お金のケガレ

2008年05月30日(金) 21時55分
お金というのが「払う」ものであるということは、ケガレを「払う」のである。
どうもお金には使わないと持っている自分がケガレてしまうような部分があるようだ。だから江戸っ子は「宵越しの金を持たねえ」のである。お金を神様に向かって投げたりするのは自分の身についたケガレをお金と一緒に放り投げているのだ。お金に対する軽蔑感というのは、そんなお金が持つケガレとの深い関係がある。お金に執着し、お金を溜め込むのは、なんとなくケガレを溜め込んでしまうような気分になるのだ。誰かにおごってあげることで気持ちが軽くなったりするのは無意識にケガレを払っているのである。そうでなくても買い物をしたくてたまらなくなるのは、買い物をしてケガレを払いたいと思っているのである。
おおイヤだイヤだ、なんてお金というのはケガレていることであろうと誰もがどこかで思っていて、一方で「一円を粗末にするものは一円に泣く」ともいいお金はトオトク、アリガタイものであると手を合わせて拝んだりし、頭を下げて頂いたりもするのだが、そんなときもウレシイ気持ちの裏側には、どこかにケガレを引き受けてしまったような気持ちもどこかにあり、あわてて使い道を探してしまうのである。
資本主義というのはこういうお金への崇拝とケガレの意識が背と腹になっていて、ドンドン入れてドンドン出していくということをしている。資本を使ってより多くのお金をかせぎ、そのお金をまた払ってまたお金を儲けようとするわけで、儲けるのは「払う」ためなのだ。これはギャンブルとも同じ気持ちだ。
だから、お金がなかったり、お金を使うことができなかったりすると、なんとなくサミシイ気がするのは、自分にたまったケガレをお金を使うことによって「払う」ことができないためなのである。
もっともお金は貯めておくには結構不便なもので、紙のお金などは火事で燃えてしまうし、そうでなくても一度盗まれたらのお金かわからないし、名前を書いていてもきちんと戻ってくることはない。あまり保存に向いていないから、どこかに預ける。これも、ずっと持っていると「払い」たくなるためだ。やはりここでも、もともとお金は「払う」ためにあり、「貯める」ためにあるのでもないということだ。

スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」

2008年05月18日(日) 23時17分
はじめて見た「ヤマトタケル」はすごく不思議な劇で、物語に疑惑を感じながらもその圧倒的なエンタテイメント性に涙、涙、涙の感激。当日は動員100万人達成とのことで、作者の梅原猛氏がカーテンコールに現れ、またまた感激。私はこの人の大ファンで、一番最近は「歓喜する円空」にまさしく歓喜したのだが、わが家にある「人間の美術1 縄文の神秘」にも縄文土器に関するいろんな仮説を大いに語っていて、学者の領域をいつもはみだしていくその生き様に勇気づけられる。
「ヤマトタケル」の不可思議さは、圧倒的なエンタテイメントとしてのいくつもの戦闘シーンがあり、そしてラストに主人公が白い鳥になって空を飛ぶにも関わらず、おそらく物語は情けないファザコン青二才の悲劇であり、ヤマト朝廷の罪を描いているという凄いバランスにある。ヤマトタケルは父親を最後まで信じ、父親に気に入られたいためだけに他民族を殺し、そして他民族はまったく罪のない善良さで描かれ、「お前たちヤマトは、平和に暮らす我等を、米と鉄の力でねじふせるのか!」と恨みつつ死んでいく。最後は鬼族たちとほぼ相打ちになって、ただただ「ヤマトに帰りたい〜」と泣き叫びつつ死んでしまう。
物語としては、呪われた大和朝廷のありようこそがこの劇のテーマに違いない。ヤマトタケルはお人良しで涙もろく、父である朝廷にとことん利用され、征服の根拠は父に認められたいの一心のみ。それを見ている私たちはその大和朝廷の末裔であり、太平洋戦争をほとんど同じような理由で行った日本人である。場合によっては、このヤマト朝廷はあるいはアメリカ人にとってのアメリカに読みかえることすらできるではないか。
そのような苦渋に満ちた重い悲劇を、猿之助は「スーパー歌舞伎」として、あらゆる手段を用いて娯楽劇にしている。ふんだんに笑いもあり、迫力満点の群舞や殺陣、豪華な衣裳、工夫が盛りだくさんの舞台美術や仕掛け、音楽的な要素もたっぷりに客を喜ばせ、のみならず、あろうことかヤマトの英雄として政治的に葬られた(そういうセリフも出てくる)彼を、墓の中から白い鳥として羽ばたかせるのだ。
この引き裂かれ方はなんとうことだろう。私は見ていて何がなんだかわからなくなり涙が流れてしょうがなかった。いろいろ考えたのは見終わってからだ。
この悲劇とエンタテイメントの組み合わせは、スゴイことだ。この劇そのものがすでに一つの思想だと思う。

