「金魚姫と蛇ダンディー」ぼちぼちと始動

2009年05月27日(水) 22時23分
 今秋の「金魚姫と蛇ダンディー」は4年目にしてファイナルとなる。現在、プレ稽古中。というのも、劇団定例稽古に次々と出演者たちが参加してくれているからだ。出演者も全員決まったし、台本の書きかえも二幕までほぼ完了で渡した。実は三幕が一番の勝負どころなので、まだまだ油断はできない。
 本としては、かなり初演に近くなる。色々と拡げてきたのだが、初演が持っていた「仮説性」を大事にしようと決めた。だから、全くのファンタジーではない(つもり?)。二幕までは、初演をよりシンプルに整理した。三幕は単純でありながら、掘り下げるつもりだ。なんとか6月中に仕上げ、あとはじっくりと皆で議論もしつつ作っていきたい。
 演出は大きく変わる。まず劇場が全く違う。客席の屋根も、壁も、もちろん出入り口のドアもなくす。客席自体も、あの階段状の客席を作らず、パイプ椅子を並べる。舞台だけが今までと同じ。照明も投光器、音響も機材をあまり使わず、楽団席から聞こえるだけにする。これは野点(のだて)の精神だ。
 衣裳もぐっとシンプルにするので、ずいぶん印象が変わるだろう。どれだけシンプルな演出にできるか、かなり知的に取り組むことによって、強度を増したい。全て遊び心は満載の上でだ。これは、お神楽(かぐら)の気持ち。
 雨対策はこれから考えるが、ひょっとするとカッパを着てもらうかもしれない。東京(井の頭公園)では公園の樹木に養生すればロープが張れることになったので、簡単な屋根を作れそうだ。大阪(扇町公園)ではまだわからない。
 ポスターも今回はシルクで刷る。昔はよく作っていた。自分たちでやる。7月にはお目見えする予定。
 プレ稽古は身体作りと発声が主だが、新しい出演者たちの動きや声、性格なんかが少しづつわかってきて面白い。稽古開始はまず「蹴鞠(けまり)」から。蹴鞠は古くからの芸能の一つなのだ。遊気舎の西田さんから伝授されたのだが、自然とチームが出来上がっていくのに絶好なので、復活!

ミハイル・バフチン「小説の言葉 (付:小説の言葉の前史より)」を読みつつ

2009年05月26日(火) 22時27分
 非常に面白い論稿である。ただし、芸能論の立場から言うと、いくつか反論もある。その反論はバタイユのときと似ている。平凡社文庫。
 まずは、「小説の言葉の前史より」を読み、それから本論を読んでいる。で、「小説の言葉の前史より」から論じたい。
 バフチンは、小説という表現形式は、多声的(ポリフォニックとかオーケストレーションという言葉が使われる)なものだという。つまり、作者の言葉(主に地の文)に加え、様々な登場人物の言葉(会話)があり、それらが入り混じったものが小説だというのである。これは非常に納得がいく。例えば、詩の言葉や神話の言葉は、もっと単純だ。バフチンの言葉で言えば、「直線的」だ。それらは普遍性を持ち、一方的なのだが、小説の言葉はもっと多様性に満ちた言葉(ラズノレーチェ)に満ちている。
 例えば、昔の学問的な言葉はラテン語である。それは単一的な言葉の権力構造を作り上げる。けれども、小説は地域に根ざし(小説はほとんど母国語で書かれた)、対話的に言葉そのものを問いかけていく。
 小説とは、「言語に対する神話の圧倒的な支配力を打ち砕き、直線的な言葉の力から意識を解放し、自らの言葉、自らの言語という曖昧な檻の中にとじこもっていた意識を解放したのである。言語の真にリアリスティックな諸形式の創造に欠くことのできない条件であった言語と現実の距離が生み出されたのである。言語意識は、直線的な言葉、直線的な文体をパロディー化し、その限界を、その滑稽な諸側面を探り、その性格的・典型的な相貌を明るみに出しながら、この直接的な言葉とそのあらゆる造形的・表現的手段の圏外で構成されたのであった。」
 だからこそ、バフチンはパロディ的な小説に対し、非常に重きを置く。もちろん、夏目漱石の文章を一度でも読んだなら、このようなことはすぐにわかるはずだ。漱石の文章では、全ての意味が揺れている。ああ思ってみたり、こう思ってみたりする(草枕の冒頭)。そのために小説としての物語があると言ってもいい。夢中夜はその反動かもしれない。
 ただ、私が違うと思うのは、バタイユと同じく、近代ヨーロッパを基準としたその歴史観だ。このような小説的な意識は、すでに日本の落語にある。おそらく、語り聞かせる昔話などの物語にも、世界的にあるはずだ。身体性のある言葉や、状況を伴った言葉(誰が誰に語っているか)だ。言語が書き言葉になったのは権力意識のためだと思うが、話し言葉(語り言葉)はじつは別の水脈にある。いったん権力が強い限定を行い、法や宗教的な言葉を作り上げた上で、書き言葉としての小説が現れる。しかし、それは芸能的な回帰にすぎない。話し言葉としては、世界中で落語のような語りは存在していたはずなのだ。
 バフチンが言う小説的な多様性(ラズノレーヂェ)は、語り聞かせの世界には、すでにあったことの、書き言葉における復活なのである。ただし、そこにおける「自我」というものの大きさは計り知れないものがあったはずで、それは書き言葉の権力を引き継いでいる。
 このことは、日本でも同じだ。西鶴の文章はとてもポリフォニックだし、仏教は外国語だったりする。これはバフチンが教えてくれたことだ。バフチンの小説論には、もう一つ重要なことがあるので、それはまた書きたい。

