豚からのインフルエンザに注意!

2009年04月26日(日) 1時20分
 ヤバイ・・・。鳥インフルエンザでは大騒ぎしたものの、鳥で新型の人インフルエンザへと変異する可能性はあまりないというのが専門家の意見だった。そして、何度も聞いたのは、ただしこれが豚で起きると非常に危ないということだった。豚に起きると、ニンゲンに感染しやすいものに変異する可能性がグンと高まるのだ。
 ヒトからヒトへの感染も起きており、死亡者も出ているようだ。新型の人インフルエンザに変異している可能性もあるが、今のところ死亡率は低いようなので、新型ではない可能性もある。新型であれば免疫がないので、死亡率はもっと重症になる。
 新型インフルエンザが起きれば、必ず世界中でパンデミック(大流行)になる。現代世界では、おそらく2週間もあれば世界中に広がると言われている。それだけ人が行き来しているからだ。
「弱り目にタタリ目」という言葉がある。今、世界同時不況と言われる中で、追い討ちをかけるように、新型インフルエンザが登場してくるようなこともある気がしてならない。
 金融のグローバル化が今回の不況を生んだわけだが、今度は交通のグローバル化がパンデミックの可能性を生む。そのかわり、情報のスピードも非常に早い。ぜひ正しい情報をお願いしたいが、一番怖いのはそこに間違った人為が加わることだ。

 このニュースに比べたら、公園で裸で叫んだなんて、ノドカなもんだ。なんで家宅捜査? なにかの見せしめか? そんな権限が警察にあるのか? 酔って交通事故を起こしても、家宅捜索になるなんて聞いたことがない。せちがらい世間をいいことに、警察はやりたい放題。この事件(?)は道義的退廃とはまったく違う。酔っ払って裸になるのと、それだけで家宅捜査をした警察と、どっちが不健康なんだ? 怒る国会議員にしてもだ。芸能事務所とタレントが反省の言動を取るのは仕方がないにしても、正直なところ、日本の政治・行政はSMAPにまかせた方がずっとマシになるんじゃないか?

 日本の政治はポピュリズムといわれる。つまり、大衆迎合だ。民主党に思想があるわけではなく、自民党の欠点だけをあげつらうことしかできない。もともと反自民という意味しかない。政権交代もあまり夢は描けない。
 日本はポピュリズムに徹することによってしか、展望を持つことはできないだろう。そして、それはすごく正しい結果を生む可能性もある。主義を持たず、皆が本当に望んでいることを形にする。SMAPこそ、それをしている。オンリーワンをめざせばいい。

 酔って裸になり、韓国語で歌う君は、すごく詩的だ。

柱に当る

2009年04月25日(土) 12時05分
 先日、タクシーで事故にあった。乗り込んで発射してほんの数秒後に、駐車場の柱に正面衝突! 運転手さんはけっこう高齢、意識はあったが、顔面血だらけで、たぶん前歯が折れ、ブラブラしていたと思う。私は後部座席にいたのだが、前のヘッドレストに顔をぶつけ、両足は背もたれに食い込んだ。後で見たら中のバネがむき出しに見えていた。足は擦り傷と打ち身。たぶんUターンするために切り返そうとして、ブレーキとアクセルを踏み間違えたんだと思う。タクシーのフロントカバーは折れ曲がっていた。
 病院に行って、レントゲンやMRIを念のために取ったが異常はなく、数日後に首が痛くなったが、これもたいした異常はなかった。今は首もあまり痛まなくなっている。
 すぐにぶつかったのでマシだったと思う。もしぶつからず、大通に飛び出して、歩行者をはねたり車にぶつかっていたらと思うゾっとする。ケガも大したことなかったし、運が良かったともいえる。
 こういうとき、私はすぐ考えてしまう。どこかで頭を打ったりするとちょっと頭が高いんじゃなかろうかとか、鼻が痛くなるとテングになってやしないかとか、腹が痛いとあまりいいこと思ってないなとか、首が痛いとお金の心配をしたりする。そして、結構思い当ったりするのだ。
 で、今回は、オイラ壁にぶち当ってるんだろうか、とも思ったのだが、いやちょっと待てよ、壁じゃなくてあれは柱だよな。柱に当るというのは、なんか大事なことに、本質的なことにぶつかっているんじゃないだろうか、と。そう考えることにした。

