受容ができれば。

August 16 [Mon], 2010, 21:02
自分の罪深さを受け入れ認める事と責める事を一緒にしない。

瞑想をしていたときにふと思った言葉。


逆を言えば、徹底して自分の受容が出来ていれば責めることは生まれないのでは?

受容がないから反発する形で「責める」が生まれる。


ドンミゲルルイスの本に

許す値に達する達しないに関わらず、他人を許す事。
許さなければ、相手の犯した罪に対して思い出すたび自分がしんどくなるからだ。
相手の失態は、自分の非とはなんら関係がないのにもかかわらず、そのうち自分のあらいるものを憎み始めてしまう。

他人に関わらず全てを許していく事。

というような事がかかれていました。

沢山の精神世界の本や罪をテーマにした本を15歳から読んでいましたが、
許したものに勝るものはなかなかない。

それを実感した最近でした。

今息子がまたダウンしているのですが、私はいつも子供の状態の悪さを自分の失態として責めていました。
私が至らないから、と。

実際至らない事があります。
ただその事実だけを受け入れて責めるのを辞めることで、心が疲れません。

私の心の疲れは息子に振動として感染する事を知っていながら、ここをケアーできていない。
それを責めても結局解決には至らない。


結果的に、息子は症状が変わらなくても長い目で見たときに、介助するときにイライラしなくていいのです。
イライラはただのあせり。早く良くならない事へのあせり。

思いやりがないからイライラしているわけでない、という事実に冷静に気づきを得れます。

そして、早くではなく、深く自分の責める癖をこのときばかりに、つまり緊急時にこそ、スタートする。
調子のいいときにある程度の事ができるようになっているのであれば、
今度はマイナス時にこの作業を息子の背中を撫ぜながら行うのです。

責めても何も生まれない。

許せば全ての苦しみから解放される。

責めたくなるようなつまらない決まりごとの数々「つまらないお約束事信者」の脱退は幸せへの道には欠かせないかもしれませんね。

幸せになれないような全て信じる必要はない、というのも書かれていました。

私もそれに一票、幸せになりたいなら、ですけど。
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