「出会い」の年だった

2008年12月30日(火) 23時24分
今年もあと一日。今年のキーワードは「出会い」であった。そして、ナント多くの出会いに恵まれた一年であったことよ。
街角ライブでもたくさんの出会いがあった。雨の奈良へ行き、梅の博多へも行った。雪の南京街を追い出されたことも懐かしい。通天閣そばや動物園前のトンネルではおひねりを頂いたなあ。十三ではおっちゃんやおばちゃんが歌にあわせて踊ってくれた。戎橋ではNHKに撮影された。そして十三ファンダンゴでのハートビーツとのライブという快挙! ぎゅうぎゅうのスタンディングでCDも作った。新しい劇団員との出会い。三回目の「金蛇」は3幕にして歌を増やし、はじめての大阪城公園は寒く、雨のバラシはちんどん通信社の皆さんが大勢手伝ってくれた。そして公演後にはまた、中津で物語ライブ、これはストロベリーソングオーケストラと。それから井の頭公園に下見に行って即東京公園を決定。
個人的な一番の出来事は三味線を習いはじめたこと。市川聖山先生との出会いも大きかった。半年と少しでラフレシアで演奏してしまったが、来年はもっとマシになりたい。あと、演奏前にカウントを取れるようにも。
そのほかにも、いろんな出会いがたくさんあった。今年ほど出会いに恵まれた年はなかったかもしれない。出会えた人たち皆に感謝、感謝、感謝、感謝、感謝。

ただし、世界や日本を見れば、ついに拝金主義が崩壊し、同時にギトギトでむき出しの残酷な物語が薄っぺらく語られるような世界になってきている。世界はますますアンチ芸能になりつつあるのだ。冷笑ばかりが耳につく。今ほど気持ちの冷えきっている人が多い時代はないんじゃないだろうか。

靴を投げる気にもなれない

2008年12月23日(火) 21時18分
本日のお祝いは冬至だったっけ、と思いきや、誰かさんの誕生日だとのこと。やれやれ。憂鬱な祝い日だ。曖昧な祝い日。子供は「天の誕生日?」と言っていたから、小学校でも教えていないんだろう。学校で教えることもできない存在意義。私自身教えてもらった記憶がない。「キミガヨ」の内容もしかり。キミガヨは、「隣の君達の(国の)世界が永遠に続くように」という意味に解釈したいと思っている。今の日本で、それらがなくなってしまったらこの国はどうなるかわからないかもしれない(逆にアメリカのように外部への戦争によって国家をまとめることだってありうる)が、少なくともこの気持ち悪さはなんとかなるんじゃないだろうか。しらけ、いじめ、引きこもり・・・そういう全ての根源の、呪日ナリ。テレビでは一族ののどかな番組。靴も投げる気になれない。国家制度というものがそういうものだということはアタマでは理解しているつもりだが。ニワトリの神は飛ぶことができない。そうそう、松田雄作の「ひとごろし」をアマゾンで注文した。一度スカパーで見たのだが、急にもう一度見たくなった。ああいう「ひとごろし」もあるのだ。

ブッシュに靴を投げろ!「華氏911」

2008年12月21日(日) 22時06分
ブッシュが投げられた靴をよけるニュースを見て、結構反射神経がいいなあなどと思っていたのだが、そういえばまだ「華氏911」のDVDを見ていなかったことを思い出したのだった。ムーアの映画は「ボーリング・・」も「シッコ・・」も素晴らしく、数少ないコンテンポラリーで惚れている人だ。

まあ、ナント素敵な映画なんだろう。これだけヘビーな内容でありながら、涙をそっと横において、ユーモアさえ交えながら批判的に描いている。こういうスタンスが果たして日本映画に撮れるだろうか? たとえば沖縄のドキュメントを誰かこんな風に描けるか? 原爆を描けるか? 恨みと悔しさ、涙と怒り、もちろんそんなこともたっぷりあるのだが、ムーアはボソボソと語り続ける。そして、たんなる皮肉にもペシニズムにも陥らない。そして、どちらかという右寄りの人たちを自分の味方につけてしまう。決して全否定をせず、被害者意識だけで終わってしまうことなく、戦いの方法を模索する。