清水きよし「KAMEN」

2009年05月24日(日) 16時22分
 パントマイムの清水きよし氏が一人で演じる仮面劇「KAMEN」。もちろん、自作自演の無言劇。「マリオネット」「鍵」「綱渡り」「花」「駝鳥」「背中が痒い」の6本の短編オムニバス。今まで130回以上、世界中で演じられてきたという。
 仮面は二つ。一つはピエロでもう一つはクールな感じの男だ。ピエロからはじまって、ほぼ交互に舞台上で仮面が付け替えられ、ピエロで終わる。
 仮面をつけた瞬間、仮面に命が吹き込まれる。その瞬間がたまらない。パンフレットに「なぜ日本の面は顔より小さいか」という文章がある。世界中のほとんどの仮面は何かに変身するためにあるが、日本の面は演者の肉体を面に預けるために、命を吹き込むためにあるからで、自らを隠すためではないからだ、とある。舞台を見ると、とても納得できる。
 まさにその瞬間、背筋がゾクゾクする。
 言葉のない劇と、私たちがやっている会話劇とはたぶん本質的な大きな違いもある(会話劇は<嘘>や<ハッタリ>が重要なポイントになる)のだが、この磨き抜かれた構成のシンプルさ、動きの洗練、笑いと緊張の連続は並大抵ではない。後ろの席にいた女性など、何度もゲラゲラ笑い、大きなため息をつき、「ああ」とか「そうなんだー」とつぶやいていた。
 10月にある「幻の蝶」は今年30周年とか。30年だったり、130回以上だったり、すごいことだ。「金魚姫と蛇ダンディー」は今年4年目で、ファイナルの予定だ。十年はやろうと思っていたのだが、これをやっている限り新作が作れない。人物の多さなどもあるが、やっぱりそれ位の回数に耐えられるものかどうかが一番だろう。
 「金魚姫と蛇ダンディー」は、着々と準備が進行中。東京は9月21日〜23日、井の頭公園(ジブリ美術館裏)。大阪は10月3日〜4日、扇町公園に決定しました。

百田尚樹「風の中のマリア」

2009年05月13日(水) 11時38分
「固い本をガリガリ読む」という決意をして、今はバフチンに取り組んでいるところだが、これがなかなか進まない。で、欲求不満になってつい興味本位で手に取ってしまったこれは「昆虫帝国物語」。これはオオスズメバチの働き蜂であるマリアの一生と、その巣(これが帝国)を描いた小説で、これを読むとオオスズメバチの生態や他の虫たちの生態のわかってしまうというすぐれもの。すげえ感動っていうわけではないが、面白くて250頁をあっという間に読んでしまった。オオスズメバチは肉食なので、働き蜂(小説ではワーカーという)といってもハンターであり、戦士。そして、メスでもある。ニホンミツバチとセイヨウミツバチの違いなんかも興味深かった。これ、科学的な児童書でもあるかも。とくに小学校高学年くらいにオススメだ。
 ところで、ドーキンスの「利己的遺伝子」という考えがある。この物語もかなりその考えが語られるのだが、私には遺伝子は生き残った結果にすぎないと思える。ニンゲンはしばしば自然界の結果(社会的な現状も)を、あらかじめ意図されたもの、目的としてあったように考える。けれども、それはたんなる結果でしかない。今西錦司のいう「進化への意志」はあると思うが、それも生き残れば結果がでるが、そうでないことだってよくある。ただただトライあるのみである。たんに生き残ることができた生物の遺伝子が、子孫への戦略伝授として伝わるに決まっている! と、思うのだが、いかがなものか。
 ああ、虫が好き。桜のアメリカシロヒトリも十分大きくなって、ほとんど動かなくなってきている。変態まじかか。庭の土にはまだ小さなダンゴムシがゾロゾロと這い回る。私もまた、一匹の虫なのだ。