お金持ちになったら

2008年05月14日(水) 22時28分
十三ライブでも、街頭でも歌っている「お金持ちになったら」。もともと「アメリカンドリームと犬の生活」という芝居で登場した歌なのだが、今度の秋の公演で再登場する予定なのだ。
その唄を、KING堀内さんが7月のライブでやってくれるらしい。うれしい〜! たいへん名誉なことでありんす。自分の唄を誰かがどこかで歌ってくれるくらいウレシイことはないス。ま、名曲やけど〜!
ところで、今回の金蛇では「お金」というテーマを掘り下げたいと思っている。
「お金」というのが芸能的に考えると最も不思議なのだ。なんだろうお金って。黄金は絶対芸能性あふれるものだと思えるのだが、現代においてお金ほど日常でしかないものはない。シェイクスピアでも木下順二でも、お金は少しさげすまれているのだが、ほんとにお金はさげすまれるべきものなのか? 拝金主義というとスゴクお金なんてどうでもよいもので神なんかではないということになるのだが、お賽銭とか、五円玉のお守りとか、お金というのはどこか超越的でスゴイ思い入れのできるものかもしれない。
そんなワケのわからんモノをこそテーマにしてみたい。ひょっとしたら、お金ってタマシイからカタチになったモノかもしれないと思う。だからこそ、お金がからむ物語は必ず面白くなるのではないか?
昔は一円でも大切にした。「一円を笑う者は一円に泣く」とも言った。今はマネーゲームなんていう言葉もある。
食べ物をおろそかにしたり、人を人とも思わなかったり、イノチが軽かったり、この世界の殺伐さとお金というモノノケの価値の低下(価値の汚れ?)はひょっとするとリンクしているかもしれないのだ。
芸能の最も深いテーマとして、「お金」はあるような気がしてならない。

芸能の力

2008年05月13日(火) 0時36分
芸能のパワーというのはもちろん色々とあるのだが、まず第一に注目すべきなのは「超人」的パワーである。すべての芸能は感情と理性、感覚、関係力、おそらくありとあらゆるもの全てを動員して、計算とか、気持ちとか、集団性とか、そういうパワー全てを超えたパワーをも発揮する、もしくは発揮しようとする。そのとき、ヒトは個人とか個性とか人格というものを超えて存在するということは共通している。全人格的行為を基礎としながら、超人的行為とでも言うべきだ。
「あらゆることの根源に芸能が存在する」ということについて言えば、たとえば仕事というものを考える場合もその根源には芸能が存在するのだから、そんな超人的なパワーが引き出される状態が本来の、「芸能としての仕事」であって、時間給的なアルバイト的仕事や、西洋的な苦役的仕事は芸能としての仕事にはならない。だが、仕事を芸能的に考えるなら、あらゆる仕事には、現代で常識的に考えられている仕事以上の意味や意義があるということになる。皿洗いをしていても、そこには宇宙的意味がある。
そのような宇宙的意味をそぎ落とし、「これだけやればよい」といった現代的なとらえ方、限定的な意味づけこそは、反芸能性といえる。快楽(感情)の裏付けがないものは、反芸能であるが、快楽(感情)のみに限定されてしまえば、それはすでに芸能ではない。
例えば、医療というものでも、パッチ・アダムスのように、本来の芸能性を回復することができるのだ。
ここから全てを洗い直せないか?

