どんどんなくなるラフレシアと、大阪公演の可能性

2009年03月27日(金) 23時45分
 まず、ちょっとお知らせ。キリコがブログに書いていたが、5月連休に中之島まつりの中で寸劇をやる予定だったのだが、やっぱりやめた。秋の公演に力を集中するためだ。いろいろとアイデアは考えていたのだが、5月までそれに頭がいっぱいになるのはヤバイと判断。結局全力になってしまうから。

 さて、その秋の東京公演では、ラフレシアの客席の屋根もなくしてしまおうと思っている、ということを以前書いた。お客さん、雨降ったらゴメン。でも、これで建て込みはかなり楽になるし、おそらく建築ともみなされず、そして何よりも、私の理想とする劇場に近づくと思ったのだ。
 ところが、三鷹市建築課の判断としては、たとえ屋根をなくしても、階段状の観客席がある限り、やはり「建築物」とみなされるというのだ。
 「建築物」とみなされるとどういうことが起きるかというと、きちんとした図面を作成し、「構造計算」(あのアネハ事件のあとできびしくなった!)をして、風や火災に対しての強度をしっかりさせなくてはならない。それを提出した後に許可が出たら、消防署の指導により、「非常口」の表示や、非常ベル、消火器の設置をしなくてはならない。全ての経費で50〜60万円以上かかるのだ。
 ラフレシアは最初の「ラフレシア円形劇場祭」で、屋根ありで3ヶ月、強風吹きまくる南港でビクともしなかったし、その後、何度も消防署の検査も受けて問題なかったのにね。しかも、今回は屋根をなくしたし。しかも、劇場にはスプリンクラー(!)がついてるし。
 60万円といえば、3000円のチケットとすれば、200人分である。観客見込みは400人で、これでも入るかどうかわからない数だ。400人で割ると、一人1500円。チケット代の半分は消防関係や建築関係に流れ、私達は大赤字を負担しろというわけかい。
 ということで、今度はラフレシアから、客席もなくすことにした。いや、客席はあるのだが、「観客席」は作らない。あの段々の客席は、お金をかけて特注で作ったものなのだが、やめてしまう。劇場の壁も作らずに、劇場を作る場そのものを、広く布で囲んでしまう。運動場の柵みたいに。
 ほとんど舞台だけが残った。これで大阪から持っていくものはすごく減った。建て込みはウソみたいにカンタンだ。そして、実はさらに理想に近づいたような気がしてスガスガしくなった。椅子を並べるか、桟敷になるか、それは未定。さあ、これでどうなるか、結果はまだわからない。これでもまだ「特設野外円形劇場ラフレシア」かな? 照明も、投光器だけにすることにしたし、ホントは音響だってシンプルでいいと思っている。

 雨が降ったらどうなるか? それはまた考えます。

 それで、これはまだわからないのだが、建て込みが楽になり、予算が激減したことで、ひょっとすると大阪公演もできるかもしれない。さて、どうしようか。

ラフカディオ・ハーン「怪談・奇談」

2009年03月26日(木) 22時03分
 言わずとも知れたハーン。角川文庫でダイジェストしたもの。田代三千稔訳。どことなくユーモアがあって、何度読んでも大好きだ。ハーンは日本に来て、まだタマシイというものが存在していることを喜んでいる気がする。夏目漱石の夢十夜とか、ボルヘスとか、柳田國男の遠野物語とか、星新一なんかにも通じるな。こういう世界は短くしか書けないのかもしれない。
 私達はもうこういう世界とは別の世界にいるのか。じつは、この中にも、素直にタマシイを信じられない話が少しだけある。
「常識」という作品がある。あるお坊さんが、夜になると寺に菩薩がやってくるから見においでと、猟師を誘う。実際に菩薩が姿を現すのだが、猟師は矢で射ってしまう。猟師が言うには、自分のようないつも殺生をしている者の前に、和尚さんと同じように菩薩が現れるはずがない、あれはニセモノだ。事実、それはタヌキが化けていたという話。
 「雉子のはなし」。すでに亡くなっている舅の夢を妻が見る。夢の中で舅は、「もうすぐわしのピンチが来るから助けて欲しい」という。翌朝、妻はその夢を夫に語るが、二人とも何のことかわからない。その日、夫が留守の間に、猟師たちに追われてキジが逃げ込んでくる。キジをおやじさんだと確信した妻は、キジを匿う。夫が帰ってキジを見ると、確かにおやじさんと同じ片目で、逃げもしない。夫は気味悪いうす笑いをうかべて、「おやじさんは今鳥だから、猟師なんかにつかまるよりも、せがれたちに食われたほうがいいと言っている」と言って、いきなりキジを殺してしまう。ショックを受けた妻は、逃げ出す。夫は親不幸を責められ、村を追放されてしまう。
 現代の私たちであれば、どちらの判断をするだろうか。