顔合せ

2009年04月21日(火) 23時34分
 出演者まだ全員決まらずとも、とりあえずの顔合せ。まずみんなの都合を聞いて日程を決めた。東京の井の頭公演の後に、大阪での公演をやることになった。まだ場所の確保はこれからだが、なんとかしたいと思っている。なんとかなるんじゃないかな。いや、きっとなる。

 どちらもすごくシンプルになる。いろんなことを最大限削る。ほとんど「劇場」もなくなってしまう。金も人手も日程も少ないという逆境を逆手にとって、ないことを美しく見せたい。いろんなものがなくなって、茶の精神のような、野点のようなものになる。きっとその方がもっと祭に近づける。木々を取り込み、天を仰ぎ、風を感じながら、物語がクリアに浮かび上がるはずだ。

 いろんなものを加えた前回の金蛇から、ガラリと初演にほぼ戻す。初演のときはタマシイは「仮説」だったのだが、その「仮説」を大事にしたい。これが最後の金蛇になるはずだ。仮説は仮説のままがいいことに、やっと気がついた。3年かかった。4年も連続して一つの作品をやり続けているなんて、自分でもほんとに呆れるが、おかげで次のステップが見え始めている気がする。

 今回うさぎ師匠を演じてもらう伊藤昌弥さん(劇研「嘘つき」主宰)は、楽市初出演となるのだが、最後まで語り合い、わが家にお泊りになった。強力な人と出会えたかもです。

杉本博司展「歴史の歴史」と片岡球子展

2009年04月19日(日) 23時47分
 昨日は2つの展覧会へ。
 杉本博司の「歴史の歴史」は以前金沢で見たのだが、もう一度ゆっくり観たくて国際美術館へ。一緒に行ったキリコがそのコレクションに驚嘆の嵐。私は念願の海の写真をじっくりと。世界中の静かな海面と水平線だけを撮影したものだが、海は世界中一つの海だと思えた。その当たり前の不思議さが胸を打つ。
 片岡球子はやっぱりすごかった。山がモリモリと盛り上がっていて、人物はギロリと存在感がある。野蛮でおじゃらけている。日本画というより油絵みたいだ。放映されたビデオでは、見開きのスケッチブックにガシガシとマジックで描いていた。去年103歳で亡くなったのだが、ずいぶん遅咲きだったようだ。
 近所の小学校の前を通ったら、桜の枝に白いクモの巣の塊のようなものがあって、その中で何十匹というアメリカシロヒトリのケムシたちがピンピンと元気よくはねまわっていた。なんだかもう夏もすぐそこみたいだ。
 まだ出演者も全員は決まっていないが、明日は最初の顔合せだ。

バタイユ「エロティシズム」(ちくま学芸文庫)続き

2009年04月14日(火) 23時58分
 バタイユを読めば読むほど、その労働観、セックス観、動物観、宗教観、人間観などに対する違和感が大きくなる。

 労働:バタイユでは、労働は理性に属し、非常に意識的(おそらく損得勘定に属するもの)で、性的快楽から最も遠いものとされている。けれども私はそうは思わない。念仏を唱えながらゲタを作り、そこに極楽を見出す話を読んだことがあるが、日本では古代から労働は浄土へ到る道なのだ。じつは性的でさえあると思う。

 セックス:バタイユでは、性的なことははじめから禁じられており、「汚れたこと」だ。けれども、日本ではセックスはあっけらかんとしているし、女性は菩薩に例えられる。たとえ娼婦であっても。私には西洋的ストリッパーは「どれだけ身を落とせるか」を演じているのに対し、日本的ストリッパーは性器を手で拡げながら「どれだけ菩薩になれるか」を演じている。また、性的快楽にガマンや努力、美学やカケヒキは常識だし、ほとんど労働と同じ言葉が用いられている。