芸能主義

2008年05月07日(水) 0時10分
「芸能は全ての根源である」と考えてきて、すでに数年がすぎた。そろそろ「芸能主義」もしくは「芸能派」を立ち上げるときが来ている気がする。思うに、世間はまだまだ芸能に対する関心が薄い。たんなるエンターテイメントや、芸術至上主義や、個人の表出や表現や社会派、もう色んな主義が跋扈しているが、真の芸能主義は未だ語られていない。

 あらゆる芸術やエンターテイメントの基礎は芸能だ。芸能であることを忘れた芸術もエンターテイメントなど、クソクラエである。いや、クソを食らう方がより芸能的にすぐれているかもしれない。
 舞台やテレビや映画や小説や音楽が、そのまま芸能であるわけではない。むしろ、芸能からはずれているものがどれだけ多いか。いわゆる「芸能界」であっても、芸能について一度でも考えてきただろうか? むしろ「プロセニアム舞台→映画のスクリーン→テレビ画面→パソコン」という流れの中で、芸能からはどんどんはずれて行っているというのが近代から現代だ。
 シェイクスピアは芸能という基盤の上に、ヒューマニズムを描こうとしたから今でも見ることができる。しかし、芸能という基盤を抜いてヒューマニズムをいくら描いても、芸能ではない。ここ100年か200年の間に、芸能という基盤そのものが見えなくなっている。だから、いろんなことが「ツマラナイ」と感じるのだと思えてならない。

 それでは、芸能とは何か・・・

1.まず、エンターテイメントであること。ただし、この場合も「互いに楽しめること」が重要。少なくとも芸能論から言えば、一人で楽しむべきものをエンターテイメントとは言わない。これは、以下の2・3とも深く関係している。本来の芸能に笑いや涙や怒りや震えを伴わないものはないが、それは共同的な体験だからだ。一人で見てヘヘヘと笑うテレビや、孤独な覗き見的映画はもう芸能から遠い。この「互いに楽しめること」の中では、おそらく笑いが最も重要だろう。ベースに笑いがなければ、芸能ではない。

2.天に通じていること。この天は、神だったり仏だったり、宇宙であったり部族や祖先であったりしてもいい。超越性を持つこと。同時に、超歴史性を持つと言いかえることができる。この天に通じているということは、同時に、人間であれば自らの生物学的な出自にも深くつながっている。つまり、ちょうどXの文字の交点の位置に個としての自らが存在するということを、芸能は体感させてくれる。じつは、ルネサンスのヒューマニズムのかなり多くの部分は「人間性」というよりも「人間の動物性・生物性」だったのだ。たとえば、家族愛、恋愛、部族愛などの「愛」。それでいながら、彼らは自らの動物性を「野蛮さ」として否定していった。天に通じていることは、同時に「ウンコに通じている」。

3.卑近であること。芸能は、芸術や宗教的行事のような、もしくはオタク的アニメのような、ある限定的な文化的コンテクストの中だけで理解されるものではない。予備知識がなくとも、普遍性を持つがゆえに、卑近な話題であっても楽しめ、天に通じることができる。たとえ日記的なものでも、1と2を満たせば芸能だ。一方で、今の日本には、ほとんど「身近であること」だけが価値であるかのような言説が多く存在する。この最も極端な例が、「孤独の共有」だ。孤独はいつでも共有できるし、当たり前のことだ。それしか言えなくなっており、言うなれば、Xの交点だけが自分だと思っている。一方、身近であることは、同時に、参加しやすいということにも通じる。お高くとまっているものは、芸能から離れる。

 以上の3点が芸能の特徴である。これらの3点が何らかのかたちで含まれないものは芸能ではなく、ストリップからアートまで、本来は芸能の一つの分野であるからには満たしていなくてはならないはずなのだが、いつしか忘れ去られている。おそらく、その忘れ去られた原因には、国家の出現と世界宗教、そしてヒューマニズム(人間主義)の台頭があったと思われる。それらにしても芸能と深い関わりがあってこそ前面に躍り出ることができたものなのだが、それらが前面に躍り出る中で、そのベースであった芸能性が後退した。

 以上の3点だけであれば、おそらく芸能というのはわりに理解しやすいものかもしれない。けれども、じつは第4点がある。本当は3つにとどめておきたいところなのだが、あえて書いておこう。