ムーアの戦い方は、「階級闘争」ではない。もちろん民族闘争でもない。世界が少なくとも理念的には一つになった上での、戦いのあり方を示唆しているように思える。闘争は敵の全否定から出発することが多い。けれどもムーアは完全な全否定をしない。「階級闘争」とはまったく違う闘争がここにある。ひょっとすると、「文化闘争」みたいなことになるのかもしれない。「拝金主義」というのはお金というのをゾンザイに、たんなる量的に考えることから生まれたと私が思うのだが、そのようなゾンザイさとの文化的な戦いなのだ。

なにしろ、映画としても実によく作られていると思う。そのカットのつなげ方、音楽の入れ方、パロディのやり口、2度ほどある長い暗転、効果的な音楽と音楽の否定。たぶん記号論的な批評をすればその切り口はいくらでも見つけられるほど映画的手法としても豊穣なはずだ。無理やり残酷さで物語り的に盛り上げつつも、劇的手法としてはいかにも貧相なステレオタイプでしかない日本のある種の作品群とは全く違う。
また、私自身、楽市楽座で「NIPP憂歌(ニッポンブルース)」というドキュメンタリーな構成劇を目指したものがあったが、ぜんぜん説得力が違う。なぜか。ムーアは普通のアメリカ人の立場を崩さないからだ。普通の視点が普遍の視点であるとしている。劇作術としては共通の部分がたくさんあって、自分も捨てたもんではないなと自負するのだが。

もっとも、ブッシュに靴を投げること、それもまた、とてもエレガントな文化的なやり口だ。大いに笑えることじゃないか。集まっていた記者たちが、我も我もと靴を投げていたらどうなっていただろうと夢想する。言葉が届かないとき、靴を投げるんだ、よっしゃエエこと教えてもろたで。それはテロなんかとはぜんぜん違うのだ。就任式で歴代たった一人、卵を投げつけられながらホワイトハウス入りしたブッシュにふさわしい。

ところで、日本はどうなる? 「有事法」「盗聴法」「マスコミ規制法」、すべて簡単に成立し、イラクに派兵し、輸出産業を振興させ、金融を保護し、ブッシュ政権をずっと支えてきた日本なのだ。その間にいじめが増え、引きこもりやニートが問題化しているのが日本なのだ。肝に銘じておきたい。

桐野夏生「東京島」の消費性

2008年12月17日(水) 0時27分
 このところ読書三昧でもあるのだが、先日、桐野夏生の「東京島」を読んだ。これもまた、わりとマニアックな残酷に満ちている。「十五少年漂流記」や「蝿の王」のような(どちらも少年たちが無人島で暮らす)、また、「ロビンソン・クルーソー」のような無人島ものだ。「ロビンソン・クルーソー」は、昔々の芝居で、ロビンソンがオウムの突っ込みに耐えられなくて殺してしまうことをセリフに入れたことがある。「東京島」は「蝿の王」に近いかもしれない。

 最近、私は現代小説はあまり読まない。たいがいすぐにイヤになる。これはすごく悲しいことだ。中学や高校や大学の頃、どれだけ心酔した現代作家がいたことだろう。安部公房、大江健三郎、中上健次、村上龍、村上春樹、高橋源一郎、ヴォネガット、マルケス・・もちろん全てを読んだわけではないが。今はそういう作家がほとんどいない。

 彼女の小説も今回はじめて読んだ。谷崎賞というのをわりと信頼しているというのもある。小説としてはあまり深く入り込めなかったのだが、この無人島漂着記において最も深く印象に残ったのは、現代の日本人がいかに消費社会に生きているかというものだ。