 動物:バタイユは人間を「意識」で定義するがゆえに、動物、とくに家畜は価値が低い。人間の美はどれだけ動物的ではないかが問われる。私の中では、動物は人間より気高い。家畜にしても昔から家族もしくはそれ以上に大切にされてきた。動物は神の領域にいるからこそ、ときにバケモノ扱いもされるのだ。

 宗教:バタイユは宗教を、まず「規律」として考えているようだ。私は宗教はまず「許し」と考える。もしくは、「畏怖」である。「規律」は非常に人間的な事情に思えてならない。

 人間観:バタイユは人間を意識的なものと考える。もしくは個人という単位で考える。けれども、私はまず無意識的なものとして考える。動物の方がずっと合理的だ。そして、意識や個人というものは、とても特殊なものだと思うのだ。だからこそ、人間と動物はつがるし、人間とモノとも簡単につながってしまう。意識なんて、人間に特殊なことかもしれないが、たいがいのことは意識的に行ってはいない。人間の病的な部分でもあるし(どこかが痛いときにそこを意識するのだ)、人間だってほとんどの時間は無意識に生きている。むしろ人間は無意識に生きること(動物やモノのように!)を目指してきたのかもしれない。

 今、サドに関するところを読んでいるのだが、サドは牢獄の中で観念的に快楽を妄想したのだと思う。サドは具体的な快楽など知らない。非常に観念的な快楽を求め、善を踏みにじる悪に快楽の根拠を求めようとする。けれども、それは言うなればおぼっちゃんの夢想でしかないのではないか。具体的な快楽から隔絶されたおぼっちゃまの反抗。罪を犯すことだけを快楽とするが、それは観念的快楽でしかない。

 そういうことは現代日本にも溢れている。バタイユのいうエロティシズムを求めて、うまく経験を積むことができない連中が、「侵犯」に走る。小説や映画、芝居でもそういうものは多い。そういう連中は、たいがい人間が嫌いだ。
 実は、私自身そうかもしれず、だから苦しいのだ。

近況報告と男優募集!

2009年04月12日(日) 22時21分
 水曜は寺門氏と会い、進捗状況などを報告。今年もポスターを描いて頂くことに。今年は1色もしくは2色におさえ、ぐっとシックになるかも。全カラーのチラシやポスターが氾濫しているから、逆に目立つかもしれない。それに、予算も安くつくし。これ、重要。
 舞台以外作らない方向(野点:のだて−方式)も喜んでもらえ、ちょっとうれし。気張らずに、軽やかに東京へ行きたいのだ。

 木曜はデカルコ・マリー氏と会う。まだ未決定ながら、出演交渉で大いに飲む。現代における我々の戦略と戦術について大いに語る。芸能についても、仕事についてもね。結局私達は現代社会の中で悪戦苦闘していることは確かなんだから。野点方式にもついては、戦略として共感を得ることができた。

 この土日は主に三味線とギターの練習、そしてカンタンな料理。カンタンな料理が楽しい。いわゆる仕事と言われるものも、本来は芸能だったと思う。ヨーロッパでは労働は苦役みたいなところがあるが、日本では違う。楽しんでやれること、大事に思いながらやれること、自分の感覚を信じられること、そんなことがつくづく重要。楽しめない、大事に思えない、しかたないからやっている、そういう感覚だと人生そのものもそんなもんになってしまう。
 しっかし、三味線もギターもあんましうまくならん。やっぱり基礎が大事なんちゃうかと、メトロノームと共にコツコツやる次第。

 この1ヶ月で部屋の片付けをして、本をドカドカ捨てた。読んでない本もたくさんあったが、いつ読むかわからん本は思い切って捨てた。

 今日は5年ほど前が最後の楽市になった大越氏に久しぶりに会う。再会はいつも楽しい。そういえば、このところなんだかすでに再会が多いぞ。やはり半世紀生きた意義が出てきたのかもしれん。出会いももちろんステキだが、再会っていうのもいいもんだ。

 20日には役者たち中心に顔合せ予定。ここで大阪もやるかどうかを検討する。予算が少なくてすむようになったので、大阪もできるかも、なのである。

 実はまだ男優が3名ほど不足しています。誰かやってみようという人、いませんか? 経験不問!

