清水きよしさん「幻の蝶」

2009年11月03日(火) 13時05分
 31日、東京の梅若能楽学院会館で、清水きよしさんの「幻の蝶」を見た。
 清水きよしさんは、名前だけはずっと以前から知っていたのだが、今年の3月にはじめて梅田のクロスロードという小さなスペースで、はじめて見せて頂いた。3月の散歩道にも書いたのだが、一本一本が磨き込まれた構成で、マイム芸を前面に立てるのではなく、演じられる人物の感情や感覚をていねいに演じて、笑いと涙に溢れ、自分の中の色んな記憶を呼び覚ましてくれたり、考えさせられたりするものだ。
 その後、枚方で一回、東京で仮面劇を一回だから、今回で4回目になる。最初が小さなスペースだったので、打上にも残ることができ、娘を連れていたためもあるかな、あと、チコさんという以前楽市に出演して頂いたマイムの人もいらっしゃって、清水さんと尾近づきになることもできた。井の頭公園の「金魚姫と蛇ダンディー」にも家族で来て頂いた。

 今回のマイムも、何度も大笑いし、そして涙を流した。柿泥棒をしてつかまる子供のマイムがあって、以前凧揚げのマイムにも感動したのだが、今目の前のことに全身で夢中になってしまう子供の感覚が本当によく描かれている。結局つかまってしまうのだが、大人も優しくて、一つはくれる。その時懐にもう一つ隠していたことに気付いて、子供は大人に差し出す。すると、大人はそれも持っていっていいと言う。この二人のやり取りは、今も思い出すと泣ける。その芸の素晴らしさと、物語の素敵さに泣けるのだ。柿泥棒をしたことはないが、どこかにこういう感覚や人情が自分にもあるに違いなく、そのことがたまらなく愛おしくなる。それからトンボを追いかけて迷子になり、橋掛かりの出口間際で、親とのやり取り。まるで遠景での情景を見るようで、夕暮れの赤さまで感じた。能舞台にはこんな距離感があったのか。

 橋掛かりから、杖をついて歩いて現れる老人。杖がないことでマイムなのだとわかるが、能とも狂言ともまったく違うマイムによって、老人の歩きという「本質」が歩いているような気にさせられる。杖を握る手の力が、すごく伝わる。
 煙草の話では、ラスト近くに煙草を踏み消すホームレスの男の思いが、痛いほどよくわかる。ていねいな踏みにじり。男が拾う2本の煙草の扱いが、構成的に凄味を増してラストに意味が現れる。
 
 この「幻の蝶」は、なんと初演から30年だそうだ。清水さんがマイムをはじめて10年目に、このマイムを続けていくかどうかを悩み、それでもマイムをやっていくことを決意し、今までほとんど小さなスペースで演じられていたマイムを大きなスペースで照明や音楽もつけて上演した作品。そんな決意が、今もこの「幻の蝶」には現れている。能楽堂でマイムをはじめたのも清水さんだ。25年前、博多の住吉神社が最初だそうだ。能舞台での清水さんのマイムは、能や狂言にまったく劣らない、一つの屹立した作品になっていた。海外も含め、限りなく上演され続け、磨き込まれた至芸。そういえば今思い出したが、3月のクロスロードでは新作の上演もされていた。常に努力を惜しまない方なのだろう。

 今年4回の全てに新しい発見があり、教えられることがとても多い。清水さんのマイムと清水さん自身に出会えたことは、今年の本当に大きな大きな収穫だ。

ババロワーズ「スペース☆ラビット ハンバーガーシステム」

2009年10月29日(木) 11時19分
 戦後の日本の価値の崩壊、いや、それ以前の軍国主義時代にもうはじまっていた、日本的生活感の価値崩壊。サリンや震災などの象徴的事件もあったが、家族や地域、教育や政治など、あらゆる価値(意味)が日本では崩壊しつつある。そんなことを、良くも悪くも感じさせる舞台だった。
 殺伐としながらも、しょうもないナンセンスなギャグ(あまり笑えない)の連発、どうでもいいストーリイには激情がこもり、汗をかいていく。帰り道、大阪の風景とどこか似ているような気がした。彼らはたぶん、この現代にぴったりと貼り付くように劇をしている。
 私は、価値の崩壊の中でこそ、むき出しになってくる価値を見つけたいと思っている。おそらく、虚飾に見える皮膜にこそ、そのむき出しの価値が現れる。
 スローライフとかワークライフバランスとか、環境保護とか動物愛護とか、もっと堅実な価値感が世間では言われている。それらはインディアンやアボリジニの知恵の一つのように思っているのだが、意思として現代にぴったりと貼り付こうとするなら、そのような知恵は前衛でもないし、どこか余裕のある人間たちのたわごとでしかないと感じられるのかもしれない。そんなことを考えてしまった。
 2年続けて楽団に参加してくれたモーリーが出演。体も声も動きもでかくて、目立つー! 床を踏んだとき、ドシンとすごい音で振動が伝わってきた!
 役者にとって、目立つちゅうんは、大事なこっちゃ!
 ほかにも、すんごい個性派ぞろいの出演者たちだったなあ〜。