 登場人物たちは無人島で文明を離れて一番思いを馳せるのは、幼い頃に刷り込まれた商品なのだ。インスタントラーメンであったり、ポカリスエットだったり。

 で、思った。今作られている「表現」と呼ばれるものは、みんな「商品」なのかもしれない。パフォーマンスはわりと早くから生きて行く糧になり得たが、美術や音楽にしても、あくまでパトロンを見つけたものだけが糧を得たわけで、じつはずっと商品にはなっていなかった。ついこの間までそうで、印象派の絵やブルースなど、商品によくぞなったという歴史性がある。

 今、表現と言われているものは、ほぼ全て商品である。商品としてはじめて共同性が持ちえるという性質もある。共同体を離れてしまったがゆえに、あるいはそれは結果かもしれないが、商品として表現はある。それはほんのここ100年かそこらのことなのかもしれない。つまり、非常に歴史が浅いことだ。

 で、思った。それだけならまだいい。それは流通の問題かもしれない。けれども、ひょっとすると・・・受け取る側にとっても、それらは商品にすぎなくなっているのではないか。つまり、私にとってということだ。本を読むことも、映画を見ることも、舞台を見ることも、美術を見ることも、一種の「消費」になっているのではないか。

 昔、夢や占いは「お告げ」として絶対的なものだった。芸術と言われるものはその絶対性を受け継いできた。けれども、夢も占いもすでに絶対的なものではなく、すでに材料として消費される。芸術もまたしかり。この20年位の間に、私自身の中でそれらの商品性はますます高まり、消費者としてそれらを評価しているのではないか。

 この消費者としての評価は、生活のあらゆる場面において現れているのではないか。

アンドリュー・ワイエス:スーパーリアリズムのフィギュア

2008年12月16日(火) 0時49分
 先日、アンドリュー・ワイエス(以下、AW)展を見に行ってきた。日曜美術館で色々と解説を見て興味を持ったからだ。
 かなり昔、「クリスティーナの世界」をはじめて見たときにとても違和感を感じたことを記憶している。当時は、作品の成り立ちなど知らなかった。今回、AWがどのような経歴で絵を描いてきたか、どのような素材に興味を持ってきたかを知った上で絵を見たら、それは全然違って見えるのだろうかと思ったのだ。

 結論から言えば、昔感じた違和感はもっと明確になった。AWの絵の、とくに人物に関しては生命感を感じられなかった。それはスーパーリアリズムのフィギュアに見えた。どうしてもフィギュアにしか描けなくて、AWはそこに意味を付与したかったし、シワや傷、古びたもの、廃墟のような、滅び行くものを愛そうとしたように見える。彼は秋が一番好きだという。滅び行く秋。けれども、日本的な情緒的な秋ではない。こんなことを感じるのは私だけだろうか、見れば見るほど、ぞっとするような冷淡さが迫った。

 彼は自画像をあまり書かないそうだが、自画像と人物画では全く違う。自画像は妙にハンサムで「上流」に見える。一方、他の人物画像は苦渋に満ちた、シワの多い表情をしている。そして、しばしば顔が見えなかったり、デッサンではいた人物が仕上げには消えてしまったりする。同じ貧し人物を描いても、ドーミエの人物とは全然違う。まったくの3人称。3人称以上に人形的な客体だ。

 恩田陸という作家(読んだことはない)が、毎日新聞の書評インタビューでこんなことを述べている。
「お話は消費され尽くしているので、マニアックに読む層に向けたトリッキーな小説か、すべてをゆだねてしまう読者への泣ける話という両極に寄っている。それ以外の層がやせてきている」

 じつは芝居でも映画でも、まさしくそんな状況がある。ここでは「マニアックに読む層に向けたトリッキーな」という言葉になっているが、要は「残酷」だということだ。そしておそらく、それは「受け手の層」の問題ではなくて、作る側の問題意識がそこにしか向くことができないという、「作り手側の問題」ではないかと私は思っている。だいたい、どちらもそれほど広い層に受け入れられているわけではないからだ。現代社会における問題意識や、作者自身のリアリティがそこにしか持てなくなっているのではないか。
 AWにも、そういう部分がきっとある。だからこそ、現代美術なのか。