マルセル・モース「贈与論」

2009年03月26日(木) 0時24分
 やっと読めた。少し前は絶版になっていて、ある人が国立図書館でコピーしてくれたのだが、200枚以上あるコピーを読むことができなかった。その後、復刻版が去年出て早速購入、だけど途中までで挫折。今年になってあろうことかちくま文庫から新訳が出て、これが読みやすくて、やっと読めたのだ。
 世界中のいわゆる未開民族で、贈り物交換の文化がある。ポトラッチという、相手に対して誇示するかのように、互いに財産を海に投げ捨てたり、壊してしまうという儀式もあって、これも贈り物交換の原型とされている。なぜこのような交換が起きるのか、それは現代の文化や法、経済とどのような関係があるかを述べた人類学の古典だ。バタイユにも大きな影響を与えたといわれる。
 結論から言えば、モノにはタマシイ(霊・精霊・人格)が宿っており、そこには贈り主のタマシイも含まれている。だから、贈られた者はそのタマシイを重荷に感じて返礼をせずにはいられないのだ。もし返礼をしなければ、恥であり、不幸になってしまう。そのような文化は世界中の至るところにあり、それがその後の法や、現代の経済行為の原型になっているという。だから、現代において、いくら個人的な功利主義、利益主義の世界になっても、過剰な贈り主(労働者)はきちんとした返礼がないことを怒るし、逆に、少しずつ改善されつつある社会保障制度などは、このような返礼の感覚に基づいている。
 贈与は、単にモノを贈ることではない。贈られたモノには呪いや祝福がついている。英語のgiftには、「贈り物」という意味と「毒」という意味がある(呪うと祝うは同じことの表裏だ)。つまり、贈る側は相手に対して力を持つことができる。贈られた者は負債を負う。一方、モノを贈るということは、自らに幸運を招き寄せることにもなる。手放したモノは、何らかの形で、必ず自分に帰ってくると信じられているからだ。また、贈与は平和を作り出す。槍を捨てさせ、饗宴を作る。それを受け取るのを断るということは、つまり戦争を宣言することと同じことだ。
 これらの贈りあいによって、様々なモノが広い範囲に行き渡っていく。財は蓄積され、分配され、ドンと消費されたり、関係性ができたり、平和や幸福感が生まれたりすることになる。物々交換などという消費目的、利益目的の行為ではなく、様々な意味(タマシイや呪いや歓びや名誉など)にくるまれた(正確にはそのものでもある)モノを贈りあうことこそが、原初的な経済だった。
 私の言い方で言えば、贈るという行為はすでに芸能だったということだ。モースも述べているが、贈るというのはたんに経済だけではなく、そこにはダンスや唄、装飾品、料理、美や宗教、政治、道徳、エロスといったものがギッシリと詰まっていて、分けることなどできない。人間のもっとも基底にある行為が、「プレゼント」なのだ。
 18世紀頃の西洋から、現在の意味での経済が始まり、個人主義や功利主義が生まれてきたとモースは考えているようだ。もちろん、地下水脈としての贈与の芸能性は今でもあるのだが、それは今とても薄まっているだろう。モノのタマシイは法的には認められておらず、ヒトだけが語られるようになっている。貨幣は呪術的意味を失っている。変動相場性になって、貨幣の護符としての性格(貨幣は印されていることで貨幣なのだという)さえ剥ぎ取られている。貨幣そのものは不安定な国家幻想でしかない。「お金を払う」ということも、きっと「お金によって受け取ったモノの魔を祓う」という意味だったのだと確信。
 モースは、この本で使った言葉、プレゼント、贈り物、贈与といった用語は正確ではなく、他に適当な言葉がなかったから仕方なく使ったという。自由と義務、鷹揚さ、気前のよさ、贅沢や倹約、利益、功利など、こういう法的な、経済的な概念は全て一度溶鉱炉にでも入れて溶かしてしった方がいいかもしれないと述べている。
 おそらく、支配とか社会階層とか、富とか権力とか、そのような言葉や概念も、太古からはすっかり意味を変えてしまっているのだろう。意味という言葉そのものもだ。全ての意味は「言葉の意味」という程度になりつつあり、「本当の意味」はどんどん見えなく、感じられなくなっているのかもしれない。(まあ、だからこそこんな本も書くことができるようになったし、私なんかがこんなことを考えることができてもいるのかもしれない。)
 例えば、結婚式なんてお金がかかるからやめておこうとか、お祝い金ばかり払わされて損しているような気分になるという現代。お金そのものには価値がないという言葉が常識化している現代。お金を払えば当然のようにモノを手に入れられると思っている現代。買ったものがいらなくなればポイと捨てられる現代。誰が作ったのか、前の持ち主が誰なのか気にしない現代。できれば借金返さずにすましたい現代。死んだら終わりと思っている現代。
 あらゆるイキモノやモノに精霊が宿っていると感じていた人類からは信じられないような感覚を私たちは持っている。ここから「バレなければウソをついてもいい」とか「うまくやって金を稼ごう」とか「役に立たないものはいらない」という考えはすぐなのだ。いや、私自身そういう感覚を持っている。
 これは、意味の廃墟ではないのか?

