まよるかにて谷津朋子展

2009年11月04日(水) 22時16分
 11月1日の夕方、今度は中学の友人である谷津朋子の個展に行く。いつからか、彼女はずっと楽市を見てくれていて、大阪にも何度も来て頂いている。中学の頃から、校庭でデッサンしていた彼女の後ろからのぞいて、そのエンピツの運びに感動したものだ。あれからずっと絵を描いている。たぶん生まれついての絵を描く人なんだろうと思う。
 ほんの20点位だろうか。小さな個展だ。それでも、彼女の個展というものを見るのははじめてだった。木版画、日本画、ガラスの作品、木彫と、どれも小品ながら(かつてもっと大きい絵を何枚か見せてもらったことがあったので)、バラエティに富んでいて、とてもシンプルでのびやかで、おおらかな作品たちだった。思いが温もりと共に伝わってくるような作品だ。抽象的な作品もいくつかあり、ちょっと意外だったのだが、それがまた良かった。
 月と日の作品群は、まるで書のようだった。月と日が仲良く並んでいる。木彫りのレリーフの菩薩像だったと思うのだが、これもとても良かった。彼女の作品は、どこか宗教的なものを感じさせる。冷たく厳しい宗教ではない。暖かい日輪のような宗教だ。

 この展示がされていた場所が、三軒茶屋の「まよるか」というギャラリーバーで、とてもほっこりするところだった。おかみさんがやさしく品のいい方で、料理が抜群においしかった。スペイン仕込みらしい手作りの生ハムに感動し、ナスの煮物で疲れが取れ、小芋の八丁味噌あえで元気が出た。ウェブで調べたら、その日ごとに色んな料理があったりするらしい。ここ数年、仕事上で様々なホテルのコース料理を食べたが、比べ物にならない。ときどきライブなどもあるらしい。おかみさんも絵を描く方で、絵やお面が飾られていて楽しい。

 東京では久しぶりに実家に帰った。これからの計画(これについてはまた明日)について話し、理解も得て、ほっとした。
 車で行ったのだが、行くときには富士が霞の上に山頂を見せ、帰りは雨の合間に虹が出た。家族での小旅行。たくさんの祝福に満ちた小旅行だった。

杉本博司展「歴史の歴史」と片岡球子展

2009年04月19日(日) 23時47分
 昨日は2つの展覧会へ。
 杉本博司の「歴史の歴史」は以前金沢で見たのだが、もう一度ゆっくり観たくて国際美術館へ。一緒に行ったキリコがそのコレクションに驚嘆の嵐。私は念願の海の写真をじっくりと。世界中の静かな海面と水平線だけを撮影したものだが、海は世界中一つの海だと思えた。その当たり前の不思議さが胸を打つ。
 片岡球子はやっぱりすごかった。山がモリモリと盛り上がっていて、人物はギロリと存在感がある。野蛮でおじゃらけている。日本画というより油絵みたいだ。放映されたビデオでは、見開きのスケッチブックにガシガシとマジックで描いていた。去年103歳で亡くなったのだが、ずいぶん遅咲きだったようだ。
 近所の小学校の前を通ったら、桜の枝に白いクモの巣の塊のようなものがあって、その中で何十匹というアメリカシロヒトリのケムシたちがピンピンと元気よくはねまわっていた。なんだかもう夏もすぐそこみたいだ。
 まだ出演者も全員は決まっていないが、明日は最初の顔合せだ。

展覧会に行く

2009年02月21日(土) 1時11分
このところ、展覧会にいくつか行った。

「加山又造展」(新国立美術館)
こういう工芸的な作家、好きだなあ。とくに印象に残ったのは、秋の風景。なんと華やかな秋の花々が咲き乱れているのだ。西洋美術の代表モチーフはヌード、中国は龍、そして日本は秋草と言った美術史家がいて、とても感銘を受けたのだが、こんなに明るい秋草が描かれたことはあまりなかったんじゃないだろうか。
水墨画はなんとも言えず不思議。「良い」とはよう言わんけど、エアブラシを使ったり、ホワイトを使っている水墨画なんて、「アリかい!」と、驚く。

「文化庁メディア芸術祭」(新国立美術館)
ついでに見た。というより、階を間違えて先に見た。駆け足。あまり興味を持てず。若者でいっぱいだった。 

「文字の力・書のチカラ」(出光美術館)
展覧会としては、ちょっと物足りなかったのは書の見方がまだまだわからないからだろうか。けれども、書の歴史が通覧できて興味深かった。最近、書にすごく興味がある。篠田桃紅という書家の本を2冊読んだため。私はやはり一休の書にすごいパワーを感じる。「心」という字が天地ひっくり返し、鏡文字で書かれていた。あと、白陰禅師の書とか、棟方志功の文字、池大雅とかもいい。もっともっと書が見たいと思っている。誰か一人のちゃんとした書の展覧会を見た方がよさそうだ。

「華麗 大正浪漫―渡文(わたぶん)コレクションの着物たち―」(神戸ファッション美術館)
着物というのも、まだよくわからない。柄、色、糸、織、そして形。いろんな要素が交じり合っていて複雑。