蝶々夫人

2009年05月09日(土) 1時15分
 プッチーニ作曲、ウィーン・フィルハーミニー管弦楽団、カラヤン指揮、ミレッラ・フレーニ(蝶々夫人)、ブラシド・ドミンゴ(ピンカートン)。オペラのDVDを見た。ただし、ステージではなく、映画風に映像化したもので、演出・装置・衣裳はジャン=ピエール・ポネルという人らしい。なぜか、監督というクレジットはない。
 オペラに関してはほとんど知らないけど、いやー、すごい作品だ。なんて奇妙でグロテスク。甘美でアダルト。そして、きわめて政治的。これほど強烈で、単純な物語でありながら全てが2重性を持っている作品は他にあまりないかもしれない。「ロミオとジュリエット」とか「ロリータ」がそうだろうか。おぞましくて、美しい。こっちは日本人でもあるわけだから、もっと気持ちは複雑でグジャグジャに近い。
 恋物語としては、よくある話かもしれない。けれども、それはストーリイだけの話で、劇構造としては、観客がほとんど全てを知りつつ進んでいくという形だ。これもわりとあるな。そこに、アメリカと日本という設定が入ることで、決定的に次元が変わる。アメリカ国歌のメロディや日本民謡がからんでくる。しかも、それが全てイタリア語でロウロウと歌われるのだよ。オペラという形式そのものが、そもそもグロテスクなものだなあと思っていたが、この作品は徹底的にそれを追求している。大学時代の劇団の先輩がプッチーニが好きだったと思うのだが、その意味がやっと実感できた。
 今見終わったところなので、まだ整理がつかない。映像は何度もなくてもいいかなと思えるものだったが、そのチープさとかグロテスクさは悪くない。安っぽいところが、どこかフェリーニっぽい感じで。でも、ホントにこのオペラ、スゴイよ。好きとか嫌いとか、いい悪いを超えてる強さがある。もちろん、否定してもいい。ああ、うなされそう。これは芸能だ!

僕の好きな先生

2009年05月06日(水) 23時19分
 忌野という不吉な名前を持つキヨシローが亡くなった。この間の本の整理のとき、「瀕死の双六問屋」という本もまだ読んでいなくて、捨てようとして、キリコに取られてしまったところだった。
 RCをはじめて聞いたのは、「僕の好きな先生」だったと思う。で、私が好きだった先生のことをちょっと書こう。昔はみんなタバコの匂いがしてたな。オヤジも。(そのオヤジも今ではこっちにタバコをやめろとうるさい。)
 と、書こうとして、好きな先生があまりに多いことに気がついた。教師なんて死んでもなりたくないと思っていたが、けっこう先生のこと好きだったんだな。昔の先生たちは、どこか世離れしていて、風流人だった。そして、なぜかたくさんの先生方から反権力の匂いが漂っていた気がする。小学校の美術の先生なんて、いつも好き勝手なことをやっていて半ばヒッピーみたいだったし。小学校のズーズー弁の先生は逆上がりができなくてバカにしていたのだが、ある日ハーモニカをズンチャッチャと伴奏つきで吹いてみせてくれた。中学の理科の先生は、学校に冷蔵庫をたくさん並べて(捨ててあるのを集めて修理していたらしい)なんかの実験を繰り返していた。国語の女の先生は、「文体を見れば誰が書いたかわかってしまうのよ」と言っていた。担任だった先生は、自信の持てる赤いセーター着てたときにダンナと出合ったという話をしてくれた。高校の古典の先生(男)は、「恋は一生に1回しかない」「人生でたった一つの真実は、最後は誰でも死ぬということだけ」という名言を、ラジカセにマイクつないで教室で語ってくれた。高校の美術の先生は油絵で花ばかり描いていて、「どっちがいいと思う?」なんて自分の絵について生徒に聞いていた。大学構内でテントを建てて芝居をするために、学生部と交渉してくれた先生もいた。「エロ本を買うよりも、世の中にはもっと恥ずかしいことが色々とある」と教えてくれた人もいた。エトセトラ、エトセトラ。。。
 みなさん、お世話になりました。
 キヨシローさんには会ったこともなく、いつもカラオケで勝手に歌わせてもらっているばかり。CDも何枚か買っていますが、私のお金のいくらかがキヨシローさんに渡っていることなど、キヨシローさんは知らなかったかもしれません。いつも顔が金子光晴に似ているなあと思ってました。それにしても、あのライブ版は死ぬほど聴いた。