清水きよしさんのマイムについて再び考える

2009年03月24日(火) 22時00分
 清水さんのマイムのことをわかりやすいと書いたが、文章で喩えるなら、マイムの文体は決してわかりやすい散文ではない。詩の文体だ。わかりにくいことをわざわざやっている。今何をしていのか、多少は観客が考えないとわからない。観察して考えて、あれは風船かな、とかわかるようになっている。
 この「能動的にわかる」ということが大事で、その積み重ねが大きな共感につながるような気がする。決してわかりやすい文体で書かれた文章が感動的であるわけではないように。
 もちろんマイムは言葉を使わない。清水さんの場合、息の音さえ消しているようだ。いつ息をしているんだろう。表情も豊かではあるが、曖昧な表情はしない。一つ一つの表情が仮面のように明確だ。視線もどこを見ているかはっきりしている。
 つまり、自分自身をきれいに消している。清水さんはマイムの合間に、やさしく「地」でお喋りをする。そのときは彼の人格がよくわかるのだが、ひとたびマイムがはじまると、さっとその人格は消えて、役に変わるのが鮮やかだ。最初のポーズがその役を明確に示す。

 こういうマイムの文体や役作りは、つまり「仮託」といってもいい。なんらかの形式に託しているわけで、自分を自分として出すのではない。これは芸能が持っている性格だ。音楽が一番典型的で、抽象性が高い。模様などの抽象柄のアートや、機能はあるとしても建築もそうだし、ダンスもけっこうそうだ。小説より詩の方がそうだ。劇はかなり抽象性が低くなる。それでも、小説も劇もある程度の抽象性は持っている。
 マイム一般が省いているものとして、言葉、(役の)衣裳やメイク、舞台装置、小道具、相手役があるが、清水さんはその上、息の音、あいまいな動きや表情、理解しにくい行為や展開、途中の時間なども省いている。削り取られた分だけ、残りの行為が「わかる」という一点に集中していく。そこに生まれる共感は大きい。

 ピアノの生演奏は、残された数少ないものだ。衣裳にしても、ポケット、帽子、靴やソデなどは最大限に利用される。もちろん一番効果的に使われるのは、からだの動きだが。
 それから、構成のシンプルさもある。見えない道具や人物(風船、自転車、ジョーロ、相手役など)が一つの作品で繰り返し使われることによって、次第に大きな意味を持ち始める。これは私も小道具について気をつけていることだ。それらはちょうど音楽の一つのフレーズのようなもので、同じ行為とも重なって(ジョーロで水をやる、など)、何度もそのフレーズが使われることにより、全体の曲調ができあがり、様々な思いや意味が重層的になる。シンプルだからこそ、より奥深いものが現れるのだ。
 それらはモチーフ(フレーズ)として明確に意識されていて、極力少ないモチーフで一つの作品が構成される。まるで唄のように、aAbBというように。その中で、一つのフレーズの組み立てはもちろん、その繰り返しの中で、それぞれのフレーズの向いている方向、高さ、動きの速度などがそれぞれ計算されているので、繰り返されるたびに新しい意味を生み出す。
 また、そのフレーズやモチーフは、少ないからこそ、それぞれが対立項になっていたり、補助的なものになっていたりする。主人公と敵役、脇役のABみたいに。だからそれぞれの印象がすごくくっきりとして印象深い。