 私はこういう感性を乗り越えたいと思う。

鈴木隆「けんかえれじい」

2008年12月11日(木) 1時02分
 これは大傑作である。なぜ古本でしか手に入らないのかわからない。しかも、何度も絶版になっているらしい。そして不死鳥のように、いろんな出版社から再販されている。私が読んだのは岩波現代文庫。アマゾンの古本で購入。
 鈴木清順の映画があまりに有名だが、小説はもっともっとリアルで奥深い。下巻は第二次大戦になる。上巻がケンカを繰り返す少年時代ののどかさがあるのに対し、後半は時代のリアルさが迫る。どうも、解説を読むと、ほぼ自伝に近いようだ。強烈な反戦小説にもなっている。
 作者は本来童話作家である。童話作家が自伝的小説を書いたのだ。少年時代からのケンカ修行の話だ。ケンカ・・・私はこれが現代に一番足りないことではないかとも思う。どここもかしこも熱が足りない。角を立てろと思う。この小説には何度も「満身創痍感」という言葉が出てくる。ファイティング・スピリット。そうそう、最近、丸谷才一の「たった一人の反乱」も読んだのだが、じつはケンカの話ではなくて少しならずガッカリした。「蟹工船」も読んだが、ケンカのやり方としてどうもスッキリしないものが残った。
 けれども、この「けんかえれじい」には、ケンカの何たるかが描かれているように思う。その構え方、鍛え方、それを「道」にまで昇華する心意気がある。なにより、孤独の強さ、矜持がある。若者にぜひ読ませたい一冊だ。ヒトはケンカなくして成長しない。勝ち負けの中で多くを学ぶのだ。この小説を読むと、ケンカがいかに健康的なものかよくわかる。「強くなりたい」という思いがない子供はいないのだ。
 ただ、ケンカにはそれ相当の相手がいる。嫌味なヤツにしろ。「自分探し」とか「新うつ病」とかになっているニンゲンの時代には、なかなか難しいかもしれない。

今年もあと1ヶ月

2008年12月01日(月) 21時39分
先週、生まれて2回目のライブハウスでのライブを無事終え、昨日は書斎にて冬支度。炬燵にした。今年の楽市は、あとテント拭きを一日、忘年会を一日、それで終わり。まだ年末ではないが、今年はなんとまあ音楽な一年であった。生まれてはじめてのライブ(しかもファンダンゴ!)もそうだが、1月からずっと街頭ライブをし続けて、博多でも歌ったし、奈良でも歌った。そうだ、ギターに加えて三味線もはじめたのだった。こいつはまだまだだが。

このところ、立て続けにケンカの本を読んでいる。今東光の「悪名」が抜群に面白くて(勝新と田宮二郎の映画はもちろん大好き)、続けて「けんかえれじい」を今読んでいる(これも鈴木清順の映画が大好き)。そうそう、「深夜プラス1」も読んだ。これは映画になってるんだろか。ハードボイルドの傑作だ。ううむ、オトコのケンカがいい。アウトローが大好き。なんでこういうもんを続けて読んでるのか、自分でもよくわからんが、たぶんなにかに飢えてるんだろうな、最近。なんだろう。もしかすると、カラリとした気分かも。いずれも古い小説だな。

今回のライブでは、5円玉をたくさん降らせてみた。じつは今年の金蛇でもお金をジャラジャラ出現させたかったのだが、難しくてできなかった。お金は深いのう。このテーマはまたいつか掘り下げたい。5円玉は酢に一晩漬けたら、ちょっとピカピカになった。あの黄金色はなんともいえない。お金の金属臭もなんともいえん。
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