ゑんぎ

2009年09月17日(木) 4時01分
 私は「演技」を、正確には「ゑんぎ」と書きたいと思い、以前は「演技のサーカス」と書いていたのを「ゑんぎのサーカス」としている。
 「演」の文字はそもそもが「演説」の「演」であって、「演劇」は明治の民権運動の中から生まれたのだ。おそらく、「演歌」もまたそうである。
 この「演」は「広める」という意味で、プロパガンダに近い。はっきりしたプロパガンダ劇はきらいではない。けれども、少しひっかかるところもある。どこか啓蒙的な部分が、たとえば新劇にはある。新派だってそうだった。

 もちろん「演」も「ゑん」の一つなのだが、演歌も「艶歌」や「怨歌」と書くことがあるように、なにか内側から出てくるもの、絞り出て形になってくるものとして「ゑん」を考えたい。
絵だってそうだ。「ゑ」は、なにか心身の内にあるものが外に形となって現れることだ。わかりやすい絵のことを「サイン」(しるし、広告、記号)というが、これは「演」にとても近い。心身の闇の奥から出てくるのは、やっぱり「ゑ」のような気がする。
 これは、円形劇場にも通じる。この「円」は、ただ舞台の回りに客席があるというだけではない。劇は常に「見せる/見られる」「見る/見せられる」が中心となるが、プロセニアムはその関係性が明確だが、円形劇場はなにかが違う。

 なにが違うかというと、「見せる」ということが平面的には意識できないところが違う。役者は常に見られている。出ている限り、誰かの影に隠れることさえできない。客を意識して前に出ようとしても、それは一方で遠ざかることになってしまう。

 もう少しまともなことが書きたいと思っていたのだが、もう酔っ払ってしまった。しかも、眠い。明日は朝から買出し、積込、東京まで運転して移動する。どうも台風が近づいているらしい。あまりに本格的な台風だと、公演中止もあり得ます。そのときは、お問合せを。
夜は冷え込む可能性もあります。去年は恐ろしく寒かったです。ぜひ昼間の暖かさに惑わされず、一枚多めにご来場下さい。

超人予備校プレゼンツ「犬公方 踊る綱吉くん」

2009年08月18日(火) 0時36分
 先日、東京でタクシーに乗っていたら、水道橋の近くでタヌキが出没しているという話を聞いた。運転手さんの話だと、東京にはノラ犬がほとんどいなくなったために、タヌキが増えているという。

 この芝居は、「生類憐れみの令」という、とんでもない法律を出した綱吉を描いている。まずはこのテーマ選択に大いなる拍手を送りたい。命の大切さをはじめて法律にしたともいえるし、それが様々な矛盾も抱えて悪法とも受け取られた。

 劇そのものは、ミュージカル仕立てで冗談ばかりが飛び交い、笑いで進行していく。しかし、これは確実に(もちろん)政治劇である。前回の「フルーツ大コウモリ」に続き、魔人ハンターミツルギ氏の政治的触覚には驚く。

 役者もいい。すごくシロウト臭く演じているが、その存在感は素晴らしい。綱吉を演じていた上別府学は、一本調子のセリフ回しでノーメイク、しかも普段からかけているであろう銀縁のメガネをかけている。頭ににはオモチャのチョンマゲ。すごくヘタクソに見えてそれがおかしい。それが、ダンスに囲まれて無言で立ち尽くすとき、圧倒的な存在感を見せる。この劇がミュージカルであることの意味がその時立ち上がってきていた。

 ほかの役者たちもとても個性的だ。とても作家が全てを書いているとは思えず、もしかするとエチュードで作っているのかもしれない。「いろんなことがやれる役者」ではなく、自分なりのやり方でしかやらない役者たちに、説得力がある。