 こういうことは、なかなかできない。ついつい「あれもこれも」になってしまうのだ。「何をやるか」以上に、「何を省くか」は重要なのだ。何かを省くことで、残ったものの印象が変わってくるからだ。
 たぶん、作っていく中では、非常に広く、自分自身も含めて取材して材料を集め、また、共同作業の中でもそれをやって、それを作品として組み立てていく中で、すごくたくさんのものをきっぱりと捨てることによって、残ったものに強い思いを乗せているのだと思う。

 ウーム、書いてみると、当たり前のことばかりな気もするのだが。。。

 こうして出来上がったものは、作者の手をはなれて、一つの「芸能」になるのかもしれない。

清水きよし氏マイム再び

2009年03月22日(日) 21時33分
 今日、枚方で再度清水きよし氏のマイムを見る。一昨日見た「風船」と「ひまわり」。2度目にして、より構成の緻密さが理解できる。独特の登場の仕方。客とのやり取りの細かな気遣い。客席が大きいこともあって、少しテンポを早く、より単純にし、足元が見えにくいので、高い位置での演技をクローズアップしている。2度目だと、その物語の意味が様々に解釈できることがわかる。例えば、「ひまわり」ではひまわりを育てる少年と、育っていくひまわりが演じられるが、その両者がじつは重ねて描かれている。少年が眠っている間、見ていない間に成長するひまわりは、少年もじつは同じなのだ。ひわまりは実は太陽を追いかけることはなく、ずっとほぼ東を向いているのだが、もしかすると、一日ずつ大きくなるからひまわりと言うのかもしれない。つまり、少年のひまわりへの思いは、また、清水氏の少年への思いにも重なる。それは、人類の世代という大きなテーマにもつながる。
 新しく見せて頂いた「凧揚げ」も、すごい作品だった。内容はいたってシンプルで、凧を苦労して揚げる少年の話。けれども、その苦労、工夫、努力、必死さ、アクシデント、それを跳ね返す気持ち、そしてラスト・・・凧揚げ一つのほんの短い時間で、まるで人生そのものを見ているようだ。凧揚げを仕事として見ることもできるし、恋愛と見ることさえできる。また不覚にも涙、涙。終わっても思い出すだけで涙が滲んでくる。私達は子供の頃からこんなふうに一生懸命生きていたのだ。
 凧の糸を繰り出すときの手のブルブル感・・・私の場合はカマボコの板だったが、当時の手の感触をまざまざと思い出した。また、上空に凧が揚がるにつれての風の力の大きさも、この体が覚えている。マイムがこんなにも体の記憶を呼び覚ますものだとは。おそらく作っていく中で、記憶や観察を総動員して、タイムスリップするように、憑依するようにしていろんなことを拾っていることだろう。匂い、景色、肌の感覚、筋肉、味、目にしみる風、指の痛み、それらが全てある思いの中、ある行為へと集約される。マイムの技術によって、ダンスのような、彫刻のようなフォルムになる。思いのない行為など一つもない。そして、感覚の裏付けのない思いも、一つもない。だから、何一つムダがない。
 清水氏のマイムの展開は、終わった後、ほとんど全てを思い出すことができる(ような気がする・・・)。こうなってああなってこうなったよな。それで、あのときはこんなふうに演じ、そのときはこんなふうに演じていたと、かなり具体的に思い起こせる。それだけ印象深く、強い構成とフォルムになっているということだろう。同時に、物語というものの元型(ユングの言葉で、人類が共通して持っている物語の典型の形)が追い求められていて、私たちの心の奥にある、人類共通の何かを掘り起こすことに成功している。ラストは意外ではなく、やっぱりなあという決着がきっと多いのだが、それがせつなくもあり、また、一つのハッピーエンドにも感じられる。つまり、様々な解釈は、各人が心に抱いているテーマに従って現れるようにできている。おそらく、これらの作品は人類学的な研究対象にさえなり得るだろう。例えば、「ももたろう」や「かちかち山」のように。それは私の理想でもある。芸能の一つの理想のスタイルなのだ。
 そんな清水きよし氏が、ひょっとすると、井の頭公園の東京公演に来てくれるかもしれないと言う。ぜひ、見てもらいたい! ガムバラねばねば〜!

