中山眞美のおじいちゃん(父方の)おばあちゃん(母方の)が

April 24 [Sat], 2010, 20:58
数日の間に亡くなりました. 

数年前、自分を喪失してさまよった後眞美は

お母さんに連れられて私の元に帰って来ました。

愛している彼女を心配しながら待っていた年月。

家族にとっても勿論そうだったはず。

色々事情はあったのでしょう、

家族とうまくいかなくなって。。。

眞美はずーっと故郷に帰ることなく

日々を一生懸命過していました。

この度おじいちゃんの死という形で

家族と一つの心になれたようです。

お葬式も終わってお精進を戴いている間に

おばあちゃんが亡くなった報せが。。。

とってもしっかりした気丈なお母さんですが

お心落としだったと思います。

皆でそのまま移動して、御送りをして。。。。

明日帰ってきます。

『お陰で家族の間の壁が壊せた。』

涙声での報告でした。

大事な人の死が残された人を結びつける事もあり

結びついていると思ったものを切り離してしまう事もあり

人生は。。。。。。

大事な人を、せめて生きている間に大事に出来るように。。。

いてくれることが当たり前になって粗末にしないように。

眞美のおじいちゃん、おばあちゃん有り難う!!

そんな事を思う出来事でした。

年齢にあった着るものって何?

April 24 [Sat], 2010, 19:14


今日はまたまた取材。宝塚時代のあんな事こんな事

色々話に出ました。

とても饒舌で面白くて、

写真を撮るカメラマンの方も興味津々。

その話の中にも出たのですが

写真撮りの時やディナーショーの衣装決めのときでも

とっても似合うのに、

『これは若ぶりすぎ!』といって落ち着いたものを選ぼうとします。

若い方が着るものでも、着こなせればGOODだと私は思います。

私服に着替えたこのピンクのTシャツも、

とっても似合うしかえって大人な感じがするのに

(私だけかしら?キュートだと思うんですが)

本人は若ぶりすぎているって言うんです。

ピンクのTシャツからとり止めの無い話になりました。

今日の取材の記者の方が、お顔も肌も綺麗なのでアップにしたいけど、

スタイルがいいし、素敵な衣装だし全身にもしたい。

両方撮りましょうと色々な光線で、バックで撮影していらっしゃいました。

楽しみにして下さいね。

後日掲載日発表です。

プリウスを愛用して10年以上です?

April 24 [Sat], 2010, 8:15
西田ひかるが『宇宙船地球号』というテレビ朝日の番組に

案内役としてレギュラー出演していた頃に

新しいエコカーとして登場したこの車に

魅せられて購入。(当時はブリジストンのCMも

西田がしていたので購入したプリウスにブリジストンのタイヤを

履き替えさせました。)

音は静かでガソリンの消費が少ない。

そんなに長距離を乗らない愛車は一月に1or2度しか

ガソリンを入れないで済みます。

その車を買い換えました。

パープルがかったブルー。

とっても綺麗な色で気に入っています。

最初の頃はエンジンをかけてもうまくいかなかったり、

ブレーキの利きが弱かったり、バッテリーが極端にもたなかったり、

ナビのコンピュータ−が狂いやすかったり

ちょっと。。。?というところもあったんですが

新車はとっても快調です。

(新車って言っても年度落ちをあえて購入したんですけど。

そのほうが安定しているので。)

車はなんと言っても国産派。

タレント車としてベンツも置いていますが

この頃はパーティーでもプリウスで。

とても満足しています。



そして城田優くんとDボーイズのメンバー、しょこたん、

April 24 [Sat], 2010, 0:09
山本さん、所属タレントもたくさんでお名前もわから無いほど。


戸田恵子さんもいらしてくださっていました。


吉田正樹・渡邊美樹夫妻。
曲直瀬道枝プロフィール
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  • アイコン画像 ニックネーム:曲直瀬道枝
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1943年5月4日 神奈川県横浜市生まれ
都立九段高校卒
青山学院大学第二文学部英米文科卒
神奈川県横浜市出身、宮城県登米郡登米町に疎開。自然と親しむ。
両親の仕事の関係で上京。母親の死去後1973年六本木ゴトウ花店に入社。
2年間の修行後、Kフローリストでアルバイト経験を経て、1976年潟tルールはなはなを千駄ヶ谷で開店。池袋サンシャインアルタ店、麻布十番店そして、渇「花として西武百貨店・渋谷店ロフト館(現在の(株)ロフト渋谷店)に出店。千駄ヶ谷店を神宮前に移転後池袋店、麻布十番店を閉店。再び千駄ヶ谷に本店を移転。現在に至る。

潟}ナセプロダクション
 父正雄と母花子が1948年に設立し、四女信子と共に水原弘・山下敬二郎・ダニー飯田とパラダイスキング・ジェリー藤尾・坂本九・森山加代子・九重佑三子等を輩出した。又バトントワラーを日本で始めて育成。
正雄が病を得、事業を続けることが困難と当時所属の坂本九よりの要請で、花屋経営のかたわら1982年社長就任。
 1985年8月、日航機事故により、坂本九死去。以降、坂本九の日本で唯一ゴールデンレコードをいただいた歌手としての功績とその人柄を後世に伝える事を目標の一つとして家業を続ける。
 1985年9月、西田ひかるに出会い、マナセプロダクションを再建。
現在は、坂本九・西田ひかる他、系列会社潟Gフ・スピリットで真琴つばさ他のマネージメントと各々新人育成を手がけている。
 亡き先代社長の口ぐせであった「Simple,Light,Clean」を社訓として、事業及びタレント・アーティストの高品位、高品質を目標に業界のみにとどまらず、より高きをめざして、精進していくつもりです。