 一方で、客演の曽木阿古弥や佐藤あかねも個性を出し切っていた。曽木さん(昨年楽市に出演)の「徳川の血は呪われている」というロック演歌(?)には思わず涙が出そうになった。また、佐藤さん(よく受付をしてもらっている)の演じるシロという犬をかばっておさよ(尾松由紀)が、「この犬を殺してもなんにもならない!」と叫ぶところは泣けた。

 ダンスは冒頭が一番良かった。スティービー・ワンダーの「迷信」にのせてダンサーたちが踊り、少し遅れて役者たちが<踊れずに踊り>、ずっこけていくところ。やられました。ミュージカルというカンムリに対しては批判もあると思うのだが、私はこの軽さはいいと思う。おそらく異文化の衝突といったテーマもあったに違いない。アメリカでも上演するらしいし、向こうではもっと文化的な問題作に見えるかもしれない。

 ただ、もう少しだけ踏み込んでもよかった。現代からタイムスリップし、現代に戻るのであれば、生類憐れみの令が現代ではどうなっているのかについて、多少なりとも踏み込んで欲しかった。冒頭で述べたように、今、野犬はほとんどいない。飼い主のいなくなったノラ犬(自由な犬!)は、あっという間にひそかに殺されてしまう。動物はほとんど食われるために飼われ、ペットでさえ商品として売買される。その一方で、犬を飼っているホームレスも多い。

 もちろん、このようなことを考えさせてくれるということだけでも、この劇は成功しているのだが。もしかすると、観客には充分に伝えきれていないような気もするし、作っている側の自覚もそこに届いていないような気がしてならない。じつにもったいない。

劇団どくんご「ただちに犬」

2009年06月13日(土) 1時07分
 今年、ついに全国40箇所近くをテントで巡演する劇団どくんご。半年以上をかけて回ることになり、ほぼ芝居で食えるかどうかの実験になる。ちょっとうらやましい。10月に大阪城公園太陽の広場でもやるのだが、その時はうちの公演直前なので、先日京都の吉田神社に行ってきた。
 劇団どくんごの芝居はすでにある程度のスタイルを確立している。とても前衛的で、一種ナンセンスなシーンの連続だ。ストーリーはないと言っていいが、役者たちの身体も声も鍛え上げられていて、見ていて大いに笑えるし、爽快感がある。
 冒頭、犬のぬいぐるみを死体に見立て、誰が犯人かを5人の役者たちが推理する。犯人を特定するたび誰かがそれに意義を申し立て、次の推理を語る。これが囁き声でなされ、次に大きな声でなされる。チラシにも「作・演出」ではなく、「構成・演出」となっているが、おそらく役者たち自身が練り上げた言葉で構成されているのだろうと思う。その後、それぞれの役者が紡ぐ色々な物語もある。前衛的なナンセンスにも思えるが、決して理屈っぽいものではなく、むしろイノセント(純粋無垢)な印象。言葉そのものの喚起力やからだそのものから発せられるイメージが重要視される。役者たちはそれぞれ強烈なキャラクターがあって、そのキャラクターは数年前に見たときともかなり近いから、こういうところも求道的な、一つの自分自身の演技スタイルに向かう精神が伺われる。
 一人一人の個性の尊重や確立と共に、集団性というものをどう考えるかというのが、どくんぐのテーマかもしれない。これは見終わってからの考えだが、冒頭とラストで、一つ一つの推理が順番に否定されていくのは、ある主の平等の観念、民主主義のイデオロギーかもしれない。ヒーローやヒロインの否定、場合によっては役割分担の否定でもある。誰もが探偵でありうるし、犯人でもあり得るということ。一人一人の肉体の特権性に比べ、言葉とか意味という特権性は相対化される。そういう歴史性をどくんごは背負っているのかもしれない。
 ジョン・ケージはメロディや感情を音から排することによって、<音そのもの>の価値を際立てた。究極なのは沈黙の演奏で、ピアノを弾くことなく、その時間の間、周囲の物音に耳を済ませてみようという試みだ。これはすごく新鮮な体験だ。
 だからと言ってその後の音楽にメロディもリズムもなくなったかと言えばそんなことはない。ラップミュージックはジョン・ケージ以降という気がしないでもないが、どんなにメロディアスな音楽でも、音一つ一つの粒は重要であり得る。イデオロギーに支配された人生が、まったくの台無しの人生になってしまうかと言えばそんなことはなく、実はイデオロギーのまったくない人生などあり得ないし、何かを選択しつつ、いろいろなイデオロギーの中で迷いつつ私たちは生きている。逆に、<平等の観念>も実は一つのイデオロギーでありうるし、一人一人の人生を否定することもある。
 役者たちの個々の演し物は、それをクローズアップすれば、一つ一つの中でポリフォニックな思いの交錯が有機的に蠢いている。もしこの一つを2時間ものの劇として構成すればどうなるのだろう。そうなれば確実に劇には物語が存在しはじめる。それぞれの役者たちが提出した物語はそれが可能に思えるほど強いものだ。その時、劇は主役と脇とか、一見善悪とかいう対立項とか、そういうものが発生してくる。その中でも明確な関係性を持つことで生まれる個々の十分な価値は出てくるはずだ。
 どくんごの劇を楽しみつつ、たぶん私は少し批判的に考えている。ストーリーというものの凄さ、キャラクターの有機的な関係性、そういう言わば伝統的な作劇法の掘り起こしにこそ自分の興味があるのだ。だから芸能ということにこだわる。私にはどくんごの作劇術は、駆けっこで手をつないでゴールするような居心地の悪さも感じる。それでもゴールに向って走る駆けっこは競争と勝負の方法であるし、どくんごも劇的なクライマックス作りはシーンごとに多用している。
 どくんごがすごく面白く、楽しく、問題意識を持った集団であることは変わりない。こんなふうに、いろんなことを考えさせてくれる、今どき珍しい劇に出会えることに感謝したい。健康に注意して旅を続けて欲しい。そして、先々でたくさんのお客さんに恵まれることを祈ってます。
 