芸能についてのメモ

2009年04月08日(水) 2時24分
 芸能という言葉を、近代的な芸術や科学や法とは違うもの、美と呪術、性と生、生きるための知恵や方法論、いろんな行為に含まれている霊性と身体性、そんなこと全てが混然一体となってものとして、私は考えたい。

 また、人間にだけ固有のものではなく、植物の花もそうだし、動物の美しさ(蝶の羽!)、宇宙の数学的な法則性も、ひょっとすれば「芸能」ではないかと考える。

 人間に限って言えば、脳の肥大化により過分な知性を獲得した人間は、未来に不安や恐怖を、あるいは快楽への過大な期待を背負うようになった。同時に、本能として方法化されていた生きるすべを見失っていく。

 そこで生きる方法を「形」にしたのが芸能だ。つまり、芸能は禁忌も含むが、あくまでそれは仮定として発見された方法であり、森羅万象(宇宙・環境・動物・生物)から学ぶことで獲得した「全身の知恵」なのだ。頭でっかちの、常に不安や恐怖を抱える、未熟児としての人類が生き延びたのは、これを学習したからだ。

 だからこそ、芸能は人類だけに固有のものではない。むしろ、芸能を一番見失う可能性があるのが人類だ。芸能の意識を失えば、「頭でっかちの、常に不安や恐怖を抱える、未熟児としての人類」に一瞬で戻ってしまう。動物からはぐれてしまう。動物(生物)たちは確信を持って芸能を生きているからだ。

 「埋葬」は芸能のもっとも原初的なものだ。貝塚も埋葬だろう。その延長として同胞の埋葬もある。「頭でっかちの、常に不安や恐怖を抱える、未熟児としての人類」から「個(自意識)」は生まれたが、じつはこれは非常に邪魔な、病気のようなものだ。芸能の多くは、それを打ち消す働きを持つ。もしくは、和解させる働きを持つ。

 芸能の意味は、歴史によって変わってきた。芸能から言語や社会システムや権力が生まれたし、労働や科学や合理主義や法、政治や貨幣経済も生まれた。同時に人間中心の考えも育て、芸能が本来持っていた意味を消してきたかもしれない。

バタイユ「エロティシズム」を読みながら考える

2009年04月02日(木) 22時55分
 古典的名著だが、まだ読んでいなかったことが恥ずかしい。しかし、今になって読んでいることに感謝したい。まだ読み始めたばかりで、1/4というところ。
 私にとって最も切実なテーマを扱っているのだが、私の考えはバタイユと全く違うのだ。違いがわかるようになってはじめて読めたことは、本当に幸運だし、私の芸能という考えがより明確になる気がする。
 傲慢かもしれないが、こう思う。バタイユの前提はヨーロッパのキリスト教的世界を根底から揺るがしているかもしれないが、それでもまだ十分に西洋的で、それが限界になっている。バタイユの言う「人間性」や「労働」、「禁止」や「吐き気」など、私には全て西洋的近代の中での言葉に思えてならない。
 その典型は労働感と性に対する考えだ。バタイユは労働を理性によって飢えを解決するためになされている苦役(俗)として考えている。それは奴隷の労働感であり、とても西洋的、近代的なものだ。日本では、労働は本来神聖な遊びでもありうる。性行為との類似性さえあるのだ。労働においても禁止はたくさんあるが、それを超えたところに新しい労働(の喜び)が生まれる。逆に、性が快楽を得るための労働として考えることも可能だし、性はけっこう俗なものかもしれない。
 バタイユの主張とは逆に、むしろ、理性と暴力はもっとも深く結びついているだ。暴力はつねに論理を背景とし、権力を求める。サドほど理性的な、頭でっかちな思想家はいない。理性とは、そもそも動物の警戒心、恐怖を感じる心から生まれた、と私は思うからだ。その恐怖を克服したのは理性ではなく、芸能である。
「禁止と侵犯」は、動物にもある。檻に入れられた動物はそこを出ようとする。戦争も虐殺も、動物にだってある。「禁止と侵犯」という言葉は衝撃的だが、人間においては「権力と革命」となるし、あるところでは、「禁止」は「方法化=芸能化」だともいえる。つまり、ダンスの振り付けであり、芸能だ。
 近親相姦についても、性が暴力や侵犯という前提で考察されているが、私には性が世界(宇宙)とのエロティックな関係構築(それが交換とか贈与とかの意味だ)という前提であるからこそ、近親を避けたと思える。つまり、性行為は世界(宇宙)への仲間入りになるが、近親では閉じてしまい、恐怖の肯定的な裏返し(これが芸能!)であるタマシイ(霊的世界)への仲間入りができない。ただし、権力によってあらかじめ近親が禁じられている場合(近代がそうだ)は、逆に近親相姦が、むしろ世界(宇宙)との結びつきになりうることがある。
 人間も含め、個体が基本的にバラバラ(不連続)であるという前提も違う。基本的には自他は連続しているというのがむしろ私の前提であり、理性や言語によって、それらはバラバラに意識されるようになってきたというのが事実ではないか。でなければ、贈与における負債意識など生まれない。理性が勝つものだけが、損得を優先できる。
 重要であるのは(これが芸能のキーポイントだと思う)、性的関係の利用であり、近親相姦的感覚の利用だ(フロイト?)。暴力の利用であり、理性(恐怖)の利用でもある。
 この本を読みながら、タマシイ(霊性)というものへの感受性の重大さが、何度も思えてならない。いつもなら、線を引いたり書き込みをしたところは頁を折っておくのだが、この本ではほとんど毎頁。

