無意識とはなにか

2007年08月30日(木) 0時54分
 「無意識」という言葉を、私たちはよく使う。けれども、その言葉を使っていること自体が、じつは「無意識」ではなく、意識しているということだ。現代において、それは単なるあいまいな領域にしかすぎない。
 自分の中に意識できない部分があるという。それは、本来「他人」の部分であり、たとえば夢の内容などは、なにかが伝えるメッセージでありえたのだが、今は「自分の無意識」が教えてくれていることになっている。
 つまり、「自分」という概念が広がったのだ。それは、自分の一部という概念になってしまったために、自分自身でコントロールできるのではないかという錯覚を生む。同時に、自分のノイズとしても処理できる。
 どこまでも広がる自分。この世界でさえも、「世界意識」になりうるのか。自分の領域は増えたが、輪郭はぼやけてくる。
 はたして、遺伝というのは、自分の外部なのだろうか? じゃあ、環境は?

光文社新訳文庫

2007年08月26日(日) 23時47分
 稽古はボチボチ進んでおりますが、ホンは後半難航中!

 ところで、ドフトエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の新訳がベストセラーになっているらしい。光文社古典新訳文庫。このところ落ち着いて読書時間がとれないので残念ながら読んでいない(別の訳で数年前に読んだけど)のだが、このシリーズはほんとに大成功しているなあ。

「鼻/外套/査察官」ゴーゴリ、 「飛ぶ教室」ケストナー、「猫とともに去りぬ」ロダーリ、「黒猫/モルグ街の殺人」ポー、「初恋」トゥルゲーネフ・・・私が読んだのはそれくらいなのですが、どれも新鮮だった。とくにゴーゴリとポーは、とても「語り」めいていて、楽しい。もともとの作品が非常に面白いから古典として残っているわけなので、材料はいい。あとはどう料理するかだ。もちろん、原作の息も生かされているんだろうけど。

 料理。つまり、翻訳というのはどんどん新しくリ料理できるわけだ。現代の言葉や、感覚にあうように。日本語の明治以降の古典なんかだと、そうはいかない。夏目漱石とか芥川の文体をちょっと変えてみようかな、なんていうわけにはいかないよね。翻訳だからこその、自由。新訳の自由。これは、映画なんかの「脚色」に近いのか。 劇の演出なんかもそうですね。翻訳文学というのは、作家と翻訳者という、二人がかりなんだなあ。そう考えると、はじめから日本語の作品というのは、不利? まあ、そういうことではないだろうけど、ちょっと色々調理したものも味わってみたい気もしてしまう。

 英語の本なんて、もうほとんど読まない(トイレに一冊ずっと置いてある)んだけど、わからない分だけ想像がはばたく。そういうこともあるんだよなあ。私のレベルとはまったく違うだろうけど、このわからなさはきっと言語の間にはどうしても存在するから、そこをどう埋めるかが腕の見せ所になるのだろう。けれども、じゃあ日本語だったらそういう「わからなさ」はないのかというと、きっとあるに違いない。あることはあるのだが、日本語で書かれたものに関しては、その溝は読者が埋めなさいとなる。劇をやるものは、いつもそういう作り手の層がいろいろあるので、そういうことが気になるし、考えるとおもしろい。

 まあ、この「光文社古典新訳文庫」、だまされたと思って一冊読みなはれ。私が読みたいけど・・・公演が終わってからか!

ラベリング

2007年08月23日(木) 0時20分
 二幕について、ラベリングをする。
 ラベリングとは、アイデアをラベルにし、それを「これとこれはまとまるのではないか?」というものを組にし、そのタイトルをつけていくという作業で、最終的に10枚以下にする。
 ちなみに、これは、川喜多二郎のKJ法というシステムを応用したもので、KJ法については、中公新書の「発想法」を読むべし。私が学校で習わなかったことの中で、一番大きな知的収穫の一つである。このようなことをなぜ高校や大学で教えてもらえないのか、いまだに不思議だ。川喜多氏が、あまりにこの思考システムを特許化し、他の追随を許さなかったためかもしれないなんて邪推もするのだが。
 時間はかかるのだが、おのれの無意識までさらえる方法なので、いろんなことに気がつく。非常に科学的な占い法みたいなもんなのだ。

 今回は再演であるにも関わらず、結局かなり書きかえている。わかっていたことなのだが。けれども、「改訂」とは入れていない。どんなに書きかえようと、コンセプトは同じ。けれども、常に決定版であるという思いで、あえて改訂は入れなかった。なにしろ、改訂というより、これが私の最後の作品という気持ちなので。

ポスター出来!