 劇団どくんごのHPはこちら。
 http://homepage3.nifty.com/dokungo/index1.htm

清水きよし「KAMEN」

2009年05月24日(日) 16時22分
 パントマイムの清水きよし氏が一人で演じる仮面劇「KAMEN」。もちろん、自作自演の無言劇。「マリオネット」「鍵」「綱渡り」「花」「駝鳥」「背中が痒い」の6本の短編オムニバス。今まで130回以上、世界中で演じられてきたという。
 仮面は二つ。一つはピエロでもう一つはクールな感じの男だ。ピエロからはじまって、ほぼ交互に舞台上で仮面が付け替えられ、ピエロで終わる。
 仮面をつけた瞬間、仮面に命が吹き込まれる。その瞬間がたまらない。パンフレットに「なぜ日本の面は顔より小さいか」という文章がある。世界中のほとんどの仮面は何かに変身するためにあるが、日本の面は演者の肉体を面に預けるために、命を吹き込むためにあるからで、自らを隠すためではないからだ、とある。舞台を見ると、とても納得できる。
 まさにその瞬間、背筋がゾクゾクする。
 言葉のない劇と、私たちがやっている会話劇とはたぶん本質的な大きな違いもある(会話劇は<嘘>や<ハッタリ>が重要なポイントになる)のだが、この磨き抜かれた構成のシンプルさ、動きの洗練、笑いと緊張の連続は並大抵ではない。後ろの席にいた女性など、何度もゲラゲラ笑い、大きなため息をつき、「ああ」とか「そうなんだー」とつぶやいていた。
 10月にある「幻の蝶」は今年30周年とか。30年だったり、130回以上だったり、すごいことだ。「金魚姫と蛇ダンディー」は今年4年目で、ファイナルの予定だ。十年はやろうと思っていたのだが、これをやっている限り新作が作れない。人物の多さなどもあるが、やっぱりそれ位の回数に耐えられるものかどうかが一番だろう。
 「金魚姫と蛇ダンディー」は、着々と準備が進行中。東京は9月21日〜23日、井の頭公園(ジブリ美術館裏)。大阪は10月3日〜4日、扇町公園に決定しました。

超人予備校「フルーツ大コウモリがくる」

2008年11月20日(木) 23時53分
超人ハンターミツルギ氏が書いたこの芝居は、一見気ガル〜な雰囲気でゲハゲハ笑えてしまえる劇だったのだが、私は大好きになってしまった。ちょっと忙しくて書きそびれていたのだが、書いておきたい! この芝居のテーマはじつは非常にシリアスで重かったのではないか? 見ているときにはまったくそんなことはわからなかったのだが、そこがスゴイところだったのではないか? ひょっとすると、このところ見た芝居の中で、もっともいい芝居だったかもしれないぞおー! 私は泣きそうになった・・・。