歴史の進歩についての夢想

2009年03月21日(土) 23時51分
 こんなことを考えてみた。

 休日といえば、昔は「盆と暮れ」しかなかったが、今は週休2日も多い。それでは、週に5日働くより、週に3日働く方が儲かったり、一日8時間働くより、一日4時間働く方が儲かる、などというのは、ずいぶん考えが甘いだろうか?

スローライフを楽しみ、いろんなことに手を出したり、食べることや暮らすこと、家族や友人を大切にしながら、その中で短い時間の中で丁寧に、多少気楽に仕事をし、それでも競争に勝ったり(まあ、勝たなくても充分生き残ったり)するようなことがあり得るというのは、考えが甘いだろうか?

 ひょっとすると、いつかは、そんなこともあり得るような気もするのだ。

 今までの社会では、一番頑張った人が一番高い評価を受けて、それなりのものを勝ち取ってきていた。やっぱりどんな社会にも競争というものはある。資本主義社会では、一番良い製品を一番安く作れた会社がトップになった。トップの一人勝ちということもある。そのためには、かなり頑張らなくちゃならなくて、他人の何倍も頑張らないといけない。場合によっては、私生活など犠牲にしなくてはならぬ。ほんとに寝る間も惜しむような生活をしている人がたくさんいる。「一流」と呼ばれる人たちはみんなそうなんだよ、とも言われる。
 受験勉強だって、もう色んなことを犠牲にして頑張って、その結果、「いい学校」に入ることができる。「命がけ」であること、人生を賭けて打ち込むこと、それもきっと楽しいことに違いない。ただ、誰もがそうではない。いろんな事情があって、自分の仕事にあまり時間を使えない人も多いだろう。学歴に頑張れなかった人たちもいる。そして、そういう人たちは「負け組み」と呼ばれたりする。

 けれども、それが「結果」だろうか?
果たしてこれからもずっとそうだろうか? 
 「一流」と呼ばれる人たちは、みんながみんな、そこまで頑張ったんだろうか?

 頑張ってやった仕事がじつはうまく行っていないなんていうことも、世の中にはたくさんある。体を壊してしまったり、家庭が崩壊したり、環境を破壊していたり、なにかを誤魔化していたり、誰かを大いに傷つけていたりして、思わぬしっぺ返しを受けてしまうようなこともあるだろう。非常に頑張ってトップの座をつかんだであろう「吉兆」なんかそうかもしれない。

 あるいは、安くて良いものを大量に作っても、ほんのわずかの差でライバルに座を奪われてしまったり、あっという間にブームが去って大量の在庫をかかえてしまったりすることがある。今回の世界的な不況にしても、夜も寝ないで編み出した金融商品や取引の結果かもしれない。この不況で今まで頑張った分が全ておじゃんになってしまった人たちだっているだろう。

 安売りのスーパーに比べて、コンビニエンスストアの方が売上を伸ばしつつあることにしても、IT化による商品配置や流通にもよるだろうが、消費者により近い小売店の復活の兆しかもしれない。CDの売上は落ちているが、ステージの売上は増えているという。これもそうだ。

 特殊な技能を持った「プロフェッショナル」よりも、日常的な経験や知恵を豊富に持っている「普通の人」の方が、ずっと高い評価を得るなんていう可能性はないだろうか。「民主化」というのは、じつは世界の大きな歴史としては、そういう流れではないのか?

 こういう考えは甘いかもしれない。けれども、今までは甘かった、というだけかもしれない。いつか、近い将来に、少しずつそういう世界になっていく可能性はある。小さなアートショップやリサイクルショップが増えていたり、商品のコモディティ化の中できめ細かなサービスが受けていたり、ボランティアをする人が増えていたり、地酒ブームや自然食品ブームや健康志向だったり、スローフードやスローライフ、ワークライフバランスなどの言葉が浸透してきたり、自宅でちょっとした仕事をするような人が増えていたり、そんなところにチラホラ感じる。
 度重なる不祥事や、大きな事故、いじめ問題や環境破壊、花粉症を引き起こしている今までの森林政策なども、競争に勝とうとして、国家的な規模で頑張った結果ではないのか。

 これは世界の進歩を止めることではなく、とても大きな歴史の次の一歩かもしれないのだ。

清水きよし「マイム・ファンタジア」ブラボー!