日高敏隆「動物と人間の世界認識」

2009年05月05日(火) 23時21分
 すごく仰々しいタイトルだが、文庫本ですぐ読める、なかばエッセイ。でも、この人の本は、いつも目からウロコだし、なんといっても楽しい〜。
 ここでは、1930年代にドイツのエクスキュルが唱えた「環世界」という概念を元に、ネコとか蝶がいかにニンゲンとは違う認識の枠組みを持っているかということが語られている。その、それぞれが認識する世界を「環世界」(その動物に固有に見えているまわりの世界)というのだが、この認識の枠組みを日高氏は「イリュージョン」という言葉で述べる。岸田秀の「幻想」からヒントを得ての言葉らしい。懐かしいなあ、岸田秀。ニンゲンにとっての世界が唯一ではなく、いかに世界は複数あるかということだ。
 日高氏の文章で興味深いのは、「実感」という言葉だ。紫外線を「見る」ことができる蝶の「実感」は、ニンゲンには決して理解することができない。また、触覚などで感じる「接触化学感覚」は、かなり匂いや味覚に近いかもしれないが、やっぱりその「実感」はわからない。いくらそのことを「知る」ことができたとしても。
 この「実感」というのは、たとえばニンゲンでも個人間では永遠にわからないかもしれないし、個人にとっても過去の実感はすでになかなか味わうことはできない。ただ、なんらかの知覚の枠組みをそれそれが持つことができるからこそ、世界を必要に応じて解釈し、生きることを可能にしていることは確かなわけだ。つまり、生きるための枠組みとして、それぞれのイリュージョンはある。そこには必ず取捨選択があり、全てを認識することなど決してできない。
 ただ、日高氏はしばしばニンゲンの文化的な認識の枠組み、たとえば天動説などを、まるでそれが固定した認識の枠組みであったかのように語るのだが、それは違うと思う。そのように意識してきたのではなく、そのように意識しようとしてきたというべきではないか? また、そのような意識を楽しもうとさえしてきたのだ。そして、それはたぶん動物もそれほど大きく変わらない。つまり、その枠組みはユルイ。だからこそ、なにか異変があれば変更が可能になる。もちろんアタマの固い人はいつもいるけど。
 日高氏は、ニンゲンの考えることは次第に真理に近づいているのかという問いに、こんなことを書いている。「学者、研究者を含めてわれわれは何をしているのだと問われたら、答えはひとつしかないような気がする。それは何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるのだということだ。」これ、賛成。
 私は、このイリュージョンという枠組み、そして、それを知ることの楽しみ、この両面をあわせて「芸能」と言ってもいいかもしれないと考える。つまり、「実感」というのは、たぶん方法論あってこその実感なのだ。この実感を「リアル」とか「リアリティ」に置き換えれば、「リアル」というのは、すぐにアプリオリなもの(前提のないもの)としてとらえられがちだし、とても直感的なことなのだが、じつはその根底には、ある「意欲」とか「意思」があって、それによってリアルさが可能になっているということだ。だから、「意欲」や「意思」(もちろん動物たちは持っている)が失われてしまうと、リアルさも同時に失われてしまう。すると、環世界もたちまち崩れてしまうのである。
 ここから、「死」や、「物質」についての芸能性も、たぶん展開できるはずだ。

渡部雄吉写真集「神楽」

2009年05月05日(火) 0時18分
 この連休はほとんどどこへも行かずに、台本の練り直し。今年の「金魚姫と蛇ダンディー」は4回目の再演になり、ほぼ初演に戻す予定なのだが、読み返せば読み返すほど、もう少しなんとかならないかという思いがつのる。もっと整理したいという思いと、もともとかなり即興的に書いた本なので、さわればさわるほどその即興的な良さが失われるかもしれないという思いが交錯してしまう。
 タイトルは古本屋で見つけた写真集。1988年刊。全国の神楽を撮ったもので、スゴイのだ。15年くらいかけて撮ったそうだ。いろんな面をつけて演じられている。凄味のある面、ユーモラスな面。野外の神楽、室内の神楽。昼の神楽、夜の神楽。東北や長野が特にすごい。それに、愛知や宮崎も。
 神楽は芸能の一番古い形といわれる。「カモメ・ブルース」では能を題材にしていたのだが、世阿弥よりも観阿弥や古い能が好きで、神楽に近いものだったのかもしれない。金蛇の初演の頃は、歌舞伎を意識しはじめたのだが、それから「芸能のみなもと」や「ドリームタイム」ということにとても興味を感じ、そして今回、客席の屋根をなくしたり、照明効果などを切り捨てることで、急速に神楽を意識しはじめている。
 「金魚姫と蛇ダンディー」を、なんとか現代の神楽にできないものか。そのためには、どうしたらいいのだろうかと考えている。
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