この劇ではリーダーの存在がテーマになっている。リーダーと言えば、アメリカではオバマとマケイン、日本でコロコロ代わるリーダー、パレスチナとイスラエル、ブッシュとフセイン、ロシアにおけるゴルバチョフとエリツィンそしてプーチン、中国と台湾などがすぐ浮かぶ。どれも血なまぐさい抗争がある。政治劇といえばすぐに血なまぐさくなり、権力と怨恨、弾圧と反逆、そして最近ではテロが必ず描かれるといっていい。けれども、この劇の世界はどうだろう。ハッピーで心優しい抗争、お馬鹿な権力闘争、グチを聞くリーダー・・・よく見られる、怨恨と追悼の政治劇と比べて欲しいのだ。「世界は思ったようになる」のだとしたら、このようなユートピアの世界こそ描かれるべき世界だったような気がしてならないのだ、と、うふふ、と思わず笑いながら書いてしまおう。

芝居は3つに分かれていて、最初はネズミとカラスの抗争が描かれる。これは黒い服装の同じ役者が演じていて、野球帽を前にしたらカラス、後ろ向きにしたらネズミだ。なんて地味。似たり寄ったりなのね、この二つの勢力は。まるでイスラエルとパレスチナのように。中国と台湾にように。そして、2部では、ネズミの新リーダーが寝てしまうというアクシデントが語られ、フルーツ王国となる。ここは極彩色の王国。つまり、一つのグループの中の色んな違いが描かれる。それでも内部抗争がある。一番のバカが王様になれるという甘いユートピア。いろんな抗争があるが、どれも動機は小さなことだ。「全くストーリイに関係ないこと」としてこの王国の物語は挿入されるのだが、黒と極彩色、2つの民族の対立と内部抗争という構造は明確だ。そして、ラストへ向けて、ネズミとカラスのあいの子であるフルーツ大コウモリがインドからやってくることが描かれる。このフルーツ大コウモリは、ネズミ・カラスの世界の外部でもあり、ネズミ・カラスの世界とじつはフルーツ王国とをつないでいる。このフルーツ大コウモリはずっとバケモノのように恐れられるのだが、じつはすごく無力なアホで、かわいらしくてステキなのだ。そして、権力の無力、かわいらしくてステキな理想の権力のあり方が描かれていく。このリーダーは無力だが、愛に満ちている。いや、無力だからこそ、愛に満ちることができるのだ、そう言いたい。

このあいの子であるフルーツ大コウモリは、ちょっとオバマにこうあって欲しいなあとも思わせないか? ここに描かれるユートピアは、ニーチェの権力とは全く違う(だから超人予備校?)し、サイードのどこかガマンに満ちた理想とも違う。なんだろう、私の大好きなアンデルセンの「お父っあんのすることはいつもよし」とか、日本昔話の「かさじそう」みたいな理想に近い。そうだ、ジョン・レノンはこの劇を見て、きっと大喜びしたに違いないと確信する。(けど、このコウモリはじつはウイルス発信源にもなっているそうな)

役者たちも皆、この理想にすばらしく応えていた。うべんさんのとぼけたスナフキン、あのセリフもミツルギ氏が書いてるんだろうか。まるでうべんさんが書いているみたいに自分のセリフだった。泣けるほどいいセリフだった。「君が今悩んでいることも、きっといつか思い出になるだろう」だっけ? それが何度も無視されるのがまたいい! 泣ける! 中田茜さんしかり。全ての役者たちが、まるで自分のセリフは自分の言葉で、即興で語っているかのようにみえた。みな、愛らしく、いとしかった。切り抜きのパンフレットがステキだった。たぶん、あのパンフレットからすでにやられてたんじゃないかと思う。

大傑作だ!

犯友、エンタテイメント

2007年10月18日(木) 22時43分
 数日前、犯罪友の会の「たほり鶴」を見た。
 しっとりとしていて、ええ芝居やった。
 ハントモといい、うちといい、すっかりエンタエイメントになったなあ。
 それは、芸能になったともいえるし、お客さんに喜んでもらおうという努力をするということでもある。
 デカルコ・マリーが「貧乏人なんて、だっきれえだあ!」と繰り返すところが、せつない。
 そういうセリフをせつなくしてしまうのが、ハントモ芝居の言葉のマジックだ。
 
 エンタテイメント・スピリッツというのは、奉仕の精神でもある。

 中原中也が「奉仕の精神になることなんです」と唄っている。
「奉仕の精神」という言葉だけだとなんだか戦時中とかの「お上に奉仕」とか、妙なボランティア精神という印象もある。
 が、私はある時エンタテイメント・スピリッツのことではないかと考えた。