2009年03月21日(土) 0時25分
 今日は本当にいいものを見せて頂いた。清水きよしさんのパントマイム。梅田クロスロードでたった1日限りのステージだったのだ。
 清水さんのマイムはとてもシンプルだ。派手な芸をやらない。ストーリイも、ていねいだが、決して変わったものではなく、むしろほとんど思ったとおりの展開だ。即興的なピアノの生演奏はせつなく甘い。けれども、なぜこんなに涙が溢れてしまうのだろう。
 いつのまにかマイムであることすら忘れ、その世界に連れ込まれていた。演じられている少年のさりげない気持ちが、痛いほどわかってしまった。
 終わった後に、ピアノの人が言っていたこと。昔はもっと色んなピアノを弾いていたが、演奏を前に出すのではなく、感じてもらいたいことを大切にすることを教わったという。きっとこのマイムもそういうふうに作りこまれているんだろう。派手なことや、変わったことを極力おさえて、観るものの心にさりげなく入ってくる。そして、私はやられてしまった。終演後の打ち上げに残り、少しだけお話をさせて頂いた。すごくステキな人だった。握手もさせていただく。こういう人だからこそ、あのマイムができるのかもしれない。私よりずっと年上だと思うのだが、動きはやわらかく、かなり激しくしかも長かった(いくつもあった)のに、それほど汗をかくでもない。

 ・・・自分の芝居の作り方を考えされられた。

 じつは、明後日の22日、清水きよしさんのマイムをもう一度見ることができる。しかも無料。枚方のラポールひらかたで、「こころとの出会い」という精神疾患についてもっと理解してもらおうというイベントがあり、その中でマイムをされるのだ。今回の梅田でのステージはこの枚方が決まった後に設けられたらしいので、むしろ枚方の方がメインかもしれない。(ラポール枚方は京阪枚方市駅北口すぐ。4階大研修室。イベントの開始は13時。)

 この清水きよしさんは、5年前に「耳水」に出演してくれた北川チコさんが、昔から一度見せたいとずっと言ってくれていた人。今回もチコさんから案内をもらった。5年たってやっと観ることができて本当にラッキーだった。チコさんに感謝! 枚方ではチコさんのマイムも見れる。

映画「チェインジリング」

2009年03月19日(木) 1時48分
 長崎駅のすぐそばに、夜遅くまでやっている映画村(何て言うんだっけ?)があって、出張したときによくそこで映画を見る。客はいつも少ない。今回はクリンスト・イーストウッド(監督)のこの映画。ヘビーな映画なんだけど、よかったー。イーストウッドの映画にはハズレがないかも。冒頭の映像と音楽だけですっと入っていける。ウキウキハッピーな映画じゃない。でもしっとりと、じっくり見れてスバラシイ。
 ラストの字幕で、イーストウッドが「音楽」ともなっていてびっくり。ブルースの映画を撮ったりしている位だからなあ。もちろん、作曲や演奏じゃないのかもしれないが。映画そのものが音楽的なんだろうか。音楽が記憶に残るわけじゃなくて、役者の涙顔とかが印象的なのは、後味としては少し薄いのか。
 たぶん一番信頼できるのは、彼の揺るがない立脚点なんだろう。これは役者でもそう思う。荒野の用心棒からダーティハリーまで、立っている場所が信用できるのかもしれない。色んな映画、どちらかというと変わった映画が好きな方なのだが、いつしかこういう映画が好きだと言えるようになっちまった。年のせい? ドカンとかギュイーンとかいう衝撃音もなく、すごい速さで動くカメラもない。それがうれしい。
 パンフレットをチラチラ読むと、オーディションはあまりせずにビデオですぐに決めてしまうらしい。それと、少ないテイクで撮ってしまうらしい。そういうところもなぜかうなずける。それでいて、役者がすごく自然で生々しい。だからこそ、かも。そして、だからこそ、映画なのか。こういう映画を見ると、舞台はどれだけ人工的かと思う。ただし、他のほとんどの映画については、あまりに人工的で舞台の方が生々しく思うのだ。