「杉本博司 歴史の歴史」(金沢21世紀美術館)
写真家、だと思う。ただし、写真よりも、考古学的な収集物の展示の方が多かった。一時ニューヨークで古美術商もやっていたらしい。なんともいえない。まったく期待せずに行って、どちらかといえば美術館を見に行ったという感じだったのだ。けれども、なにかもらった。時間があまりなくて、駆け足で見たのだが、できればもう一度見たい。世界のあちこちの海と空と水平線だけを撮った写真。最後の部屋だったし。これだけでも、大阪に来ないかな。

美術を見に行くと、不思議となにか言葉をもらう。

レオノール・フジタ展

2009年01月19日(月) 2時03分
 ネコの絵は抜群。デッサンの線すばらしい。白い下地の女もかなりいい。しかし、大作や晩年はどうなんだろう。できれば戦争画も見たかったが、今回はなかった。この人は何が描きたかったのだろうか。描くことが好きでしょうがなかったことはよくわかるのだが。ともすれば目をそむけたくなってしまう。

 日本人の画家はテイストを磨く。フジタは下地を磨いた。茂木氏のいうクオリアというやつかもしれないが、ヨーロッパの画家たちに比べると、一貫性に乏しく見えてしまうのは私だけだろうか。課題が、つまり、何のために描くのかという部分が、自分自身であるか、身近な誰かか、もしくは世間になってしまうような気がしてならない。
 それはあるとき壮絶なほどの深さに到達する。そして一瞬もしくは一代で終わってしまう。そのこと自体は間違いではない。言葉や観念では追えないものを追いかけているから、一瞬の感性が全てなのか。でも、何が描きたいのかというテーマが希薄で、美術の場合、工芸品に近いものになってしまう。技巧は深まるが、方法論やテーマは弱い。そして、晩年の作品にどこか無残な印象が残る。(もちろん、西洋の画家にもほとんど逆の意味での不自由さと無残を見ることもある。宗教と観念に縛られていると感じる。昨年、ジャスパー・ジョーンズの作品にそのことを一番感じた。)
 ひょっとすると、それは「アウトローの深さ」といったものかもしれない。アウトローだけが持つことができる真実。王道のない世界。それが日本なのかもしれない。そんなことをときどき思う。

 小学校時代からの友人二人と展覧会を見て、飲んだ。二人ともずっと美術をやっていて、このところ大阪まで芝居を見に来てくれる。お互いにいろんな意見を持っている。みんな50歳。上野のアメ横界隈。美術館が立ち並ぶ上野の森とアメ横の対比。「けんかえれじい」では震災時の上野が描かれていたっけ。
 震災や戦争はヒトの経験をすごく深めてくれる。けれどもそこから何を引き出すかということがなければ、その経験の風化はひどくムナシイ。そのためには救いよりも、怒りが必要なのか。パレスチナは?

アンドリュー・ワイエス:スーパーリアリズムのフィギュア

2008年12月16日(火) 0時49分
 先日、アンドリュー・ワイエス(以下、AW)展を見に行ってきた。日曜美術館で色々と解説を見て興味を持ったからだ。
 かなり昔、「クリスティーナの世界」をはじめて見たときにとても違和感を感じたことを記憶している。当時は、作品の成り立ちなど知らなかった。今回、AWがどのような経歴で絵を描いてきたか、どのような素材に興味を持ってきたかを知った上で絵を見たら、それは全然違って見えるのだろうかと思ったのだ。

 結論から言えば、昔感じた違和感はもっと明確になった。AWの絵の、とくに人物に関しては生命感を感じられなかった。それはスーパーリアリズムのフィギュアに見えた。どうしてもフィギュアにしか描けなくて、AWはそこに意味を付与したかったし、シワや傷、古びたもの、廃墟のような、滅び行くものを愛そうとしたように見える。彼は秋が一番好きだという。滅び行く秋。けれども、日本的な情緒的な秋ではない。こんなことを感じるのは私だけだろうか、見れば見るほど、ぞっとするような冷淡さが迫った。

 彼は自画像をあまり書かないそうだが、自画像と人物画では全く違う。自画像は妙にハンサムで「上流」に見える。一方、他の人物画像は苦渋に満ちた、シワの多い表情をしている。そして、しばしば顔が見えなかったり、デッサンではいた人物が仕上げには消えてしまったりする。同じ貧し人物を描いても、ドーミエの人物とは全然違う。まったくの3人称。3人称以上に人形的な客体だ。

 恩田陸という作家(読んだことはない)が、毎日新聞の書評インタビューでこんなことを述べている。
「お話は消費され尽くしているので、マニアックに読む層に向けたトリッキーな小説か、すべてをゆだねてしまう読者への泣ける話という両極に寄っている。それ以外の層がやせてきている」

 じつは芝居でも映画でも、まさしくそんな状況がある。ここでは「マニアックに読む層に向けたトリッキーな」という言葉になっているが、要は「残酷」だということだ。そしておそらく、それは「受け手の層」の問題ではなくて、作る側の問題意識がそこにしか向くことができないという、「作り手側の問題」ではないかと私は思っている。だいたい、どちらもそれほど広い層に受け入れられているわけではないからだ。現代社会における問題意識や、作者自身のリアリティがそこにしか持てなくなっているのではないか。
 AWにも、そういう部分がきっとある。だからこそ、現代美術なのか。

 私はこういう感性を乗り越えたいと思う。
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