「働くっちゅうのは、ハタをラクにするこっちゃ」とも言う。
 これは大阪に来て覚えた言葉。
 これもやっぱりエンタテイメント・スピリッツのことではないか?
 そして、そういうエンタテイメント・スピリッツ(日本語だと芸人魂?)というのは、とてもエロティックなものなんじゃないかとも感じている。

 逆に(いや、別に逆じゃないかもしれんが)、相撲やボクシング。
 今の日本のあちこちでさかんなバッシングは、バカバカしい。
 マジメすぎ。

 ところで、金魚姫と蛇ダンディーの登場するマンガを描いてくれた人がいる。
 うれしいなあ。
 私は、金魚姫や蛇ダンディーが、こんなふうにどんどん勝手に増殖してくれないかなあと、ひそかに祈っているのです。
 ありがとう、tukaさん!
 見たい人は、ここ!
 http://yaplog.jp/tuka/

太田省吾氏逝く

2007年07月15日(日) 6時11分
太田省吾氏が亡くなった。転形劇場は、「小町風伝」「水の駅」「地の駅」を観ている。今大活躍している大杉蓮も出ていた。本にはもともとセリフがあるが、それを次第に削っていき、ほとんど無言劇になる。オレンジルームで観た「水の駅」は言葉が発せられず、役者はゆっくりと上手から中央の水道にたどりつき、下手にゆっくりと去っていく。垂直に落ちる水が、コップに受けられたり、体に触れたりすると、ふいに音が止む。すごくエロティックだった。「言葉で言うべきことはない」という客席への意思とか挑発のようなものではないかとも感じた。

本も何冊か読んだ。20年以上前だ。これから自分で芝居をやっていくのだという、そういう時期だ。いろいろ影響も受けた。「飛翔と懸垂」を開くと、線を引いていた。
「劇を行うにふさわしい者はこの世に存在しない。存在するのは、ただ現実の生活に適さない面をもった者たちだけである。」(「役者の背中」)
そこに、こんなコメントを書いていた。
「それでは、劇を行うということは、現実の生活に適さないままでいる、ということなのか。劇は、現実の中にはないのか。」
当時は、現実の中に劇を持ってなんとか存在できないものかと苦しんでいた。この「役者の背中」という章にしても、食えない役者の哀愁といったものがどうしても漂う。

その10年後位に、劇作家大会に一度だけ出かけ、太田氏を見かけた。背が高く、言葉を選んで喋る人だった。鴻上尚史さんが、太田氏と電話で喋ってると、ときどき考え込んで黙ってしまうので、「太田さーん、太田さーん、そこにいますかー!」と呼ばなくちゃいけない、と話していた。鴻上氏は愛媛県出身のやさしい人で、楽市が愛媛県の内子座で旗揚げをしたと言うと、それはすごく贅沢なことなんじゃないかなあと言い、少し嬉しかった。それからは、もう贅沢にやるしかないと決めた。

劇は現実の生活より少し手前にある。それは劇が生活を写すからかもしれない。劇の手前はそのまた手前にある。けれども、劇を芸能と考えると、人は誰もが現実には不適応で、現実の手前で生活を演じているのかもしれない。ハッタリとかペテンとか、繰り言とか睦言とか、決意や仮説や賭け。生活への意思がある。科学者でさえ芸能者の一種に思えるほどだ。あらゆる職業もまた、現実の手前の鏡になりうるのだ。ただ、一般に職業といわれているものは、現実に適さないままでは存在しにくい。ちょうど、劇も観客という現実に適さないままでは存在しにくいように。誰もが現実に向かって飛翔と懸垂を繰り返している。だからこそ、生活者が劇に共感できる。

能に近づいた太田氏とシンクロするように、ちょうど瀬戸内寂聴さんの「秘花」を読んだ。世阿弥の生涯を、主に佐渡での晩年を中心に描いた小説だが、父である観阿弥の死後、こんなに世阿弥が転落していくのかとはじめて知った。世阿弥より観阿弥に興味が沸く。観阿弥は世阿弥を天才として育て、一座をトップにした。「風姿花伝」も観阿弥の言葉をまとめている。観阿弥作やそれ以前の作には、夢幻能にないダイナミックな面白さがある。

結局台風は大阪に直撃せず。もう青空が広がっている。

あれはドラゴン?
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