桜の季節

2009年04月02日(木) 0時22分
 先週の博多では、ほぼ満開の桜だった。今日は、浜松でも満開だった。うちの近所では、咲き始めたところだ。
 毎年、この時期になると、つまり、桜が満開に咲きはじめると、ということだが、心乱れる。

 花見を期待して気が騒いだり、浮き立ったりするのでもない。なんだろう。千々に乱れる、文字通りそんな心理状態になる。毎年だ。20歳くらいからずっと、そんな感触がある。
 ちょうどこの時期に、別れと出会いを繰り返してきたからなのか。それもあるかもしれない。花の一瞬の艶やかさに気持ちが焦るのか。それもあるかもしれない。どこか焦るような気分になっている。桜が咲くということに、すごく期待している一方で、べつに何か特別なことが起きるわけではないのだ。ホルモンバランス? ちょうどこの時期、私がもう一つ大好きな柳が美しい時期なのだが、柳にはそういう気持ちにはならない。
 年々、この気分は大きくなっていて、桜を見た回数にもよるような気がする。なにかが毎年過ぎ去っていくような、つかみ切れない季節。「命短し恋せよ乙女」という言葉もあるが、ひょっとして「過ぎ去りし青春」なんていう言葉を、私は感じているのか?
 私の中にはオトメがいて、しょっちゅうすごくセンチメンタルになってしまうのだが、そのせいなのか。サクラ、サクラン。。。

 以前、「桜の森」という芝居をしたことがあって、そのときに「花見と桜」という新書本を読んだ。花見という、無礼講で集まって飲んだり食べたりする文化は、今も日本独自のものらしい。
 ほとんど枯れ木のような枝に、ほんのり薄紅色の花が一斉に咲くのは、春の奇跡だ。
 ほとんど実体のないワタアメ。くすぐるような耳元での甘い囁き。壊れやすく、やわらかい感触。目で感じる匂い。桜餅も大好き。Black StoneのCherryを吸っている。

 食糧を得ることが難しかった冬が終わり、やっとこの時期動物性たんぱく質に恵まれ、性欲が蘇ってきて、山の桜の花を目印に若者たちが集まってくる。そんなことが昔あったかもしれないとも思う。
 秋の収穫の後に仕込まれた酒が、雑菌の繁殖を許さない冬に熟成され、この時期にやっとふるまわれるということもあったかもしれない。
 陶酔に焦り、陶酔してしまえば記憶に残らないことに焦るのか。なにかが始まることにおびえるのか。とにかく、とにかく。
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