 大岡昇平「野火」。風邪で体調崩しつつ読んで、強迫的に面白かった(最後は人肉を食う)が、フィクションということを考えると、もっと面白いものはありそう。スタンダールやカミュを読みたくなる。プルースト「失われた時を求めて 第一巻 スワン家の方へ」。あまりに甘美な文章。まるで源氏物語。時間を置いてから続きを読む予定。ベルグソン「時間と自由」。主観的な感覚を客観的な尺度で測るのはおかしいという論だが、理屈ばかりでウンザリ。それが哲学か。そうそう、朝田次郎「中原の虹」はダメだった。4巻もあるくせに、4巻目で作者はたぶん放棄したんだろう。まるでマンガの連載打ち切り。

読書いくつか

2009年03月08日(日) 22時25分
 久しぶりの書き込み。このところ読んだ本のことを書こう。
 「利休にたずねよ:」(山本 兼一)は、最近和文化に急速に惹かれつつあるので興味深く読んだ。ただし、「へうげもの」(山田芳裕)の方が数倍奥深い。こちらはモーニングでチョボチョボと連載の漫画だが、美学と権力の闘争というテーマなんてなかなか描かれてこなかったはずだ。会う人ごとにオススメ。
もう一つ最近の小説「食道かたつむり」(小川糸)は、心優しい話。何年もかけて推敲したというテレビ番組を見て、読んでしまった。それにしては、あっちこっちホコロビがあるような。。。
 岩波新書の「森林と人間―ある都市近郊林の物語」(石城謙吉)は感動的で、考えさせられる。「木を植えた男」という絵本があったが、北海道でまさにそんな森の再生が何年もかけて行われていた。これは旭山動物園にも通じるな。都市再生というテーマに取り組んでいる人たちもたくさんいるが、成功しているとは思えない。森を滅ぼしたのは明治以来の林業だった。そのマニュアルは無反省に続いていた。マニュアルを捨てるところからしか創造はない。
 ドナルド・キーン「日本人の美意識」。日本人が書くよりも深い日本文化への視点。それは西洋との比較があるためか。特に、「日清戦争と日本文化」は、いかに日本人が中国文化を蔑むようになったかが分析されていて耳が痛い。西欧化と同時に、国粋主義の高揚と中国文化(それまでは必須の教養だった)の無視。漱石の頃までは、漢文も外国語も、今よりもっと重要だった。
 鶴見俊輔「限界芸術論」は思った以上に刺激的だった。限界芸術という言葉は疑問だが、「選ばれた芸術家が作り、エリートが鑑賞するための芸術」、「プロが作り、大衆が楽しむ大衆芸術」、に対して、「人民が生活の中で自ら作り、楽しむのが限界芸術」だ。昔話や盆踊り、民芸品、鼻歌とか。その研究者として柳田國男、批評家として柳宋悦、作家として宮沢賢治が語られる。「限界芸術の作家」というのは論理的に矛盾していないか。小劇場なども限界芸術かも。
 それにしても多少ならずショックだったのは宮沢賢治の博学だ。短い人生であれだけの活動をしながら、マルクスやクロポトキン、プハーリンも読んでいる。シュペングラーやヴィンケルマン、柳田國男やお経も。チャンバラ小説も読んでるけど。
 中国へのせめてもの敬意として、浅田次郎「中原の虹」、あと少しで読み終わる(全4巻)。たぶん作者もそういう思いで書いたんだろう。ジワジワと伝わってくる。日本ではニンニクの匂いが嫌われるが、それが差別意識と関係があるかもと言ったのはキリコ。その差別意識は、日清戦争あたりに根がありそうだ。
 利休は国家権力に美学を利用されつつ、そこから身をはがすようにして茶の美学を作り上げていく。一方、秀吉は権力外からの参入だったからこそ、大陸へケンカを売ることができたのかもしれない。権力について考えることなしに、美学を考えることはできないとあらためて思う。「利休にたずねよ」もそういう話だったのかな?
 最後に、「楽しい昆虫料理」(内山昭一)は写真を見るだけでも楽しい、ステキな虫料理の本。いつか作ってみたいが、食えないかもしれん。一人ではくじけそうなので、どこかに先輩はいないもんかな。
 いや、もっとカタイ本をこそガリガリと食わねばと思う今日このごろだ!
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