリピートに入っているレシピ。そうそう、昨日は芋ケンピも作った。ちょっとベトついたが好評なり。

今日は、マップの文章化が終了。ラベリング前のノートと、マップの文章化をあわせると、ノートはおよそ150頁になった。厚さで比較すると、前と後でほとんど同じだ。
これから絞り込みに入る。最近、芝居の基本は「ぶつかり合い」だという気づきがあったので、かなりシンプルなところまで絞り込んでみたい。制約が少ないほど「ぶつかり合い」は起きやすい気がする。その場その場でのぶつけ合い(書き込み)が重要。だから、ラベルは20枚までとし、6つ以下の島にまとめるという制約をつけた。さて、どうなるだろう。
一日広島行きで潰れるため、締め切りの2月末まであと10日。ホンとして書くのは実質1週間というところかな。書けるか? ナンとなくだが、叩き台としての台本はできそうな気がするノダ。甘いかナ〜

ところで、蝶とは不思議な虫だ。
まず、ほとんどの虫が擬態などまで使って目立たぬようにしているのに、むしろ目立つために飛ぶことまで犠牲にしている気がする。交尾相手を見つけるためだとしても、そこまで目立つ必要があるのか? (フェロモンを失った?)
おそらく、あの巨大な羽のために、花に潜り込むことができなくなり、ゼンマイ状の口ができたのだろう。だから、花の側からみると、花粉を運んでもらうのには、蝶はあんまり役に立っていない気がする。
なにより不思議なのは、万葉集に蝶のことが一切出てこないということと、「ひらこ」などの古語はあるものの、いつしかまったく使われなくなり、虫としては珍しく和語ではないということだ(てふが和語という説もある)。マジに受け止めれば、万葉時代の前後、日本から蝶はいなくなっていて、その後に再び入ってきたなんていう空想も成り立つ。
(これらはホンには使わないけどね)

旅への衝動と贈与、そして芸能の根拠

2011年02月17日(木) 1時42分
「生産や所有より、交換が先立つ」という網野喜彦の言葉から、「定住より旅が先にある」のではないかと以前書いた。その先を考えてみた。

「生産や所有より、交換が先立つ」というが、もっと正確に言えば、おそらく「生産や所有より、交換が先立ち、その前に贈与がある」だろう。交換には、すでに所有を前提としている部分があるからだ。贈与は無償のプレゼントであり、サプライズを伴う。私はここでは今西仁司のように、贈与が負い目を払うものとは考えない。負い目は所有が生まれたときに、所有の負い目として発生した可能性がある。

定住には土地の所有が伴うから、定住をケガレたものとして考えるという論理も成り立つ。しかし、これも負い目と同じで、そもそも定住という概念がなければ、ケガレもへったくれもない。

それでは、なぜ人類は旅をしたのか。エサを求めてか。敵に追われてか。群れの中の順位に不満を持ったのか。縄張りにはじかれたのか。このような考えは、全て人類を動物に類似したものとしてとらえている。ある意味では正しい可能性はある。しかし、動物たちが無目的には旅をしないのに対し、私の考えるヒトは、無目的に移動している気がする。移動のための移動。旅そのものが目的であるような。

それは、動物たちの本能が目的に向けて洗練されているということではないか? 本能は、たくさんの可能性からもっとも適合したものを選び、それぞれの種の行動様式を決定している。人類はそれらの行動様式の手前に戻っている。つまり、本能が形成される前の衝動に基づいて、行動を自ら選択する。
つまり、旅への欲望は、本能以前の衝動である可能性がある。
これは、交換(損得の概念を含む)以前の贈与(無償の贈与!)と同じ可能性だ。

ここで話を一気に広げるが、タンポポの綿毛はなぜ遠くに飛ぼうとするのか。もし、その場所がタンポポにとって有利な場所であるなら、遠くに飛ぶよりもその場所で繁殖した方がいいかもしれない。遠くに飛ぶことで川に落ちたり、まったくの砂地だったりする可能性もある。考えられるのは、多様な場所に生息を試みることで、狭い範囲に集まるよりも種全体としてはより生き残る可能性が高くなるということだ。

生きる場所を選び、固定してしまう種は多い。生きる場所を多様にしたくても、生きる力そのものが弱い場合はとくにそうだ。ヒトはなんとか生き延びる。であるなら、少しでも多様な場所で生きようという根源的衝動を持つ。