4.芸能のもっとも根源的な部分に、「恐怖」が存在する。これは、1・2・3の裏側に必然的に想定できる。人類の脳は、生物としてはじめて本格的な「恐怖」を体感した。それが人類に独特の芸能を生み出した。その芸能は人類が動物性・生物性・物質性を取り戻すためのものだったのであり、脳が感じた「恐怖」に対抗するものだったように思える。つまり、芸能は人類を生物や物質に強く結びつけるのだ。だから、芸能は人類だけにあるものではない。あらゆる生物にすでにセットされているし、もしかすると、あらゆる物質や宇宙の法則として存在している。と、私は思う。言い換えるならば、ニンゲンが法則として発見しようとしてきたのは、物質や宇宙の芸能性の部分がかなりある。と、私は思う。この「私は思う」というのは、ニンゲンとしての私はそういうふうに語るしかできないという意味で「思う」のだ。

 あらゆることの根源に芸能がある。これは、エンターテイメントやアートだけの問題ではない。ここから全てを見るとき、芸能性を失い、硬直した現代の姿が見えてくるのではないか? 労働や企業、人生の目的、マスコミ、政治、教育、科学、医療、環境・・・。

ミノムシのことなど

2008年05月05日(月) 1時45分
久しぶりの書き込み。すでに5月でしかも今日などは文字通り五月晴れでついに初夏になっているし、昨日は十三のつばめ通りで初ツバメを発見したり、アゲハチョウも飛ぶ飛ぶ。本日はなぜか家の玄関の上の壁になんと小さなミノムシを発見して、手が届かなかったのだがモソモソと動いていて、それから数時間後には地面に抜け殻だけが落ちていてやはりミノムシだったと確認! じつはミノムシはここ何年かずっと木を見るたびに探していて、たぶん日本のミノムシは絶滅の危機に瀕しているはずなのだ、子供の頃はあんなにたくさんいてミノをはがして色紙にいれて色とりどりのミノムシ作って遊んでたのに。ミノムシの生態は非常におもしろくて、たしかメスなどは一生ミノからは出てこないんじゃなかったか。ああどこに行ったんだミノムシの中身・・・まだすごく小さいはずなのに。
このところ読んだ本「喜劇の手法 笑いのしくみを探る」「シャイクスピアのたくらみ」(どちらも喜志哲雄)、「白痴」(坂口安吾)、「乳と卵」(河上未映子)、「芸能の人類学」(姫野翠)、「うめめ」(梅佳代 これは写真集)。DVDで「シッコ」(マイケル・ムーア)、「赫い髪の女」(神代辰巳)、それから呆平のライブ、東山魁夷展、寺門孝之「Now and then」(心斎橋のギャルリ・ムスタシュで25日まで開催中)、あと唐組にも行った。
喜志氏の本はどれも戯曲の方法論についてで面白く、とくにシェイクスピアがどのように観客に情報を先に与えて劇を進行させるか(例えばロミジュリでは冒頭に二人の悲劇的結末が伝えられてしまう)、それが何を意味しているかを分析して面白い。ただ当時の世界劇場という考え方やヒューマニズムは現代ではまさに根底からひっくり返りつつもあるかもと再認識。
「芸能の人類学」は1989年の本なのだがタイトルを見つけて読まねばと思い、芸能とは何だろうといつも考えている私には色んなところがビシバシ入る。ラテン語のcantusは「歌」という意味と同時に「呪文」や「魔法」を表すとか、cantorは「歌手」であり「妖術師」であるとか。本のラストに現代における芸能について少し書かれているのだがここから後はひっそり私が書きたいなどとも思う。
「うめめ」いいです。「シッコ」アメリカってやっぱりこわい。「赫い髪の女」学生時代に見た日活ロマンポルノの傑作、中上健二原作で宮下順子と石橋蓮司、今見てもサイコー! 呆平のライブすばらし(キリコのブログを参照すべし)、東山魁夷展、あまりたくさんをいっぺんに見るべきではないなこの人は、寺門孝之展では最近の妖しのベールのような色彩にクラクラし、秋公演に向けての打ち合わせなどなど、寺門氏のお勧めで行った唐組はやっぱり楽シイ!
ライブが終わってからは肉体訓練(懐かしい響きだ)も再開していて、新しいメンバー(楽市に新人!)でイロイロとからだを動かしているし、昨日からノートを再開した金蛇改訂もプランの段階だが少しずつ明確になってきた。今年一年のあいだにまた自分なりの芸能というものが見えてきた気がする。より愉快に、より深くしていきたい。
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