2007年08月22日(水) 0時14分
 とうとう今回のポスター兼チラシ(最近はフライヤーというのだな)ができてきた!
 寺門氏にゑを頂くようになって随分とたつ。たしか、「夜の鳥が拡げる巨きな翼の下で私たちは・・・」が最初で、そのときは、自宅でキリコと私がメイクし衣裳も着て、寺門氏は写真をパチパチ。黒の背景で、プラカードを持ったエンドンこと私と、銀髪のキリコがなんとなくホラータッチで描かれたのだった。
 それからずっと黒の背景で、いつもたいてい本より先にゑがあって、たくさんインスピレーションをもらってきた。数年前に、ドンとでかくし、昨年の秋、この「金魚姫と蛇ダンディー」の作品で、「背景をピンクにしよう!」ということになって、ガラリと変わり、それから今年のお正月公演では今回のような、ちょっと版画タッチのユーモラスな二人が登場したのだった。
 こんな絵の変化は、そのまま楽市の劇風の変化ともなっていて、感慨深い。(開演前に、絵葉書セットを販売するので、よかったらどうぞ!)
「野蛮でおじゃらけたドリームタイム」という言葉も、数年前から浮かび上がってきた言葉で、それがどんどん具体的にカタチになってきているような気もしていて、それがまた、しっかりと絵になっているのだ。この画風はこちらからの要望でもなく、お正月のときに寺門氏から出された提案で、話を聞いたときは「あ、それもいいな」だった(できてみないとわからなかったんだよね)のだが、今、こうして大きな絵としてみると、この共有感はなんだろうと思う。月のカケラの共振だろうか?

 私の劇作法は、けっしてジャコメッティのような削り取っていくようなまっすぐな方法(そういう方法はしばしば不可能性への方法でもある)ではなく、むしろ、もともと「補強演劇論」というのをマジメに考えていたくらいで、「あそこが弱い、ここが弱い」というところを補強しながらやってきた。今でもそれはあまり変わらないかもしれないのだが、補強材がそれぞれ柱でもあるような、うまくいえないのだが、今、一つの渦に統合できるような気がしてきている。それがこの絵のシンプルさにもなっている気がして、ああ、やっぱりすごく共振しているなあと思え、うれしい。(ちなみに、その後、「あんま演劇論」とかもある)

 このポスターゑを見て感じるのは、「かわいい」と「おもろい」という言葉かもしれない。そして、その二つの言葉はじつは「野蛮でおじゃらけたドリームタイム」の基礎となるものかもしれないと考えている。この世界の基本は、じつは「グロい」。それを美に転化するのが芸能なのだが、その根底には「かわいい」と「おもろい」がある気がしてならないのだ。「グロい」⇔「かわいい」「おもろい」の思わぬ結びつき(運動)を感じるとき、「感動」とか「美」が立ち上がると、最近は思っている。

夏のキラメキ

2007年08月18日(土) 14時24分
 久しぶりに書き込み。
 この間、台本に手を入れるのに集中していたため。前回の1幕と2幕をあわせて1幕に。それぞれ1時間あったものを、あわせて1時間ちょいに。そして、「肉月」も踏まえていくつか書き足す。本としては納得ができたものになった。2幕は大きく変わる予定。だいたいのプランはできているものの、書いてみなければわからない。

 昨日は一週間ぶりの稽古で、1幕を読み合わせ。思ったとおりの時間となったようで、ちょっとほっとする。私自身はすごく長い芝居でも面白ければぜんぜんOKなのだが、去年の3時間はちと長かったようなので、今回はなんとか休憩を入れて2時間半にはしたい。後半は、もっともっと野蛮で、おじゃらけたドリームタイムとなる。

 木曜はバンド稽古で、平林氏もはじめて参加。アルトサックスとトランペットで、今回はなかなか迫力。ジャズの匂いがする。この間のお正月公演から、フィナーレという楽譜ソフトを使っているのだが、楽譜の清書はもちろん、移調を簡単にしてくれるのが大助かり。今までは楽譜に「5カポ」とか書いて済ませていたのだが、他の楽器が入るとそうはいかないのだ。のどかでありつつ、野蛮な生演奏になるだろう。