これだけなら、贈与とは関係ない。これは、利己的な遺伝子の話だ。
この利己的な遺伝子という考えをひっくり返してみたい。

遺伝子が利己的であるなら、なぜ生物はこれだけ多様なのか。
それぞれが利己的に生きようとするなら、全体として棲み分けが進み、たがいに食いあうことも最小限にして生命が生きることも可能なはずだ。実際、コアラなど食べるものを最小限にし、移動もほとんどしない。だが、生物はあらゆるところに生きようとし、多様化した。

これは、生命というものが、はじめから多様化する衝動を持っているからだといえる。遺伝子は利己的ではなく、多様化するためにある。多様化したいが、やみくもではアカンので、ちゃんとコピーを取っておく、そのために遺伝子があるのだ。

であるなら、生命は利己的ではなく、はじめから贈与的なのだ。互いに自らをプレゼントしあうために生まれてきている。そうでなくては、多様化することはできない。新しい種が生まれるということは、新しいプレゼントが生まれるというサプライズなのだ。

利己的な遺伝子という考えは、利己的な視点から見られている。つまり、利己的な主体という、あくまできわめて近代的な、所有と生産の立場、対価を計算する交換の言葉である。
しかし、生命界を俯瞰する視点から見れば、生命界は多様を目指し、互いをプレゼントしあっている。100匹生まれた魚の99匹は、他の種へのプレゼントとして生まれる。そして、子孫を残した成魚はプレゼントを持続するためにまた産む。生存競争も、このプレゼントの持続のためにある。その衝動の根源は、無償の贈与だ。だからこそ、私たちは栄養補給としてだけでなく、いろんなおいしいものを味わえるし、そのプレゼントにいつもサプライズする。いうなれば、全ての生命は芸能として命を生きている。食物連鎖ほど芸能的で、美しいものはない。

無償の贈与は、「必要」とか「目的」といったものとは、まったく異なる。太陽の光のようなものだ。それは予期しないプレゼントであり、サプライズである。じつは、そこにしか価値というものはない。神の恩寵というものがあるとするなら、それは必要でも目的でもなく、サプライズのプレゼントであるはずだ。旅への衝動の理由も同じく、サプライズであり、プレゼントなのだ。

私は今まで、ヒトに固有の未来への恐怖感を芸能の根拠と考えていたが、このプレゼントとサプライズこそ、芸能の根拠かもしれないと思いはじめている。

今年のチラシ

2011年02月15日(火) 23時03分



昨日は、カマスゴ。イカナゴの親? 子かな? はじめからボイルしてあって、大阪ではよく飲み屋にある。とにかく安い。1パック100円で、2パック。
こいつを半分は唐揚にし、残りはそのままポン酢醤油で。唐揚のとき、何を思ったか自分の右手に油(少量)をかけてしまってヤケド。家族に言われて長いこと冷やしたのがよかったのか、今日になってみるとたいしたことなし。

さて、昨日写真撮影したのだが、もうその晩にはチラシデザインがあがってきた。仕事早し、キリコ。構図は私の案が採用された。ちょっとマンガの表紙みたいな大胆構図を考えてみた。なるべくユーモラスにしようということで。今年はこれで行くのだ。四角の中には各地の場所や日時が入る。なるべくたくさん印刷して、この部分だけ自前のプリンターで入れ込むので、今年は無駄が出ないはず。

少し落ち着いたので、やっと台本作業も再開。2月も半分終って、残り半分。今はマップの文章化である。ここで気がつくことがたくさんある。ああ、自分はこれを書いておかねばということがまた明確になってくる。

昨日書いたこと、最後の二つは結局芝居の劇場性とドラマ性という、芝居の基本中の基本の二本柱だったと後から気がついた。まあ、そんなもんだ。
2011年02月
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28
最新コメント
アイコン画像ボーダー
» 2017年08月03日のつぶやき (2017年08月04日)
アイコン画像長山現
» 2017年03月14日のつぶやき (2017年04月04日)
アイコン画像ドテチン
» 2017年03月14日のつぶやき (2017年03月15日)
アイコン画像ふーちゃん
» 2016年08月19日のつぶやき (2016年08月23日)
アイコン画像沖縄のみゆきです
» 2016年07月09日のつぶやき (2016年07月11日)
アイコン画像長山現
» 2016年02月14日のつぶやき (2016年04月02日)
アイコン画像善光寺クロ
» 2016年02月14日のつぶやき (2016年02月15日)
アイコン画像みゆき
» 2015年12月20日のつぶやき (2015年12月21日)
アイコン画像ピエロ
» 2015年12月06日のつぶやき (2015年12月07日)
アイコン画像善光寺クロ
» 2015年11月01日のつぶやき (2015年11月02日)
Yapme!一覧
読者になる