我が家ではしだれ桜ではなく、しだれ桃が美しく咲いています。

April 02 [Fri], 2010, 21:23

 元は2番目の姉のうちから挿し木されたものを

頂いたんですが、1メートルぐらいのものが

約3メートルに届く感じ。

5メートル以上あるサルスべり同様

勢いのある姿を見せています。

我が家の前庭はこれから花木が咲き続けます。

長女の家にもあるのでこちらも姉妹かも。

ハウスシチューキャンペーンで博多に行ったときに

April 02 [Fri], 2010, 17:05

飛行場で買った優れもの。

それは一風堂のホットもやし。

好き嫌いはあるのでしょうが、私には

つぼにはまりました。

なんといってもモヤシ好きな私。

バナナはその後食べすぎは身体に悪いとか言われましたが

もやしよ!裏切らないで!!って言う気分です。

購入した1本が終わり近くになったので

2月のある日ネットで調べたら

なんと代々木にあるじゃありませんか!

一風堂のラ−メン店が。

早速電話をしてみました。

お持ち帰りも、こういう商品も扱っていないとのこと。

がっかりだったのですが

お店の男性が聞いてみますとおっしゃって、

その後取り寄せてくれました。

一月ぐらいお待たせしてしまいました。

直ぐ近くなのに。

お詫びに餃子を頼みましたが

220円。お安いです。


代々木駅から参宮橋に向かって右側

まだ穴場みたいです。

一口サイズで美味しい!!

加藤和彦さんのこと。『オウバカナール』の六本木アーク店で

April 02 [Fri], 2010, 10:54
去年の春加藤さんにお逢いしました。

その前に真琴さんのCDの曲を依頼していたのですが

直接お逢いしてお茶しましょう!!ということで

お住まいのお近くのこのお店でお逢いしたのです。

真琴さんと二人で席にあんなにしてもらって

おしゃべりをしていたら

長身の加藤さんが入り口から入って見えました。

少し薄い色のブルージーンズにTシャツの上に

赤い(オレンジ?)色のセーターを重ねて

優しい気弱にも見える笑顔で

『早かったのね!』とおっしゃいました。

いつもそのゆったりした感じにほっとするんです。

『それで?』と。

前にも曲を書いていただいていますし

勿論真琴さんのことは良くご存知で。

今回のCDのコンセプトをお話しました。

『僕はね真琴さんは女デビット・ボーイだと思うのよ。』

だからビジュアルも含めて。。。

そんな事をおっしゃたのを覚えています。

又寒くなりました?今年の桜は雨が少なくて。。

April 02 [Fri], 2010, 8:25
さぞやピンクの色が。。。。。と思いましたが

さして濃くも無く淡い朧な美しさは

変わりなく。。。。。

沢山の方が愛している証拠、あちらこちらで見られます。

カトリーヌを面接して直ぐの頃

神戸から離れて知り合いもいないという言葉にほだされて、

鳩森神社でのわが社のお花見に誘ったのを覚えています。

確か私は参加できなかったんじゃないかしら?

直ぐ後でお礼のお手紙をくれました。

決して上手な字ではないけれど

真面目で一生懸命な気持ちが出ていて。。。

其の感謝の手紙が一緒にやっていこう!と

思わせたパスだったんですね。

上智横の土手とか

青山墓地とか

あちらこちらで社内お花見食事会をしました。

しばらくしていないですね。。。

3月30日の昔からお仲間のひかるを囲んでの食事会。

April 02 [Fri], 2010, 0:05
カメラマンの清貴さんから

記念写真を送っていただきました。

お店の方が撮影した所為か

それとも。。。?

結構bボケボケ写真です。

この位のほうが私には良いのですが。。

アップしてみたらそうでも無かったです。

自慢のカメラでしたからね。

藤島親方も終わりごろ登場。

すっかり楽しんだ顔をしています。

割り勘でした。申し訳なし。
曲直瀬道枝プロフィール
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  • アイコン画像 ニックネーム:曲直瀬道枝
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1943年5月4日 神奈川県横浜市生まれ
都立九段高校卒
青山学院大学第二文学部英米文科卒
神奈川県横浜市出身、宮城県登米郡登米町に疎開。自然と親しむ。
両親の仕事の関係で上京。母親の死去後1973年六本木ゴトウ花店に入社。
2年間の修行後、Kフローリストでアルバイト経験を経て、1976年潟tルールはなはなを千駄ヶ谷で開店。池袋サンシャインアルタ店、麻布十番店そして、渇「花として西武百貨店・渋谷店ロフト館(現在の(株)ロフト渋谷店)に出店。千駄ヶ谷店を神宮前に移転後池袋店、麻布十番店を閉店。再び千駄ヶ谷に本店を移転。現在に至る。

潟}ナセプロダクション
 父正雄と母花子が1948年に設立し、四女信子と共に水原弘・山下敬二郎・ダニー飯田とパラダイスキング・ジェリー藤尾・坂本九・森山加代子・九重佑三子等を輩出した。又バトントワラーを日本で始めて育成。
正雄が病を得、事業を続けることが困難と当時所属の坂本九よりの要請で、花屋経営のかたわら1982年社長就任。
 1985年8月、日航機事故により、坂本九死去。以降、坂本九の日本で唯一ゴールデンレコードをいただいた歌手としての功績とその人柄を後世に伝える事を目標の一つとして家業を続ける。
 1985年9月、西田ひかるに出会い、マナセプロダクションを再建。
現在は、坂本九・西田ひかる他、系列会社潟Gフ・スピリットで真琴つばさ他のマネージメントと各々新人育成を手がけている。
 亡き先代社長の口ぐせであった「Simple,Light,Clean」を社訓として、事業及びタレント・アーティストの高品位、高品質を目標に業界のみにとどまらず、より高きをめざして、精進していくつもりです。