 毎日記録的な猛暑らしい。けれども、大阪は乾燥しているんだろうか、私はそれほどグダ〜とした暑さを感じなくて、むしろ夏らしいトキメキやキラメキさえ感じている。朝の空気が透明で、一本道の向こうに数キロ先の十三駅の阪急電車がくっきり見えたり、夕方の風に乗って、おそらく淀川にのぼってくる潮の匂いをかぐ。どこにも遊びにいかず、ひたすら台本、そんな夏がもう10年以上続いているんだけど、そういう人生だって夏をいたるところに感じるのだ。絹雲が、金星が、蝉の声が美しい。猛暑といいつつ、たぶんこれはすでに残暑。秋の気配も感じる。

 台本に追われつつも、ギターの練習と水泳も。このところバタフライでのんびり泳ぐ(短距離ですが)コツをつかんで、それが楽しい。クロール、ブレスト、バックも、いかに少ないストロークで泳げるかが課題。ただ、このところ、水がぬるくてつかみずらい。

木下順二「夕鶴」ほか

2007年08月06日(月) 3時09分
 久しぶりに木下順二の戯曲を読む。いくつかは読んだことがあったものの、だいぶ昔のことだ。
 今改めて読んでみて、なんと平明なセリフで、シンプルな劇なのだろうと、その構造の美にまずガーン。そして、登場人物たちのあっけらかんとした設定に、またガーン。これは、とっても野蛮でおじゃらけたドリームタイムではないか。
 彼が日本の神話ではなく、昔話(彼は民話と言うようだ)を題材にしているのは、私とはちょっと違う観点からかもしれないし、また、私はべつに題材にはしていないのだが、いろいろと共通点も多く、興味深い。
 それに、とぼけたユーモアが随所にあり、それが生きる力であることがダイレクトに伝わってくるのだ。ユーモアはじつは最も普遍的な美なのだ。

 とくに「夕鶴」は、つうの役が鶴として描かれていて、山本安英を見たことはないのだが、演技が目に浮かぶようだ。ト書きも鶴が首を傾けているようにとかがあり、動物性を意識している。
 あと、与ひょうは役に立ちたかったんだなあ。戯曲ではお金の不純さが強調されているように読めるのだが、私は今の自分の一つのテーマであるお金というものと「なにかの役に立つ」ということ、それで誰かに評価されるというようなこととの関係がここにも描かれているのだなあと思えて、木下順二の深さにまいる。

 木下順二はたぶん大変な努力と勉強をして、この世界を作り上げたんだなあと思うと、大した努力をしたのかどうかという自分が恥ずかしく、また、「自分が何かを感じられない」「自分はなにかがわからない」というような個人的欠陥を、まるでそれを個性か思想のように表現しようとしている連中に腹が立つ。私はそいつらを「お坊ちゃまお譲ちゃま表現者」と呼びたいとも思うのだが、自分がそうでないことを祈るばかりだ。

 木下順二の一番のスバラシサは、自分にとってほとんど他者スレスレのところを相手に作劇していったところだ。劇は常に共同性を作り出そうとする。けれども、はじめから自分とあまりに近い観客を想定しているというのは、恐ろしく情けない。それは表現ですらない。

見城徹「編集者という病い」

2007年08月04日(土) 17時34分
すさまじいなあ、この人!
作家との血みどろの交わりの中から、様々な本を世に送り出した名編集者であり、幻冬舎の社長でもあるこの人の本を読んで、作家っていうのもスゴイけど、編集者っていうのも実にスゴイなあと、ただただ感嘆。
中上健二が、村上龍が、尾崎豊が、石原慎太郎が・・・
何人もの表現者たちが、「見城になら」と、書いたという。
それらの交遊録と、彼の編集者としての、文字通り生き様。

いくつかメモ。
「僕はつねづね、売れるコンテンツ(本であれテレビ番組であれ何であれ)は四つの要素を備えている、その必要条件を満たすものは必ずヒットすると思っています。
 @オリジナリティがあること。 A明解であること。 B極端であること。 C癒着があること。」

癒着とは、作家との関係などで、売れる筋があることらしい。
う〜ん、参考になる。

もう一つ。
「警察の容疑者も星だし、輝くスターも星でしょ。スキャンダルを含まない星なんて、星じゃない。ただ美しく光り輝くだけの星は、フラットで真のスターではないんですよ」

私なんか、のんびり、じみ〜にやっとりますね。
とってもスターの器じゃない。
19世紀は「天才の世紀」で、20世紀は「スターの世紀」だったのかもしれない。
それでは、21世紀は???

タイトル「編集者という病い」の「い」が気になる・・・。
カバーに水滴のようなブツブツがある。
これがまた、なんともいえずいい。
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